みんな、よく来たね。
今日も、おばあちゃんのお話を聴きに来てくれて、ありがとうね。
今回は・・・・・・、そうだね、ちょうど今はひまわりの季節だから、「マトリョーシカ」というお話をしようかね。おチビちゃんたち、マトリョーシカはわかるね。ほら、この部屋にもあるし、アンタたちの家のどこかにもあるはずだ。あたしたちロシアに伝わる民芸品で、人形の中に一回り小さい人形が入っていて、それが何回も繰り返される・・・・・・、そうだ、アイラートチカ、それだよ。
ん、どうして、ひまわりからマトリョーシカになるの、だって?
まぁそれは、お話を聞いていればわかるさ。どうして、あたしが、ひまわりを見るとマトリョーシカを思い出すのか・・・・・・。
さぁ、長いお話になるかもしれないよ、あったかいミルクでも飲みながら聴いておくれ・・・・・・。
□□□□□ マトリョーシカ 一つ目
「独ソ戦」とは、第二次世界大戦中に、ドイツを中心とする枢軸国と、ソビエト連邦(ソ連)との間で戦われた戦争だ。
ソビエト連邦(ソ連)とは、今のロシアやその周辺国が形成していた社会主義連邦国家だ。当初、ドイツの主な交戦国はフランスやイギリスであり、ソ連とは戦線を開いていなかった。しかし、1941年6月22日、ドイツは「バルバロッサ作戦」という奇襲作戦により、突如ソ連に襲い掛かったのだった。
この奇襲作戦は功を奏し、ドイツ軍はソ連赤軍を打ち破って、どんどんとソ連領内に侵攻していくことになる。
精強なドイツ軍に対してソ連が取った作戦は、「焦土作戦」と呼ばれるものだった。かつて、帝国時代のロシアが、ナポレオンに領内深く攻め込まれた時にも取り、そして、勝利した作戦だ。
「焦土作戦」とは、防御側であるソビエト連邦が、敵と戦って退却を強いられる際に自国の施設や食料等を焼き払い、攻撃側であるドイツ軍に利用されないようにする作戦だ。つまり、ソ連国内に侵攻したドイツ軍が、現地で食料・燃料の調達や、兵器・施設の鹵獲を行うことを不可能にするのだ。補給線が長くなれば軍の侵攻は遅くなるし、如何に精強なドイツ軍であっても、弾薬・燃料が不足した状態であれば、ソ連赤軍にも打ち破ることが可能になるのだ。
そして、なによりも、ソ連には赤軍に加えて有力な味方があったのだった。その味方の名は「冬将軍」という。焦土作戦により、自国領内に引きずり込んだ敵軍。補給や装備が十分でない彼らは、他国の者にはとても想像することのできない極寒の刃で襲い掛かる冬将軍の前には、なす術がないのだ。
そのため、冬将軍が加勢に参じてくれる冬季まで、焦土作戦により敵の侵攻を遅らせることができるかが焦点となる。それができれば、ソ連に勝機が生じるのだ。
しかし、その「焦土」と化した大地には、そこで生活をしていた人たちがいたことを忘れてはいけない。彼らにとってこの作戦とは、自分たちが生まれ育った故郷が完全に破壊しつくされ、そして、自分たち自身も敵軍の侵攻を遅らせるための盾として利用されさえした、まさに、「地獄」を地上に再現したような作戦であったのだ。
■□□□□ マトリョーシカ 二つ目
ヒョオーウウウウン・・・・・・・・・。ドッドーン・・・・・・。
シュオーウウウン・・・・・・・・・。ゴゥゴーン・・・・・・。
遠くで、榴弾が飛ぶ音が鳴り響いていた。その鉄の塊は、恐ろしい勢いで空に向かって放たれ、空気を切り裂きながら進み、着弾した周辺のあらゆるものを吹き飛ばしていた。
