(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
※これまでの物語は、下記リンク先でまとめて読むことが出来ます。
【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わって、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【第56話】
「こっちの方へ向かってくる奴がいるっす、冒頓(ボクトツ)殿」
「ああん? ああ、あれか。隠れる様子もなく一騎で真っすぐに向かってくるということは、おそらく、小野殿から聞いている奴だな。ほら、お前がさっき言ってただろう、狼煙を炊くなんて、わざわざ盗賊にこちらの居場所を教えるようなもんだって。あれは、そいつのために上げてるのさ」
「ほんとっすか。それなら、よっぽどのお偉いさんをお迎えするんですよね」
「まぁ、偉いといえば偉いとなるのか。なんでも、この月の民の中での幹部候補生らしいぞ。まだ、成人したばかりの若い奴らしいがな」
短槍を持った背の高い男は、傍らの少年と会話を交わしながら、ゴビの赤土を巻き上げながら進んでくる騎馬を見やっていました。年の頃は二十をいくつか過ぎたぐらいでしょうか、細い体つきですが、その身体にはどこにも無駄な肉はついておらず、ゴビでときおり見かける狼のように、柔らかさと強さが同居していました。
「小苑、お前と同じぐらいの年らしいぜ。あっちは幹部候補生、こっちは他国への人質の従者、まぁ、差のあるこったな」
「なにいってんすか、俺が冒頓殿にお仕えできて、どれほど嬉しいと思っているか、知ってるでしょうに」
「ああ、悪かった、悪かった。ちょっと、意地悪したくなったんだよ。まぁ、いいさ、均等をとるために、あちらさんにも、少し意地悪してやるか」
少年をからかっている背の高い男は、この交易隊の護衛の者を率いる冒頓と呼ばれる男、そして、必死に反論する従者は苑(エン)と呼ばれている少年でした。
ゴビの大地に投げかけられる祁連山脈の影がだいぶん長くなってきたため、交易隊は前進するのを切り上げて、今日の野営の準備を始めたところでした。列の先頭が適当な野営地を探して停止すると、少しずつ駱駝の列が短くなるのにつれて、野営地と決めた場所での喧騒が激しくなってきました。それは、日が暮れる前に、一通りの野営の準備をしなければいけないためでした。
秋に向かうこの時期には、夜になると急に気温が下がりますから、休むためには駱駝の背から必要な荷を取り出して、天幕(ユルト)を立てなければいけません。この交易路は浅い川沿いに続いているので時間はかかりませんが、駱駝や自分たちのために水汲みも行わなければなりません。もちろん、ここまで歩き通しだった、駱駝や馬たちにも餌を与えなければなりませんし、駱駝については逃げ出さないように、前足を紐で結わえる必要もあります。馬については、ゴビに杭を打ち込んで、轡をそこに縛っておかないといけません。そのような準備がすべて整ってから、ようやく、自分たちが食事と休息をとる順番が回ってくるのでした。
今回の野営では、それらのいつもの準備に付け加えて、交易隊の主だったものや護衛隊の冒頓らには、交易隊の頭目である小野から、いくつかの指示が与えられていました。
そのうちの一つが、指示された色と本数で狼煙を上げることだったのでした。苑と呼ばれる少年が不思議に思っていたように、交易隊が狼煙を上げることはあまりありませんでした。なぜなら、それは「ここに荷を積んだ交易隊がいますよ」と、盗賊に教えることになりかねないからでした。狼煙を上げるために使われる草木は、特に煙がたくさん出るものが選ばれているので、通常の焚火で生じる煙とは、その量も上がる高さも全く異なり、遠くからでも気づくことが出来るのです。狼煙を上げるということは、もちろん、羽磋に対して交易隊の現在地を知らせるためですが、そのような危険を冒しても、わざわざそれを行うということは、羽磋が大事な賓客に当たるということを指し示していました。
「やれやれ、あまりもめごとを起こさないでくださいよ、冒頓殿」
冒頓と苑と同様に頭布を巻かずに、頭髪に飾り紐を巻き込んだがっしりとした体格の男が、楽しそうにやり取りをしている二人の元へ近づいてきました。冒頓のちょうど親世代に当たるこの男は、冒頓の補佐役で、護衛隊の副頭目を務めている超克(チョウコク)と呼ばれる男でした。これまで、様々なもめごとや困難を粘り強く解決してきた男で、その経歴から、周囲の者は尊敬の念を込めて「超克」、困難に打ち勝つ者、と呼んでいるのでした。
「大丈夫だって、ちょっとからかってみるだけさ。おお、だいぶん姿もはっきりとわかるようになってきたな、行くぞ、小苑。騎馬のものだけ、ついて来いっ」
冒頓は自分の傍らにいた愛馬にひらりと飛び乗ると、周囲の者に声をかけ、馬を前に進ませました。
「すいません、行ってきます」
超克に向って挨拶をすると、苑も自分の傍らの馬に飛び乗って、それに続きました。ぱらぱらと、宿営地から数頭の騎馬が進み出で、二人の後に続きました。交易隊には荷を積む駱駝はたくさんいるのですが、護衛隊の馬の数は随分と少ないようでした。
「やれやれ、困ったもんだ、若殿にも。まぁ、念のため・・・・・・」
冒頓が馬に乗って交易隊から離れるときには、超克が残って、徒歩のものをまとめて交易隊を守る取り決めになっています。超克は苦虫を噛み潰したような表情をして、いたずらを仕掛けに行く子供のように嬉々として出て行った冒頓を見送ると、腕組みをしたまま、忙しそうに走り回る交易隊の人ごみの中へ戻っていくのでした。