(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
※これまでの物語は、「月の砂漠のかぐや姫」のタブでご覧になれますし、下記リンク先でもまとめて読むことができます。
【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。幼名は「羽」(う)。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わっ
て、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【王柔】(おうじゅう) 王花の盗賊団の一人。交易隊の案内人。
【理亜】(りあ) 王柔が案内をしていた交易隊が連れていた奴隷の少女。
【第347話】
「まずいな、どんどん酷くなってきやがるっ」
冒頓が忌々し気に漏らしたとおり、地面の揺れも割れ目からの水の吹き出しも、どんどんと激しさを増していきます。
広場の地面には亀裂が幾つもあるのですが、そこに水が流れ込んで行くのではなく、逆にそこから大量の水が噴き出してきているので、いまや広場のかなりの部分が水面の下に沈みつつあります。このままでは、ほどなくしてこの広場は大きな池に変わってしまうでしょう。
それだけでも大変な事なのですが、羽磋が話していたあることが、冒頓の心に引っかかりました。彼には、さらなる危険が迫っていることが、感じられたのでした。
「羽磋は、この地面の下に大きな空洞があるって言ってたな。おいおい、こんなにたくさんの水が重しになってしまっても、大丈夫なのかよ・・・・・・。チィッ、仕方ねぇ。ここの底が抜けてしまっちゃ、それこそお終いだ。おいっ、みんな、撤収だ! 急いでここから出るぞっ!」
遊牧民族「匈奴」の出身である冒頓にも、幼い頃に水汲みをした経験があります。乾燥したゴビで生活をするには、オアシスや川などで桶や鉢に水を汲み、それを生活の場まで運ぶ作業が必要になりますが、その水の重いことと言ったら・・・・・・。いまの冒頓から想像するのは難しいのですが、子供の頃の彼は半べそをかきながら水を満たした桶を運んでいました。遊牧民族の子供たちが水汲みの仕事に駆り出されるのは、まだ馬に乗るには身体が小さいので遊牧の仕事に当たれないということもあるのですが、そうやって水の大切さを体で覚えるということもあるのでした。
もちろん、この広場にいる男たちはそのような経験をしてきているので、みな水の重さを良く知っています。ですから、冒頓がどうして急にここから出るように指示を出したかについて、すぐに考えが追いつきました。
理亜が激しく泣き出したので話は途中で打ち切られましたが、羽磋はなんと言っていたでしょうか。「自分たちが落ちた川の流れはこのヤルダンの地下に繋がっていた。そこには、雲のようなものが浮かぶほどの大きな空間が広がっていた」と、言って無かったでしょうか。
男たちはサッと足元へ視線を落としました。薄暗くなってきたために赤黒く見えるゴビの大地は、いまだに不規則に揺れ続けています。この下に大きな空洞があるとしたら・・・・・・。
しっかりと自分たちの身体を受け止めてくれているこの地面ですが、羽磋の話からすると、ひょっとしたら卵の殻のように薄っぺらいものなのかもしれません。しかも、この広場には、ひび割れのような裂け目がいくつも口を開けています。そこから、どんどんと水が噴き出してきて広場に溜まってきているのですが、当然その水の重さが地面に加わっていくことになります。
「うわっ」
最も年若い隊員である苑は、自分が想像してしまった光景の凄まじさに、思わず小さな声を上げてしまいました。
このまま水かさが増していったら。そう、そうなれば、限界を超えたある時点で、まるで木桶の底が抜けるかのように、この広場の地面は一気に壊れてしまい、この場にいる全員が溜まっていた水と一緒に地下の大空間へ落ちていくことでしょう。
「あぶねぇから馬には乗るな! 手綱を引いて、できるだけ早くここから出るんだ! おい、羽磋っ。お前は嬢ちゃんを連れて行けっ」
矢継ぎ早に、冒頓は部下と羽磋に指示を出しました。時間がありません。いつ広場の底が抜けるのかわからないのです。
とっさに苑は羽磋の方を見ました。羽磋が冒頓の護衛隊と一緒に行動していた間に、苑はすっかり彼と仲良くなっていました。一度は死んでしまったかと思った羽磋とこうして再会できたのですから、苑は絶対に彼と一緒にここから帰ろうと、ずっと声を掛ける機会をうかがっていたのでした。
でも、羽磋はもっとも高い水しぶきを上げている割れ目の近くにいて、理亜の方を気に掛けています。それに、自分と彼との間には、もうぬかるみとは言えないほどに大量に水が溜まった箇所があって、すぐには行けません。苑はギュッと唇をかむと自分の馬に向き直り、怯えた様子を見せる愛馬をなだめながら、広場の出口へと向かいました。
冒頓の緊迫した声は、羽磋にも届きました。もちろん、冒頓が言わんとすることは、羽磋にもわかります。羽磋は大きな割れ目の間近で、それが高々と吹き上げる水柱に目を奪われている理亜の元へ急ぎました。
最も多くの水が噴き出されているこの割れ目の周囲は、もうほとんどの箇所が水の底に沈んでおり、赤土が顔を出している箇所も酷いぬかるみになっていました。実際に羽磋が歩いた距離は僅かなものでしたが、彼が理亜の傍に来た時には、膝の下まですっかり泥まみれになっていました。
「理亜っ、ここは危ないっ。行くよっ!」
理亜に話しかける時には優しい声を出すように心がけていた羽磋も、流石にこの状況では余裕がありません。
噴出する水が立てる音に負けないように大きな声で呼びかけるのと同時に、地面に付いていた理亜の手を取りました。
羽磋も、そして、理亜も、頭上から落ちてくる水のために、体中はもうびしょ濡れです。羽磋が触れた理亜の手もすっかり冷たくなっていました。