ドイツ軍とソ連赤軍が交戦しているのは、ダヴィットたちが潜んでいる市街地から幾分離れた場所だったが、そこで飛び交っている砲弾が起こす振動は、彼らが立つ大地を大きく振動させるほどであった。
「このままだと、帝国時代のご先祖さんたちまで、起きてきちまうぜ。おい、ヤーコフ! 本部との連絡は取れたのか!」
小隊の隊長であるダヴィットは、イライラとした様子で、後方の少年兵を怒鳴りつけた。ヤーコフと呼ばれた金髪の少年兵は、自分の背負っている大きな機械から伸びたヘッドフォンを両耳に押し当てている。その機械からはススキのようなアンテナが何本も伸び、大きく揺れ動いていた。どうやら、ヤーコフは本部との連絡を行う、通信兵のようだった。
「隊長殿、本部から連絡。戦線は後退しつつあり。作戦を遂行せよ。戦線は後退しつつあり。作戦を遂行せよ。・・・・・・返信はどうしますかっ」
「有難いご命令、感謝感激でございます、これからもどうかご贔屓に、ってか? 了解、それだけでいいっ」
ダヴィットは眉間に浮かんだ皴をますます深くしながら、小隊のメンバーに向き直った。
「ほらよ、聞いてのとおりだ。郊外の戦線で我が同胞は押されているらしい。いずれ、この町にもドイツ軍が攻め寄せてくるだろう。そこで、我々に出された命令は、だ」
「また、町を焼くのか?」
「俺たちの銃は、敵に向けるもんじゃなかったのか、隊長!」
作戦を説明しようとするダヴィットに、隊員から口々に抗議の言葉が投げられた。
隊員にしても、隊長に反論しても仕方がないことは判っているのだ。それでも、これまで我慢に我慢を重ねてきた彼らは、言わずにはいられないのだった。
ダヴィッドも、彼等の気持ちが十分にわかっていたので、このような命令に対する反論などと言う、本来軍隊ではありえない発言を許しているのだった。
ダヴィットの小隊は、焦土作戦の実行部隊だった。突然宣戦を布告して侵攻してきたドイツ軍との交戦で、ソ連赤軍は大きな損害を出しながら敗退を続けていた。だが、単純に国土を放棄して退却すれば、侵攻してきたドイツ軍に食料や機器などを利用されてしまう。そこで、どうしても戦線が後退すると見込まれる事態になった時に、本部の命令に基づき、退却により放棄することとなる土地を焼き、町を破壊するための部隊が編成された。その部隊の一つが、ダヴィット小隊だった。
隊員の言うように、彼らの銃はドイツ軍に向けられたことはなかった。それどころか、逃げ遅れた農民や、自らの農地や工場が焼かれることに抵抗する市民に、向けられることさえあった。
「本部の連中は、俺たちを人間とは思ってないんじゃないか。俺たちは、感情を持たない人形じゃない、人間なんだ。ここには、あったかいものが入っているんだぜっ」
これまでも彼等はそう言って胸を叩き、悔し涙を流しながら、自国を焦土と化す作戦を遂行してきたのだった。
「ああ、みんなの気持ちは良くわかるさ。だが、これも命令だ。しかたねぇさ」
「でも、隊長!」
「俺たちも、あのちょび髭の野郎に一発ぶち込んでやりたいんですっ」
「もう、俺たちも限界なんです!」
「同志所君! 命令だ!!」
ダヴィットの大声が、隊員の抗議の声をかき消した。そして、当たり前のように続いていた砲弾の音が一瞬とぎれ、耳が痛くなるような静寂が訪れた。
決定だ。いや、端から、決まっていたことだ。仕方がないことだ。
一時は激しい抵抗感を露わにしていた隊員たちも、その静寂を機会として、自分で自分の心を説得しにかかり始めた。
「あ、あう。わ、忘れた」
