「夏の頃であれば、あの丘に寝転んで、緑の絨毯の上で星を眺めながら一夜を過ごすこともできただろうが、こんな寒い時期に野宿などしたら死んじまう。町はずれにはなるが、誰も使っていない建屋があるから、そこを使えばいい。もちろん、宿代なんていらないさ。なあに、気にするなよ。困った時はお互い様だ。なぁ、兄弟。困った時にはなっ」
石造りの町ペカトムは大陸の北辺に位置する高山の裾野にあった。ペカトムの家々は見事な黒灰色の肌をしていることで旅人に有名だったが、今は分厚い雪の服を着込んでいた。
北極海から吹き寄せる風が絶え間なく町を通り抜け、街路に少しでも暖かな空気があれば、町の外へと吹き飛ばしていた。
長く厳しい冬は、分厚い壁の中で過ごすに限る。
住人の冬の間の唯一の楽しみと言えば、昼の内から酒場に集まって話をすることだった。
酒場の奥には大きな暖炉が設けられていて、ゴウゴウと音を立てながら燃える炎が、広い室内を温め続けていた。
壁際では、ウォッカで頬を赤らめた初老の男と年若い男が席を同じくしていた。初老の男はこの町の男であり、まだ少年と言ってもいいような年若い男は、この町を訪れた旅人だった。旅人は、宿を求めていたのだが見つからず、寒さを避けるために酒場に入ってきたのだと話していた。
「それはそうだろう」と、町の男は大声で笑った。寒さの厳しいこの時期に旅人がこの町を訪れることはないから、夏の間は宿の看板を出している家も、今はそれを取り外してしまっているのだ。
町に通じる街道の敷石の上には分厚い雪の敷物が敷かれていて、羊毛で織った絨毯が水を吸収するように歩く者の体力を吸い取っていくし、野宿をするにはあまりにも天候が厳しすぎるから、必ず宿場町で休まないといけない。いくら薄ぼんやりとした昼の時間が長いからと言っても、わざわざ冬の時期を選んで旅をする者などはいないのだ。
それに、この町にとっては、この冬の時期は特別なのだ。いや、この日の夜こそが特別なのだ。それなのに、よりにもよってこの日にこの町を訪れるなんて・・・・・・。
町の男は、グイっとウォッカをあおると、喉を通っていく熱い塊を感じながら目を細めた。
どこか遠い町からやってきたのだろうか、若者の石炭のような黒い肌に短く縮れた黒髪は、この町の人たちとは明らかに異なっている。ただ、旅人の衣類は小ざっぱりとしているし、酒場の外に繋いである驢馬や荷物も良く手入れがされているから、逃亡した奴隷や罪を犯して追われている男ではなさそうだ。いや、この際、それでもかまわないではないか、この町にとっては・・・・・・。
初老の男は、体を温めるためだと言って旅人にも酒を勧めると、慎重に頃合いを見図らってから話を切り出した。酒場中の人たちの意識が自分に向けられているのを、男は感じていた。
それは、旅人に寒さをしのぐための宿を提供する話だった。いや、正確に言うと、宿ではない。町はずれに今は使っていない建屋があるから、そこを使ってはどうかと勧める話だった。
果たして、旅人は初老の男の言葉に混ざっていた緊張には気が付かなかったようで、何度も恐縮と感謝を表すと、男が教えた建屋に向かって宿を出て行った。
旅人が酒場の重い扉を後ろ手に閉めたとたんに、室内の空気が一気に緩んだ。酒場の小さな窓には町の男たちが何人も貼り付き、小さくなっていく旅人の姿が、初老の男が教えた方角に向っていくかどうかを見定めていた。
大きな仕事を終えたかのようにひどく疲れた様子を見せる初老の男に、何人もの男が嬉しそうに声をかけた。
「よくやってくれたっ。俺は、あの家族に知らせてくるっ」
「こんな日にやって来てくれるとは、なんてありがたいんだろう。これで、今年は町の子を送らなくて済むぞ」
「ああ、本当にな。あの旅人は、神様が送ってくれた天使様かもしれんぞ」
「きっとそうだ。ありがたい、ありがたい・・・・・・」
夜になっても、その町には星空は訪れなかった。
