お願いだ。君、僕を助けてくれ! お願いだ!!
///ZZZZZZZ
あの日の僕は、とても疲れていた。
終業式の後、夏休み前最後の掃除をきちんとやっていたのは、掃除当番の中で僕だけだった。別に皆が僕に掃除を押し付けたというわけではない。でも、これから始まる夏休みの予定や、今日の打ち上げの相談を大声で話しながら、掃除に集中するなんて無理な話だろう? みんなの心は既に今後の楽しみの方に向いてしまっていたんだ。几帳面な性格、生真面目な性格ということになるのだろうか、僕は掃除の時間と決められていたら、その時間は掃除に集中したいのだかど。いや、確かに、そのような話に花を咲かせる友人がいない、ということもあるのだけれど。
教室のスピーカーからは、クラシック音楽が流されていた。掃除の時間に決まって流されている、いつものあの曲だ。ホルンが特徴的な綺麗な曲。たしかモーツァルトのホルン協奏曲だったかな、テレビのバラエティ番組にも使われていた曲だったと思う。まぁ、綺麗な曲に合わせて、教室も綺麗にしようね、ということなのだろう。
結局、掃除は自分ひとりで行ったようなものだった。四十もある机を上げ下げし、教室全体を掃き清めるのには相当に時間もかかった。やっと掃除が終わった時には、教室に残っていたのは僕一人だった。いつの間にか、気が付かないうちに、音楽も終了していた。
あんまり疲れたものだから、学校から家に帰り冷蔵庫の中に用意されていた昼食を食べると、リビングのソファーで昼寝を決め込んでしまった。次に目が覚めたのは、母親が仕事から帰って来た時だったから、たっぷり数時間は寝てしまったわけだ。
それがいけなかった。
昼間にたっぷりと寝てしまったものだから、夜になっても全く眠気がやってこない。夏休みに入るから夜更かしをしても大丈夫かというと、明日からは塾の夏季講習があるので、そうも言っていられないのだ。
眠くなくてもベッドに入ればなんとかなるかもと思い、横にはなってみたが、やはり眠気はやってこない。古典的だがしかたがない、僕は羊を数えて眠気を誘う作戦に出たのだった。
前にネットで調べたことがあるのだが、何故羊を数えると眠くなるのか、それには諸説があるらしい。羊は英語で「Sheep」、眠るは英語で「Sleep」、つまり元々は英語圏で始まった習慣であり、想像の中で「One Sheep、Two Sheep、Three Sheep・・・・・・」と数えていくときに、「Sheep」が「Sleep」に通じて自己催眠になるという説。実際に羊を数える作業を行っていた羊飼いが、眠気に誘われたのが由来だという説。また、実は数える対象は何でも良く、単純作業そのものが眠りを誘うのだという説もある。
まぁ、この際何でもいいんだ。効果があるかどうかはわからないが、別にやってみて悪いことはない。それに、羊を数えるという習慣が、昔から現代まで生き残ってきたということは、それなりに効果があるのかも知れないし。
僕は目をつぶると、羊が柵を飛び越えていく様を想像し、その数を数えていくことにしたんだ。
「羊が一匹、羊が二匹・・・・・・」
想像の中で、羊が順番に柵を飛び越えていった。
羊、柵、ぴょん、飛び越える。羊、柵、ぴょん、飛び越える。
「羊が三十匹、羊が三十一匹・・・・・・」
この柵は何なんだろう、ずいぶん低い柵だよね。柵があるということは、羊は放牧から帰ってきたところなのだろうか。数を数えるということは恐らくそうだろう、ちゃんと帰ってきているか確かめなくちゃいけないから。
「羊が百二十二匹、羊が百二十三匹・・・・・・」
しかし羊が飛び越えられるほどの高さの柵なんて、役に立つのだろうか。これはもう、柵は内と外を隔てる物理的な壁として機能しているんじゃないな、内と外の境界を示すものとしての機能しかない。一度柵の中に入れてしまえば逃げ出さないなんて、よっぽど羊は真面目なんだな。真面目ね・・・・・・。
急に羊に親近感がわいてきて、僕はニヤリとしてしまった。
「羊が三百三十八匹、羊が三百三十九匹・・・・・・、あ、だめですよ、横から入らないでください。一列に、並んで並んで」