その時、酸素の代わりに緊張感がまざったような息苦しい空気に似つかわしくない、のんびりとした声が上がった。
イワンの声だった。
イワンは、少し頭の回転が遅い大柄の青年だった。話すことも苦手としていたが、とても正直な性格をしていて、小隊の誰からも好かれていた。
「なんだよ、イワン。何を忘れたんだ」
ダヴィットは、イワンのとぼけた声に少し救われたように感じながら、イワンに尋ねた。
「だ、大事なもの。あ、あの、マ、マトリョシカ・・・・・・」
「マトリョ・・・・・・、ああ、あの、お前が大事にしていたマトリョーシカか!」
イワンは、元々この付近の村の出だった。徴兵されるときに、自分の年の離れた妹によく似た大柄なマトリョーシカを持ち込み、妹の代わりとして、とても大事にしていたのだった。そして、そのマトリョーシカの中には、妹の名に関連したものが入っているのだと、尋ねてくる隊員に対して心からの笑顔で説明をしていたのだった。もっとも、それが何かと問われると、恥ずかしそうにしながら、もごもごと何かを口の中で唱えるだけなので、それが何かは誰も知らないのだったが。
小隊ではイワンに銃を持たせようという者はおらず、彼は常に避難誘導係だった。それは、ヤーコフについても同様で、彼が自分の体格とは釣り合わないような機械を背負って通信を担当しているのも、彼に銃を持たせたくない、同胞を撃たせたくないという、隊の皆の気持ちからだった。
イワンの話によると、どうやら、前の任務地で人々の避難誘導に当たっている際に、その大事なマトリョーシカを置き忘れてしまったようだった。
「前の場所というと、あそこか・・・・・・」
ダヴィットの目は、ソ連赤軍とドイツ軍が激しい戦闘を繰り広げている、郊外の方に向けられた。少し前までは、そこは戦線の後背地であったのだが、戦線が後退することになり、彼の小隊が焦土化を遂行した場所だった。
「さあて、行くか、イワン」
「そう言えば、俺も忘れ物をしたような気がするな」
少し前までは苦しそうな表情を浮かべていた隊員たちが、一人、また一人と立ち上がった。立ち上がった隊員たちは、総じて、どこかすっきりとした顔をしていた。
「おいおいっ、お前ら、どこへ行こうというんだ」
「なあに、決まっているじゃないですか。ちょいと、ドイツ軍が預かっているかもしれないイワンの大事なものを、返してもらいに行くんですよ。なぁ、イワン」
「う、うん、行く。返してもらう。だ、大事なものだから」
「お前ら、それは明白な命令違反だぞ、わかっているのかっ」
イワンの横で立ち上がっていた隊員は、ゆっくりと、一歩前に進み出た。その時には、隊の全員が立ち上がっていて、イワンの後ろに回っていた。
「隊長、アンタの言うこともよくわかる。だけど、なぁ、俺たちは、ただ命令に従うだけの人形か?」
■■□□□ マトリョーシカ 三つ目
隊員の目は、正面からダヴィットの目を捕らえていた。その目に宿った光の強さに撃たれて、ダヴィットは思わず下を向いてしまった。
ダヴィットとて、自分たちのやっていることに苦しんでいないわけがなかった、いや、むしろ、部下にそれを命令している立場だからこそ、彼ら以上に苦しんでいたのだった。
わずかな時を置いて顔を上げたダヴィットの眉間からは、あの深い皴が消えていた。
「よし、じゃぁ・・・・・・行くか。忘れ物を返してもらいにな。いいか、おまえら、行くと決めた以上、迷子になるなよ。最後まで俺について来い。忘れ物の次は、迷子を引き取りに戻る、なんてのは勘弁してくれよ」
ダー、ハラショーッ!
