コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】エデンの東の果ての地で ~ココロにパフュームをⅤ

 

 

「お前たちは、エデンの園に生える樹木から好きに実を採って良いが、善悪の知識の実は食べてはならない」

 そのように神様に命じられていたのに、蛇に唆されたイヴは善悪の知識の実を口にし、さらにそれをアダムにも食べさせてしまいます。その結果、神様の命令に背いた罰として、二人はエデンの園から追放されることとなるのでした。

 エデンの園の外で生きる中で、アダムとイヴは二人の息子を授かります。

 兄の名はカイン。弟の名はアベル。

 カインは大地を耕して野菜や果物を育て、アベルはヒツジやヤギを飼って生活をしていました。

 ある日、二人はそれぞれの収穫物を神様に捧げました。カインは自分が育てた作物を、そして、アベルはヒツジの初子を捧げました。

 ところが、神様はアベルが捧げた供物だけを良しとし、カインの捧げた供物は良しとしませんでした。

「自分の捧げた作物は神様に受け入れられなかったのに、アベルのものだけ受け入れられたのはずるい」と、弟のことを恨んだカインは、彼を野原に誘いだして殺してしまいます。

 その後、カインは神様にアベルの居場所を尋ねられるのですが、「自分は知らない」と噓をつきます。でも、その様な嘘が神様に通用するはずがありません。アベルを殺したことを告白したカインを、神様はエデンの東へ追放します。

 この時に、カインは深く反省をするのですが、罪人である自分は追放された先で殺されてしまうだろうと、ひどく怯えて訴えもするのでした。

 そのため、神様はカインを殺す者には復讐がある事を伝え、カインが誰にも殺されないように、彼の額に印をつけたのでした。

~サラ・ハミルトンが祖母から聞いたお話

 

 

 

「お疲れ様でした、響ちゃん。素敵な演奏でしたっ」

「オツカれさま、ひびき」

 ピアノを弾き終えて席に戻ったあたしを、さくらとサラが笑顔で迎えてくれた。

 喫茶「木琴鳥(モッキンバード」は、ちょっとしたレストランと言っても良いぐらいに広い。フロアの奥の方には小ぶりなアップライトピアノが置かれている。音大でピアノを専攻しているあたしは店長さんに頼まれて、時々それを弾いているのだ。また、店の敷地内には緑一杯の広い庭もあって、お客さんが窓から庭を眺めてくつろげるように、大きな窓に面したところには四人掛けテーブルが並べてある。あたしたちはその一番奥のテーブルで、いつも屯っているのだ。

 さくらの前には湯気を立てるほうじ茶とあんみつが、サラの前にはポットに入ったコーヒーとアップルパイが置かれている。おっとりとした調子で話すさくらは、長い黒髪をポニーテールにまとめていて、今日は大きめの丸眼鏡を掛けている。その向かいに座っている長身のサラは、短くした金髪の裾を刈り上げたボーイッシュスタイルだ。彼女はイギリスからの留学生で、日本語は母国語ではないのだけれど、日常会話に不自由しないほどにはそれを理解しているらしい。サラが早口ではっきりした調子で話すこともあって、同い年のさくらよりも彼女の方が二つ三つは年長に感じられる。

 何から何まで対照的なさくらとサラだけど、とっても気の合う友人だそうだ。

 ああ、そうだ。彼女たちには似ているところもあった。それは、名前だ。

 日本文学、特に昔話を学ぶため日本に留学してきているサラは文学部に在籍中で、調香師になってオリジナルの香水を作ることが目標のさくらは工学部だから、二人は同じ大学に通ってはいるのだけど、これまで特に接点はなかった。ところが、ある日の食堂で、さくらの友人が呼びかけた「さくら、ここ空いてるよー」という声に、たまたまそこに居合わせたサラが自分が呼ばれたものと勘違いして「ハイ、アリガトウ!」と応えたことが、二人が知り合うきっかけになったそうだ。

 さくらとサラ。同じように発音する名前を持つ二人が、ちょうどその時間、その場所にいたというのは、とっても幸運な偶然だったとあたしは思う。

「ありがと、さくら、サラ。二人に演奏を聴いてもらえて嬉しいよ。さあて・・・・・・」

 出番を終えてホッとしたあたしは、サラの横に腰を下ろす。

 と、それにタイミングを合わせたかのように、あたしの前にスイーツを乗せたお皿とコーヒーを満たしたポットが置かれた。そのスイーツと言えばもちろん・・・・・・。

「お疲れ、響。はい、いつもの」

「おお、ありがとう、七海!」

「ダブルサイズ、パンケェキー! しょうがないなぁ、響くんは。特別だよ。はい、これ」

 あたしの大好物のパンケーキ、それもダブルサイズを用意してくれたのは、このお店でアルバイトをしている七海だ。彼女はお得意のドラえもんの口真似をしながら、トレイの上からテーブルの上に、大きめのシロップポットを二つ移してくれた。

 流石、七海! わかってらっしゃる!

「あたしももう少ししたらバイトが終わるから、それまで待っててね。ごゆっくり!」

 ペコリ。とっても丁寧なお辞儀を披露すると、七海は給仕に戻って行った。いつも見ていて気持ちの良くなる、朗らかで軽やかな身のこなしだ。でも、あたしは知っている。七海が単に明るいだけの子ではなくて、とっても優しい子でもあることを。

 七海とさくらは幼馴染だ。二人は中学校まで他県にある同じ学校に通っていたのだけど、調香師という専門分野に進むために、さくらは都内の進学校に入学した。地元の高校に進んだ七海とはそこで一度離れてしまったのだけど、ファッションデザイナーを目指す七海が、都内の服飾専門学校に通うために高校卒業後は東京に出て来たので、いまはあたしも含めたみんなでたくさんの時間を過ごせるようになった。

「やっぱり、演奏の後はこれだよねぇ。いただきまーす!」

 「ダブルサイズ」どころではない、通常の倍以上の大きさのパンケーキが数枚重ねられた特別版パンケーキの上に、まずはポット一つからシロップを全部落とす。これもたっぷり乗せられているバターと一緒にそれを塗り広げてから、サクッとナイフを入れて口に運ぶ。

 あー、もう! 幸せだ! 

 反対側に座るさくらと目が合う。さくらはとても嬉しそうに微笑んでいる。ありがと。うん、美味しいよ、さくら!

