コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短期集中連載⑧】エデンの東の果ての地で ~ココロにパフュームをⅤ

 

 

 立ちあがったままうめは、壁の方に振り向いた。もう両手を振り上げるほどの力も無ければ気力もない彼女は、ガツン、ガチンと、額をそれにぶつけ始めた。

「怖い、怖い・・・・・・。うう、助けて、お願いじゃあ。お父、お母・・・・・・。ああ、ううああ・・・・・・」

 ゴチンッ、ガツンッ。

「うう、うち、良い子になるから、なんでもするからぁ。いじめもせん、働くっ」

 ガツッ、ガツッ、ガツンッ。

「怖いよ、お母あ・・・・・・。助けてぇ・・・・・・。お父う・・・・・・、お願いじゃぁ、ごめんじゃぁ・・・・・・」

ガン、ガン、ガンッ。ガチンッ。

「うああああっ、怖いよう、ああああっ、うあああ、ああああ、姉さ、助けてよう・・・・・・」

 ガガアンッ。

 思い切り額を打ちつけたうめ。雨粒と涙でグシャグシャに濡れた彼女の顔に、新たに赤い筋が生まれる。額に生じた深い傷から、血が流れ出ているのだった。

 消える直前の僅かな間だけ、ロウソクの炎は明かりを増す。立ちあがって壁に頭を打ちつけたうめの行動も、それに似たものだった。輝きを増したその僅かな間が過ぎれば、炎は消える。再び背中を壁に預けたうめは、今度こそ全身の力が尽きてしまったかのように、ズルズルと沈み込んでいく。再び下半身がすっかり水に浸かってしまっても、何の反応も見せない。「怖い、怖い・・・・・・」という呟きを漏らし続ける彼女の目は天井に向けられているが、その視点はまったく定まっていない。その額には、赤黒い血の印がべったりと刻まれている・・・・・・。

 

 

「・・・・・・びき、響。大丈夫?」

 あたしの耳に誰かの声が届く。・・・・・・七海、か?

 その声を認識したとたんに、心配そうにあたしの方を見ている七海とさくらの姿も、はっきりと目に映るようになった。映画を観終わった後にその世界から現実世界に戻る過程を、ギュッと瞬間的に行ったような感覚があたしを襲った。

 あたしは何かを切っ掛けに「あちら側」の世界に意識が行ってしまうことがあるのだが、いまは七海の語る昔の田舎へと、完全に没入してしまっていたようだった。

「うん、大丈夫。心配してくれてありがとうね、七海、さくら」

 あたしの様子が元に戻ったことに安心してくれたのか、七海もさくらもホッとした表情になった。

「戻って来てくれて、良かったよー。響がパンケーキを食べる手をこんなにも止めるなんて、いままで見たことが無かったからさ、もう、心配しちゃったよー」

 むむむっ。何ですと?

 ・・・・・・いや、確かに、だ。お皿にまだ半分以上もパンケーキが残っているのを見ると、自分でもびっくりする。

 それに、七海がこう言うのは、あたしを揶揄っての事ではなくて、ちょっと沈んだ場の雰囲気を明るいものに戻そうとしてのことだって、あたしは知っている。だから、あたしは「ストーリーテラー七海の話が、あんまりにも上手だったからさっ」と冗談っぽく返すと、さっそくパンケーキを切り分けて、口に運ぶことにした。

 七海の長いお話に、ちょうどひと息つく時間が生まれた。

 みんなも飲み物やスイーツに手を伸ばした。

「ななみ、しつもんイイデスカ? やっぱり、わたしのグランマからきいたおはなしとななみのおはなし、にているところとにていないところがアリマス」

 この機会にと質問を口にしたのは、サラだった。きっと、話の途中で口を挟むのは遠慮していたのだろう。「いいよ」と頷く七海を見ると、勢いよく話し始めた。

「カインとアベルのおはなしは、かみさまにはじぶんのもっているもののなかでいちばんいいものをササゲましょう、というおしえです。でも、ななみのおはなしのなかでは、むらのおんなのこのなかで、いちばんカシコイとかいちばんキレイでなくて、いちばんナキムシでアマエンボウのこがえらばれました。どうしてですか?」

 ああ、そこはあたしも不思議に思っていたところだ。神様に人柱を捧げるお話は、七海の話の他にも伝承や昔話でいくつか聞いたことがあるけど、そのどれもが「村いちばんの美しい娘」とか「自分から人柱になることを申し出る、心優しき娘」のお話だったと思う。それに・・・・・・。

「わたしも、気になったところを聞いていいですか。あの、神様に捧げられた女の子なんですけど、小屋に閉じ込められてしまうんですね。残酷な言い方になっちゃうかもですけど、滝つぼに落とすとか、川に投げ込むとか、そういう方が川の神様に捧げものをする方法としては合うように思うんです。どうして七海のお母さま方の村では、川の中ではなくて小屋の中なんでしょう?」

 だいぶんぬるくなってしまったほうじ茶の湯呑みを両手で包みながら、さくらも気になったところを七海に伝えた。

 そうそれ、それだよ。やっぱり、さくらも気になってたんだね。

 二人から質問を受けた七海は、「響は何かある?」と言うような感じで、あたしの方を見た。あたしが気になったところは、サラとさくらが口にしてくれていたから、あたしは「うん、あたしは大丈夫」と頷くことで答えた。