「やっぱり、アンタは俺たちの隊長だぜっ!」
陽気な声が隊員の中から沸き上がった。
「あ、あの・・・・・・。隊長殿、本部への通信はどういたしましょうか」
困惑した様子でヤーコフはダヴィットに確認をした。彼が困惑するのも無理はなかった。なにしろ、つい先程、彼の口から本部に命令受諾の返答が送られたところだったのだから。
「そうだなぁ・・・・・・」
ダヴィットはちょっとの間、視線を彷徨わせ、そして、ヤーコフに片目をつぶって見せた。
「先の作戦の万全を期すため行動する、とでもするか。それか、大人の遠足に行ってきます、だな。どちらでも、お前の好きな方で頼む」
この時に、ヤーコフがどちらの通信を送ったのかは、残念ながら、公の資料は残っていない。後に、妻に問われたときにも、彼は「わかるだろう」と優しい笑みを浮かべただけだった。
ダヴィット小隊が向かった先は、現在ソ連赤軍とドイツ軍の戦場となっている郊外の村だった。
遮蔽物を探してその影を伝いながら慎重に進む彼等の頭の上では、お互いが放つ砲弾が、空気を引き裂きながら無数に交差していた。爆発音。機銃の音。それらが、空気を振動させない時間は無く、始めの頃は恐怖を感じさせたそれらの音も、やがては、あたりまえに存在するものとして、感じられるようになっていった。
ヒューン。ダン。タタタタタ・・・・。
ゴウン、ド・・・・・・オオオオオン。
戦場には、ロシア語でもドイツ語でもない、共通の言葉が存在しているかのようだった。
タタタン。タタッタタン。
バシュッ! ヒュ・・・・・・・・・ゥゥウ、ドーン。
様々な音節で発せられるその共通語だったが、どの言葉も意味する内容は同じだった。
「お前を殺してやる」
それだけだった。
「気を付けろ! 不用意に頭を出すなよ!!」
ダヴィットの注意を受けながら、小隊は物陰を伝いながら村へと急いでいた。
元々彼らは、町の破壊を目的とした部隊なので、戦車や自走砲などは持っていなかった。田畑を焼き、施設を破壊するための、工兵隊に近い存在だったのだ。最小限の装備として保有している小銃を構えながら走る彼らが、万が一にでも、ドイツ軍と出くわしたならば、それは熊に遭遇した兎としか、例えることができないのだった。
如何に身を隠しながら進んでも、どこからでも弾は飛んできた。先ほどまで隣を進んでいた戦友は、次の瞬間には、地面で横になっていた。
敵が撃った榴弾か味方が撃った榴弾かもわからない弾が、次々と周囲の地面を掘り返していた。
それらに気がついたとしても、避け様などがあるはずもなかった。彼等にできるのは、身を低くして進むことと、自分が信じる神に祈りをささげること、それだけだった。もっとも、戦場のどちら側からも、祈りの言葉が口に出されていたから、唯一神と呼ばれる存在は、中立を保つことを早々に決め込んでしまっていたのだが。
それでも、この地域の出身で抜け道に詳しいイワンの案内のお陰か、それとも、隊員の誰かが幸運の女神とペンフレンドだったのか、多くの隊員を失いながらでも、小隊は目指していた村に辿り着くことができたのだった。
「イワン、どこだっ。どこに置き忘れたんだ、お前の大切なもの!!」
金切り声を上げて飛ぶ砲弾たちに負けないように、イワンの耳元に口を寄せてダヴィットが叫んだ。
「あ、あそこ。あの、こ、小屋の中」
イワンが指さして見せたのは、彼らが身を隠している森の近くにある木こり小屋だった。森の中には、地元民だけが知っている獣道が走っており、そこを通って避難するように村人を案内した時に、小隊が利用していた場所だった。
「あそこか・・・・・・。あれから、誰も利用してないように見えるが」
小屋は彼らが利用していた時から、変わったところがあるようには、見えなかった。ただ、小屋の周囲には、榴弾が着弾した事を示す大きな窪みが、無数にできあがっていた。
「よし、ぱっと言ってぱっと帰ってくるか。ヤーコフは、通信機器が重いから、ここで待機。なんだ、そんな顔をするな、置いて行くわけじゃないんだ。直ぐに戻ってくるから。他の奴らは、俺と一緒に来い。小屋の中に敵兵が潜んでいる可能性もある。俺が扉を開けるから。一気に突入してくれ」
即座に判断を下したダヴィットは、残った十名にも満たない隊員に指示を与えた。他の隊員は道中で倒れ、最初にイワンの肩を持った隊員の姿も、ここには無かった。