 隣の席のサラが息をのむ気配がする。待て待て。パンケーキの美味しさは、英国人の貴方の方が良く知っているのではないかい? 確かに一般的なものよりは少々大きなサイズですが、ここは引くところではないですぞ? 木琴鳥のパンケーキは最高なんだからさ、今度試してみたら良いよ。

 本当なら、「ああ、美味しい!」という感動の波に乗って、どんどんと食べ進めていきたいところだ。だけど、今日は七海がバイトを終えて席に着くのを待たないといけないし、その後も彼女の話をゆっくりと聞きたい。あたしは、パンケーキのお皿を俯瞰して、ザッとペース配分を計算してから、もう一切れをゆっくりと口に運んだ。

「うふふ、美味しっ。・・・・・・それで、確か今日は、サラが七海の田舎に伝わるお話を聞きたいってことだったよね」

「そうなんです。サラちゃんは日本の昔話や伝承に関心があるんです。それで、わたしが以前に七海から聞いたことのあるお話をしたら、とても興味を持ってくれて、もっと詳しく知りたいってお願いされたんです。ね、サラちゃん」

 さくらから話を振られたサラが、コクリと頷いた。

「ソウです。さくらからキイタはなし、とてもオモシロイです。わたしがグランマからきいたオハナシとにているけど、にていないデス」

「似ているけど、似ていない?」

「かみさまにササゲモノするところがおなじです。でも、ゼンゼンちがうストーリーです」

「そうそう、それだよ。あたしはそのサラがおばあさまからきいたお話とか、七海の田舎のお話とかを、詳しく聞いてないんだよね」

「あ、御免なさい。確かにしっかりとは響ちゃんにお話していなかったですね。えーと・・・・・・」

 ここであたしに詳しい話をした方が良いか、さくらはサラの顔をチラッと見た。

 そこへ、アルバイト中につけていたエプロンを外した七海が、自分用のアイスコーヒーとチョコレートケーキをトレイに乗せてやってきた。

「お待たせー。ちょっと早めに上がらせてもらえたよ。あ、これ、響に」

 七海のために空けてあったテーブルのスペースに、トン、トンと、アイスコーヒーのグラスとケーキのお皿を置く。そして、あたしの前にも小皿を一つ。

「七海っ、これはまさか!」

「そのまさかだよ、響君。ダブルサイズパンケーキは美味しい。食べ応えもある。でも、残念な点も確かにある。それはバターだよ。シロップはポットの数を増やせるし、好きなタイミングでそれを掛けられるけど、バターは量を増やしたところで、一番上のパンケーキに集中しちゃうもんね。だから、後出しで持ってきたんだよ。下側に隠れていたパンケーキ用の追加バターをさ!」

「流石だよ、七海! 愛してる! 次に弾く曲は、七海に捧げるよ!」

「あはは、大げさっ。でも、なんかリクエストを考えとくね」

 七海は朗らかに笑いながら、トレイを返しに行った。

 あたしはさくらに目で合図をした。七海もバイトが終わったことだから、彼女が帰ってきてからサラの話とかをちゃんと聞こうと。よし、その前に・・・・・・。

 あたしは計画していたよりもたっぷりとバターを塗ると、大きな口を開けてパンケーキを頬張った。

 

 

「・・・・・・コレが、わたしがグランマからきいたオハナシです」

 七海が席に着くのを待ってサラが話してくれたのは、彼女がおばあ様から聞かされたというお話だった。と言うか、「お話」って言って良いのかな、これ。聖書にある「カインとアベル」のお話だよね。あ、えーと、神話? うーん、なんだかそれも違うな。やっぱり、「お話」としとこう。

「前にサラちゃんから聞いた時にも、あれって思ったんですけど・・・・・・」

 気になるところがあるのか、さくらが小首をかしげている。

「アダムとイヴの子供が、カインとアベルなんですよね。それで、アダムとイヴは神様が作られた最初の人間。そうしたら、世界にはアダム、イヴ、カイン、それに、アベルの四人しかいないはずじゃないですか。どうして、エデンの東に追放されるカインは、罪人の自分はそこで誰かに殺されてしまうと怯えるんでしょう?」

 さくらの横では、七海が「あっ」と驚いた顔をしている。

「それにですよ、カインが殺されないようにするためには、額に傷をつけて印とする必要なんてないじゃないですか。だって神様なんですから。カインが殺されないようにと、その力を使えば良いだけだと思うんです」

「うんうん、確かに。でもさ、さくら、神様だからって、それを言っちゃぁお終いなんじゃないの?」

 深く頷いて同意をしながら、突っ込みも忘れない七海。それは、敬虔なキリスト教徒かも知れないサラの前で、聖書に書かれていることを強く否定するような雰囲気にならないような気遣いでもある。真面目で細かな矛盾などが気になるさくらと、おおらかだけど他人に気を回せる七海は、本当に良い組み合わせだ。

 七海の気遣いが通じたのか、サラはさくらの質問にも特に気分を害した様子はなかった。むしろ、「やっぱり、そう思う?」というような表情をしていた。

「アダムとイヴはかみがつくったトクベツなひとで、そのこどもたちはユダヤのヒト。そのほかにもふつうのヒトがいたのだ、というはなしもあります。あたしがグランマからきいたのは、セイショはヒトのためにかみさまのおしえをかいているけど、せかいのゼンブのことをかいているのでナイです」

「そうですね、確かに世界で起きる出来事の全てを聖書に書くわけにはいかないですものね。教えに繋がる出来事を選んで書く、というようになっているのかもですね」

 さくらとしても、ここで聖書の記述についてのあら捜しをするつもりなどない。気になった疑問が口から出てしまっただけだから、サラの説明をそのまま受け止めていた。

「それに、かみさまがカインにしたバツはツイホウだけでなくて、シルシをつけたのもバツだったともいわれています。カインのしるしをみたヒトはみんな、このひとがアベルをころしたひとダッテわかりますから、カインはずっとそれをわすれることできまセン」

「それは・・・・・・。ひょっとしたら、追放先で殺されてしまうよりも、カインはもっと苦しんだのかもしれないですね」

 さくらの言葉に対して、その横に座る七海も「そうだよねー」と小さな声を出していた。自分の犯した罪から一生逃げることができないカイン。彼には心を休める時間は訪れなかったのだろうか。それって・・・・・・、辛いよね。

 カインとアベルの心情やカインがその後どうなったのかも気になるが、あたしにはその他にも気になったことがあった。このカインとアベルの話のどこが七海の田舎に伝わる話と似ているのか、ということだ。聖書に載っている話と日本の田舎に伝わる話に、何か繋がりでもあるというのだろうか。

 うん? いや、サラは言っていたっけ。「ササゲモノ」をするところが似ているって。

 すると、どんなお話なんだろう。神様にササゲモノをする、日本の田舎に古くから伝わるお話とは・・・・・・。

「えーと、じゃあ、あたしのお母さん方の田舎に伝わってるお話をするね。サラはさくらからちょっと聞いてくれてるみたいだから、あたしは覚えてることをできるだけ詳しく話すね。長くなるかもだから、お茶でも飲みながら聴いてくれたら嬉しいな」

 あたしの、いや、みんなの視線を集める七海。彼女はアイスコーヒーで軽く唇を湿らせてから、ゆっくりとした調子で話し始めた。

「それは、昔々の事でした・・・・・・」

 七海の話に耳を傾けるうちに、テレビの時代劇でしか見たことの無いような遠い昔の農村の景色が、あたしの視界一杯に広がっていった。そして、あたしはその世界の中に溶け込んでいったのだった・・・・・・。

 

 

