コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短期集中連載⑦】エデンの東の果ての地で ~ココロにパフュームをⅤ

 

 

 慌ててうめは壁に取り付いた。頑丈には作られているが丁寧には作られていない小屋だから、壁材として使われている分厚い木板の間には、たくさんの隙間ができている。そのうちの一つから、外の様子を確かめようとしたのだ。

 ギュッと壁板に顔を押し当てたうめの目に飛び込んできたのは、水しぶきがザバアッとそこら一面に飛び散る様子だった。見たこともないほど激しい流れとなっている川の水が、小屋のすぐ目の前にある堤にぶつかって、白い泡を撒き散らしながら砕けているのだった。「ウシャアッ」とも「グバッ」とも聞こえる水音は、濁流に打たれる堤があげる悲鳴のように聞こえた。

 「ああ、自分は川のすぐ近くにおるのじゃな」とうめが認識したとたん、ザザン、ザザアと言う雨音も、耳につき出した。小屋の周りの地面に視線を落とせば、自分は川の傍ではなくその中にいるのではないかと錯覚するぐらいに、水が溜まってきていた。

「うう・・・・・・」

 言葉にならない言葉が、うめの口から洩れた。それは、彼女が生まれて初めて感じるひりつくような恐怖が、形となって飛び出したものだった。そしてその恐怖は、うめの心の中で急速に大きくなり、現実的なものへと姿を変えていった。

 

 

 あんなにも強い川の流れが堤にぶつかり続ければ、やがてそれは壊れてしまうんじゃなかろうか。それに、いまも雨は降り続いているから、堤がなんとか持ち堪えたとしても、その上を超えて川の水が溢れてしまうかもしれない。

 そうなれば、川のすぐそばに作られているこの小屋は、どうなってしまうだろう。粉々に砕かれて、水流と一緒に一気に川下へ流されてしまうんだろうか。もちろん、うちも一緒に。いや、いくら叩いてもビクともしないほど頑丈に作ってあるから、案外大丈夫かも知れない。でも、その場合は、うちはこの小屋ごと川の底に沈むことになる。

 うちの足元ぐらいだった水面の位置が、どんどんとあがってくる。膝の位置まで、腰の位置まで、腹の位置まで・・・・・・。うちは少しでも上にあがろうと、壁板の隙間に指をねじ込んで這い上がる。水かさが増えていくのに合わせて、身体ごと上へ上へと逃げる。ゴツンと頭が天井にぶつかる。もうこれ以上は、上へ逃げられないのだ。でも、水かさが増える勢いはまったく衰えない。冷たい水が、胸元から首元へ、顎へ、頬へ・・・・・・。

 うちは顔を上に向けて、僅かに残った空気を・・・・・・。いや、そこも水に沈む。口を閉じ必死に呼吸を抑えようとするうち。く、苦しい・・・・・・。息が、苦しい。胸が膨らんで、痛い。頬がパンパンに膨らむ。吐きたい、息を、吐きたい。だけど、そんなことをしたら。だけど・・・・・・。

 グ、ウウ、グバァッ。

 とうとう我慢できなくなったうちは、胸いっぱいに溜まっていた息を水の中に吐き出してしまう。だけど、その代わりに胸の中に入って来たのは、空気ではなくて冷たい水だった・・・・・・。

 グボッ、グボヌ、ゴホッ・・・・・・。・・・・・・コポン・・・・・・。

 うちの胸の中に水が入って来る。苦しいっ。でも、止められない、止められない! それは、あっというまに奥の奥にまで到達して、最後まで残っていた小さな息を外へと押し出す・・・・・・。

 

 

 いつの間にかうめは、背を壁につけ手足を放り出した格好で地面に腰を下ろしていた。下半身のほとんどが泥水に浸かってしまっているが、もはやそれも気にならなくなっていた。想像の中で一度おぼれ死んだうめは、はっきりとした意識を保つことができなくなっていたのだった。

「うちは、うちは、荒神様への捧げもんにされてしもうたんじゃ・・・・・・」

 誰に語るわけでもなく、ただ事実を確認するかの口調で、うめはポツンと呟いた。

 大人たちが秘め事としていることであっても、案外と子供は聡く、それを断片的にではあったとしても知っているものだ。

 この村は川の恩恵を受けて栄えているが、万が一その川が溢れそうになったとき、つまり、日頃から奉っている川の神様が荒ぶってしまわれたときには、若い娘子を捧げてそれを鎮めるのだと、遠い昔からの言い伝えがあった。それは村長と男衆しか知らないはずの事であったが、実際の所は、娘子たちの間にも広まっていたのだった。

 以前にそれを行ったことがあるのか、捧げものになった娘はどうなるのか等の細かなことは、娘たちにはわからない。もちろん、それを大人に尋ねることもできないから、娘たちが未知という紙に不安という筆で描くしかなかった想像図は、ひたすらに恐ろしくて救いの無いものになっていた。

 うめは、ぼんやりと天井を見つめていた。

 もう駄目だ。死ぬのだ。

 そうだ、きっと死ぬのだ。荒ぶってしまわれた川神様に、命を捧げるのだ。

 背中には、堤にぶつかった川の水が上げるドオンドオンという音が、途切れることなく伝わって来る。

 どれくらい水に浸かっているのか、もう時間の感覚がない。下半身はすっかり冷たくなって痺れてしまった。ちょっと前の水かさはどれぐらいだったろうか。いまは放り出した足がすっかり浸るぐらいだが、増えてきているのだろうか。それとも、まだあまり変わってはいないのだろうか。

 小屋の中にも雨が滴り落ちている。地面に水が溜まるようになってから、それが立てる水音があちこちで生じて五月蠅いぐらいだ。

 ああ、ああ・・・・・・。

 焦点の合わない目を天井に向けたうめの額に、そのうちの一つが落ちて、ピタンッと音を立てた。

「うわああっ!」

 額を打った雨垂れが何かのきっかけとなったのか、大きな叫び声をあげてうめは立ちあがった。

「死にとうない、死にとうないっ! 怖い、怖いよぉ。うわあああ、うわああんっ・・・・・・」

 涙をボロボロとこぼしながら叫ぶことで、少しでも恐怖を外へ吐き出そうとする。そうしないと、それで胸が詰まってしまって、息ができないのだ。