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砂漠の天候はとても変わりやすいものです。
夜空が削り取られるとさえ思われたハブブの狂乱も、数刻もすると収まってしまいました。しかし、再び見渡せるようになった砂漠の地形には、ハブブが残した爪痕がくっきりと残っていました。ハブブが通る前と後では、砂丘の形や場所などがすっかりと変わってしまっているのでした。
「二人はどうなってしまったのか。大丈夫だろうか」
一番離れたところから二人の動向を見守っていたのは遊牧隊の隊長で羽の父であったのですが、それ以上遠くから見守ることをせずに急いで二人を探しに向かいました。その途中で彼は、羽たちが駱駝を探している間、後ろから彼らの様子をうかがっていた者を見つけました。急いで隠れてその者をやり過ごした大伴が考えるに、その者は砂漠の奥から引き返してくるところでした。おそらく、ハブブに巻き込まれた竹姫と羽の様子を確認してから引き返してきたであろうその者は、遊牧隊の一員で二人とも親しい、至篤(シトク)という女性でした。
至篤が宿営地へ戻るのを確認した後で、再び二人の元へと向かった大伴が見たものは、これまでに見たことがないような歪な形をした砂丘でした。それは、「だれかが大きな手のひらを差し出して風砂から何かを守っていた」とでも言うような、片側が切り立った壁となった半丘上の砂丘でした。そして、大伴が発見した「守られていたもの」とは、壁のすぐ下で意識を失って倒れている羽と竹姫でした。
それから三日後の朝、羽は宿営地で目を覚ましました。
幸い彼は大きな怪我をしてはおりませんでした。天幕を出た彼がまず向かったのは、もちろん、竹姫のところでした。ハブブから逃げる際に竹姫が腕の骨を折っていたことを覚えていて、心配でならなかったためでした。
竹姫とは彼女の天幕の前で出会うことができました。彼女の元気な様子を見て、羽は心配で冷たくなっていた自分の心が、ほうっと温もるのを感じるのでした。
ところが、どうも何かがおかしいのです。彼女と羽の話が、どうにもかみ合わないのです。
「あの夜に駱駝を探し出した後、羽と自分は熱を出したために倒れ込んでしまった。それを大伴に助け出されたのだ」と、竹姫は言うのでした。さらに、「ハブブなどに襲われたことはない」とさえ、彼女は言うのでした。
あの夜のハブブに襲われた経験は、とてつもない恐怖を羽の心に刻み付けていました。それを竹姫は「なかった」というのです。すっかり混乱した羽は、おそるおそる大事なことを竹姫に確認するのでした。そのことだけは、竹姫も「なかった」とは言わないだろうと信じて。その大事なこととは、「二人だけの秘密」、そして、羽が竹姫に贈った「名」のことでした。
すると、どうしたことでしょうか、竹姫はそのような「二人だけの秘密」を持ったり「名」を贈ってもらったりしたことなど、全くなかったかのように振舞うではありませんか。
羽はすっかり惨めな気持ちになってしまいました。竹姫のことを心から大事に思い、「竹の夢をかなえてやりたい、それこそが自分の夢だ」と思っていたのです。それを竹姫も喜んでくれたと思っていたのですが、実は自分一人の思い込みだったのでしょうか。
どれだけ話しても、二人の言葉はすれ違うばかりでした。深く傷ついた彼は、これまで一度も口にしたことのない言葉を竹姫に叩きつけて、その場を走り去ってしまいました。
羽が彼女に対して口走ったその言葉は、「竹姫」、そう、彼女と周りの人とを隔てる透明な幕の象徴である、その言葉だったのでした。
「どうして、羽がわたしを、竹姫と・・・・・・」
竹姫には、自分がなぜあれほど羽を悲しませてしまったのか、そして、透明な幕の向こうへと彼を走り去らせたのか、その理由がまったくわかっていませんでした。
ただ、彼は走り去ってしまいました。自分の隣から、あちらの方へと。
天幕の中に戻り座り込んでしまった竹姫。涙を流しこそしないものの、天幕を通して差し込む朝の陽ざしの中で、彼女は両腕で自分の身体を抱きかかえ、寒さに耐えるかのように小さくなるのでした。
竹姫の下を走り去った羽は、どこからか帰ってきたばかりの大伴と出会いました。大伴は「ちょうどよかった。お前に話があるのだ」と、羽を見回りへ連れ出します。それは羽にとっても有難い機会でした。何故なら、大伴に問いただしたいことがあったからでした。