始めは単なる記号のようだった想像の羊たちは、どんどんと現実感が増していった。柵の前で列を作る羊たちは、それを飛び越えたあとは次々と牧舎の中に入っていく。おそらくゆっくりと眠るんだろうね。でも、大人しく列に並ぶ羊もいれば、列の横から割り込もうとする羊もいる。「メェ~、メェ~ッ」と小競り合いを始める気の短いものもいれば、足元の草をはみながらのんびりと順番を待っているものもいる。いろいろだ。
その中に、奴がいるのに僕は気が付いた。
一頭だけ、ずっと後ろを振り返っている羊。
そいつは、他の羊と異なり、黒い色をしていた。
僕には、その羊が後ろを振り返っているので、「まだ遊び足りないんだな」と感じられた。
「羊が五百十八匹、羊が五百十九匹・・・・・・、ほらほら、黒い羊さん、君も列に並びなさい、白い羊さんはみんな並んでいるよ」
僕が促すと、黒い羊も大人しく長い列の後ろについた。やっぱり彼も真面目な性格なんだ、と僕は思った。そもそも自分の想像の世界なんだからという感覚は、既に僕の中には無かった。ただ、大人しく順番を待ち柵を飛び越えていく白い羊と違って、黒い羊は順番を待っている間ずっと、キラキラとした目で僕を見つめるのだった。
真っすぐに僕の目を捕らえた彼の目は、こう言っていた。(と、僕は思った。)
「ねぇ、まだ遊びたいんだ。いいでしょう、お願いだよ」
正直に言うと、僕は真面目に柵を飛び越え続ける羊たちに、自分を重ね合わせていた。真面目さは大事さ。だけど、本当に本当に正直に言うけれど、ワイワイと楽しそうにしているクラスメートを羨ましく思う気持ちがなかった、といえば嘘になるんだ。ひょっとしたら、この黒い羊は、僕のそういう「遊びたい」という気持ちが現われたものなのかも知れなかった。
「羊が六百二十九匹、羊が六百三十匹・・・・・・」
黒い羊の前で、列はどんどんと短くなってきていた。黒い羊は列に並んだまま黙って僕を見つめ続けていた。自分からは行動できないんだ。そんな黒い羊に、僕は強い共感を覚えてしまった。
「仕方がないなぁ・・・・・・。じゃぁ、遊んでおいで。君の番号はきちんと空けておくからね」
僕の声が届くか届かないかの時には、黒い羊は嬉しそうにぴょんと列から飛び出していた。そして、一度だけ僕の方を振り返ってから、その後は真っすぐに遠くの方へと駆けて行った。黒い羊がその時に見せた顔は、僕にはうまく表現できない。笑顔、いや、あれは、笑顔なんだろうか。そこには単純な喜びだけでなく、もっと複雑な感情があったような気がする。そもそも、あの表情からは、羊よりももっと高等な知性を持った者の、そう、嘲りや憐憫が感じられたというのは、言い過ぎだろうか・・・・・・。
文字通りあっという間に黒い羊が行ってしまった後では、残された白い羊が真面目に柵を飛び越え続けていた。
「えーと、黒い羊がいなくなったから・・・・・・。彼の番号は空けておいて、六百六十七匹から、羊が六百六十七匹、羊が六百六十八匹・・・・・・」
「ウゥーー、ウゥーー、ウゥウウーーー!!!」
その時、急にサイレンが騒ぎ出した。サイレン、そんなものが一体どこに? 辺りを見回した僕は、いつの間にか牧舎の脇に鉄塔が建ち、その一番上に巨大なサイレンが据え付けられているのを認めた。大きな音はそのサイレンから出ているのだった。
「緊急事態発生、緊急事態発生!! 黒い羊が逃走しました。黒い羊が逃走しました。黒い羊はどんどんと変化を繰り返し、最後には重大な事態に至る恐れがあります。直ちに捜索に掛かってください。直ちに捜索に掛かってください!」
警報音に続いて甲高い女性の声が、サイレンから響き渡った。そしてその後に、極度に緊迫した男の声が、世界中に存在するもの全てに命令するかのような口調で、付け加えられた。
「探せ!!」
///ZZZZZZZ
「探せた?」
彼女が僕に問いかけた。
「え、えーと・・・・・・、なんだっけ?」
「もう、ボーとしちゃって。何を考えていたのかしら、こんなに可愛い彼女を横にしているのに?」
彼女は冗談めかして、頬を膨らませてみせた。柔らかな頬がかわいらしく膨らんだ。
こちらも冗談めかして、両手を合わせて詫びて見せながら、僕は頭をフル回転させていた。