 ザアア・・・・・・。

 ザ、ザワワ・・・・・・。

 ザア、ザザアァ・・・・・・。

 村の中でもっとも大きく、しっかりとした造りの屋敷。村長の屋敷だ。その分厚い茅葺き屋根を、雨が叩き続けている。

 屋敷中の雨戸はしっかりと閉ざされ、昼間というのに座敷の中は薄暗い。囲炉裏で揺れる小さな炎しか、明かりをもたらすものが無いのだ。

 座敷には、村の男衆が集まっていた。

 囲炉裏の炎が揺らぐたび、その光が照らし出す男は変わる。だが、どの男の顔を取って見ても、そこに浮かんでいる表情はひどく重苦しいものだった。

 それはそうだろう。いまこの村は、深刻な危機に瀕しているのだから。

 雨の日が続いている。いまは梅雨だから、ある程度雨が降り続くのは仕方がない。いや、むしろこの時期に降ってもらわないと、夏になってから困ると言っても良い。だが、それにも限度があると言うものだ。この雨は、強弱の変化は見せるものの、もう八日も降り続いているのだから、明らかにそれを超えている。

 この村が位置しているのは、高山と高山の間から流れ出た川が水量を増して太くなり、ちょうど二つに分かれるところだ。本流と支流に挟まれたこの場所には、川が長い時を掛けて山から運んできた滋養に満ちた土が堆積していたから、村は作物に恵まれ大いに栄えていた。

 ただ、川は恵みだけを与えてくれるわけではなかった。これまでにこの村は、数十年に一度ぐらいの頻度で、大きな水害に襲われていたのだ。

 川の中州に位置するこの村は、その土地ができた経緯から考えてもわかるように、長雨や台風のために川の水が溢れるようなことがあれば、極めて深刻な被害を受けるのだった。

 もちろん、たくさんの年貢米を治めてくれるこの村が壊滅してしまっては、ここら一帯を治めている領主も困るのだから、堤を作ったり放水地をこさえたりと、歴代の領主も治水に力を注いできてはいた。

 だが、それらの対策は領地内の百姓を集めて行った小規模なものに過ぎなかった。重機も何もない時代の事だ。用いることのできる労力は人の手や精々牛や馬に限られていた。川の流れを変えたりダムを作ったりするような根本的な対策などできる訳がない。そのため、例年にないほど雨の日が続いた場合や分厚い雨雲を伴った台風に襲われた場合には、それらでは耐えきることができなかった。

 切れた堤から川の水が次々と溢れ、放水地は瞬く間に一杯となってしまう。その次に濁流が向かうのは田畑、そして、家々だ。水を引くときのことを考えて低地に作られている田畑は、次々と川の底に沈んで行く。村の家々は木の柱に土壁、そして、茅葺き屋根というものばかりだったから、茶色く濁った水が押し寄せると、何の抵抗もできないままに砕かれ、あるいは、押し流されてしまう。天候が回復して幾日か経ち、ようやく水が引いた後に現れるのは、そこに村があったとはとても思えないほど、一面に泥が分厚く堆積したのっぺらぼうの平地なのだ。

 村にとっての川は、恵みをもたらす神様でもあり、災厄をもたらす荒神でもあった。

 そして、いま・・・・・・。降り続く雨。もう八日間も降り続いている長雨。

 その影響は、村の両側を流れる川にはっきりと現れてきている。

 水量が少なく、いつもなら子供でも歩いて渡ることができる東川は、同じ川とは思えないほどの激しい流れになっている。たとえ大人であっても、いまの東川に足を踏み入れたら、そのまま流れに攫われてしまいそうだ。

 反対側を流れる西川は、雲が空を渡っていくようにゆったりと流れる本流と広い河原を持っているのだが、水量が増えるに従って河原は姿を消していき、いまでは堤の縁にまで濁流が迫っていた。重苦しい水の塊が上流からどんどんと降ってきていて、この堤は持ち堪えることができるのだろうかと、多くの村人が不安に思っていた。

 ザアアア・・・・・・。

 ダン、ザアン。ザアン・・・・・・。

 囲炉裏を囲む男衆は、焦りと心配とがはっきりと浮かんだ顔を下に向けたままで、誰も言葉を発しなかった。雨戸の隙間を通じて、雨音が座敷の中に入り込んでいた。

 誰もが疲れ切っていた。だが、座敷はピンと張りつめた空気で満たされていた。自分や家族の命、それに、先祖代々受け継いできた田畑を、なんとかして守らねばならないのだ。捨て鉢になるわけにはいかないのだ。それに・・・・・・。

 ド、ドンッ!

 突然、雨戸の一つが大きな音を立てた。風が雨戸を叩いているのではない。それは明らかに、人が雨戸を強く叩いている音だった。

「来た! 帰って来た!」

 雨戸の一番近くにいた男は跳ね起きると、急いで戸のつっかい棒を外した。

 戸が動くようになるが早いか、それを打ち壊すような勢いで開いて、男が転がり込んできた。

 男の全身はずぶずぶに濡れていて、特にその下半身は跳ね上がった泥でひどく汚れている。だが、男は座敷を汚してしまうことなど全く気に留めていない。一刻も早く告げないといけないことがあるからだ。

「駄目じゃ! 東川にかかっとった橋は、みんな流されてしもうた!」

 駄目か・・・・・・と、男衆は肩を落とす。川幅の広い西川には元から橋などかかっておらず、この雨による増水の中では渡し舟を出すことなどもできない。唯一村民を避難させる方法は東川にかかる橋を渡る事だけだったが、その手段も無くなったと言うことだ。

「それに・・・・・・」

「それに、どうしたっ」

「早く言えい、早くっ」

「ああ、北の堤ももう限界じゃ。あともう少し水かさが上がれば溢れるじゃろう。それに、山から流されてきたんじゃろう。たくさんの倒木が流れ着いとる。東川の橋も木の幹や枝が引っかかったけぇ、流されてしもうたんじゃ」

 北の堤は上流からの川の流れがこの土地にぶつかり、西の本流と東の支流に分かれる部分に設けられている。それが切れることなどがあれば、増水で勢いづいた川の流れを堰き止めるものが無くなってしまう。男衆の脳裏には、東川と西川との区別も無くなって、見渡す限り大きな川の流れが広がる光景が浮かび上がった。村は? もちろん、その濁った水の底だ。

「長、もうワシらには無理じゃ!」

「そうじゃ! 神様におすがりするしかねぇ。川神様は荒神様に変わられたけぇ、荒神様にお頼みするんじゃ!」

 村の外周の様子についての報告を、座敷の男衆はジッと待ち続けていたのだ。だが、ようやくもたらされたそれは、村が存続の危機に瀕していることを再確認させるものだった。「自分たちにできることは、もうない」と考えた男たちは次々と立ち上がり、「最後の手段」を取るようにと大声を上げた。座敷に座ったままの男たちの間からも、「そうじゃ! そうじゃ!」と同意の声が上がった。

 座敷の上座には、この家の主で村の長を務めている男が、目を閉じて腕組みをしながら座っていた。

 これまでの長雨で、川の水位は堤の最上部にまで達している。東川の橋は流されてしまい、村人を逃がすこともできない。もちろん、外からの助けが来ることもない。雲の動きを見ても、雨が止む様子は見え無い。倒木がたくさん流れつくのは、山津波が起きる前触れだという言い伝えもある・・・・・・。