遠い空のかなたで太陽が地平線に没することなく輝いていて、夜の闇が訪れることを妨げているからだった。
しかし、夜が更けるにつれて、町に落ちる闇がどんどんと深くなっていった。それは、町の上に流れてくる雲が、どんどんと分厚いものになっていくからだった。
この時期は、いつもそうだ。
そして、この日は、闇夜と同じほど暗くなるのだ。
それを知っている住民たちは、家の戸をしっかりと閉め厳重にかんぬきを掛けると、夢の世界へと逃げ込んでいた。
いつもの年ならば、悲しさと辛さで眠りに付くことも困難であったが、今年は違っていた。
誰も夜汽車に連れていかれなくて済む。
住人たちは、安堵の吐息でそれぞれの寝床を温めていた。
「ああ、神様、天使様。感謝いたします」
「本当に、ありがたいわ。でも、今までもずっと助けて下さるようにお祈りをしていたのに、どうして今年に限って天使様をお遣わしになったのかしら」
「こら、めったなことを言うな。天使様や神様のお考えは、人間である我々には測れないんだからな」
夜汽車は、今年もやってきた。
煙突から黒煙をもうもうとたなびかせながら、分厚い雲の真下を駆けてきた。
どれだけの年月を走り続けているのだろうか、真っ黒な機関車は煤と赤錆にまみれていた。長く続く客車はいまにも砕けてしまうかと思われるほどギシギシと悲鳴を上げ続けているし、小さな窓には埃がびっしりとこびりついていて中の様子は全く分からなかった。
ヒ、ヒイィッ!
飛ぶ鳥が耳にしたら恐ろしさのあまり落下してしまうような、死に際の動物が上げる悲鳴にも似た汽笛を鳴らすと、夜汽車は町の上空へと近づいてきた。
夜汽車は、空を走っていた。
いつの頃から空を駆けているのだろう。
多くの生き物と同じように、夜汽車にも自分が生まれたときの記憶はなかった。
ただ、昔に乗せていた人たちのことは覚えていた。
その頃も、夜汽車は人の目に映ることもなく、夜の空を駆けていた。始めは客車を引いてはおらず、機関車のみであった。彼が乗せるのは、「悲しみに溢れた人の魂」だった。あまりに辛い人生だったのだろうか、死を経てもまだ人としての生を整理できずに、そのままでは天に上がることがかなわなかった人の魂だった。その魂がもたらす、胸を焼き尽くさんばかりの痛みを窯の炎に、止めることのできない悲しみの涙をボイラー水に、そして、嘆き叫ぶその声を汽笛にして、夜の空を駆け続けるのだった。
もちろん、悲しみの原因となった者への復讐のためなどではない。
その悲しみが力を失い、彼の人の魂が救われる準備を整える時まで、ただ、走り続けるのだ。
夜汽車は、純白の煙を吐きながら、時折り鋭い悲鳴のような汽笛を鳴らしつつ、夜の空を走り続けたのだった。
長い長い年月が過ぎたある時、夜汽車はあることに気が付いた。
自分が乗せる魂に、変化がみられるのだ。
いつの頃からか、「悲しみに満ちた魂」の中に「憎しみに満ちた魂」が混ざり始めていたのだ。
だが、「どちらの魂も同じではないか」と夜汽車は思った。「自分が走ることによって悲しみや憎しみが薄らぎ、魂が天に上がることができるようになれば、それでよいではないか」と。
やがて、「憎しみに満ちた魂」の数は「悲しみに満ちた魂」のそれを上回るようになり、魂が浄化されて天に上がる速度よりも、魂が乗り込んでくる速度の方が大きくなった。それでも、夜汽車は走り続けた。他者を焼き尽くさんとする憎悪の炎で窯を炊き、他者をうらやんで流す涙をボイラー水とし、そして、他者の失敗を嘲笑する声を汽笛として、走り続けた。
夜汽車の姿は人の目には映らないはずだったが、この頃から、各地でその姿が目撃されるようになった。
夜の空を駆ける夜汽車。悲鳴にも怨嗟にも似た轟音を上げながら車輪を回し、時折り立てる汽笛の音は、聞く人の心を寒くする。さらに、機関車が引く客車からは、人の泣き声やうめき声が漏れ聞こえる・・・・・・。
夜汽車の姿を見た人たちは、それを「人の魂を刈り取る、災厄をもたらすもの」と捉えた。