ここは・・・・・・そう、田舎の小高い丘の上。近くの道の駅に車を置いて、僕たちは敷物の上で肩を並べて夜空を見上げていたのだった。ここは冬にはスキー場になるところなので、木々が少なく視界が開けている。また、丘の麓には田んぼや畑ばかりがひろがっていて、商業施設などがないため、光害がほとんどない場所なのだ。そう、そうだ、彼女とドライブに来ていたのだ、僕と同じで星が好きだという彼女のために、僕のお気に入りのこの観測ポイントに。
「あなたのおうし座は良いわよねぇ。アルデバランがあるから見つけやすくて。わたしのおひつじ座はあまり目立たないのよ」
「おひつじ座は一番明るい星でも、ニ等星だからね。でも、おうし座の近くだから・・・・・・、ほら、これを使って」
僕は手に持っていた双眼鏡を彼女に渡して、自分は裸眼でおひつじ座を探し始めた。そうだ、羊だ。さっきから、なんだか羊を探さないといけない気がすると思ったら、彼女の星座じゃないか。
秋の風が彼女の長い髪をふわっと広げた。
「やだもぅ、視界に髪が・・・・・・。風が出てきたわね、天気が変わらなければいいけど」
「うん、山が近いからそれは心配だけど・・・・・・、あ、アルデバラン。あれがおうし座だよ。だから・・・・・・」
僕は後ろから彼女の身体を抱くようにして、方向を指し示した。
「あ、あった! ハマルだ!! やったぁ見つけた、わたしのおひつじ座! だけど、やっぱり地味だよねぇ。ほんとは金色の羊なんでしょう?」
「うん、ホントはっていうか、神話上ではね。金色の羊の筈なんだけど・・・・・・」
おひつじ座は、構成する星の内でもっとも明るい星であるハマルでも二等星だし、星座自体もあまり大きくなくて、そこから羊を想像するのも難しいぐらいだ。星座の元となった神話では、王子と王女を背に大空を飛び、人語さえも操る、黄金の毛皮を持つ羊だ。のちにその黄金の毛皮を求めて、勇者たちがアルゴー船に乗って探索に出るほどなのだが・・・・・・。
やっとおひつじ座を見つけた嬉しさからか、僕達は顔を見合わせて、笑い声をあげた。
「やっぱり地味だよねぇ! アハハハハハッ!!」
二人の笑い声は、誰もいない夜の丘の上を、風に乗って広がっていった。
ゴウッ!!
その笑い声が丘を下って麓まで届いたと思える頃、これまでにない強い風が丘に叩きつけられた。
「わわわ、すごい風だよ。敷物が飛んで行っちゃいそう」
「ああ、ホントだ。あ、見ろよ、空を!」
この風に関連があるのだろうか、夜空に夏の入道雲のような黒雲が現れると、急速に発達してきたのだ。それは、たちまち空の半分以上を覆うまでに急成長し、ぼくらの黄金の羊は、黒雲に隠されて黒い羊に変わってしまった。
ポツ、ポツ、と降り始めた雨は、わずかな間に土砂降りに変わってしまった。秋とは言え山の近くだから、このような天候の急変、ゲリラ豪雨もあり得るのかも知れない。いや、とにかく今は、そんなことを考えている場合ではなかった。
「ねぇ、車に戻ろうよ。びしょ濡れになっちゃう」
「ああ、せめて少しでも濡れないように、この敷物をかぶっていこう。ほら、そっちの端を持って。体を冷やさないようにしないと。風も強いし病気になっちゃうよ」
「ほんとにね。あってよかったね、敷物」
///ZZZZZZZ
「敷物のところには近づくなよ」
俺は、黙って部屋に入ってきた娘の方を見ずに、言葉だけを放り投げた。不愛想な言葉。言葉と一緒に疲れが娘に向かって飛んで行ったことは、自分でも判っていた。
「わかってるって。わざわざ近づくわけないでしょう?」
俺に投げ返された娘の声にも、疲れが染みついていた。
ああ、そうだ、なにも俺だけが参っているわけじゃない。この農場を一緒に運営してきた娘も、すっかり疲れ切っているのだ。
俺は立ち上がってキャビネットからジンのボトルとグラスをとりだすと、それらを掲げて見せた。
「やるかい?」
もちろん、まだ陽の高いこんな時間から、いつもジンで喉を潤しているわけではない。だが、今日は特別だ。
「そうね、もらおうかな。今日は、ね」
「ああ、今日は、だ。さぁ我らが牧場に」
「ええ、我らが牧場の、お葬式に」