「・・・・・・行くぞ!」
どこから誰に見られているのかもわからない、そのような状況の中で、ダヴィットたちは森から飛び出し、木こり小屋まで走った。
機関銃の一斉掃射でもあれば、それまでだ。
だが、ここは戦場のエアポケットにでもなっているのか、彼らに注意を向けるものは無いようだった。
首尾よく木こり小屋の正面にとりつくと、隊員に銃を構えさせて、ダヴィットが薄い木でできた扉を蹴り破った。
そこには・・・・・・。
そこには、敵兵の姿はなかった。
確かに、ダヴィットたちも焼き払うことをしなかったほどだ。このような古ぼけた木こり小屋に、敵兵が潜むはずもなかったのだ。
「あ、マ、マトリョーシカ・・・・・・」
敵兵を警戒し銃を構えながら突入した隊員たちの後ろから、ようやくイワンが小屋の中に入ってきた。木こり道具や、薪が置かれている一角を、彼がごそごそとひっくり返していると・・・・・・。
「あ、あった、あったよ、隊長。あったよー!」
深い安堵の声が、イワンの大きな口から洩れた。
「あったか、そうか、そうか良かったなぁ」
「隊長、やりましたね」
「ええいっ、どうだ、本部の奴ら、俺たちだって、できるんだ。俺たちは、感情を持たない人形じゃない。人間だ。あったかい気持ちを持つ、人間なんだぁ!」
心から安心したのだろう。イワンは、木こり小屋の窓を開け、森から息を凝らしてこちらを眺めているヤーコフに向って、マトリョーシカを掲げて見せた。
■■■□□ マトリョーシカ 四つ目
ブオオォオオオ・・・・・・ン。
「その音が、他の榴弾の音とどう違ったのか、上手く説明できないんだ。だけど、確かに違ったんだよ」
後になって、ヤーコフは妻にそう説明をした。
その榴弾は、木こり小屋を直撃し、文字どおり木っ端みじんに粉砕した。巻き上がる土煙と黒煙。
そして・・・・・・。
「あ、あれ・・・・・・。あれ・・・・・・」
大きく開かれたヤーコフの口が、言葉を発する機能を取り戻して、単なる吸排気口でなくなったのは、その瞬間からどれくらい経ってからだったのだろうか。
森の中からヤーコフに見て取れたものは、木こり小屋があったところにできた黒々と焼け焦げた窪み。その周囲に散らばった木片。そして、ほんの少し前までは、言葉を交わしていた戦友たちだったモノ。わずかに見える赤い破片は、あのイワンのマトリョーシカのものだろうか・・・・・・。
そこに命あるものが何も存在していないのは、ヤーコフにも理解できた。
この状況をどのように本部に報告したのか、ヤーコフには覚えがなかった。
だが、とにかく訓練を受けた通りに、小隊が全滅したことを本部に伝えると、彼は通信機器をその場に置き、ふらふらと木こり小屋に向って歩いて行った。
「た、隊長・・・・・・。イワン・・・・・・。みんな・・・・・・。あ、ああ・・・・・・」
彼の心は完全に機能を停止していた。目に入っている情報を頭が処理はしているのだが、それは彼の胸の中を通ってはいなかったのだ。
彼は、まだ薄く煙をたなびかせている窪みに近づくと、それを見つめまま、じっと立ち尽くしていた。
いつまでそこに立っていたのか・・・・・・。
それは、武器を携行していないソ連少年兵を発見したドイツ兵が、彼の肩に手を置いた時までだった。
「ダーヴィット小隊から連絡。壊滅、作戦続行不可能とのことです」
「わかった」
ヤーコフからの連絡を受けた、この方面の歩兵大隊本部では、机の上に広げられた地図を囲んで、幹部たちが戦況の分析をしていた。
「ダーヴィット隊、壊滅」
一人の男が地図に刺されていたピンを一つ取り除いた。
ダーヴィット隊。ここでの彼らは、人間でもなく、人形ですらなく、一団となってようやく「ピン」だったのだ。
■■■■□マトリョーシカ 五つ目
ドイツの電撃的侵攻により、ソ連の首都モスクワさえもが陥落するかと思われた独ソ戦だったが、例年よりも早く到来した冬将軍と赤軍の抵抗によって、持久戦の様相を呈することになる。
そして、焦土作戦により補給線が長く伸びた上に、不十分な冬季装備しか持たなかったドイツ軍は、その持久戦に耐えられなかったのだ。
やがて、戦局は反転する。
ソ連赤軍は一大攻勢である「バグラチオン作戦」を発動し、次々と国土を奪還していく。
