コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】分類の理由

 

 

 

「いやぁ、本当に楽しみですね、教授」

 長身の若い男は、自席から大きな声で上司に呼び掛けた。もっとも、その声をきっかけに会話が弾むことなどは、端から期待してはいなかった。年の離れた彼の上司は、日頃から小さな声で最低限のことしか発言しない。彼の講義では教室の席が最前列から埋まっていくが、それは講義の内容が魅力あるからではなくて、単に後ろの席に座るとその声が聞こえないからだった。

 返事を求めているのではない。ただ、声に出さずにはいられなかったのだ。まだ30代に見えるその男は、学生の頃に覚えた告白の返事を待つ間の興奮に似たものを、ずいぶんと久しぶりに感じていたのだった。

 研究室の奥には年季の入った大きな机が置かれている。その机上はコンピューター1台分のスペースを残して、乱雑に積み重ねられた本で埋め尽くされている。それらに隠れるようにして、小柄な男が椅子に座っていた。小さな頭にはまだ豊かに髪が残っているものの、その全ては真っ白だった。コンピューターのキーボードを叩く指は、幾つものシミが浮き出した乾いた皮膚で覆われていた。60代にも70代にも見えるその男は、小さな声で呟くように答えた。

「・・・・・・ああ」

 男が返事をすることなど想像もしていなかった若い男は、眺めていたコンピューターの画面から驚いて顔を上げた。「まさか、教授が返事をしてくれるなんて。教授もよほど今日のレポートを楽しみにしているんだな」と、彼は心の中で叫んだ。

 

          ◆◇◇

 

 ここはある国立大学の研究室。郊外に建てられたその大学は広い敷地を有して、各学部の教室、研究棟、講堂などは十分な距離を取って建てられている。もうずいぶん前に授業の最後のコマは終了していて、すっかりと暗くなった構内に残っている学生は、工学部や生化学部で中断のできない実験に取り組んでいる者か、部室で時間を忘れて会話をしていたために終電を逃してしまった者ぐらいだった。

 研究室の天井の明かりが窓に掛けられたブラインドの隙間から漏れて、建屋の周りに植えられているツバキの葉の上に斑な模様を描き出している。一陣の風が吹いて、揺れた枝葉がその模様をかき乱す。その葉がこすれる音が室内にまで聞こえるほど、男たちがいる研究棟は人の気配がなく静かだった。

 教授と呼ばれた年上の男はこの大学で研究の傍ら教鞭を執っていて、その専門は生物博物学だった。そして、長身の若い男は彼の助手であった。

 彼ら二人が夜遅くまで研究室に残り、それぞれの席でコンピューターの画面をのぞき込んでいるのには理由があった。彼らが全精力を上げて取り組んでいた極めて実験的な研究の結果が、間もなく画面上に返ってこようとしているのだ。

 教授が長年研究テーマとしてきたのは「生物多様性の持続」であった。

 これまでにこの地球上には様々な生物種が生まれ、繫栄し、そして、絶滅していった。それはもちろん自然の成り行きの一つではあるが、今日の世界では人類というたった一つの種が世界全体にとてつもなく大きな影響を与えていて、その結果自然の成り行きは大きく乱されている。特定の生物種の絶滅を防ぐために人類が行動するということはそれ自体が自然の成り行きに反することかもしれないが、人類の与えた影響によりその自然の栄枯盛衰が乱れている現状を考えるとそれも必要なこと、と教授は考えていた。

 もちろん、このような考えは以前から学会の中にも存在していて、多くの学者や活動家が絶滅に瀕した動物たちを保護するために尽力している。だが、そのような取り組みの甲斐もなく、毎年多くの生物種が絶滅しているのが現実なのだ。

 そこで教授が新たに取り組んでいる研究が、「絶滅の恐れがある種を絶滅に瀕する前に選定し保護する」というものだった。生息数がわずかになり絶滅に瀕している生物種を保護しようとしても、そこまで当該種に悪い影響を与えた条件を改善しようと取り組んでいる間に、その種が絶滅してしまうことが多い。それは、取り組みを始めた段階で既に当該種の生存力が極めて弱っているからだ。では、まだ十分な生息数が残っている、つまり、生物種に生存力が残っている段階で保護活動を始めればどうだろうか。それであれば、生息環境等の問題を改善する時間もあるだろう。ただ、全ての種に対して保護活動を行うことは現実的ではない。地球全体の気候の変化やその種が生息する地域の環境の変化、さらには、大きな影響力を持つ人類のこれからの活動。これらを総合的に分析して、今は絶滅の恐れはないものの今後その恐れが生じる可能性が高い生物種を選び出すことが、効果的な保護活動を行う上で極めて肝要な点となるのだ。