チン・・・・・・。
触れ合ったグラスが、澄んだ音を立てた。
俺の親父は、いや、親父の親父も、そのまた親父も、この土地で羊を飼ってきた。ああ、そうだ、イギリスからオーストラリアに渡ってきてこの土地を開拓したご先祖さんから俺に至るまで、ずっと羊飼いだったのだ。この牧場は、たくさんの羊、たくさんの牧羊犬、そして、たくさんの従業員と共に、良質な羊毛を市場に提供し続けてきたのだ。
だが・・・・・・。
グイッっと俺はジンを煽った。喉が焼けるように熱い。だが、今はこの痛みこそが、俺の正気を保ってくれているような気がしていた。
そう、だが、何故だ? 俺は何度も思い返しているあの光景を、また思い出さずにはいられなかった。
どこからか、あいつはやってきた。あいつ・・・・・・黒い羊。
俺たちが飼っている羊はメリノ種という羊で、毛色は白く染毛が容易なのが特徴だ。黒い羊など飼った覚えはない。ところがある日の夕方、牧場から牧舎へ羊を移したときに、娘のサラが気づいたのだ。羊たちの群の中に、見たことがない黒い羊がいることに。
「おいおい、うちにそんな奴がいた覚えはないぞ。まさか泥遊びで黒くなったとでもいうのか」
「さすがに泥遊びでこんなにはならないって、パパ。こいつホントに黒い羊だよ。どっかから紛れ込んだのかしら」
「確かにそういう品種もいるらしいが、ここらでそんな羊を飼っている物好きを、俺は知らんぞ」
ここらの牧場では、自分と同じようにメリノ種の羊を飼っているはずだ。とはいえ、新しく試し飼いを始めた新品種の羊が逃げ出したという可能性はある。あるいは、耄碌した牧場主が、白い羊と黒い羊の見分けもつかずに、どこかから連れてきた可能性も。
「ああ、そうだ、近所の連中にSNSで聞いてみるか。ひょっとしたら誰かが探しているかもしれないからな。事務所にスマホを置いているから、ちょっと戻ってくるよ。とりあえず、その黒い羊は牧舎に入れておいてくれ」
事務所に戻った俺は、SNSで近くの牧場主たちに黒い羊を飼っていないか聞いてみた。しかし、彼らから返ってきた答えは、いずれも心当たりはないというものだった。
仮に逃げ出して野生化した羊だったとしても、昔からここら辺りにはメリノ種しか飼われていないのだから、白い羊になるはずなのだが・・・・・・。首をひねりながら娘のところに戻った俺を迎えたのは、同じように首をひねっている娘だった。
「どうしたんだ、サラ。首でも鍛えて。スクラムの練習をするなら相手をしようか」
「違うのよ、パパ。いなくなっちゃった、あの子。黒い羊。もう牧舎の出入口は閉めているし、どこにも行きようはないんだけど・・・・・・」
「まさか、黒い毛を脱ぎ捨てて白に戻ったわけでもあるまいし、牧舎の中をちゃんと探したのか? お前が好きなアイスクリームにのっているブラックベリーのように目立つはずだぞ」
白い羊の中に黒い羊が一頭。すぐに見つかるものと思いながら二人で牧舎を見回ったのだが、Mr.ブラックベリーは何処にも見当たらなかった。もちろん従業員に尋ねもしたが、やはり、そのような羊は見たことがないとの返事しか得ることはできなかった。
不思議だ。腑に落ちない。
しかし、まぁ、いい。もともと、うちの羊では無いのだし、なにか損したわけでもないのだ。
そう思ったんだ。その時は。
翌々日から、うちの牧場を惨劇が襲った。奴だ、黒い羊。厄介者の羊。黒い羊が惨劇を呼び寄せたに違いない。
まず数十頭の羊が牧舎の中で倒れているのが、朝の餌やりの時に発見された。羊たちの体温は上昇していて、目の充血、呼吸及び脈拍の増加が認められた。何らかの病気を考えた俺は、急いで獣医に連絡をし、獣医の勧めに従って役場にも一報を入れた。
朝の診察開始時間前だったが、日頃から付き合いのある獣医は、白衣をひっかけて直ぐに飛んできた。しばらして、役場の連中も現れた。こちらも、白い格好をしていた。いや、白衣じゃない。そう、防疫服って奴だ、あれをきっちりと着込んでやってきた。もちろん、始業時間が過ぎた後でだったが。
