今日は大学の講義は昼までだった。
梅雨の終わり夏の始め。
日差しはまだ肌を刺すほどの強さを持たず、風が吹けば十分に涼しい。桜は、いつものバイトが始まる時間まで、広場のベンチで時間をつぶすことにした。
JRの改札を抜けた先にある広場は、あまり広くはない。小さな子を遊ばせているお母さんたちや、パチンコ帰りの老人たちで、ベンチの半分は埋まっていた。広場は中央の地面から水が吹き出るように設計されていて、小さな子供たちが、噴水を踏んづけたり頭から水をかぶったりしながら、広場中に響くような歓声を上げていた。
桜は、隣の若いお母さんに軽く会釈をしながら、ベンチの空いているスペースに腰を下ろした。読みかけの小説を広げたものの、自然と視線は噴水で遊んでいる子供たちの方へ向かう。
「ほんと、子供って元気だなぁ。あーもう、頭から水被っちゃってビチャビチャ。ママさん着替えとか用意しているのかしら。あのちっちゃい子なんか、おむつが水を吸ってパンパンになってるし・・・。でも、やっぱり、楽しそうだなぁ。」
子供たちの遊ぶ様子が、桜には微笑ましく思えた。
桜は、子供のころから、自然とクラスの中でまとめ役になることが多かった。また、本人も他人の世話をすることが嫌ではなかった。自分の進路を考えたときに自然と思い浮かんだのが、今勉強している「保育士」への道だった。
ただ、実際に勉強をし、実習を経験するとなると、想像以上に子供の世話は大変だった。教科書に書かれていることを覚えるだけでも大変だったし、それを基にして自分では良かれと思ってしたことでも、子供には受け入れられないこともあった。
子供のお世話をするのは好きだけど、なにかしんどい・・・そう、桜はいわゆる「スランプ」の状態であった。
ふと気が付くと、おむつをパンパンにしながら噴水で遊んでいた幼児が、よちよちと桜の座っているベンチの方へ歩いてきた。どうやら、桜の隣に座っている若い女性が母親のようだ。まだ、歩き出して間もないのだろうか、片手に赤いプラスチックボールを持ちながら、一生懸命に自分の足もとを見つめ、ゆっくりゆっくりと歩いてくる。
「あ、こわい、こわい・・・・、あ、こけた!」
頑張り頑張りしながら足を進めていたが、母親のもとに辿り着く途中で転んでしまった幼児。赤いプラスチックボールが、コロコロと桜の方へ転がってきた。幼児は、一瞬、自分に何が起きたかわからないかのように黙った後、大声で泣き出してしまった。
「はいはい、痛かったですねぇ。」
桜の隣に座っていた若い母親は、慣れたように立ち上がり、その幼児を抱き上げてあやし始めた。
桜は足元に転がってきた赤いプラスチックボールを拾ってあげようと、ベンチから降りてしゃがみ込んだ。そして、ボールを拾い上げて、顔をあげると。
「あ、あれ、広っ。」
桜の前に広がっていたのは、いつもの狭い広場ではなかった。いや、いつもの広場ではあるが、しゃがんだ状態の桜が見渡すと、いつも以上に広く感じられたのだった。
「すみません、拾っていただいてありがとうございます。」
思いがけない光景に戸惑ってしゃがんだままの桜に、若い母親が声をかけた。
「いえいえ、とんでもないです、ん!」
声をかけられた方を見上げた桜は、再び息を呑んだ。大きい。しゃがんだ状態で見上げた母親は、桜を覆うような存在感すらあった。
「どうかされました?」
「あ、いえ、はい、ボールです。」
いぶかしげな表情を浮かべる母親に、慌てて桜は立ち上がって、ボールを幼児に手渡した。
幼児は、転んだことなどすっかり忘れたかのように、桜から渡されたボールを握りしめ、また噴水の方へ歩いて行った。
一歩ずつ、一歩ずつ。真剣な面持ちで足元を確かめながら。
「可愛いですねー。」
「ありがとうございます。いろいろ、大変ですけど。」
何気ない会話を、その母親と交わしながら、桜は今見た景色を思いだした。
子供の視点から見た世界の広さ。いつもと全く違う景色。
子供の視点から見た大人の大きさ。その圧倒的な存在感。
確かに、教科書には載っていた。「子供と話すときには子供の目の高さに合わせましょう」と。
だが、子供の視点から世界を見ることを、自分はしてきただろうか。大人として子供に合わせようとすることに、とどまっていなかっただろうか。
「あ、そろそろ、バイトの時間だな。」
先ほど見た広場の景色はまだ桜の中に残っていたが、桜は立ち去る前に、靴ひもを締め直す振りをしながら、もう一度広場を見渡すことにした。
子供の視点から見た世界は広い。だが、目の届く範囲は狭い。未知の世界が、広い世界の大半を占めている。
ゆっくりと桜は立ち上がった。
何ということはない体験。
だが、桜は、この景色を自分が生涯忘れないことを知っていた。忘れていた「子供の視点」を自分の中に取り戻す、きっかけとなった景色だから。