最後には、自国の領土からドイツ軍を駆逐したソ連赤軍は、ドイツ東部になだれ込んでいくのだが、今度はドイツ軍がソ連赤軍に対して、焦土作戦を仕掛けるのだった・・・・・・。
このような大きな戦況を表す際には、師団規模、軍団規模の矢印で示されることが多い。そこには、小隊を表す「ピン」など、入り込む余地はないのだった。
■■■■■ マトリョーシカ 中身
「もうすぐ、君のお兄さんが亡くなった場所だよ」
荒地を走るため激しく揺れるトラックの荷台で、ヤーコフは少女の身体を支えていた。
戦争が終わり、ドイツ軍の捕虜となっていた彼も、ソ連に帰ることができていたのだった。
ソ連に戻った彼が向かったのは、気になっていた人物の疎開先だった。イワンから聞かされていたのだ。自分に何かあった時は妹を頼むと。
戦後の混乱の中、大変な苦労の末に彼は彼女を見つけ、故郷の村へ返すことができたのだった。イワンの妹の名はパトソール。国花である、ひまわり(パトソールニチニク)にちなんだ名前だった。
「ほら、この先だぞ、降りな」
目的地の近くまでトラックの荷台に乗せてくれた農夫に礼を言うと、ヤーコフとパトソールは森のふちに沿って歩き出した。
焦土作戦で荒廃した国土を回復するため、避難した住民には帰還が奨励されていた。パトソールも疎開先から故郷に帰ることになり、戦争で身内をなくしていたヤーコフは、彼女と人生を共にするべく、この地に付き添ってきたのだった。
「兄が亡くなった場所に行って、弔いたい」
それが、故郷に帰ることが決まった時に、彼女がまず発した言葉だった。イワンが徴兵されるまでは、二人はとても仲のいい兄妹だったし、行軍中でも彼が常に妹のことを気にかけていたことを、ヤーコフから聞かされていたのだ。
ヤーコフにしても、自分の仲間たちが犠牲となった場所に行き、弔いをしたいという気持ちは同じだった。
そのため、この村に帰って来てまず向かっているのが、あの木こり小屋があった場所なのだ。
「あの木こり小屋があったのは、そこを曲がった辺りだな」
その場所が近づくにつれて少しづつ早足になるパトソールの後ろから、ヤーコフが声をかけた。
「ん、どうしたの?」
木々が張り出した角を曲がったところで、突然、パトソールが止まったのだ。どうしたのだろうか、後ろから見ると、彼女の肩が細かく震えているように見えた。
不審に思いながら、彼女の傍らに並んだヤーコフの目に飛び込んできたのは。
一面に広がる、あざやかな黄色い海だった。
いや、それは、木こり小屋があった場所を中心に、森のふち一杯に広がって、黄色い海のように咲き誇る、ひまわりたちだった。
「兄さん・・・・・・」
風が吹くたびに緩やかに揺れるひまわりを眺めながら、パトソールは大粒の涙を流していた。
ヤーコフは、ようやくイワンが大切にしていたマトリョーシカの中身が何だったのかに、気がついた。妹の名に関連したもの、それは、ひまわりの種だったのだ。
ひまわりの花が風に揺れる様は、黄色い海が風に吹かれて波打っているかのようだった。ここまで見事に咲き誇るひまわりの群生を、ヤーコフは見たことがなかった。
「ああ、確かに、俺たちは人形だったのかもしれない。だけど、その中身は、空洞じゃない。空洞なんかじゃなかった」
ヤーコフには、この黄色に輝くひまわりの海は、戦友たちの心が起こした奇跡にしか思えず、沸き上がった涙が頬を伝っていくのを、止めることができないのだった。
■■■■■
さて、これで、パトソールおばあちゃんの今日のお話はおしまいだよ。
ん、なんだい? ちょっと、難しかったかい?
そうだねぇ、もう少しアンタたちが大きくなったらわかる・・・・・・、いや、わからない方が良いかも知れないねぇ、この気持ちは。
さぁさぁ、畑の方にヤーコフおじいちゃんがいると思うから、帰るときには、挨拶していっておくれよ。気をつけてお帰んなさいな。
そうそう、忘れちゃいないよ。みんなが期待しているとおり、お土産はうちの畑で取れたひまわりの種だよ。うちのひまわりの種は特別だからね。食べたら、胸の中がとってもあったかくなること、間違いなしだ。
あたしや、ヤーコフおじいちゃんや、みんなの心がたくさん詰まったひまわりの種、しっかりと味わっておくれよ。
<了>