 村長は、カッと目を開いた。決断を下したのだ。

「わかった。荒神様にお頼みしよう」

 村長の言葉を聞いて、男衆の間から「おおっ」と怒声が上がる。歓声ではない。それは決して喜ばしいことではないからだ。だが、この期に及んでは仕方がない。「村全体を救うためには、最小の犠牲を出すのを受け入れないといけない」というところまで、彼らは追い詰められているのだ。

「誰じゃ、誰の子を荒神様に捧げるんじゃ!」

「又吉のとこのはなはどうじゃ?」

「う、うちのはなよりは、小介のとこのふゆの方がよかろうっ」

「馬鹿言うでねぇ! ふゆはもう大きすぎるっ。新太の娘のかめの方がええに決まっとるっ」

 たちまち、座敷は騒然となった。

 荒神様にお頼みするには、村娘、それも、嫁入り前の若い娘を捧げなければならないと、昔から決まっている。荒神様にお願いすること自体は決まったのだが、捧げものとする娘を誰にするかが大きな問題となったのだ。誰でも良いというものではない。村全体の運命がかかっている。だが・・・・・・。

 囲炉裏の上を村の若い娘の名前が次々と飛び交うのだが、皆が納得するような名前はなかなか出てこなかった。その時、座敷の奥の襖が勢いよく開かれ、奥座敷から一人の娘が現れた。年の頃は十を一つ二つ過ぎたばかりに見えるが、高い知性をうかがわせる広い額と意志の強そうな切れ長の目を持っている。座敷の中では男衆が大声で怒鳴り合っているのだが、その娘はそれに気押される様子をまったく見せていなかった。

 この娘の名はとき。村長の娘だ。村の長は田植えや稲刈りの際の神事や祭りの進行も行うが、その際には彼女が川の神様に祈りを捧げる稚児の役割をこなしていた。

 ときは、重大な決意を胸に秘めているかのように、思いつめた顔をしていた。

「おめえさんたち!」

 思いがけないところから飛び込んできた娘の声に、座敷の男衆は一斉にときの方を見やった。

「うちを、うちを荒神様に捧げてくだせぇ。村のためになるのなら、うちはそれでええけぇ」

 一瞬の間、静けさが座敷を満たした。まさか、「村のために犠牲になる」と自分から申し出る娘がいるとは、誰も思っていなかったのだ。

 だが、その静けさはすぐに幾つもの大声で上書きされた。

「よう言うた、とき。だがのう・・・・・・」

「駄目じゃ、駄目じゃ!」

「ときよ、おめえじゃ駄目じゃ!」

「なんで、うちじゃ駄目なんじゃ! うちは田植えや稲刈りのときに、何度も神様にお願いしとる!」

「川神様ならええ。だけんど、荒神様にはおめえじゃ駄目なんじゃ!」

 村を救いたいと言うときの思いは、座敷の男衆の胸をうった。実に美しい心がけではないか。それに、彼女の申し出を受ければ、誰かの娘を捧げ物として選ぶ必要は無くなるのだ。だがそれでも、彼らの中の誰一人として、ときを荒神への捧げものとすることに賛成する者は無かった。

「そうじゃ、長のとこにうめがおったの。あいつはどうじゃ」

「おお、うめか。あの、甘えたの泣き虫か。あいつならええのう。どうじゃ、長」

 混乱の中で、誰かがうめの名を挙げた。うめはときの妹で八つになる。姉が年齢よりもしっかりとしているのとは対照的に、彼女はとても甘えん坊でありわがままな性格でもあった。村長の娘と言う立場を悪い方に利用して村の子供たちに威張り散らし、気に入らないことがあるとすぐに泣いて騒ぐ娘であった。

 うめの名を耳にしたときは、すぐに「うめには無理じゃ。やっぱりうちが」と声を出して、妹をかばおうとする。だが、彼女と同じようにうめの名を、娘の名を耳にした長は・・・・・・、「よかろう」と首を縦に振ったのだった。

 

 

 バシャッバシャッ!

 泥水を撥ね飛ばしながら雨中を急いできた男二人が、筵で包まれた大きな荷物を簡素な小屋の中に運び込んだ。何かを恐れているかのようにビクビクとした様子の二人は、慎重に荷物を床に置くとすぐに小屋の外に出た。男の一人は木戸の閂に棒を通すため立ち止まったが、もう一人の男はそれが終わるのを待つこともできないのか、小屋の外に出た勢いのままその場から走り去ってしまった。

 この小屋は物置小屋なのだろうか、四方は木板で塞がれていて、木戸の他には開いた部分はない。奇妙なのはその木戸の作りだ。閂が木戸の外側に作られているのだ。これでは、小屋の中に米や味噌を置いたとしても、それを外部の者から守ることはできない。

 小屋が立てられている場所は、北側の堤の内側、それも、すぐ近くだ。上流から押し寄せてくる大量の水が次々とぶつかってあげる轟音が小屋の中にまで響き、水しぶきが屋根や木壁にザンザンと降り注いでくるようなところだ。

 実は、この小屋は物を蓄えるための小屋ではない。ここは、荒神様に娘を捧げるための小屋なのだ。そのため、間違っても荒神様へのお供えが逃げ出すことが無いようにと、木戸の外側に閂を設けているのだった。

 ズ、ズルゥ・・・・・・。

 筵で包まれていた塊が暗い室内で動き出した。中に入れられている何ものかが藻掻いているのだ。その包みは特段荒紐で縛られているわけでもなかったから、強い力で抱え込んでいた男二人がいなくなれば、筵から逃れようと動くことはできるようだった。

 果たして、ベロンッと筵を剥ぎ取って、その中から転がり出てきたのは、小さな娘だった。

「・・・・・・はぁああ、・・・・・・ああ、ああっ、うわぁああんっ! どこじゃぁ、ここはどこじゃぁっ。嫌じゃぁ、嫌じゃぁ、うわあああん・・・・・・」

 やっと大きく息を吸えるようになったその娘は、さっそくそれを泣声という形で吐き出した。

 粗末な小屋の中には床板など敷かれてはおらず、娘を包んでいた筵が広がっているところ以外は土が露出していた。一応は屋根も壁もある小屋の中であるのだが、その土は酷くぬかるんでいた。小屋の周りの地面には深く水が溜まっていて、その水が小屋の中にまで入り込んで来ているのだった。

「冷たいのは嫌じゃ、ぬるぬるするのも嫌じゃっ。うわあああ、うわああああん。お父ー、お母ー。助けておくれぇ、ああん、あああん・・・・・・」

 泣きながら地面を叩く娘の手から泥が跳ねあがり、次々と顔に貼り付いた。その中には口の中にまで飛び込むものもあったのだが、それでも、娘は大口をあけて泣き叫ぶのを止めなかった。