病気が発生したのだとすれば、少しでも被害が広がるのを防がなければいけない。病気で死んだ羊や体調を崩している羊とまだ元気な羊たちを別々の場所へ分ける作業に、俺たち農場の従業員は懸命に当たったんだが、どうやらそれは必要なかったらしい。というのも、役場の連中が現われて陣頭指揮を取り始めると、俺たちは作業を中断してバスに載るように促されたんだ。最低限の身の回りのものを持って、どうぞこちらのバスへお乗りください。ご心配なく行先はお任せください、当方おすすめの隔離病棟へご案内いたします、というわけだ。よっぽど、死んだ羊から怖い病気が見つかったんだろうな。その後で、初めて自分の農場を空から見たよ。TVのニュース番組でだけどな。
しばらくはどのニュース番組を見ても、俺の農場のことを取り扱っていた。結局、元気だった羊たちも全頭殺処分となって、農場の片隅に大きな穴を掘ってそこに埋められることになった。ああ、俺たちはその光景をTV画面を通して見たよ。娘は大粒の涙を流してたけどな、最後まで目を逸らさなかった。俺もそうだ。なんだか、それが、殺処分された羊たちへの礼儀のような気がしてたんだ。
その羊たちが埋められた場所は、もう一度土をかぶせて埋め戻して、さらにその上に防水のための敷物が敷かれている。それが墓標の代わりというわけだ。
牧場ですべての処理が終わり、俺たちにも病気の兆候が見られないことが確認された今日、ようやく、俺と娘は住み慣れた我が家へ帰ってきたというわけだ。お帰りを言ってくれる羊は一頭もいない、これまでになく静かな我らが牧場ヘな。
そういうわけだ、今日ぐらいは、ゆっくりと我らが牧場を偲びつつ酒を飲んでも、悪いことはないだろう。
俺たちの牧場は死んだ。俺たちの祖先が造り、俺たちの親が守り、そして、俺たちが育った牧場は。もちろん、羊がいなくなれば、従業員も解雇せざるを得ない。住み込みで働いてもらって家族同然だった彼らだが、新しい職場を探してもらわなければいけない。俺とサラは・・・・・・さて、どうするね?
しかし、あいつは、あの黒い羊は、何なんだ? 本当にそんな羊がいたのかという仲間もいるが、間違いない。奴はいたんだ。だが、奴は何だ、何なんだ?
何を考えても、最後にはあの黒い羊のところに戻って来てしまう。答えなど、出はしないのにだ。
ふと気が付くと、サラは俺の向かいのソファーに座って、ゆっくりと船をこいでいた。ああ、それが良い。答えのない疑問は海に流して、忘れてしまうのが一番だ。
グイッ。
俺はさらに喉にジンを流し込んだ。
さあ、サラ。俺もその船に乗せてくれ。その船に。
///ZZZZZZZ
「船が出るぞ、乗るやつはもういないかぁー」
漁具を下ろした漁船は、既に人で溢れんばかりになっているというのに、一体奴は誰に向かって急ぐようにと叫んでいるんだ。その船にはもう乗れないだろう。見てわからないのか、奴は。どうして、そこまで人を集めようとするんだ。
俺にはまったくわからなかった。もちろん、端からわかるつもりもなかったが。
漁船の船首では、上半身裸の男が声を嗄らして叫んでいた。男の声に触発されたのか、自分の身体の一部分でもねじ込むスペースを見つけられないかと、多くの人たちがその船の周りに押し寄せていた。まだ若い男もいれば、子供を抱いた女もいた。
どいつもこいつもギラギラとした目をして、殺伐としていやがる。ああ、嫌だ嫌だ。
最初から異質の存在とわかっているし、自分には理解することが出来ない奴らだと知っているのに、こんなにも俺をイライラとさせるなんて・・・・・・、やっぱりそうだ、奴らこそ、黒い羊、厄介者の羊に違いない。
ここは北アフリカの小さな漁港だ。この港はアフリカからヨーロッパに渡ろうとする移民どもの出発地の一つで、特に、地中海を挟んで向かい側の、イタリアやフランスへの入口として利用されている。今大声を張り上げていたのは、移民をヨーロッパへ橋渡しするブローカー、そして、船に殺到していた男や女たちは、ここからヨーロッパへ渡ろうと考えている移民たちだ。
なるほど、入口ね。いらっしゃいませ、ようこそ、ヨーロッパへ。足元にお気をつけてお進みください。こちらは夢の国、自由の国。無償で得られる社会保障と高い賃金の仕事が貴方を待っています、ってか?
