「それにですよ、カインが殺されないようにするためには、額に傷をつけて印とする必要なんてないじゃないですか。だって神様なんですから。カインが殺されないようにと、その力を使えば良いだけだと思うんです」
「うんうん、確かに。でもさ、さくら、神様だからって、それを言っちゃぁお終いなんじゃないの?」
深く頷いて同意をしながら、突っ込みも忘れない七海。それは、敬虔なキリスト教徒かも知れないサラの前で、聖書に書かれていることを強く否定するような雰囲気にならないような気遣いでもある。真面目で細かな矛盾などが気になるさくらと、おおらかだけど他人に気を回せる七海は、本当に良い組み合わせだ。
七海の気遣いが通じたのか、サラはさくらの質問にも特に気分を害した様子はなかった。むしろ、「やっぱり、そう思う?」というような表情をしていた。
「アダムとイヴはかみがつくったトクベツなひとで、そのこどもたちはユダヤのヒト。そのほかにもふつうのヒトがいたのだ、というはなしもあります。あたしがグランマからきいたのは、セイショはヒトのためにかみさまのおしえをかいているけど、せかいのゼンブのことをかいているのでナイです」
「そうですね、確かに世界で起きる出来事の全てを聖書に書くわけにはいかないですものね。教えに繋がる出来事を選んで書く、というようになっているのかもですね」
さくらとしても、ここで聖書の記述についてのあら捜しをするつもりなどない。気になった疑問が口から出てしまっただけだから、サラの説明をそのまま受け止めていた。
「それに、かみさまがカインにしたバツはツイホウだけでなくて、シルシをつけたのもバツだったともいわれています。カインのしるしをみたヒトはみんな、このひとがアベルをころしたひとダッテわかりますから、カインはずっとそれをわすれることできまセン」
「それは・・・・・・。ひょっとしたら、追放先で殺されてしまうよりも、カインはもっと苦しんだのかもしれないですね」
さくらの言葉に対して、その横に座る七海も「そうだよねー」と小さな声を出していた。自分の犯した罪から一生逃げることができないカイン。彼には心を休める時間は訪れなかったのだろうか。それって・・・・・・、辛いよね。
カインとアベルの心情やカインがその後どうなったのかも気になるが、あたしにはその他にも気になったことがあった。このカインとアベルの話のどこが七海の田舎に伝わる話と似ているのか、ということだ。聖書に載っている話と日本の田舎に伝わる話に、何か繋がりでもあるというのだろうか。
うん? いや、サラは言っていたっけ。「ササゲモノ」をするところが似ているって。
すると、どんなお話なんだろう。神様にササゲモノをする、日本の田舎に古くから伝わるお話とは・・・・・・。
「えーと、じゃあ、あたしのお母さん方の田舎に伝わってるお話をするね。サラはさくらからちょっと聞いてくれてるみたいだから、あたしは覚えてることをできるだけ詳しく話すね。長くなるかもだから、お茶でも飲みながら聴いてくれたら嬉しいな」
あたしの、いや、みんなの視線を集める七海。彼女はアイスコーヒーで軽く唇を湿らせてから、ゆっくりとした調子で話し始めた。
「それは、昔々の事でした・・・・・・」
七海の話に耳を傾けるうちに、テレビの時代劇でしか見たことの無いような遠い昔の農村の景色が、あたしの視界一杯に広がっていった。そして、あたしはその世界の中に溶け込んでいったのだった・・・・・・。
ザアア・・・・・・。
ザ、ザワワ・・・・・・。
ザア、ザザアァ・・・・・・。
村の中でもっとも大きく、しっかりとした造りの屋敷。村長の屋敷だ。その分厚い茅葺き屋根を、雨が叩き続けている。
屋敷中の雨戸はしっかりと閉ざされ、昼間というのに座敷の中は薄暗い。囲炉裏で揺れる小さな炎しか、明かりをもたらすものが無いのだ。
座敷には、村の男衆が集まっていた。
囲炉裏の炎が揺らぐたび、その光が照らし出す男は変わる。だが、どの男の顔を取って見ても、そこに浮かんでいる表情はひどく重苦しいものだった。
それはそうだろう。いまこの村は、深刻な危機に瀕しているのだから。
雨の日が続いている。いまは梅雨だから、ある程度雨が降り続くのは仕方がない。いや、むしろこの時期に降ってもらわないと、夏になってから困ると言っても良い。だが、それにも限度があると言うものだ。この雨は、強弱の変化は見せるものの、もう八日も降り続いているのだから、明らかにそれを超えている。
この村が位置しているのは、高山と高山の間から流れ出た川が水量を増して太くなり、ちょうど二つに分かれるところだ。本流と支流に挟まれたこの場所には、川が長い時を掛けて山から運んできた滋養に満ちた土が堆積していたから、村は作物に恵まれ大いに栄えていた。
ただ、川は恵みだけを与えてくれるわけではなかった。これまでにこの村は、数十年に一度ぐらいの頻度で、大きな水害に襲われていたのだ。
川の中州に位置するこの村は、その土地ができた経緯から考えてもわかるように、長雨や台風のために川の水が溢れるようなことがあれば、極めて深刻な被害を受けるのだった。