もちろん、たくさんの年貢米を治めてくれるこの村が壊滅してしまっては、ここら一帯を治めている領主も困るのだから、堤を作ったり放水地をこさえたりと、歴代の領主も治水に力を注いできてはいた。
だが、それらの対策は領地内の百姓を集めて行った小規模なものに過ぎなかった。重機も何もない時代の事だ。用いることのできる労力は人の手や精々牛や馬に限られていた。川の流れを変えたりダムを作ったりするような根本的な対策などできる訳がない。そのため、例年にないほど雨の日が続いた場合や分厚い雨雲を伴った台風に襲われた場合には、それらでは耐えきることができなかった。
切れた堤から川の水が次々と溢れ、放水地は瞬く間に一杯となってしまう。その次に濁流が向かうのは田畑、そして、家々だ。水を引くときのことを考えて低地に作られている田畑は、次々と川の底に沈んで行く。村の家々は木の柱に土壁、そして、茅葺き屋根というものばかりだったから、茶色く濁った水が押し寄せると、何の抵抗もできないままに砕かれ、あるいは、押し流されてしまう。天候が回復して幾日か経ち、ようやく水が引いた後に現れるのは、そこに村があったとはとても思えないほど、一面に泥が分厚く堆積したのっぺらぼうの平地なのだ。
村にとっての川は、恵みをもたらす神様でもあり、災厄をもたらす荒神でもあった。
そして、いま・・・・・・。降り続く雨。もう八日間も降り続いている長雨。
その影響は、村の両側を流れる川にはっきりと現れてきている。
水量が少なく、いつもなら子供でも歩いて渡ることができる東川は、同じ川とは思えないほどの激しい流れになっている。たとえ大人であっても、いまの東川に足を踏み入れたら、そのまま流れに攫われてしまいそうだ。
反対側を流れる西川は、雲が空を渡っていくようにゆったりと流れる本流と広い河原を持っているのだが、水量が増えるに従って河原は姿を消していき、いまでは堤の縁にまで濁流が迫っていた。重苦しい水の塊が上流からどんどんと降ってきていて、この堤は持ち堪えることができるのだろうかと、多くの村人が不安に思っていた。
ザアアア・・・・・・。
ダン、ザアン。ザアン・・・・・・。
囲炉裏を囲む男衆は、焦りと心配とがはっきりと浮かんだ顔を下に向けたままで、誰も言葉を発しなかった。雨戸の隙間を通じて、雨音が座敷の中に入り込んでいた。
誰もが疲れ切っていた。だが、座敷はピンと張りつめた空気で満たされていた。自分や家族の命、それに、先祖代々受け継いできた田畑を、なんとかして守らねばならないのだ。捨て鉢になるわけにはいかないのだ。それに・・・・・・。
ド、ドンッ!
突然、雨戸の一つが大きな音を立てた。風が雨戸を叩いているのではない。それは明らかに、人が雨戸を強く叩いている音だった。
「来た! 帰って来た!」
雨戸の一番近くにいた男は跳ね起きると、急いで戸のつっかい棒を外した。
戸が動くようになるが早いか、それを打ち壊すような勢いで開いて、男が転がり込んできた。
男の全身はずぶずぶに濡れていて、特にその下半身は跳ね上がった泥でひどく汚れている。だが、男は座敷を汚してしまうことなど全く気に留めていない。一刻も早く告げないといけないことがあるからだ。
「駄目じゃ! 東川にかかっとった橋は、みんな流されてしもうた!」
駄目か・・・・・・と、男衆は肩を落とす。川幅の広い西川には元から橋などかかっておらず、この雨による増水の中では渡し舟を出すことなどもできない。唯一村民を避難させる方法は東川にかかる橋を渡る事だけだったが、その手段も無くなったと言うことだ。
「それに・・・・・・」
「それに、どうしたっ」
「早く言えい、早くっ」
「ああ、北の堤ももう限界じゃ。あともう少し水かさが上がれば溢れるじゃろう。それに、山から流されてきたんじゃろう。たくさんの倒木が流れ着いとる。東川の橋も木の幹や枝が引っかかったけぇ、流されてしもうたんじゃ」
北の堤は上流からの川の流れがこの土地にぶつかり、西の本流と東の支流に分かれる部分に設けられている。それが切れることなどがあれば、増水で勢いづいた川の流れを堰き止めるものが無くなってしまう。男衆の脳裏には、東川と西川との区別も無くなって、見渡す限り大きな川の流れが広がる光景が浮かび上がった。村は? もちろん、その濁った水の底だ。
「長、もうワシらには無理じゃ!」
「そうじゃ! 神様におすがりするしかねぇ。川神様は荒神様に変わられたけぇ、荒神様にお頼みするんじゃ!」
村の外周の様子についての報告を、座敷の男衆はジッと待ち続けていたのだ。だが、ようやくもたらされたそれは、村が存続の危機に瀕していることを再確認させるものだった。「自分たちにできることは、もうない」と考えた男たちは次々と立ち上がり、「最後の手段」を取るようにと大声を上げた。座敷に座ったままの男たちの間からも、「そうじゃ! そうじゃ!」と同意の声が上がった。
座敷の上座には、この家の主で村の長を務めている男が、目を閉じて腕組みをしながら座っていた。
これまでの長雨で、川の水位は堤の最上部にまで達している。東川の橋は流されてしまい、村人を逃がすこともできない。もちろん、外からの助けが来ることもない。雲の動きを見ても、雨が止む様子は見え無い。倒木がたくさん流れつくのは、山津波が起きる前触れだという言い伝えもある・・・・・・。
村長は、カッと目を開いた。決断を下したのだ。
「わかった。荒神様にお頼みしよう」