竹姫は「二人が高熱を出して倒れていた」という説明は大伴から聞いたと言うのですが、彼の説明の中にはハブブなどは出てこなかったとも言うのです。でも、砂漠から二人を助け出してくれたのが大伴なのであれば、あの大規模なハブブを目撃しなかったことなどありえないのです。どうして、大伴は実際に起きたことを、竹姫に話さなかったのでしょうか。
大伴と羽は、宿営地から馬を出して、ゴビの各所で家畜たちが草を食んでいる様子を見て回りました。そして、最後に二人が馬を止めたのは、宿営地を見下ろすことができる高台でした。
周囲に人がいないことを慎重に確かめてから話を始めた大伴は、まず羽がこれまでに見せた成長を誉め、彼の成人を認めて「羽磋」(ウサ)という名を贈りました。この名は、彼の身軽なところから来た「羽」と、磨き極めるという意味を持つ「磋」からなっていました。自分が成人するのはまだ先だろうと思っていた羽は、感動で身を震わせながら、大伴に頭を下げるのでした。その息子に対して、大伴はある思い出話を始めました。それは、大伴がまだ少年であり、「伴」(トモ)と呼ばれていたころの話でした。
月の民には、将来に部族の指導者層になると見込まれる有能な若者を他の部族へ出す、いわば留学させる習慣がありました。伴もその習慣にのっとり、双蘼(シュアミ)族の根拠地である筑紫村に出されました。
有能ではあったものの引っ込み思案な一面もあった伴は、自分と同じ年頃の温(オン)姫と出会い救われるのでした。温姫は、いまの竹姫と同じように、周囲から敬意をもって接せられ、未成年の少女であるにもかかわらず「姫」という敬称をつけて呼ばれていました。そう、彼女も筑紫村の「月の巫女」だったのでした。
温姫を通じて伴は、極めて鋭い思考を持つ双蘼族の青年「御門」(ミカド)、その妹「庫」(クラ)、自分と同じように肸頓(キドン)族から双蘼族へ出されてきていた「阿部」(アベ)と出会いました。彼らは筑紫村に起きた大きな事件を協力して解決する中で、その心を深く通わせていくのでした。また、その一件の功績により、伴は成人を認められて、大伴(オオトモ)と名乗ることになったのでした。
しばらくして、彼らはさらに大きな事件に巻き込まれることになりました。月の民の勢力圏の北部で、新興遊牧民族「匈奴(キョウド)」との間に本格的な戦が起こったのでした。
豊かな遊牧地をめぐるいざこざが発端となったこの戦いは、同じ遊牧民族同士の戦いのためなかなか決着がつかず、双方に被害が積み重なっていきました。そのような状態の中で、ゴビ北東に広がる草原の一角にある烏達(ウダ)渓谷において匈奴を完全に打ち破り、戦いの趨勢を決定づけたのが、御門だったのでした。
烏達渓谷の戦いにおいて、御門が提案し実行したのが「月の巫女」の力を戦いに利用することでした。乳兄弟として自分を慕ってくれる温姫は、彼の力になりたい一心で危険を承知で協力を申し出ていました。大伴や阿部たちも、温姫のことを思えば気が進まないながらも、本人の意向と部族の状況を考え、その作戦に協力をしました。月の民で祭祀を司る一族である秋田(アキタ)の指示に従って、大伴は祁連山脈の南にある青海へ向かい、そこに潜む竜を倒して祭器(玉)を持ち帰りました。阿部は烏達渓谷の自然環境を調べ作戦の詳細を詰めました。そして、温姫は成人となり、秋田から「弱竹(ナヨタケ)」という、正式な月の巫女の名を贈られるのでした。
これらの準備の上に行われた烏達渓谷の戦いは、ただ一つのことを除いて、すべてが彼らの思うとおりに運び、月の民の大勝利となりました。
その思い通りにならなかったただ一つのこととは・・・・・・、月の巫女の力を使いきった弱竹姫が、完全に消えてしまったということでした。
月の民の者は、自分たちは死して月に還るものだと信じています。つまり、死んでも月でまた会えるということが、彼らの救いなのです。でも、完全に消えてしまったとしたら?
この戦いの後で、弱竹姫に淡い恋心を抱いていた大伴や阿部は、必死になって月の巫女について調べました。そこでわかったことというのは、「月の巫女とは精霊の力を溜める器であり、その力の行使の代償として、溜めた力が消えるのと同時に記憶や経験も消えてしまう。その最たる場合は、全ての力を使い果たした場合にその存在そのものが消えてしまうことだ」という、恐ろしい宿命でした。
この事実にたどり着いた大伴と阿部は誓うのでした。もうこんな悲しい思いはしたくない。月の巫女が月に還れる方法を見つけようと。そして、できることなら弱竹姫も月に還してやり、そこでもう一度彼女と逢うのだと。
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