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「お前は逃げないのか、案内人」
「僕はこのとおり、子供の頃に経験しているので大丈夫です」
寒山の問いに、王柔は自分の頭布をめくって額を示しました。前髪の生え際に現れていたのは、痘痕です。これがあるということは、風粟の病に罹ったことがあるということです。そうです。王柔と妹の稚は、家族が風粟の病に罹った時にそれに感染していました。家族が病気により命を落とす中で、なんとか彼らは健康を回復することができたのですが、やはり痘痕が身体に残ることは避けられなかったのです。ただ、見栄えという意味ではよろしくないこの痘痕ですが、風粟の病に一度罹ったことがあるので再び罹ることは無いはという、証にはなるのでした。
「それより、理亜、いえ、彼女は、本当に風粟の病に罹っているのですか」
「わからぬか。奴隷の首筋に、ほら」
どうしても少女が風粟の病に罹ったと信じたくない王柔は、礼儀などを無視して寒山に問い返しました。そして、彼の言うとおりに喉元を確認すると・・・・・・。ああ、そこには、風粟の病の特徴である赤い発疹があったのでした。
「ああ、そんな、気が付かなかった・・・・・・」
下を向いて荒い息を吐いている少女の横で、絶望が言葉となって王柔の口から零れ落ちました。
「理亜、大丈夫かっ。しっかりしろっ。死ぬんじゃないぞ!」
王柔は寒山の前であることも忘れて奴隷の少女の肩を抱き、混濁している彼女の意識に届くようにと、その名を叫びました。
でも、高熱のためか、理亜と呼ばれた奴隷の少女は、王柔に対して弱々しく頷くだけで、何も答えることができませんでした。
二人の様子を馬上から見下ろしていた寒山でしたが、この奴隷の少女に対する処置については、既に彼の中で結論が出ていました。
「案内人、その奴隷はこの場に置いていく。荷として預かった以上、目的地まで届けることが私の責任なのだが、致し方ない。これ以上、共に連れ歩いては、病を他の者にうつされる恐れがあるからな」
その指示は、王柔に何の反論も許さない、冷たい声で告げられました。
「お主の考えは良くわかっている。だが、お前の話を聞く余地はないぞ。この場で娘を切り捨てて行っても良いのだ」
王柔は、願い事を言おうとしていた口を、ただ開けたり閉じたりすることしかできませんでした。少しでも言葉を発してしまえば寒山が理亜を殺してしまうと、彼には思えたからでした。
もしも、王柔がもっと経験を積んだ男であったならば、自分の「案内人」であり「生きた通行手形」である立場を生かして、もっと寒山に食い下がることができたかもしれません。でも、彼はつい最近成人したばかりの、年若く気の弱い若者なのでした。
一方の寒山は、風粟の病の者を切り捨てたりすれば、その傷口から病の霊が染み出して周りの者に病気が広がってしまうと知っていましたから、始めから彼女を傷つけるつもりなどはありませんでした。それでも、あえてそのように口にしたのは、王柔の気持ちを上手く操作するためでした。
王柔が生まれる前から、多くの人間を率いてゴビの砂漠を旅してきた寒山にとっては、このような駆け引きなどは、いとも容易いものなのでした。
「・・・・・・わかりました。彼女を傷つけることだけはやめてください。あと・・・・・・、せめてこれだけは、許してください」
王柔にとっては永遠とも感じられた数秒の沈黙の後で、そんな言葉が彼の口から絞り出されました。
もはや話は終わったと理亜の下を離れようとする寒山に断りを入れると、王柔は自分の腰から下げていた皮袋を理亜の手に握らせました。それは、ゴビの砂漠で命を繋ぐためには絶対に必要である、水が入った皮袋でした。
「いいか、理亜。頑張るんだ。少し休んで楽になったら、なんとか、土光村まで来るんだ。そこには、王花(オウカ)さんがいる。僕たちのお母さんみたいな人だ」
