(これまでのあらすじ)
月の民が聖地としている竹林で翁が拾った赤子は、美しい少女へ成長しました。皆が竹姫と呼ぶその少女は、乳兄弟である羽から「二人だけの秘密」として、輝夜という名をもらいました。逃げた駱駝を追いバダインジャラン砂漠に踏み入った二人は、ハブブと呼ばれる大砂嵐に呑み込まれます。余りの視界の悪さに騎乗する駱駝が転倒し、砂漠に投げ出される二人。羽は持ち前の身の軽さで事なきを得ましたが、輝夜姫は無事なのでしょうか。
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【竹姫】(たけひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。赤子の時に翁に竹林で拾われた。
【羽】(う) 竹姫の乳兄弟の少年。その身軽さから羽と呼ばれる。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。
【有隣】(ゆうり) 羽の母、大伴の妻。竹姫の乳母。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【第18話】
「うう・・・」
「どうしました、姫、・・・・・・姫」
暗闇の中で、誰かが自分を呼ぶ声がしました。誰でしょうか、この、とても温かい声の持ち主は。
彼女は、ゆっくりと瞼を開きました。
まず、視界に入ったのは、夜空全体に広がって輝く無数の星々。今日は月が出ていないのでしょうか、星々はその存在を、いつもよりも声高く主張しています。視界の隅で夜空の両端を切り取っているのは、空に向かって高くきりたっている白い山肌でした。そして、彼女が少し右手を動かしてみると、先の尖った冷たい草々が指先に触れました。
どうやら、彼女は草地の上に広げられた敷布に横たえられているようでした。声をかけられた方に顔を向けると、心配そうに彼女をのぞき込んでいる男の顔が目に入りました。年の頃は15歳前後でしょうか、遊牧で鍛えられた精悍な体つきをしていますが、その表情には彼女を心配する気持ちが溢れていました。
心配されていることで落ち着いたのか、ようやく彼女は自分に注意を向けることができました。
でも、彼女の頭の中では、色々なものがぐるぐると、しかも形を変えながら回っていました。
いったい、その中から何を取り出せばいいのでしょうか。
ここはどこなのだろうか。
今はいつなのだろうか。
この男は誰なのだろうか。
私は何をしていたのだろうか。
私は。
わたし。
わ・た・し。
そう、私は誰なのだろうか。
「姫、弱竹(なよたけ)姫! 大丈夫ですか?」
また、遠のいていく彼女の意識を、叫ぶような男の声が追いすがりました。
私。
わたし?
わた・・・・・・し・・・・・・。
彼女の意識は、再び暗い澱みの奥底へ落ちていくのでした。
「輝夜っ、どこだ!」
懸濁した意識の中に、小さな声が届きました。風の立てる鋭い叫び、砂の打ち付ける乾いた音にかき消され、それはとても小さな声でした。でも、その声が、彼女の意識の水面に触れたとたん、見る見るうちに、その触れた点を中心として波紋が広がって行きました。その波紋が広がっていくにつれて、懸濁した意識は、少しずつ清められていきました。
彼女は眼を開きました。
砂嵐で巻き起こされた砂が空気の色を黄色に変えており、また、さらにそれが月星の光を遮っているため周りはとても暗く、目を開いても何も見ることはできませんでした。
自分がどうなっているのか、状況はわかりません。ただ、どうやら砂漠の上に横たわっているようです。顔にも身体にも、細かい砂粒がびっしりとまとわりついているようです。
輝夜姫は立ち上がろうとしましたが、自分の身体にまったく力が入らないことに気が付きました。いったい、何があったのでしょうか、全身が酷く痛みました。
「こ、ここだよ。羽。羽っー!」
輝夜姫は、それでも何とか上半身を起こして砂の上に座り込むと、自分に出せる精一杯の声で叫びました。そして、驚きました。どうして、こんなに小さな声しか出ないんだろう、と。
羽のすぐ目の前から輝夜姫の声が聞こえました。とても、弱々しい声です。砂嵐で視界が限られていたため気が付けなかったのですが、輝夜姫はどうやらすぐ近くに倒れているようです。
「そこか、良かった。輝夜、怪我はないか?」
輝夜姫の居場所はわかったものの、羽はただただ彼女の身が心配でなりません。輝夜姫の小さな声を頼りに、羽は砂を蹴って駆け寄りました。それは僅かな距離でしたが、必要とした数歩でさえもしっかりと受け止めてくれない砂場に、羽の口から呪いの言葉が漏れました。
「大丈夫か、輝夜、ああっ」
ようやく輝夜姫の姿を見つけた羽でしたが、彼女の姿は痛々しいものでした。
膝を立てて砂の上に座り込んでいる輝夜姫ですが、その身体にはまったく力が入っておらず、上半身は立てた膝の上にもたれかかっていました。彼女には、自分の頭を支える力もないようでした。また、右手は砂の上に放り出すようにのばされていましたが、手首の上の部分が、一目でわかるほどに腫れあがっていました。
輝夜姫は駱駝から落ちたときに、頭を強く打ったのかも知れません。意識がとても不安定で、信頼する羽が自分のすぐ隣に来てくれたのに、気づいているのかどうかもわからない様子でした。
「ごめん、ごめんな、輝夜‥‥‥」
輝夜姫の姿を目にして、羽の体の奥底から申し訳なさが溢れ出てきました。輝夜姫をこんなに傷つけてしまったのは、自分だ。ごめん、ごめん、ごめん‥‥‥。羽は、輝夜姫の小さな体を抱きしめました。
「うう、いたっ‥‥‥。ああ、羽?」
びくん、と輝夜姫の身体が震えました。羽は慌てて彼女の身体を離しました。酷く腫れた輝夜姫の右手は骨が折れている怖れがあります。自分でも意識せずに輝夜姫を抱きしめてしまい、痛い思いをさせてしまったのかも知れません。
輝夜姫は膝にもたれさせていた上半身に力を入れると、羽の方を向きました。ただ、まだ、意識は明瞭にはなっておらず、その視線は羽と周囲とを彷徨っていました。