 この娘こそ、屋敷の中で男衆が口にしていた村長の娘うめだった。村長が彼女を荒神様への捧げものにすることを承諾した後、男衆はすぐさま屋敷の奥へ入っていった。そして、部屋の隅っこで頭を抱えながらしゃがみ込んでいたうめを見つけると、この小屋へ送り込んだのだった。

 もっとも、うめの方からしてみれば、突然家の奥にまで入り込んできた男たちが、自分を攫おうとしているのだとしか思えない。うめは大声で泣き叫び、全力で手足をばたつかせて、それに抵抗した。大の男が数人がかりでようやく彼女を抑え込んだのだが、あまりにもその暴れる力が強いものだから、筵でグルグルと簀巻きにして運ばねばならなくなったのだった。

 そう、うめは何も事情を知らされていなかった。

 大雨が続いているために村中の人が困っていることは、いくら子供とは言え、うめにもわかっていた。だが、いまにも堤が切れて村が川の底に沈むかもしれないだとか、橋が流されたので他所へ逃げることができないだとかの、周囲の細かな状況は知らなかった。そして、自分がどうしてこの小屋に投げ込まれたのか、つまり、荒神様への捧げものにされたのだという最も大事なことも、知らされていないのだった。

「ぐずっ、嫌じゃ、こんなところは嫌じゃ・・・・・・」

 鼻から垂れ落ちる涙をすすりながら立ちあがったうめは、木戸を開けて外に出ようとした。だが、どれだけ力を込めて引こうが押そうが、それは少しも動こうとしなかった。

「なして・・・・・・」

 うめの心がスゥッと冷たくなる。彼女は、木戸を思いきり叩いた。バスンという湿った音が立つものの、それが壊れる気配は全くない。

 自分が閉じ込められているという現実が、うめにははっきりと理解できた。その途端、赤々とした激しい感情が、腹の底から頭のてっぺんにまで一気に沸き上がった。

「怖い怖い怖い、出たい、ここから出たい。怖いっ、出せ、出せ出せ出せ出せ、出せぇっ。出あせえっ!」

 意識ではなく感情に動かされて、うめは木戸を、壁を、手当たり次第に叩いて回る。板壁の棘経ったささくれが、うめの柔らかな拳に突き刺さっていく。だが、うめは痛みなど全く感じていないかのように、全力で壁板を叩き続ける。

 それでも、いくらうめが力いっぱい叩こうとも、木戸が壊れたり壁板が割れたりすることはなかった。この小屋には居心地の良さは必要とされないから、それには気を配られていない。だが、捧げものが逃げ出すことは絶対に有ってはならないので、十分な強さを持つようにとは配慮して作られているのだ。

「なして、なしてじゃぁ・・・・・・」

 どれぐらいの時間、壁を叩き続けただろうか。

 「もうこれ以上は腕を振り上げることができない」というぐらいにまで疲れ切ったうめは、だらんと両手を垂らしたままで、壁にもたれかかる。大きく背中を上下させるうめの口からは、泣き言の替わりに「ゼハッ、ゼハッ」という荒い呼吸が吐き出されている。

 しばらくは、息を整えることで精一杯だったうめは、それが落ち着いて来ると、ずるずると床に向かって滑り落ちていった。

「ひいっ!」

 急に甲高い悲鳴を上げて、うめは跳ね起きた。地面に腰を降ろして休もうとしたのに、冷たい泥水がべしゃぁと彼女の尻にまとわりついたのだ。

 反射的に足元を見たうめは、自分の目を疑った。

 こんなには水が溜まっていなかったはず。自分がここに放り込まれたときには、床の土はぬかるんでいたけれど、ちゃんと土だった。なのに、いまはなんだ。床が、地面が、無い。足元には水しかない。自分の足先も茶色い水の中に沈んでいて、見えなくなっている。

 慌ててうめは壁に取り付いた。頑丈には作られているが丁寧には作られていない小屋だから、壁材として使われている分厚い木板の間には、たくさんの隙間ができている。そのうちの一つから、外の様子を確かめようとしたのだ。

 ギュッと壁板に顔を押し当てたうめの目に飛び込んできたのは、水しぶきがザバアッとそこら一面に飛び散る様子だった。見たこともないほど激しい流れとなっている川の水が、小屋のすぐ目の前にある堤にぶつかって、白い泡を撒き散らしながら砕けているのだった。「ウシャアッ」とも「グバッ」とも聞こえる水音は、濁流に打たれる堤があげる悲鳴のように聞こえた。

 「ああ、自分は川のすぐ近くにおるのじゃな」とうめが認識したとたん、ザザン、ザザアと言う雨音も、耳につき出した。小屋の周りの地面に視線を落とせば、自分は川の傍ではなくその中にいるのではないかと錯覚するぐらいに、水が溜まってきていた。

「うう・・・・・・」

 言葉にならない言葉が、うめの口から洩れた。それは、彼女が生まれて初めて感じるひりつくような恐怖が、形となって飛び出したものだった。そしてその恐怖は、うめの心の中で急速に大きくなり、現実的なものへと姿を変えていった。

 

 

 あんなにも強い川の流れが堤にぶつかり続ければ、やがてそれは壊れてしまうんじゃなかろうか。それに、いまも雨は降り続いているから、堤がなんとか持ち堪えたとしても、その上を超えて川の水が溢れてしまうかもしれない。

 そうなれば、川のすぐそばに作られているこの小屋は、どうなってしまうだろう。粉々に砕かれて、水流と一緒に一気に川下へ流されてしまうんだろうか。もちろん、うちも一緒に。いや、いくら叩いてもビクともしないほど頑丈に作ってあるから、案外大丈夫かも知れない。でも、その場合は、うちはこの小屋ごと川の底に沈むことになる。

 うちの足元ぐらいだった水面の位置が、どんどんとあがってくる。膝の位置まで、腰の位置まで、腹の位置まで・・・・・・。うちは少しでも上にあがろうと、壁板の隙間に指をねじ込んで這い上がる。水かさが増えていくのに合わせて、身体ごと上へ上へと逃げる。ゴツンと頭が天井にぶつかる。もうこれ以上は、上へ逃げられないのだ。でも、水かさが増える勢いはまったく衰えない。冷たい水が、胸元から首元へ、顎へ、頬へ・・・・・・。

 うちは顔を上に向けて、僅かに残った空気を・・・・・・。いや、そこも水に沈む。口を閉じ必死に呼吸を抑えようとするうち。く、苦しい・・・・・・。息が、苦しい。胸が膨らんで、痛い。頬がパンパンに膨らむ。吐きたい、息を、吐きたい。だけど、そんなことをしたら。だけど・・・・・・。

 グ、ウウ、グバァッ。

 とうとう我慢できなくなったうちは、胸いっぱいに溜まっていた息を水の中に吐き出してしまう。だけど、その代わりに胸の中に入って来たのは、空気ではなくて冷たい水だった・・・・・・。

 グボッ、グボヌ、ゴホッ・・・・・・。・・・・・・コポン・・・・・・。

 うちの胸の中に水が入って来る。苦しいっ。でも、止められない、止められない! それは、あっというまに奥の奥にまで到達して、最後まで残っていた小さな息を外へと押し出す・・・・・・。

