(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
※これまでの物語は、「月の砂漠のかぐや姫」のタブでご覧になれますし、下記リンク先でもまとめて読むことができます。
【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。幼名は「羽」(う)。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わっ
て、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【王柔】(おうじゅう) 王花の盗賊団の一人。交易隊の案内人。
【理亜】(りあ) 王柔が案内をしていた交易隊が連れていた奴隷の少女。
【第252話】
地下世界の床土で汚れた王柔の顔は、柔らかな表情をしていました。その顔を見た羽磋はサッと手を引きました。
王柔は自分に色々と判断を任せてくれているのですが、そもそも王柔の方が年長者なのです。それに、ここは地下世界という常識とはかけ離れた世界ではありますが、ヤルダンの地下に広がっている世界です。荒れ果てたヤルダンで交易隊の先導をすることが王柔の仕事でしたから、王柔のヤルダンに関する知識はゴビで遊牧をした経験しかない自分とは比べ物にならないはずです。心身共に疲れ切ったこの状況ですから、乱暴に自分の手を払いのけて大声で怒鳴りつけても良いところを、王柔は穏やかな調子を崩さずに話してくれています。こんなことに時間を割かずに少しでも早く理亜の所に行きたいと思っているだろうにです。
羽磋は自分の行動を調子に乗った恥ずかしいものだったと思いました。
「すみません、王柔殿。差し出がましいことを申しました。王柔殿の方がこのようなところを歩くのにずっと慣れていらっしゃるし、そもそも年長の方なのに。大変失礼をいたしました」
「いえいえ、そんな。謝られることなどは全くないです。僕は身体が完全に動かなくなる前に水を飲んだ方がいいと、単に経験からお話しただけですよ。さぁ、理亜のことも気になります。羽磋殿もまだ水を残してますよね。ここでそれを飲んで、早く理亜のところへ行きましょう」
深々と頭を下げる羽磋を見て、王柔の方が戸惑ってしまいました。彼にとっては、年下の羽磋が自分を引っ張ってくれていることに感謝こそすれ不快に思うことなどはありませんし、水のことも自分のことを心配して言ってくれていることがわかっていましたから、怒る理由はなかったからでした。
「羽磋殿は本当にまじめな方だな」
王柔はしみじみとそう思わずにいられなかったのですが、それ以上に考えを進めることはありませんでした。羽磋がここで最後の水を飲むことに賛成してくれれば、それで十分なのです。少しでも早く理亜の所へ行ってあげたいのですから。
王柔は水袋の口を右手で持つと、力なくだらりと下がった袋の部分を左手でつまんで上へ伸ばしました。水袋はほとんど空になってしまっていたので、そうしないと僅かに残った水が袋から出てこなかったのでした。
王柔の口がずいぶんと久しぶりに水を含みました。グイっと一息に飲み込みたいところですが、王柔はそれを我慢して口の中全体に貴重な水を行き巡らせました。乾燥して歯に貼り付くようになっていた頬の内側が、直ぐに柔らかさを取り戻しました。口の奥に刺すような痛みが生じていたのですが、まだ水を飲み込む前からその痛みは消えてしまいました。
それは、オアシスで湧き出る新鮮な水でもなければ、岩の間から漏れ出る冷たい雪解け水でもありません。でも、王柔はこれほど甘くて美味しい水を舌の上に乗せたことは無いと、確信しました。
口の中が潤いを取り戻したところで、王柔はゆっくりと水を飲み込みました。もちろん、一度に飲み込むなんて、そんなもったいないことはしません。
ゴクン・・・・・・、ゴクン・・・・・・、ゴクン・・・・・・。
少しずつ、少しずつ。
自分が飲み込んだ水が喉を通り胃に落ちていく様を、王柔ははっきりと感じ取ることができました。まるで強いお酒であるアルヒを飲んだかのように、空っぽの胃がガッと熱くなりました。そこで生まれた熱が力となり、じわじわと手や足の先の方に伝わっていく様子も、しっかりと感じられました。王柔が飲み込んだ水の量はほんの数口で、とても十分な量とは言えないものでしたが、彼の身体は、手は、足は、水分が補給されたことをしっかりと感じ取り、ブルブルっと震えました。
「ああ、もっと飲みたい。いや、少しでも良いんだ。あと、ほんの少しでも・・・・・・」
王柔は体全体からの強い求めのままに、袋を持っている左手をさらに上げました。でも、それで水袋の口から彼の口の中に落ちてきた水は、ほんの数滴だけでした。
王柔がその最後の数滴でじっくりと口の中を湿らせながら羽磋の方を見ると、彼も自分と同じように水袋を顔の上に持ち上げて、少しの水も残すまいとしていました。
ふと、王柔と羽磋の目が合いました。二人は何も言わないまま、頷き合いました。
もうこれで、水は無くなってしまいました。でも、これがいまできる最善のことだと、二人の考えは一致していたのでした。
二人は水袋を持ち歩いていた皮袋の中に戻すと、手足を軽く振りました。痺れのようなものは感じられませんでした。ゆっくりと立ち上がりました。ふらつきは感じられませんでした。完全に消耗し切ってからではなく、身体が限界を訴え始めたいま最後の水を飲もうという王柔の考えが功を奏したのでしょうか。口にできたのはほんの僅かな量の水でしたが、どうやらそれが、彼らの身体を再び動くようにしてくれたようでした。