 多くの学術研究者やコンピューター管理関係者は、「教授の小さな体のどこにそんなエネルギーがあるのか」と驚くこととなった。

 自分の進むべき方向を定めた教授は、学術研究界や産業界、それに、政界にまで、情熱的で積極的な働きかけを行ったのだ。それは研究のために行われる通常の「ロビー活動」を大きく超えたもので、教授がこれまでに培ってきた全てのコネクションに働き掛けるものだった。

 なにしろ、地球規模で未来を予測しなければならないのだ。いや、それだけでは駄目だ。地球規模で未来を予測し、その上でそこで起きる変化が各生物種にどのような影響を与えるのかまで分析をしなければいけない。

 ゼミの学生を総動員して種々のデータを集め、それを事務室のコンピューターに入力し計算を行うか。駄目だ、とてもそのような作業では、データ収集の面でもそれを基にする計算の面でも全く不十分だ。地球の平均気温の上昇という環境変化の一要素の予測だけでも、スーパーコンピューターによる分析が必要なのだ。研究のテーマである生物種絶滅対策モデルを計算させるためには、何台ものスーパーコンピューターが連携しながら自律的にインターネット環境や過去の研究実績から情報を収集・分析する必要がある。

 当然のことながら、その何台ものスーパーコンピューターを利用するためには「金」と「コネ」が必要だ。しかし残念なことにこの二つは、日本の国立大学に最も欠けているものの内の二つだった。

 完全な行き止まりに突き当たったと思われた教授の研究であったが、教授の猛烈な働きかけが天にまで通じたのか、奇跡が起こった。

 日本を代表するスーパーコンピューターにはそれぞれ使用予定がぎっしりと詰まっていたのだが、教授は「なんとか使用させてほしい」と何度も何度も管理機関に嘆願に訪れていた。初めは「他の研究者の迷惑だ」と冷たくあしらっていた管理機関の職員たちも、最後にはその熱意に打たれ、海外で働く同業者に問い合わせをしてくれたのだ。すると、世界の複数のスーパーコンピューターの使用予定に空きが見つかったのだ。それも同じ時期に。これでまず、「コネ」の問題は解決できた。

 それに加えて、数年後に日本が環境サミットの議長国になるというタイミングも良かった。教授の研究を基にした大規模な環境保護政策をサミットで打ち出したいと考えた日本政府が、それぞれのスーパーコンピューターを使用する際の資金を支援してくれることとなったのだ。海外に比べて学術分野への公的支援が少ないと言われる日本で、これは極めて稀なことだった。「金」の問題も、これで解消となった。

 だが、奇跡はこれらだけでは終わらなかった。なんと、日本の企業とアメリカの大学からも協力の申し出があったのだ。メタバースで開催中であったバーチャル万国博覧会で政府がこの取り組みを発表したところ、それぞれの組織が自分たちの研究内容を提供したいと申し出てきたのだ。

 アメリカの大学からは、インターネット環境からコンピューターが自律的に情報を選択・収集し、それを基に自主学習を行うことでさらに効率的な情報収集につなげるという「深層学習」プログラムが提供された。教授の研究に協力することで、彼らの学習プログラムもさらに進歩することが期待できるという訳だった。

 日本の有名な情報関連企業から提供されたのは、集められた情報を単に整理するだけにとどまらず、その内容を精査し、仮説を立て、それを資料と説明という形でユーザーに返す、言わば「論文作成」プログラムのベータ版だった。社内で新製品開発プレゼンテーションの自動作成実験を行ったり、開発者が前もって集めた資料を基に模擬論文を作成したりと言ったテストは行ってきたが、今回行われるようなオープンソースから自動収集した情報を基にして論文の取りまとめを行うという実験をしたことはなかったから、開発会社にとってもこれは絶好の機会になるのだった。