冗談じゃないぜ、まったく。
奴らのことを難民と呼び、「我々には彼らを受け入れる義務がある」とほざく政治家もいるが、そいつは判っていないんだ、俺たちの仕事が奴らに奪われていく現実を。
そうでなければ、おかしいだろう。
俺の家族を見ろ。イタリアのシチリア島で平和に暮らしていた俺の家族を。
どうして、妹は大学を出たのに就職できなかったんだ。
どうして、親父が勤めていた会社は、奴らを雇って、替わりに親父を首にしたんだ。
どうして、おふくろは、親戚中に頭を下げて金を借りて回らなければいけないんだ。
どうして、親父とおふくろと妹は、身体にワインの匂いが沁みつくまで、飲まずにはいられなくなったんだ。
そして、どうして親父とおふくろは、あいつらさえ来なければと言い残して、死ななければならなかったんだ。
そして、どうして、どうして、俺は一人にならなければいけなかったんだ。
いつの間にか目の前にある景色ではなく、自分の内面を見つめていたことに気が付いた俺は、リュックを背負い直した。ずっしりとした重みがそこにはあった。その重みは、俺の心を冷やし、そして慰めてくれた。
相変らず、俺の周りでは移民どもが大きな声で、次の船を寄こすようにとブローカーに要求していた。奴らの多くは俺と同じように大きなリュックを背負い、あるいは大きなカバンを持っていた。おそらくそこには、奴らの全財産とでもいうべきものが入っているのだろう。ああ、俺のリュックにも入っているぜ、俺の全財産を投じた宝物が。
俺の故郷でも教会の牧師さんは言っていた、彼らは迷える子羊だと。だから、それが戻ってきたことに喜び、受け入れなければならないと。
いや、違うね。
俺に言わせれば、奴らは羊は羊でも黒い羊だ。我らが祖国イタリアにとって、国民を苦しめる厄介者の黒い羊だ。
だから俺は宝物を用意したのさ。今の俺にできることは、少しでも黒い羊を地上から刈り取って、神に祝福された我らがイタリアを取り戻す手助けをすることだけだからな。
イエス・キリストも言ってるじゃねぇか、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と。ひょっとしたらここで黒い羊を少しでも減らすことが出来れば、天国での俺の席はキリストの横に作られることになるんじゃないか。十字軍の先輩方、俺の席を空けて待っといてくれ。
さぁて。
俺は周りを見渡した。
おあつらえ向きだね。海辺どころか漁港の周囲にまで、奴らはテントを張って集まってきている。俺の宝物、このリュックに詰まった爆弾で、どれだけ黒い羊を刈り取ることが出来るかな。
俺はポケットの中の起爆スイッチを握りしめた。ああ、心臓がどきどきする!
黒い羊どもよ、同じ船に乗ってあっちの世界へ行こうじゃないか。あいにく行先はヨーロッパでなく天国だがな。おっと、俺とお前らは行先が違うか、ハハハハッ!!!
さぁ。
やってみようかっ!!!
ゴオオオオッッ・・・・・・・・・ンンン・・・・・・・!!!
ズゥ・・・ゴゴオオオオオ・・・・・・ンン・・・・・・・・・・!!!!
あれ?
なに、も、起きてない。爆発していない・・・・・・。くそっ、不発だと? イタリアで調達することが難しいから爆発物はアフリカで調達したんだが、やっぱりかよ、だから黒い羊なんだっ! 俺の金はどうなるん・・・・・・。いや、なんだ。なんだっ、この音は。
ドド・・・・・オオ・・・・ンン・・・!!!
バリッ・・・バリバリバリッ・・・・・・・。
その音は海の向こうから聞こえてきていた。俺の周りでは、移民どもがみな、海の向こうでどんどんと大きくなっていく灰色の雲を指さして、大きな声をあげていた。
ああ、俺は知っている。
ドオ・・・・、ドオオオ・・・・・ンン・・・・・・・・。
あの方向は、俺の故郷シチリアだ。そして、この音は、この灰色の雲は、きっと、シチリアにある活火山、エトナ火山が噴火したのだ。
イタリア最大、いやヨーロッパ最大の活火山が、怒りの炎を天に拭き上げ、憂いの影を大空に広く行き渡らしているのだ。
「ああ、神よ、許したまえ・・・・・・」
俺は急に自分の行いに対して神がお怒りになったような気がして、地面に膝をつき両手を組み合わせた。
しかし、俺の願いに答えたのは、神ではなくエトナ山の新たな噴火だった。
ドオ・・・ドドオオオオオ・・・・・ンンン・・・・・・・・・・。
俺の懺悔に答えて収まるどころか、その火山活動は数日のうちに世界中に広がっていった。インドネシアのアグン山、メキシコのポポカテペトル山、ハワイのキラウエア火山、それに、日本の富士山・・・・・・。北極から南極まで、世界中で火山の炎と煙から逃れることが出来た場所は、海の中も含めてどこにも存在しなかった。
世界中の至る所で、これまで眠っていた火山たちが、隠し持っていた爆弾を自分の腹の中で爆発させたというわけだ。火山から流れ出した溶岩は、森を畑を川を海を、何の感情も見せずに、無差別に焼き尽くした。火口から空高く巻き上げられた火山灰は、何のためらいも見せずに、一枚の敷物のように地上全体を覆いつくした。そして、 太陽が空で輝くことはなくなってしまった。
昼間でも明かりが必要となった部屋の中では、テレビのニュース番組で、キャスターがコメントを読み上げていた。なんでも、まだたくさんの火山で噴火の兆候が見られるとのことで、その影響で地球が再び氷河期に突入する恐れさえもあるとのことだった。そういえば、この間はグーグルマップの閲覧件数が史上最高になったと言っていたな。そりゃそうだろう、誰もが、自分のいる場所の近くに火山がないかどうか、確認をするのに必死なんだから。
俺か? 俺のせいなのか? あの時俺が押した起爆装置が、まさか・・・・・・?
