(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
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【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わっ
て、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【王柔】(おうじゅう) 王花の盗賊団の一人。交易隊の案内人。
【理亜】(りあ) 王柔が案内をしていた交易隊が連れていた奴隷の少女。
【第117話】
「ヤルダンが、ヤルダンが見えるのです、この先にっ。まだ、あるはずがないのに、です。何かが、おかしいのです。気を付けてくださいっ。おかしいのです」
「ヤルダンが、か。よし、聞いたか、小苑。王柔が指す方だ、頼むぜっ」
冒頓は、興奮して混乱気味の王柔の言葉を、疑いもせずに受け入れました。そして、自分の傍らにいる苑に対して、飲み物を取ってくれとでもいうような物言いで指示を送ると、一転して、大声を張り上げました。
「おいっみんなっ。お客さんが来るかもしれないぜっ! 交易隊は一塊になってゆっくりと進め! 護衛隊! 徒歩のものは、その外側で警戒! 相棒がいる奴は騎乗!」
ピーッ! ピーッ!
冒頓の指示の下で隊形を整える交易隊と護衛隊。そして、彼らが巻き上げる砂埃の中から、鋭い指笛の音が飛び、オオノスリの空風が、前方に向って飛んでいきました。
王柔が行った冒頓への報告の言葉をきっかけに、その場の雰囲気は、ただ交易路を進む単調で穏やかなものから、何者かに襲われるかもしれないという緊迫したものへと、急速に入れ替わっていきました。
その変化は、息を切らしながら報告を届けた王柔自身でさえ驚くような、激しいものでした。冒頓には、「ひょっとしたら王柔の報告が間違っているのでは」という疑念は、起きないのでしょうか。
「ぼ、冒頓殿っ。こんなに警戒の体制を敷いて・・・・・・もしかして、いや、何かがおかしいのは、間違いないんですけど、それにしても・・・・・・」
「あぁ、なんだ? 王柔、お前の報告は間違っているのか?」
「いいえ、そんなことはないですっ。僕は確かに見ました、ヤルダンの奇岩が、まだそれがあるはずのないこの先に、転がっているのを」
そのひょろっとした外見と弱々しい口ぶりから、自分の指示が案内をする交易隊の人達に軽く受け取られることに、いつの間にか王柔は慣れてしまっていました。
それなのに、冒頓は。あるはずもないものを見たという俄かには信じがたい報告なのに、冒頓は。王柔の言葉を、きっちりと信頼して受け止めてくれたのでした。
「なんだ、王柔、そんなに目をキラキラして、見上げやがって」
既に自分も馬上の人となっていた冒頓は、さも不思議そうな顔をして、王柔を見下ろしました。
この男にしては、これが当たり前のことだったのです。
自分が一度信用した者はとことん信用する。それが冒頓でした。そして、その反面として、自分を裏切った者は地の果てまでも追いつめ、この世に生を受けたことを必ず後悔させる。そのような激しさも併せ持つのが、冒頓という男なのでした。
冒頓は、口では王柔のことをからかいもし、その考えの浅いところを指摘もしますが、ヤルダンの案内人としての彼の仕事に関しては、信用を置いていたのでした。それは、過去に小野の交易隊に案内人としてついた、王柔の仕事ぶりを見ていたことがあるからでもありますが、なによりも、自分が一目置いている王花という人物が、王柔を一人前の案内人と認めている事が大きいのでした。
「いえ、僕の報告を、こんな風に疑いもなく信じてくれるなんて・・・・・・。ありがとうございます、冒頓殿」
「なんだ、お前、俺のことをどう思ってたんだよ。おれは優しい隊長殿だぜ。ハハハッ」
王柔の言葉を軽く笑い飛ばして見せた冒頓は、もちろん彼の気弱な性格も知っていました。その人自身を信じる信じないというところとは別の問題として、この報告が、彼の弱気が見せた見間違いということもあり得ます。それは、一団を率いる隊長として、考えに入れておかなければならないことです。
でも、それがどうしたというのでしょうか。このまま、何事もなく時間が経つようであれば、ただ単に、警戒を解けばそれで足りるのではないでしょうか。
逆に、もし、王柔の言葉を軽く見て、万が一にでも護衛隊や交易隊に大きな損害を受けるようなことがあれば、特に、命にかかわるようなことがあれば、それは取り返しがつかないのです。
「死んだら終わりだから」
その言葉を口癖とする冒頓は、性急に物事を進めたり、考えなしに行動を起こしたりする人物と見られがちでしたが、その腹の奥底には、予め行われたとても合理的な割切りが存在していたのでした。
ゴビの赤土の上を進む白いスナヘビのようだった隊列は、冒頓の命令に従って一枚の木の葉のように固まりました。しかし、彼らはその場所に留まるのではなくて、そのまま、ゆっくりと前進を続けるのでした。
彼等の目的は、ヤルダンに何かが起きているのであれば、それを調査し解決することでした。そして、それに加えて、ヤルダンを通り抜けて、羽磋を吐露村へ送り届ける事でした。こんな風に、ヤルダンに入る前から何かが起きることまでは、考えていなかったものの、ヤルダンに向って進まないわけにはいかないのでした。
「どうだ、小苑」
冒頓は、交易隊の行く先の空の上を、右から左へ、あるいは、手前から奥へと、オオノスリの空風が何度も往復している様子を見上げながら、苑に確認をしました。
額の上に手をかざして光を遮りながら、相棒の動きを観察していた苑は、顔を動かさないまま、冒頓に答えました。二人の横では、理亜の乗る駱駝の轡を取っている王柔が、緊張した面持ちで、馬上の二人を見上げていました。
「うーん、空風の動きからすると、特に誰かが潜んでいるとかいうことは、なさそうな感じっす、冒頓殿」