(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
※これまでの物語は、下記リンク先でまとめて読むことが出来ます。
【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わっ
て、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【王柔】(おうじゅう) 王花の盗賊団の一人。交易隊の案内人。
【第74話】
「お願いします、お願いします。少し休めば、あの子もまた歩けるようになります。でも、今は無理です。少しだけで良いんです。どうか、休ませてあげてください」
王柔は、馬上の寒山の足にすがるようにして、願いの言葉を繰り返しました。でも、そんな彼を見下ろしている寒山には、何がここまで彼を動かしているのか、全く理解できないのでした。
彼は王花の盗賊団の一員であり、彼女は奴隷の少女です。二人に何の関係があるというのでしょうか。これが、交易隊の者、それこそ自分のように「荷」を管理する責任のある者と奴隷の関係であれば、奴隷の体調を心配する理由もあるのですが・・・・・・。もっとも、たとえそのような関係であったとしても、このような心配の仕方はしないでしょうが。
いずれにしても、寒山にはこのような場所で、予定外の休憩を取るつもりはありませんでした。でも、無理やりに歩かせて、奴隷に万が一のことがあれば、それはそれで困るのも確かでした。
王柔の必死の願いの言葉は、わずかに、寒山の心を揺り動かしました。
「歩けないというのなら、槍で小突いてでも鞭で叩いてでも歩かせる」というのが彼の方針でしたが、同時に、「すべての荷を無事に届ける」ということが、彼に課された責任だったからでした。
これまでは王柔と護衛隊の男にばかり向けていた注意を、寒山は改めて奴隷の少女に向けました。
「本当に歩くことが出来ないほど、弱っているのか・・・・・・。単に疲れて休みたいというだけなら、槍尻の一つでも喰らわせてやれば、たちまち元気になって歩き出すだろうに。どれ・・・・・・」
寒山のこれまでの経験からすれば、奴隷とは何かと理由をつけて休みたがるもので、一々それに取り合っていては、とても予定通りに事は運べないのでした。なにしろ、交易隊には目的があり予定があるのですが、奴隷には苦しさを我慢して足を前に進める理由などないのですから。
王柔が自分の足元に来たために、先ほどまで彼の背に隠れていた奴隷の少女の姿を見ることが出来ました。なるほど、確かに、大地の上に力なく座り込んでいますし、呼吸をするだけでもひどく大変で、全身を大きく動かしてようやく呼吸が出来ているような状態に見えました。
「やれやれ、まいったな、確かに案内人の言うとおりか。しかし、この気味の悪いヤルダンの中で、これ以上足を止めることは避けたい。それに、奴らは休むためには嘘をつくことも全く厭わない奴らだからな、見た目に騙されるわけにはいかぬぞ・・・・・・、おやっ、まさかっ・・・・・・あれは・・・・・・」
少女の様子を眺めた寒山は、表情こそ変えなかったものの、その深刻な状況に心の中で舌打ちをしました。これは、荷の損失を防ぐために、予定外の休憩を取らなければいけないかもしれません。できれば、そんなことはしたくないのです。どのような場合でもそうですし、ましてや、この何が起きても不思議ではない、他の場所とは全く違う気が満ちているヤルダンの中では、なおさらのことです。
なんとか、彼女を歩かせる術はないか、そのような目でもう一度じっくりと彼女の全身を観察した寒山の表情が、急に変わりました。ほんのわずかな瞬間、無防備な驚きの表情が現れ、すぐにそれは、これまで以上に冷徹な、真剣な表情で上書きされました。
寒山のすぐ足元で嘆願の言葉を繰り返している王柔を足でグッと押しのけると、寒山は馬から飛び降りました。そして、地に伏している少女と、それにつながれている奴隷たちの連に、早足で向かいました。同時に彼は自分の腰に差している短剣を、鞘から抜き去っていました。
「え、あ・・・・・・」
「いや、何を‥…」
寒山が抜身の短剣を持って近づいてくるのを見た奴隷たちにも、一体何が起きようとしているのか、考える間もありませんでした。
寒山に乱暴に押しのけられた王柔が振り返って見たものは、短剣を振り降ろす彼の背中でした。王柔には「止めてください」と声を出す間もありませんでした。それほど素早い、寒山の行動だったのでした。
プツッ。
寒山の振り下ろした短剣の軌道から、何か乾いた音が聞こえてきたように、王柔には感じられました。
「おおぅ!!」
「え、どうしてっ」
「なにがあったんですか、隊長殿!」
「エ、エエッッ」
寒山が動きを止めて、その場の緊張がゆるんだ途端に、彼らを遠巻きに取り囲んでいた交易隊員や奴隷たちから、大きな声が起きました。それらの声は、一様に寒山の行動への驚きや疑問を表していました。
王柔の位置からは、寒山の身体が邪魔になって、彼が何を断ち切ったのかがよくわかりませんでした。まさか、交易隊の進行の妨げになると判断した寒山が、彼女に危害を加えたのではないでしょうか。
「なにをしているんですか、隊長殿っ!」
最悪の事態が王柔の脳裏に浮かびました。王柔は何も考えることもできないまま、寒山の脇へ走り寄って彼が断ち切ったものを確認しました。
王柔や交易隊、それに奴隷たちの視線が集中したそれ、寒山が己の短剣で断ち切ったものは・・・・・・、少女と他の奴隷たちをつないでいた縄でした。