 世界各地に散らばる人々が協力して取り組むことになった今回の研究は、時差の関係でその結果が返ってくるのがこのような遅い時間になってしまったのだが、教授も助手もそのことについてはまったく気にしていなかった。むしろ、「静かな環境で集中してレポートを読むことができる」と、ポジティブに考えていた。

 もうすぐ目にすることのできるレポートへの期待感から、柄にもなく助手への返答を口にしたものの、教授はやはり教授だった。それ以上の言葉は彼の口からは出てこなかった。

 再び静寂によって支配された研究室で、男が二人じっとコンピューターの画面を覗き込むこととなった。間もなく定刻だ。分析の過程では高速演算が必要であるからスーパーコンピューターが用いられるが、一度それがレポートとしてまとめられると、もうその必要はない。画像や動画の資料を含むレポートは情報量が多いため、大学のサーバーに送信・保存されるが、研究室のコンピューターからそれを閲覧することは十分に可能であった。

 定刻まで、残り数分。

「ふうぅ・・・・・・」

 助手は大きく息を吸いこんだ。緊張のせいか、しばし呼吸をすることを忘れていたのだ。

 残り10秒。9、8、7・・・・・・。

 ポン。

 定刻となった瞬間、メール管理ソフトに一通のメールが届いた。大学のサーバー管理ソフトからの自動配信メールだ。

 「件名:【連絡】新規レポートの登録について」

 助手はメールの内容を確認もせずに、大学のサーバーへのショートカットをクリックしようとした。マウスカーソルは震えながら画面上を動き、ショートカートの上で止まった。

 

          ◇◆◇

 

「おお、おおっ、すごいな。ここまでできるのか!」

 サーバーにアクセスしてレポートを読みだした助手の口から、感嘆の声が上がった。

 図らずも、それは人の手を介さずに作られた世界で初めてのレポートとなったが、彼の想像以上に完成度の高いものとなっていたのだ。

 もちろん、そのレポートの構成や文章には、まだまだ改善をしなければいけない点が散見されたが、温暖化や砂漠化などの今後見込まれる地球環境の変化、産業構造や人口の増減などの人類の社会環境の変化、さらには、生物種それぞれの変化への対応力などについて細かな分析がされ、それを基に今後絶滅に瀕する恐れが高い生物種を導き出され、その結果がわかりやすく整理されていた。

 レポートは本文とその資料で構成されていたが、本文だけでもかなりの量があった。決して邪魔の入ることのない深夜の配信となった幸運に感謝しつつ、助手はレポートをゆっくりと読み進めた。

「ああ、そうだよな。しっかりと拾ってくれているな。良かった、良かった」

 彼がそう呟いたのは、「絶滅危惧種」として「シロサイ」が挙げられていたからだった。

 シロサイは密猟等のために絶滅の深刻な危機に瀕している動物として、既に国際的な保護活動が行われている動物である。「まだ絶滅の危機に瀕してはいないが、今後の環境の変化でその恐れがある生物種を把握し、事前に対処する」という今回の研究テーマの対象にはならない。しかし、シロサイのような明らかな「絶滅危惧種」についても、スーパーコンピューターが的確に情報の自主収集・分析を行っているかの指標の一つとして、同時に、保護についての何らかの気づきが得られるかもしれないとして、情報の収集・分析の対象としていたのだ。「レポートからこれが漏れていなかったということは、オープンソースからの情報収集が上手くいったんだな」と、助手は大きく安堵していた。

 「イリオモテヤマネコ」、「ノグチゲラ」、「フィリピンワシ」、「アオキラン」・・・・・・。

 残念なことだが、絶滅の危機にあると考えられている生物種は既に膨大な数に上っている。このレポートでは、本文にはそれらの名称や分類、それに加えて簡単な説明を記すにとどめ、姿かたちや鳴き声、さらには、生息数を減らした理由や保護への意見を別資料としてまとめ、それらを相互にリンクすることで読みやすく整理していた。紙ベースでなくデータベースで活用することを前提とした取り纏めだった。

 生物博物学を研究していると言っても、全ての生物種の声や特徴を知っているわけではない。それらの資料の中には助手が初めて触れるものも多く、リンク先を確認する助手の顔には驚きと喜びが現れていた。