冗談きついぜ神様。
全てがリセットされた今となっては、俺にもわかるさ。誰が悪いわけでもなかった。俺たちには俺たちの理由と正義が、あいつらにはあいつらの理由と正義があったんだ。白い羊から見た黒い羊は異端だ。だが、黒い羊から見た白い羊も、また、異質な存在だったのだ。たくさんの黒い羊の中では、白い羊こそが厄介者なのだ。だけど、ああ、だけど。
俺は力なくホテルの窓に近づき外を眺めた。赤土が目立っていたかつての光景は今はもう見られない。地面に分厚く積もった火山灰が、人が歩くたびにブワッとひろがっていく様子が見て取れた。
俺が世界が破滅に向かうスイッチを押してしまった、そんなことがあり得るのか・・・・・・。俺が、俺こそが、黒い羊だった、いや、厄介者の白い羊だったのか・・・・・・。そんなことが・・・・・・。
すっかり麻痺してしまった俺の心では、その問に対する答えに辿り着けるはずもなかった。ただ、ぽつんと一つの言葉が、膝の上に転がり落ちただけだった。
「これは・・・・・・掃除が大変だな。掃くのが」
///ZZZZZZZ
「掃くから、どいてくれよ」
「ん、ああ、ごめん」
僕はどうやら机に突っ伏したままで、うとうとしてしまっていたようだ。
今日は終業式、夏休み前の大掃除をしなければいけない。教室では、掃除当番に当たっている生徒たちが数人、机を下げたりほうきを持ったりしている。教室のスピーカーからは、掃除の開始の音楽が流れていた。
「ああぁ・・・・・・、なんだか眠いなぁ。帰って昼めし食って、寝るかぁ」
有難いことに、僕は掃除当番には当たっていない。今日はさっさと帰って、一学期の疲れをとる日にしようか・・・・・・。
僕は自分の机を後ろに下げようと立ち上がった。
掃除の時間の音楽は、「掃除の始まり」の曲が終わって、「掃除時間」の曲に変わろうとしていた。たしか、テレビ番組でも使われている曲で、僕も好きな曲だ。ホルンが特徴的で、軽やかできれいな曲調が良い。
いつからつぶっているんだ その目
暗闇を作っているのは おのれ
「え、なんだ、この曲?」
「掃除時間」の曲の代わりにスピーカーから流れてきたのは、なんだろう、どういうジャンルになるかよくわからないが、とても激しい曲に、心に突き刺さるような叫びが合わさった歌だった。
「おい、知ってるか、この曲・・・・・・うわぁあああっ! お、おい・・・・・・」
僕の声に振り向いたクラスメートの顔、そこには黒い羊の顔があった。
いつの間にか蹄になっているその手で器用にほうきを持っている彼は、自分の変化に全く気付いていないようで、小首をかしげると、床を掃き始めた。
「おい、あいつ、おかしいぞ、見てくれ、あいつ、ああぁあ・・・・・・!」
ガタガタンッと椅子を倒しながら、僕は別のクラスメートの元へ走った。そして、その背中を叩いて、おかしくなってしまった奴の方へ注意を向けようとした。しかし・・・・・・、振り向いたその顔もまた黒い羊だった。
「わ、わああっ! た、た、助けてくれぇっ!!」
何が起こっているかなんてどうでもいい。ただ、怖い。僕は大声で叫んだ。
僕は教室から逃げ出そうとして、机を押し倒しながらドアへと走った。
おかしい、おかしい、おかしい。とにかく逃げないと!