 

 

 いつの間にかうめは、背を壁につけ手足を放り出した格好で地面に腰を下ろしていた。下半身のほとんどが泥水に浸かってしまっているが、もはやそれも気にならなくなっていた。想像の中で一度おぼれ死んだうめは、はっきりとした意識を保つことができなくなっていたのだった。

「うちは、うちは、荒神様への捧げもんにされてしもうたんじゃ・・・・・・」

 誰に語るわけでもなく、ただ事実を確認するかの口調で、うめはポツンと呟いた。

 大人たちが秘め事としていることであっても、案外と子供は聡く、それを断片的にではあったとしても知っているものだ。

 この村は川の恩恵を受けて栄えているが、万が一その川が溢れそうになったとき、つまり、日頃から奉っている川の神様が荒ぶってしまわれたときには、若い娘子を捧げてそれを鎮めるのだと、遠い昔からの言い伝えがあった。それは村長と男衆しか知らないはずの事であったが、実際の所は、娘子たちの間にも広まっていたのだった。

 以前にそれを行ったことがあるのか、捧げものになった娘はどうなるのか等の細かなことは、娘たちにはわからない。もちろん、それを大人に尋ねることもできないから、娘たちが未知という紙に不安という筆で描くしかなかった想像図は、ひたすらに恐ろしくて救いの無いものになっていた。

 うめは、ぼんやりと天井を見つめていた。

 もう駄目だ。死ぬのだ。

 そうだ、きっと死ぬのだ。荒ぶってしまわれた川神様に、命を捧げるのだ。

 背中には、堤にぶつかった川の水が上げるドオンドオンという音が、途切れることなく伝わって来る。

 どれくらい水に浸かっているのか、もう時間の感覚がない。下半身はすっかり冷たくなって痺れてしまった。ちょっと前の水かさはどれぐらいだったろうか。いまは放り出した足がすっかり浸るぐらいだが、増えてきているのだろうか。それとも、まだあまり変わってはいないのだろうか。

 小屋の中にも雨が滴り落ちている。地面に水が溜まるようになってから、それが立てる水音があちこちで生じて五月蠅いぐらいだ。

 ああ、ああ・・・・・・。

 焦点の合わない目を天井に向けたうめの額に、そのうちの一つが落ちて、ピタンッと音を立てた。

「うわああっ!」

 額を打った雨垂れが何かのきっかけとなったのか、大きな叫び声をあげてうめは立ちあがった。

「死にとうない、死にとうないっ! 怖い、怖いよぉ。うわあああ、うわああんっ・・・・・・」

 涙をボロボロとこぼしながら叫ぶことで、少しでも恐怖を外へ吐き出そうとする。そうしないと、それで胸が詰まってしまって、息ができないのだ。

 立ちあがったままうめは、壁の方に振り向いた。もう両手を振り上げるほどの力も無ければ気力もない彼女は、ガツン、ガチンと、額をそれにぶつけ始めた。

「怖い、怖い・・・・・・。うう、助けて、お願いじゃあ。お父、お母・・・・・・。ああ、ううああ・・・・・・」

 ゴチンッ、ガツンッ。

「うう、うち、良い子になるから、なんでもするからぁ。いじめもせん、働くっ」

 ガツッ、ガツッ、ガツンッ。

「怖いよ、お母あ・・・・・・。助けてぇ・・・・・・。お父う・・・・・・、お願いじゃぁ、ごめんじゃぁ・・・・・・」

 ガン、ガン、ガンッ。ガチンッ。

「うああああっ、怖いよう、ああああっ、うあああ、ああああ、姉さ、助けてよう・・・・・・」

 ガガアンッ。

 思い切り額を打ちつけたうめ。雨粒と涙でグシャグシャに濡れた彼女の顔に、新たに赤い筋が生まれる。額に生じた深い傷から、血が流れ出ているのだった。

 消える直前の僅かな間だけ、ロウソクの炎は明かりを増す。立ちあがって壁に頭を打ちつけたうめの行動も、それに似たものだった。輝きを増したその僅かな間が過ぎれば、炎は消える。再び背中を壁に預けたうめは、今度こそ全身の力が尽きてしまったかのように、ズルズルと沈み込んでいく。再び下半身がすっかり水に浸かってしまっても、何の反応も見せない。「怖い、怖い・・・・・・」という呟きを漏らし続ける彼女の目は天井に向けられているが、その視点はまったく定まっていない。その額には、赤黒い血の印がべったりと刻まれている・・・・・・。

 

 

「・・・・・・びき、響。大丈夫?」

 あたしの耳に誰かの声が届く。・・・・・・七海、か?

 その声を認識したとたんに、心配そうにあたしの方を見ている七海とさくらの姿も、はっきりと目に映るようになった。映画を観終わった後にその世界から現実世界に戻る過程を、ギュッと瞬間的に行ったような感覚があたしを襲った。

 あたしは何かを切っ掛けに「あちら側」の世界に意識が行ってしまうことがあるのだが、いまは七海の語る昔の田舎へと、完全に没入してしまっていたようだった。

「うん、大丈夫。心配してくれてありがとうね、七海、さくら」

 あたしの様子が元に戻ったことに安心してくれたのか、七海もさくらもホッとした表情になった。

「戻って来てくれて、良かったよー。響がパンケーキを食べる手をこんなにも止めるなんて、いままで見たことが無かったからさ、もう、心配しちゃったよー」

 むむむっ。何ですと?

 ・・・・・・いや、確かに、だ。お皿にまだ半分以上もパンケーキが残っているのを見ると、自分でもびっくりする。

 それに、七海がこう言うのは、あたしを揶揄っての事ではなくて、ちょっと沈んだ場の雰囲気を明るいものに戻そうとしてのことだって、あたしは知っている。だから、あたしは「ストーリーテラー七海の話が、あんまりにも上手だったからさっ」と冗談っぽく返すと、さっそくパンケーキを切り分けて、口に運ぶことにした。

 七海の長いお話に、ちょうどひと息つく時間が生まれた。

 みんなも飲み物やスイーツに手を伸ばした。

「ななみ、しつもんイイデスカ? やっぱり、わたしのグランマからきいたおはなしとななみのおはなし、にているところとにていないところがアリマス」

 この機会にと質問を口にしたのは、サラだった。きっと、話の途中で口を挟むのは遠慮していたのだろう。「いいよ」と頷く七海を見ると、勢いよく話し始めた。

「カインとアベルのおはなしは、かみさまにはじぶんのもっているもののなかでいちばんいいものをササゲましょう、というおしえです。でも、ななみのおはなしのなかでは、むらのおんなのこのなかで、いちばんカシコイとかいちばんキレイでなくて、いちばんナキムシでアマエンボウのこがえらばれました。どうしてですか?」

 ああ、そこはあたしも不思議に思っていたところだ。神様に人柱を捧げるお話は、七海の話の他にも伝承や昔話でいくつか聞いたことがあるけど、そのどれもが「村いちばんの美しい娘」とか「自分から人柱になることを申し出る、心優しき娘」のお話だったと思う。それに・・・・・・。