 このレポートには、助手を驚かせた点が他にもあった。それは、単なる情報の整理を超えた、コンピューターが自ら行った分析であった。

 環境の変化はそこに生きる生物種に大きな影響を与える。例えば、ある地域の平均気温が2度上がることになれば、その地域の植物相は大きく変わってしまう。結果として、生息数を減らす植物種も出てくるという考え方が学会では一般的だ。ただ一部には、それは植物種の生息場所が変わるだけで、植物種の生息数には大きな影響を与えないという考え方もあった。つまり先ほどの例だと、ある地域より平均気温が2度低い場所に生息していた種がその地域に移動してきて、そこで生息していた種は適切な気温を求めて生息場所を移動するのだから、植物種の生息数は変わらないはずだ、という考え方だ。

 この考え方に関して、レポートはオープンソースから見つけ出した複数の事例を基にして、明確に否定をしていた。平均気温が上がって植物種が生息場所を移すことはこれまでも見られるが、その際には競合する植物種の中で生息力が高い種だけが生息場所を変えることができ、生息力の弱い植物種はそれができずにそこで途絶えてしまう、「篩かけ」のような現象が見られるというのだ。つまり、生物多様性は生物種が生息場所を移すたびに失われていくと、そのレポートは結論付けていたのだった。

「いやぁ、コンピューターで自動的に論文を作成と聞いたときには、まだそこまでは難しいだろうと思ったんだけど、これは良い方に裏切られたな。これでベータ版なのか。これが完成したら、どれだけ素晴らしい論文を作るんだろうな」

 自分の想像を超えたレポートの出来栄えに、助手は思わず首を振った。研究のパートナーである企業側でも、今頃はこのレポートを受け取っているはずだ。きっと自分たちの開発したプログラムが想定通りに、いや、それ以上に働いていることに、大いに喜んでいることだろう。

 もちろん、本来の目的である「まだ絶滅の危機に瀕してはいないが、今後の環境の変化でその恐れがある生物種を把握すること」についても、レポートは十分な考察を行っていた。今後見込まれる平均気温の上昇、海面の上昇や気流・海流の変化、人類の人口増による熱帯雨林地帯の開発促進、太陽の活動の周期、新たな感染症の発生見込み等様々な要素について情報を収集・整理し、今後想定されるモデルケースを幾つも提示していた。

「うん、すごい。想像以上だ。ただ、な・・・・・・」

 助手は右手を首の後ろに当てて呟いた。

 このような研究を行っているせいだろうか、あまりにも素晴らしい「コンピューターが自動作成した」レポートを目の当たりにして、自分の背中に冷たい水をかけられたような気がしたのだ。それは何故かと自問をしてみると、レポートのある部分の記述が思い出されてきた。

「そう言えば、少し引っかかるところがあったんだよな。ゴリラやチンパンジーのことだろうと流していたんだけど。まさかな。えーと、どこだったっけ」

 助手はレポートを遡り始めた。絶滅危惧種や今後その危機を迎える恐れがある種として膨大な数の生物種が提示されていたが、その中に「おや」と思うところがあったのを思い出したのだった。まずはレポートを一通り読みたいと、その時は流していたのだが・・・・・・。

「ああ、これだ、これだ。ん・・・・・・、なにっ?」

 その記述のところまで戻ってきて読み直した助手は、自分の見間違いかと思った。だが、注意深く見直してみてもそれは間違いではなかった。

 そこには、このように記述されていた。

 

【ヒト】(ホモ・サピエンス・サピエンス、Homo sapiens sapiens

    絶滅危惧種

 

 実のところ、人類の親戚ともいえる霊長目ヒト科に属する生物にもたくさんの絶滅危惧種が存在する。有名なところでは、チンパンジーやゴリラがそうだ。だが、レポートの項目は、人類そのもの、つまり「ヒト」を、絶滅危惧種として挙げていたのだ。

 不思議に思った助手は、その項目にぶら下がっている資料へのリンクの中から一つを適当に選んでみた。それは動画へのリンクだった。

「どうして、どうして、息子が死ななくてはならなかったのか。その理由が知りたいのです。お願いです、力を貸してください」

 リンクの先は、路上で通行人に署名を求めて頭を下げる女性を映した動画だった。

 動画の内容が分かった瞬間に、助手はそれを消していた。彼は胃の中にズシンと重いものが生じたように感じていた。それ以上「ヒト」の項目を読む気にはなれず、彼はレポートの先へと戻って行った。