バンッと大きな音を立てて、ドアは勢いよく開いた・・・・・・。だが、僕は廊下に出ることはできなかった。何故ならそこに廊下は存在していなかったからだ。いや、廊下だけではない。教室の外には、何も、無かった。闇ですらない、すべてが停止する、無の世界、そこにあったのはそれだけだった。
どうなっているんだ、どうなっているんだ。
とにかく、ここから出ることが出来ないのだけはわかる。じゃあ、そうだ、窓は? 自分の教室は三階だったが、今はそんなことはどうでもいい。ここでなければ、空中だろうが宇宙だろうが、どこにでも行く。
メェ・・・・。
掃除当番の者たちは、すべて黒い羊の頭に変わっていた。彼ら彼女らは、手に持ったほうきで床を掃いて回っていた。彼らが掃くたびに、その箇所の床は消えていった。床があったところには、ぽっかりと黒い穴が開き、その先には無が見えていた。教室の床はオセロ盤のように、黒と白がまだらになっていたが、黒が優勢で次々と白はその数を減らしていった。
メェ・・・・・メェ・・・・・。
既に窓は、いや、教室の壁は、存在していなかった。床が消えたらその上に立っていた壁は、ボロボロと崩れて無の中に帰っていったのだ。その中で不思議なことに、スピーカーだけは消えることなく空中に掛かっていて、あの歌を大声でがなり立てていた。
いつからつぶっているんだ その目
暗闇を作っているのは おのれ
出られない決めつけてた 垣根
考えない それが君たちの 掟
もう僕はドアの前から動けなくなっていた。
メェ・・・・・。
やめろ、掃くな。それ以上掃くな。
僕の願いも虚しく黒い羊たちは床を掃き続け、そして、自分たちもその無の中へ落ちて消えて行った。オセロはもう黒の勝ちが決まったも同然だった。あとは、パーフェクトを達成するかどうか・・・・・・。
メェ・・・・。
ああ、いいんだ、来るな、こっちに来るな・・・・・・。
最後に残った黒い羊が、これも最後に残った床を掃きながら、後ろ向きに僕の方へ近づいてきた。
来るな、来るな、来るな・・・・・・。
メェ・・・・・。
来るなぁ!
最後の羊の背中が僕の身体に触れ、僕の足元の床が消えた。
僕は今、無の世、界へ、落ちて、行く。すべ、て、が、停止、する、無の、停止。
///ZZZZZZZ
停止する前のわずかな一瞬。僕の中に、すべてが蘇った。
眠り、羊、探す、敷物、船、掃く、停止、それらはすべて僕の中で起こり、僕は俺で、俺は僕だった。黒い羊、ああ、黒い羊。あの時にどうして僕は黒い羊を逃がしてしまったんだろうか。牧場から出すべきだったのは、黒い羊ではなく白い羊だったのではないだろうか。
黒とは白でないもの、白とは黒でないもの。無とは有でないもの、有とは無でないもの。
白の世界は有限で僕は僕だった。だけど、あの時、僕は黒の世界を白の世界に呼び込んでしまった。だから、僕は俺で、俺は僕で、僕は君で、君は私だ。羊は船で、船は病気で、眠りはお菓子で蒸気のように消えていく・・・・・・。
まだ、残っているのだろうか、教室のスピーカーから、この無の中にもあの曲が響いて、広がり、そして、消えていく・・・・・・。
だから、お願いだ、君。僕である君。助けてくれ! 黒い羊に気を付けろ! 奴は必ず君の周りに潜んでいる。奴を牧舎に戻してくれ!! そうすれば、無は有に、黒に戻る。そして、停止していた世界が動き出せば、もはやそれは停止ではなく眠りだったということになるのだ。
だからお願いだ、この話を読んでいる君よ、僕を助けてくれ! お願いだ、プリーズ!!
いつからつぶっているんだ その目
暗闇を作っているのは おのれ
出られない決めつけてた 垣根
考えない それが君たちの 掟
いつまで見ているんだ ドリーム
それはまるで甘いだけの クリーム
気が付かない? 凍っているのか フリーズ
考えない それでいいのか シープ
シーツを広げ シップに掲げろ
ビームを回せ ステップを上げろ
臆病風はスイープ フリーズを忘れろ
アルゴー船に乗り込み宝を探せ シーク!
一たび停止しても 再び動き出せる
フリーズはスリープに 変化できる
だから 臆病風はスイープ フリーズを忘れろ
アルゴー船に乗り込み宝を探せ プリーズ!