そのためだろうか、この村でも、あの町でも、夜汽車を目にした人里では、同じことが行われるようになった。
「人身御供」として子供を差し出し、夜汽車が人里に災いをもたらすことがないようにと願ったのだ。
もちろん、夜汽車は「人身御供」など求めてはいなかった。そもそも、彼は「天に上がることのできない魂を浄化するもの」であって、「人の魂を刈り取る、災厄をもたらすもの」ではないのだ。
始めの頃は、夜汽車は「人身御供」を見て見ぬことにしていた。明らかにそれとわかる、人里離れた建屋に一人置き去りにされて、涙を流しながら恐怖に震えている子供の上を、灰色の煙を吐きながら、ただ通り過ぎていた。
しかし、彼はこれを改めるようになった。
彼は知ったのだ。
恐ろしさでまんじりともせずに一夜を過ごし、待ちかねた日の出と共に町はずれの建屋に向った人々が、建屋の中に「人身御供」が残されているのを見たときに、どうしていたのかを。
彼らは、自らの手で「人身御供」を捧げていたのだ。自分たちと自分たちの町を守るために。
夜汽車は、天に上がることのできない魂となった「人身御供」を乗せた。愛する人々の手にかかったその魂は、これまでのどの魂よりも、底知れぬ絶望と息をすることさえ叶わぬ恐怖で汚されていた。
それ以来、夜汽車は「人身御供」を残すことをやめた。
彼は、決めたのだ。
彼が、それを喰らうことに。
次第に、夜汽車の姿自体も変わっていった。
機関車の滑らかで丸みを帯びた姿は、ゴツゴツとした無骨なものに変わっていった。漆黒の鋳鉄の上で艶やかな釉薬が輝いていた肌には、血がにじんでいるかのような赤錆が浮きだした。
煙突から上がる煙の色は、風に舞う雪のような純白からねっとりとしたタールのような黒色へと変わった。そして、機関車が引く客車はどんどんと増え、編成は長くなる一方だった。
石造りの町ペカトムの郊外の丘の上に、簡素な建屋があった。
風による倒壊を避けるためか大木の陰に建てられていたそれは、まるで「一晩持てばいい」とでもいうかのような、非常に簡単な造りであった。
夜空の星を隠すかのように分厚く広がる雲を、それよりもなおどす黒い煙で塗り替えながら、夜汽車は建屋の前に降りてきた。
ペカトムには、毎年この日の夜に訪れていた。そして、毎年この場所で、「人身御供」として捧げられる子供を喰らっていたのだ。
建屋が近づいて来ると、夜汽車は意外なものを認めた。
なんと、建屋の前に少年が立っているではないか。
それも、その少年は自分を待ちわびていたかのように、笑みを浮かべながらこちらを見上げているのだ。「人身御供」とされた子供は、恐ろしさのあまり建屋の中で毛布を頭までかぶって震えているのが常だというのに。
ヒィッ、ヒイイィッ!
シュウオオオウ・・・・・・。
夜汽車は、叫び声のような汽笛を鳴らし、寄るものすべてを遠ざけるかのような熱い蒸気を吐き出して、少年の目の前に停車した。
少年は驚きも恐れも見せずに、それを見ていた。目に見えぬ存在であるはずの夜汽車を見ていた。
だが、夜汽車は少年に対して何も語りかけなかった。語る言葉などないのだ。それに、この作業は夜汽車自身にとっても辛いものなので、そこに余分な感情などを持ち込みたくなかったのだ。
ガ、ゴ、ガ、ガ・・・・・・。
古い跳ね上げ橋が上がるときのような音を立てながら、ごつごつとした機関車の先頭がぱっくりと上下に裂けていった。
そして、灰色オオカミが雪ネズミを喰らうときの様に。
夜汽車は、一息で少年を喰らった。
ゴオンゴオンゴオン・・・・・・。
夜汽車は、再び暗天に向かって上がっていった。「空を駆けるのが自分の仕事だ。子供を喰らうことではない」とでも言わんばかりに、恐ろしい速さで上がっていった。
「そんなに急がなくてもいいのに」
機関車の中で少年の声が響いた。
夜汽車に食われた少年が、機関室の中に立っていた。
磨かれた石炭のような肌に縮れた短い黒髪。間違いない、先ほど喰らった少年だ。
