コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

月の砂漠のかぐや姫 これまでの振り返り⑪

 

 秋のヤルダンは、夜になると急激に気温が下がります。彼女の背中を支えている砂岩も、すっかりと冷たくなってきていました。でも、高熱に浮かされてうわ言をつぶやいている理亜には、その冷たさも感じられてはいませんでした。
「はぁ、はぁ・・・・・・・、か、あ、さん・・・・・・」
 理亜の声はとても弱々しい上に、ひどくしわがれたものになっていました。王柔から渡された皮袋にまだ水は残っていましたが、もう彼女にはそれを口にする元気もなくなっていたのでした。
 その時のことです。
「あなたは、母さんを捜しているの・・・・・・」
 彼女に語り掛ける声が、どこからか聞こえてきました。
 ここはヤルダン魔鬼城の中。周囲には誰もいないはずです。それに、彼女が座り込んでいる場所の空気を、誰かが震わせたわけではなかったのでした。そう、それは、実際にあった声ではなく、誰かが彼女の心の中に直接語り掛けてきた声だったのでした。
 でも、再び意識が混濁するようになっていた理亜には、そのような不思議にまでは気が回りませんでした。彼女は淡々と問われるがままに答えましたが、実際に夜の世界に生れ出たのは、言葉ではなくて弱々しい吐息だけでした。
「はぁ、はぁ・・・・・・。そう、よ。カア、さんを捜しテルの・・・・・・」
「あなたもそうなのね、わたしも探しているの。そして、待っているの。母さんを。もう、ずっと、待っているの・・・・・・」
 不思議なことに、理亜の言葉にならない吐息は、その言葉の主には届いているようでした。
「そう、なのね・・・・・・。ワタシが一緒に、捜してあげ、ヨウ・・・・・・か」
「捜してくれるの・・・・・・あなたが。ありがとう・・・・・・。イヤ、モウ、クルハズガ、ナインダ」
 突然、理亜に呼び掛けていた声が、二つに分かれました。
「コナイヨ、オマエハ、ステラレタンダ・・・・・・違う、そうじゃない、違う・・・・・・コナイ・・・・・・来るよっ・・・・・・ヒトリダ、オマエハヒトリナンダ・・・・・・違う、違う、違うっ・・・・・・」
 新しく生じたその声はだんだんと大きく、激しくなりました。冷たい夜の空気がびりびりと震えたように、理亜には感じられました。そして、鋭い棘がいくつも刺さったような痛みと、とても大事な何かを望み欲する乾きとが、背中から彼女に流れ込んで来ました。
「ナ、ナニ?」
 反射的に理亜は砂岩から背中を離すと、自分がいままでもたれかかっていた砂岩を見上げました。青白い月明かりに照らされたそれは、人の背丈ほどの高さの細長い奇岩でした。複雑なふくらみを持つその形は、まるで、少女が手を伸ばして誰かをじっと待っている姿のように見えました。
 月の民の勢力圏より遠く離れた西の国で生まれた理亜は知りませんでしたが、この砂岩こそが、ヤルダンを通る者たちから「母を待つ少女」と呼ばれる奇岩なのでした。
 母を待つ少女の奇岩は、他の砂岩から離れて、ポツンと立っていました。
 先ほどまで理亜の頭の中で響いていた声は、いまではまったく聞こえなくなっていました。
 すううっと、夜の冷たい風が、奴隷の少女と母を待つ少女の奇岩の周りを、通り抜けていきました。
「ダイジョウブだよ・・・・・・」
 ぽつんと、少女がつぶやきました。
「王花さん、いるよ。オカアさん、いるよ・・・・・・。お水、あげるネ」
 どうしてそのような言葉が口から出たのか、少女にはわかりませんでした。また、どうして自分がそのようなことをしているのかも、わかりませんでした。
 理亜は、ゴビの砂漠を旅する者には命そのものとさえ言える水を、王柔からもらった皮袋を傾けて、母を待つ少女の足元に注ぎました。皮袋に残っていた水は全てゴビの大地に吸い込まれていき、皮袋の中は空になってしまいました。
「ね、大丈夫ダヨ」
 自分に語り掛けていた誰かを安心させたいのか、理亜はそう呟くと、自分も安心したかのように微笑みました。
「ネ・・・・・・」
 目を閉じて母を待つ少女の足元に横になった理亜の背中は、もう苦しげな上がり下がりをしなくなっていました。
 そのうちに、月の動きに従って少しずつ伸びた母を待つ少女の影が、身動きしなくなった理亜の体を飲み込んでしまうのでした。