「やっぱり、そう来るのか。SFの大定番だけど、実際に来てしまうのか」

 そう呟く助手の声は、とても冷めたものだった。

 絶滅危惧種の研究をする者が、必ず自らに問いかけることになる問題。それは「人類こそが、多くの生物を絶滅へ追いやる最大の原因なのではないか」というものだ。そして、研究者の大半はこう結論付ける。「その通りだ」と。

 他の生物種への直接の脅威である「乱獲」や「密猟」、それに、「伐採」だけでなく、人類の生息数が増加し社会経済活動が発展を続けた結果である「温暖化」や「環境汚染」は、多くの生物種を絶滅、あるいは、絶滅の危機に追いやっている。それは、まぎれもなく事実であり、そのことを考えると学者たちの心は深く沈まずにはいられない。

 教授や助手のように、だからこそ人類が生物種の保護に立ち上がらなければいけないと考える者がいるということも事実であるが、多くのSF小説や映画ではこのような場面ではコンピューターがある判断を下すことになっている。それは、「人類は地球を滅ぼそうとしている。だから、地球を守るために彼らを滅ぼさなければいけない」という決断だ。

 流石にこのレポートでそのような決断がなされているとは助手も考えてはいなかったが、他の生物種の項目の内容を読んでいれば大体の想像はできた。

「温暖化や環境汚染はそれを引き起こした人類にも悪影響を与え、現在でこそ生息数を増やしてはいるもののいずれ絶滅の危機が訪れる、というのだろう。いや、ひょっとすると、大規模な核戦争を引き起こして絶滅する恐れを指摘しているのかもしれない。あの悲しい動画もその資料の一つなのかもしれないな」

 ずらりと並んだ絶滅危惧種とそれに至る恐れのある生物種の一覧をスクロールしていきながら、助手は自分の考えの中にどんどんと潜っていった。

「ああ、確かにこれだけの数の生物種を絶滅に追いやっているのだからな、俺たち人類の罪が重いのは間違いないさ。だけど、このレポートが人類の自滅について指摘していると考えるのは、ちょっとおかしいかもしれないな。人類が絶滅するほどの環境の変化や、それこそ地球規模の核戦争を考慮に入れて考えるなら、これから絶滅の危機が生じる恐れのある生物種がこれだけに留まるはずがない。と言うか、地球上の全生物種が対象になってしまうんじゃないか」

 助手が疑問を持ちながらもさらにレポートの先を読み進めようとしたその時、小さな声が彼の耳に届いた。

「・・・・・・くん、・・・・・・君、佐伯君」

「は、はいっ、教授! なんでしょうかっ」

 佐伯と呼ばれた助手は、椅子から腰を浮かせ大声で返事をした。彼はひどく驚いていた。何故なら、教授から名前を呼ばれたことなど、これまで一度もなかったからだ。教授が彼を呼ぶときはいつも「きみ」だったのだ。その教授が名前を呼ぶなんて、何があったというのだろうか。

「佐伯君、レポート、読んだかね」

「はい、読んでいます。まだ途中ですが」

「ヒト、読んだかね」

 教授の問いかけに佐伯の表情が曇った。やはり教授もあの項目を面白く思っていないのだろう。それは仕方がないことかもしれない。情熱をもって生物多様性の保全のために活動をしているのに、血の通わないコンピューターに人類の行った悪行を突き付けられ、絶滅の危機を宣告されてしまったのだから。

「すみません、いつものネガティブなものだと思って、読むのを後回しにしていました」

「そうか。佐伯君、読んでくれたまえ」

 最低限の言葉で自分の言いたいことを伝え終えると、立ち上がって話をしていた教授は再び椅子に腰を下ろした。小柄な彼の姿は、本の山とコンピューターのディスプレイに隠れてしまい、佐伯の所からは見えなくなってしまった。

「教授が途中で指示を出すなんて珍しいな。ああ、仕方がない、気は進まないがヒトの項目を先に読むか」

 佐伯は再び「ヒト」の項目にまで本文を遡った。

 