「わたしも、気になったところを聞いていいですか。あの、神様に捧げられた女の子なんですけど、小屋に閉じ込められてしまうんですね。残酷な言い方になっちゃうかもですけど、滝つぼに落とすとか、川に投げ込むとか、そういう方が川の神様に捧げものをする方法としては合うように思うんです。どうして七海のお母さま方の村では、川の中ではなくて小屋の中なんでしょう?」

 だいぶんぬるくなってしまったほうじ茶の湯呑みを両手で包みながら、さくらも気になったところを七海に伝えた。

 そうそれ、それだよ。やっぱり、さくらも気になってたんだね。

 二人から質問を受けた七海は、「響は何かある?」と言うような感じで、あたしの方を見た。あたしが気になったところは、サラとさくらが口にしてくれていたから、あたしは「うん、あたしは大丈夫」と頷くことで答えた。

「えーと、サラとさくらから聞かれたことは、実は繋がってるんだよね」

 七海はあたしも含めたみんなの顔を見回して、話を再開した。

「川の恵みを受けて栄えていたその村では、川神様をお祀りしてた。村人は自分たちの力をはるかに超えた自然の力に対して感謝や敬意を持っていたんだけど、それを表すためには、川という『自然物』でなくて神様という『対象物』があった方が良かったんだろうね」

 後半は、サラに対しての説明だ。一神教であるキリスト教に、自然物や人物を神として奉る感覚はないだろうからだ。

「それでね、新年の儀式や収穫のお祭りなどでは、選ばれた美しい女の子と村長が、神様に畏れを捧げる儀式を行ってたの。だけどね、今回みたいに神様が荒ぶれてしまわれたとき、荒神様になってしまわれたときには、畏れはもう受け入れてもらえない。どれだけ人が神様の力を認めているかを、恐れることで表さないといけなかったの」

「オソレはだめだけど、オソレをあらわすのですか?」

「そうなんだよね。同じ『オソレ』という発音なんだけど、ちょっとニュアンスが違ってるの。最初の方は敬う気持ち。自然が持つとても大きな力にすごいと賛美する気持ち、みたいな。だから、いつもは『川の恵みは人間では生み出せない本当にすごいものです。恵みをありがとうございます』と神様にお伝えしてるの。だけど、川の神様がお怒りになって、川が大荒れになっている時には、もっと単純に『恐ろしいです。貴方の力はとても強くて、我々はこんなにも怯えています』とお伝えしないと、神様に伝わらないんだって。そうだなぁ、二つのオソレをすごく簡単な言葉に言い換えるとしたら、初めのが『すごいです』で後のが『こわいです』になるのかなぁ」

 サラは「すごいです、こわいです」と小さく繰り返しながら、七海の話を思い返すようだった。

「畏れ」と「恐れ」か。すごく日本的な回りくどい言い回しのような気もするけど、言いたいことはとても良くわかる。きっと、たとえ神様であったとしても、頭に血が上っている時には、わかりやすい表現で「あなたの力を認めています」と伝えないと、理解してもらえないんだろうな。

「そうか、だからなんですね!」

「お、流石、さくら君。説明せずとも気が付いたようだね。実はそうなんだ」

 急に声をあげたさくらに、七海が応える。

 ん、なんだ? 何がそうなんだろう?

「あの話の中で、泣き虫の子が荒神様への捧げものに選ばれたり、その子が川へ投げ込まれるのでなくて小屋に閉じ込められたりした理由だよ、響、サラ」

 ちょっと話の流れについて行きそこなったあたしとサラに、七海がフォローを入れてくれた。

「荒ぶれてしまった川神様に『怖いです』という恐れを捧げて、そのお怒りを鎮めてもらうためには、泣き虫で甘えん坊の子が一番良かったの。だって、そういう子が一番怖がってくれるから。その逆に、賢くて優しい子が『私が村のために犠牲になります』って出て来られても、きっと一生懸命に怖さを押し隠してしまうだろうから、逆効果になるんだよ。小屋に閉じ込める理由も同じ。川に投げ込まれるのももちろん怖いけど、一瞬でしょ。それよりも、荒れ狂う川の様子が聞こえる小屋の中に閉じ込めて死を意識させる方が、よっぽど強い恐怖を、それも長い間、生み出すことができるんだよ」

 ははぁ・・・・・・。そう、なんだ。それは、良くわかるよ。七海。

 七海の話を聞いていた時に触れた、うめが心底味わうこととなった冷たくて重苦しい恐怖を思い返して、あたしは身震いせずにはいられなかった。

「一瞬の死よりも、それを意識した厳しい状況が長く続く方が辛い、と言うことですか。さっきカインのその後の話をしていた時にも、そんな話が出ましたよね」

「そうですネ。そこもスコシにています。カインはしぬのでなくて、しるしをつけられたうえでツイホウされました。そして、そのさきでコドモができたり、まちをつくったりシタそうです。ななみのはなしではそのあとドウデスカ」

 サラは、この捧げものにされた女の子がどうなったのかと、七海に先を話すように促した。

 なるほど、カインは結婚をして子供が生まれたんだ。神様が付けた印のお陰か、殺されることはなかったんだね。街をつくったって、けっこう活躍したんじゃないの。心を入れ替えて頑張れたんだね。

「うん、この捧げものにされた女の子のお陰か、その夜が明けるころには雨は降り止んで、川の流れも徐々に落ち着いていったんだって。女の子が捧げた『恐れ』が荒神様に届いたんだろうね」

「その女の子は、どうなったんですか。まさか・・・・・・」

「いいや、さくら。大丈夫だったんだよ。天候が回復したおかげで川の水が溢れることはなかったから、小屋が流されたり水の底に沈んだりすることはなかった。それで、次の日の朝に男衆が木戸を開けたら、床に女の子が気を失って倒れているのを見つけたんだ。男たちが彼女を抱きかかえて呼び掛けると、彼女は無事に意識を取り戻した。何かにぶつけたのか額には大きな傷がついていて、顔には血がべっとりとこびり付いていたけど、その他には大きな怪我はなかったそうだよ」

「よかったです・・・・・・。じゃぁ、その子は無事に家へ帰れたんですね」

 きっとさくらは、悪い結末も有り得ると考えていたのだろう。そうではなかったと聞くと、安心したように「フウー」と大きな息を一つ吐いていた。

 カインは追放された先で頑張ったみたいだけど、その女の子も頑張れた、いや、ちょっと違うか、でもお役目を果たせたんだね。でも、そんな弱虫で甘えん坊の子だったら、村に帰ってから大人たちに泣きながら恨み言を言って困らせるか、その反対に、自分はものすごく大きな仕事をしたんだと、ますますいい気になって威張りまくったんじゃないかなぁ。