 風粟の病を発症した理亜がヤルダンの中に置き去りにされた日から、二日が経ちました。
 行進を再開した寒山の交易隊は、無事にヤルダンを通り抜けて、交易路の中継地点である土光村へ到着していました。
 王柔は彼らがヤルダンを抜けるために雇われた案内人でしたから、「ご苦労さん、あの子のことは、あまり気にするなよ」という雨積の言葉に送られて、隊から離れていました。
 本来であれば、仕事が終了した旨の報告をするために、土光村の中にある「王花の酒場」へ顔を出さなければいけないところです。でも、王柔の足はそこへは向かいませんでした。
「ああ、僕は理亜を置き去りにしてしまった・・・・・・」
 王柔が何度思い返してみても、あれ以外にできることは思いつきません。それでも、自分が守りたいと思った少女を、ゴビの砂漠、それも、よりによってヤルダン魔鬼城と畏れられているところへ置き去りにしてしまったことに、変わりはないのです。その事実が、王柔の心を苦しめていたのでした。
 彼が向かっていたのは、村の出入り口でした。
 王柔は村の外に出ると、村を守るために造られている土壁に背を預けて、じっと西の方、つまり、自分たちが通り抜けてきたヤルダンの方を眺めるのでした。それはまるで、ヤルダンの有名な奇岩「母を待つ少女」のようでした。
 王柔は、土光村についた日からずっと、村の出入り口の外で理亜を待ち続けていました。
 でも、彼は砂岩でできた立像ではなく息をする生身の人間ですから、体力には限界があります。それに、いつまでも仕事の報告をしないでいるわけにもいきません。
 彼が村の外に立ち始めてから二日目の太陽が地平線の近くに降りてきた頃、とうとう、王柔はその場を去ることを決めたのでした。
「ごめんよ。理亜、ごめんよ・・・・・・」
 それは、王柔がつぶやいた何度目の謝罪の言葉だったのでしょうか。その言葉が、足元から長く伸びた影に吸い込まれそうになった時・・・・・・、彼はあるものに気が付いたのでした。
 西の方から、ヤルダンの方から、小さな人影がこちらに近づいてくるではありませんか。
 その人影は、背中から受ける西日が作った、自分の背丈よりも何倍も長く伸びた黒い影の上を、まるでそれが定められた道だとでもいうかのように、歩いてきていました。
「理亜、理亜、理亜あっ!」
 その人影が誰かを、王柔が見間違うはずがありませんでした。それは、その小さな人影は、まぎれもなく、ゴビに放置された奴隷の少女、理亜その人でした。
「理亜、理亜あー!」
 王柔は彼女の名を叫びながら、走り出しました。でも、二日間も立ち続けていたせいか、彼の身体は固く強張っていて思うように動きません。気ばかりが焦るせいもあって、彼は数歩も走ったところで転んでしまいました。でも、王柔はすぐに立ち上がると、再び走りだしました。彼は痛みなど感じていませんでした。理亜がいる。理亜がいるのです。
 小さな人影の方でも王柔の姿を認めたのでしょうか、こちらに向かって走り出していました。
「オージュ、オージューッ!」
 王柔のことを呼んでいます。理亜です。やはり、その人影は理亜なのです。
「オージューッ!!」
「理亜、理亜ーっ!」
 お互いの距離は、どんどんと小さくなっていきました。
 もう、王柔にも理亜の顔がはっきりと見えていました。その顔は、王柔に会えた喜びと安心感からでしょうか、涙と笑みで崩れていました。
「良かった。理亜、本当に良かった」
 王柔は走ってくる理亜を抱きしめようと、腰を落として彼女を待ち受けました。
 その腕の中に飛び込んでくる理亜。
 地上に隠れる寸前の太陽が地に描く二つの長い影は、ここで一つに・・・・・・なりませんでした。
 なんと、理亜の身体は王柔の身体をすり抜けると、反対側に飛び出てしまったのでした。
「あ、あれ・・・・・・」
「え、オージュ・・・・・・」
 振り返ってお互いを見つめる二人。今度はゆっくりと理亜に近づくと、王柔はおそるおそる右手を彼女の頭に近づけました。でも、やはり彼の右手は、彼女の柔らかな赤い髪をすり抜けてしまうのでした。
「オージュ、ワタシ、どうしちゃったんダロウ・・・・・・」
 びっくりして右手を引いた王柔に、理亜が戸惑いながら話しかけました。彼女の頬を涙が伝い、ゴビの大地にぽつぽつと黒い染みを付けました。先ほどまでの幸せの涙とは違い、これは戸惑いと寂しさからくる涙でした。
「ワタシ、オージュに会いたかったの・・・・・・。ワタシ、ヒョッとし・・・・・・」
 その時。
 西の空の果てで、太陽が完全に大地の中に没しました。太陽の眷属がその力を失い、月の眷属が力をふるう時間が来たのでした。
 そして。
 理亜は、忽然とその姿を消してしまいました。
「り、理亜? どこだ?」
 自分の目の前にいたはずの理亜が、完全に消えてしまったのです。まるで始めからいなかったかのように・・・・・・。
「夢か、夢でも見ていたのか、僕は?」
 まず、理亜のことを思い続けていて夢でも見たのかと、王柔は自分を強く疑いました。でも、自分の足先の地面には、黒い染みが、理亜が落とした涙の後が、残っているのでした。
「理亜・・・・・・。理亜は、やっぱりここにいたんだ。でも、どうして、理亜、理、亜・・・・・・」
 ただでさえ王柔の心と体は疲れ果てていました。そこへ、思いもかけない理亜との再会の喜びと、理解できない彼女の消失への戸惑いが、一気に訪れたのです。
 王柔は、ガクッと大地に膝をつくと、その場に崩れ落ちました。これ以上負荷がかかって壊れてしまわないようにと、生き物としての本能が働き、意識を失ってしまったのでした。