しかし、いつもであれば、喰らったばかりの魂は客車で浄化の順番を待つはずなのだが。
「そうなんだろうけどさ。君が苦しんでいるみたいだから、先を譲ってもらったんだよ」
自分の置かれている状況をどのように理解しているのか、少年はまったく慌てるそぶりもなければ、怖がる様子も見せない。むしろ、混乱をしているのは夜汽車の方で、それに説明をしているのが少年の方だった。
少年は、優しいとさえ言えるような穏やかな目で、自分の周りに積まれている石炭を見回した。それは、天に上がれぬ魂の悲哀や憤怒の結晶だった。
「君も大変だったね」
少年は左手で機関室の煤で汚れた壁をなぞると、轟々と燃え盛る窯の中に、右手で何物かを投げ入れた。それが投入されたとたんに、窯の中の炎は急に大きくなり、青く輝きだした。
少年が投げ入れたそれは、「労り」だった。
オオオウウゥッ・・・・・・。
青い炎が窯の天井を突き刺すように燃え盛り、夜汽車は大きな声を上げた。
「でも、君のお陰で多くの魂が救われた。本当にありがとう」
少年が体の前で両手を合せると、掌の間から白い光が漏れてきた。彼はそれを窯の中へ投げ入れた。キラキラと輝く何物かが、炎の中へ消えていった。そして、それが投入されたとたんに、窯の炎は白色の光を放ち、膨らみ、さらに、溢れた。
少年が投げ入れたそれは、「感謝」だった。
アア、アアッ。アアアアッ!
自身の内部で生じた、これまで感じたことのない熱と光に夜汽車は震えた。彼の体は、これまで「悲しみ」と「憎しみ」を燃やし続けてきた炉は、「労り」と「感謝」の温かさと輝きに耐えられなかった。赤錆に覆われた鋳鉄に次々と亀裂が入った。一直線になって暗天に向かって駆けあがっていた編成は、放り棄てられた綱の様に絡まりあった。雲間から漏れる日の光のように、機関車の肌に生じた亀裂から次々と白光が漏れだした。
そして。
轟音を立てながら、夜汽車は砕けた。
その音は、この地を封じ込めている分厚い雲を、波打たせるほど大きかった。
閃光を発しながら、夜汽車は砕けた。
その光は、前触れもなく中空に生じた稲光のようで、雪で覆われた地上の姿をはっきりと映しすほど、まぶしかった。
崩壊した夜汽車の破片はグルグルと渦を巻き、黒と白が無作為に交じり合った繭の様になった。そして、その繭の頂点にから、ぷつりと小さな明かりが離れると、ゆっくりと天に向かって上っていった。
それは、あの艶やかな黒い肌と縮れた黒髪を持つ少年であった。彼の右手は胸に添えられていて、その中ではかつて夜汽車であった魂が安らかに眠っていた。
ふわりふわりと上がっていくその光が分厚い雲の中に消えると、崩壊した夜汽車とその客車に乗っていた魂が形成する繭から、いくつかの筋が導き出された。その細い筋は何本ずつかがより合わされて、しっかりとした白糸に紡がれていった。ところどころにキラキラと輝く黒点を持つ白糸は、紐状の粘土で像を作るときの様にとぐろを巻き始めた。最後に、夜汽車の破片と客車に乗っていた魂から紡ぎ出された糸は、翼ある天使の像を夜空に作りだした。
ある天使は、剣を持っていた。
ある天使は、天秤を持っていた。
そして、ある天使は、大きな鎌を持っていた。
夜空に浮かんでいた黒と白の繭がすっかりと無くなると、天使たちは音もなく地上へ向けて降下していった。
彼らが向かう先である石造りの町ペカトムでは、住人たちは深い深い眠りについており、それに気が付いた者は一人もいなかった。
なにしろ、今年はいつもの年とは違うのだ。
誰も悲しむ必要がない、安心して眠れる年なのだ。
「ねぇシスター。あの遠く見えるお山の上で輝く光はなあに。わたし、なんだか怖いわ」
「こらこら、子供が寝る時間はとっくに過ぎていますよ。ベッドにお戻りなさい。貴方たちは心配しなくてもいいのですよ。この修道院に居れば大丈夫です。きっと私たちが守って差し上げますからね。そう、何があっても。何をしてでも」
(了)