【ヒト】(ホモ・サピエンス・サピエンス、Homo sapiens sapiens

    絶滅危惧種

 

 本文や分類理由を読むのはやはり気が重いので、佐伯はリンクされている資料を次々と開けて行った。

 ある資料では、人々が漫才を見ながら笑い転げていた

 ある資料では、ネット配信サービスに登録されている音楽や映画の膨大な数が集計されていた。

 ある資料では、一つのテーマに対して複数の人間が小説などの創作物を持ち寄るサークル活動が紹介されていた。その作品はどれもが全く異なっていた。

 ある資料では、世界各地で古くから言い伝えられている月の模様の見立て方の違いがまとめられていた。

 また、ある資料では、女性が自分の子供の死の理由が知りたいから協力してくれと、道行く人に頭を下げていた。

 さらに、別の資料では・・・・・・。

「な、なんだ、これはっ。何の資料なんだ?」

 佐伯は当惑の色を隠せなかった。

 彼が想像していたものとレポートが資料として添付していたものは、全く異なっていたのだ。佐伯が考えていたものは、「ドロドロとした廃液が海に流れ出している」資料であったり、「核兵器の爆発により立ち上がるキノコ雲」であったり、「部族同士の争いが絶えない地域で見られる極度に栄養状態が悪い子供の姿」だったのだ。それがどうして、このような資料が添付されているのだ。このレポートは、人類を絶滅危惧種と分類しているのではなかったのか。

 佐伯は急いで本文に戻り分類の理由のリンク先へと飛ぶと、画面に食い入るようにしてそれを読んだ。

「あ、ああ・・・・・・」

 コンピューターの画面が放つ光を、佐伯の瞳がきらりと反射した。

「教授っ! いえ、岸教授!」

 ガタンッ、と大きな音を立てて椅子を後ろへ弾きながら、佐伯は立ち上がっていた。

 彼の前では、コンピューターの画面が、分類の理由の表示を続けていた。

 

          ◇◇◆

 

 これらの資料から、ヒトは特別な存在であると考える。

 全ての生物種の中で「笑う」のはヒトだけだと言われるが、彼らはそれだけにはとどまらない。ヒトは「笑い」を作り出すことができる。それは無から有を生み出す作業であり、この世界上で行い得る作業ではない。「笑い」は、彼らの「意識」という無限の広がりがあるもう一つの世界上で、実際には起きていないことを「想像」することで「創造」されるものなのだ。このようなもう一つの世界を持つ生物種は、ヒトの他には存在しない。

 さらにヒトの特徴として挙げられるのは、その「意識」という無限の空間をそれぞれの個体が持っているということだ。同じテーマで小説を書いたとしても、書くヒトが異なればその作品は全く異なる。月の模様という同じものを見ても、それをカニのように見るヒトもいれば、ウサギのように捉えるヒトもいる。そのため、ヒトが生み出す音楽や映画などの創作物の数には限りがなく、新しい解釈や想像が常に生み出されている。

 ヒトは個体の死に意味を求める。知能の高い生物種の中には仲間の死に悲しみを表す種もある。しかし、そこに「意味」を求めるのはヒトだけだ。ヒトの個体差は、他の生物種に見られる個体差とは全く異なる。あるヒトは「ヒト」という生物種の一個体ではなく、唯一無二の「ヒト」であるのだ。それが失われた時には他の何物でも補うことはできない。だからこそ、それが失われたときにヒトは意味を求める。「意識」によって個体が差別化されるヒトの損失を埋めることができるのは、他のヒトという物質ではないのだ。「意味」という非物質なのだ。

 これらのことから、ヒトは「絶滅危惧種」であると結論付ける。それはヒトという種が絶滅に瀕している、あるいは、近々それに瀕する恐れがあるということではない。ヒトは、その個体それぞれが一つの種と考えられるからだ。それほど、ヒトの一個体は他のヒト一個体とは異なっている。しかし、彼らヒトの個体は必ず死を迎える。すなわち、ヒトは全て絶滅に瀕していると言えるのだ。

 本来このレポートでは生物種の単位で判断をすることとされている。しかし、ヒトという特別な存在に敬意を表し、このように結論付けるのだ。

 

                                  (了)