 あたしが、女の子が村に帰った後のことを考えていると、ちょうどいいタイミングで七海がその話をしてくれた。

「その女の子が村に帰ると、村の人たちはもう彼女を下にも置かないような大歓迎をしたんだって。だって、神様に『恐れ』を捧げて村を救ってくれた大恩人だもんね。だけど、どれだけ村人に感謝されても、彼女はそれで舞い上がって浮かれてしまうのでなかった。もちろん、『どうしてわたしを捧げものにしたの』って文句を言うのでもなかったの。甘えんぼの小さな子だったら、そのどちらかになると思うんだけどね」

「どうしてだったのデスカ。ひょっとしてチェンジされたとか?」

 サラの質問に「うん?」と言う表情を浮かべた七海に、あたしは説明をしてあげた。

 きっとサラが言う「チェンジされた」とは、「女の子が違う子と取り替えられた」と言う意味だと思う。ヨーロッパの伝承には、人間の子供がフェアリーやトロールに攫われて、戻ってきたと思ったら彼らの子供と取り替えられていたっていうものがあるから。

「ううん、そうでもなかったの。女の子が他の誰かと取り替えられていたってこともなかった。でもね、彼女からは恐れとか妬みとかがすっかりと無くなっていて、まるで別人のようになっていたんだって。憑き物がすっかり落ちたって感じかな。ああそう、心の中に潜んでいた悪い感情を起こす化け物が、すっかりいなくなったっていう意味だよ」

「アラカミさまが、バケモノヲたいじしてくれたのデスネ?」

「いやぁ・・・・・・。そう、かな? 退治したというか、荒神様がそういう感情を食べてしまったという感じがするけど、あたしには。ともかく、捧げものにされた女の子は、それ以来とても心穏やかな人になって、みんなから敬われて幸せに暮らしたそうだよ。額の傷が印になって、大雨があった年から時がどれだけ過ぎても、みんなが『あの人が村を救ってくれた人だ』って気付けたんだって。ただ、彼女は神様に捧げられた人だからって、村の男と結ばれることだけはなかったそうなの」

 七海の話に「ナルホド、よかったですね」と頷くサラ。だけど、その向かいに座るさくらの方は、彼女と同じようには思っていなさそうだった。

「そうなんですね・・・・・・。村を救った恩人として尊敬されていたとしても、額の印がある限り本当の意味では村人の中には戻れなかったんですね。女の子がそれを寂しいと思わなかったら良いのですけど・・・・・・。あ、そういう気持ちの落ち込みも無くなってしまったのでしたっけ。それだったら、良かった・・・・・・、と言えるのでしょうか・・・・・・」

 子供の頃に絵本で読んだ昔話の最後は、決まって「めでたし、めでたし」で終わっていた。このお話も枝葉を取って幹だけにしてしまえば、「大水害の危機から村は救われました。弱虫の女の子は立派な大人になって幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」となるのかもしれない。

 だけど、だけどだよ。

 カインとアベルの話もそうだけど、あまりにも話を単純化してしまうのも、なんだか違う気がする。うまく言葉にできないのだけれど、それだとあたしの感じたものが無かったことになってしまう気がする。多分、さくらも、そうなんだろう。

「ねえ、七海はどう思ったの、このお話を聞いて?」

「あたし? うーん、最初におばあちゃんから聞いた時もそうだし、今日サラからカイントとアベルの話を聞いてなおさらそう思ったんだけど・・・・・・。変な言い方になっても良いかな、響?」

「もちろん、良いよ。七海の言葉で聞きたいんだよ」

 珍しくちょっと遠慮する様子の七海に、あたしは身を乗り出すようにして催促をした。きちんとわかりやすい言葉で整理できないとしても、七海は物事の本質を感覚的に掴むことができる人だと思っているからだ。

「なんだかまとまってなくて、恥ずかしいんだけど・・・・・・。あのね、『みんな、一生懸命生きてたんだな』っていうのが感想なの。村の人も捧げものにされた女の子も、誰が悪いとか誰が良いとかなんて、あたしには言えない。ただ、その時その場所で、本当にみんなが一生懸命に生きてたんだなって。サラから聞いたカインとアベルの話もそうで、もちろん人殺しは悪いことだけど、それよりも、カインもアベルもそこにいて、それぞれ懸命に生きてたんだなって、そっちの思いの方が大きいんだ」

 ああ、そうだ。

 もう一度、あたしの目の前にあの村の景色が広がった。あの子、そうだ、うめ。泣き虫だったうめ。小屋の中で死を恐れて泣きわめいていたうめ。村人から恩人として敬われるうめ。嫁ぎ、娶り、子をなしていく兄弟の中で、独りで年老いていくうめ・・・・・・。

 それと同時に、サラから聞いたカインとアベルの世界も見えた。アベルだけが神に受け入れられたことに怒り悲しむカイン。弟を殺してしまった自分を強く責めるカイン。ああ、追放された先で妻と子供を得た時、彼はどれほど嬉しかっただろうか。それでも、他人と会う度に、彼らの視線が自分の額に向くことで、自分が罪人であることを突き付けられるんだ・・・・・・。

 今日、サラの話や七海の話を聞いて感じたのは、そうなんだ。それらは昔の話で、それで語られる人は昔の人だけど、その人たちは確かに生きていたんだ。一生懸命に生きていたんだ。あたしと、あたしたちと同じように、生きていたんだ。

「ねぇ、七海のおばあさまのお話は昔の日本のお話ですけど、流石にカインとアベルの話から比べると、ずうっと後の話ですよね。エデンの東へ追放されたカインは、そこで街を作って子供を育てたそうです。もしも、その子孫たちが東へ東へと住む場所を広げていったのだとしたら、その果てにある日本にまで来たのかもしれないですよね。ほら、日本人の祖先は大陸から渡って来たそうですから」

「おもしろいかんがえデス、さくら。だけど、なんだかウレシイです。ふたつのはなしにニテイルところがあるのも、そのせいかもシレマセンネ」

 さくらが二つの話を関連付けたことに、サラも嬉しそうな顔をする。その顔がさっきよりも身近なものに思えるのが不思議だ。

「さぁ、ずいぶん長いこと話し込んじゃったね。お茶もケーキも無くなったし、今日はここまでにしようか。最後に、響、さっき言っていたリクエストをして良い?」

「もちろん、七海とみんなのために弾かせてもらうよ。あの曲はピアノを習い始めた頃に練習したことがあるから、大丈夫」

「あれ? 曲名はまだ言って無いよ?」

「わかってるよ、七海の聞きたい曲は。あの映画の曲だよね。あたしも同じだから」

 七海はニッと笑って頷いてくれた。

 あたしは、ゆっくりと椅子を引いて立ちあがると、七海たちに右手をひらひらと振ってから、ピアノに向かって歩いて行った。

 演奏する曲は、そう、映画「エデンの東」のテーマ曲だ。

 カインもアベルも、七海の話に出て来た女の子も村人も、みんなその時その場所で、一生懸命に生きてたんだ。何だかそのことが無性に愛おしくて仕方がない。

 その思いをしっかりと込めてピアノを弾きたいと、強く思う。

 いまのあたしにとって、それが「一生懸命に生きる」ということだから。

(了)