「土・・・・・・光・・・・・・村。王花・・・・・・さん。おかあ・・・・・・さん?」
「そうだ、そうだよ。理亜。ごめんよ、僕は、行かなければいけない。本当にごめん・・・・・・」
王柔は理亜の手を取って、理亜を残してこの場を離れないといけないことを、繰り返し謝るのでした。
「くどい、くどいぞ、案内人!」
隊列に戻った寒山の声が遠くから強く響き、彼の背中を叩きました。
激しく体を震わせた王柔は、最後に強く理亜の手を握ると・・・・・・、その手を放しました。
「オージュ・・・・・・?」
「ごめん!」
彼は大きく一声上げると、ぱっと振り返って走り出し、隊の中へ消えていきました。これ以上、理亜のまっすぐな視線を受け続けることには、耐えられなかったからでした。
王柔にだってわかっていたのでした。ここはまだヤルダンの中です。自分が渡した水袋一つを頼りにして、あのように弱り切った身体で土光村まで辿り着くなんて、とても無理なのです。でも、彼にはそれだけのことしかできなかったのでした。ああでもしなければ、寒山はいますぐにでも彼女を切り伏せて、隊の進行を再開させてしまうでしょう。でも、ああ、それでも。
「それしかなかった? 本当に、それしかなかったのか・・・・・・」
心の中で自分を責める声が大きくなるのを、王柔は止めることができませんでした。
「遅れた分を取り戻すぞ! さぁ、歩け!」
王柔が隊の先頭に戻るやいなや、寒山の怒声が隊全体に響き渡りました。それは、冬空に響く雷鳴のように一度緩んだ隊員の気持ちを強く叩き、再び足を前へ運ぶように強いるのでした。
寒山の交易隊が立ち去った後の交易路の上には、少女が一人残されていました。
長い時間が経過していました。彼らが出立したときに巻き上げたゴビの赤土も、すっかりと収まってしまったほどでした。それでも彼女は立ちあがるどころか、身を起こすこともできないでいました。
いたずらな風が次々とやって来て、蹲ったままの理亜の背を叩いては去っていきました。
高熱に侵された意識の中で、彼女は自分の置かれた状況をどう理解していたのでしょうか。
自分、一人。置いて行かレタ。熱。熱い。オージュ、村。カアさん、村。オカアさん・・・・・・。王花さん。居る、オウカさん・・・・・・。
切れ切れにではあるものの、理亜は王柔の言葉をきちんと受け取っていました。村に行けば、王花さんがいる。お母さん。オージュもいる・・・・・・。
既に辺りは薄暗くなり始めていました。太陽は西の地平に近づき、月が上がり始めていました。
長い時間休んだことで少しは体力が回復したのでしょうか、理亜はゆっくりと上体を起こすと、手にしていた皮袋から水を一口飲みました。
「イタッ・・・・・・」
それは喉にひどく沁みました。でも、彼女の身体全体に力を与えてくれたようでした。
「行かなくちゃ、村へ・・・・・・」
理亜は両膝に手をついて立ち上がると、ふらふらとした足取りではありましたが、ゆっくりと歩きだしました。生き物の本能がそうさせるのでしょうか、まだわずかに橙の明かりが残る、西の空を目指して。
ああ・・・・・・。でも、彼女が目指す土光村は、ヤルダンの東側にあるのです。悲しいことに、その小さな足が震えながら踏み出される度に、彼女は王柔たちから遠ざかっていくのでした。
やがて、夕焼けが残っていた西の方の空も、完全に青暗い夜空で上書きされてしまいました。
太陽が沈むのを待ちかねていたかのように、勢いよく東の空から上がってきた満月は、いまでは天上に座って周囲に青白い光を散らしていました。
一歩ずつ、ふらふらしながら歩いていた理亜は・・・・・・。
なんとか奮い起こした力もとうとう尽きてしまったのか、一歩も歩けなくなってしまい、砂岩に背中を預けたまま、動けなくなっていました。
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