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「わかりました。みなさんの言うように、理亜をヤルダンに連れて行くのが良いと、僕も思います」
目の前で理亜が消えていくところを見て、改めてその状態の危うさに気づいたのでしょうか。自分が下した決断を消え入りそうな声で告げると、王柔は疲れ切った様子で自分の椅子に腰を下ろしました。
「小野の旦那、王柔も納得してくれたようだぜ」
そんな王柔にはもう用がないとでもいうように、冒頓はすぐさま小野に話を戻しました。それを受けた小野は、手早く話をまとめることにしました。
・・・・・・留学を急ぐため、羽磋は交易隊を離れ吐露村へ発つ。護衛隊をその警備のために付け、ヤルダンの案内人として王柔が付き、理亜も同行する。一行がまず目指すのは、ヤルダンと理亜の身体に起きている怪異の原因とみられる母を待つ少女の奇岩。奇岩を破壊するなりなんなりして、ヤルダンを無事に抜けることができたら、王柔と護衛隊の半分は土光村に戻り報告を行う。残りの半分は羽磋を吐露村まで安全に送り届ける。小野の交易隊は土光村での荷のやり取りが終わったら、ヤルダンを抜け吐露村へ向かうのだから、最後はそこで全員が合流することになる・・・・・・。
小部屋の中で行われていた相談は、ようやく終わりました。
出入り口に一番近いところに座っていた羽磋が扉を開くと、明り取りの窓から風がさぁっと吹き込んできました。その風を感じた後で急に体が軽くなったことで、羽磋は自分の心と体がすっかりと凝り固まっていたことに気がつくのでした。
「急な出立になります。明日、私と一緒に、土光村の代表者のところへご挨拶にいきましょう」
小野は羽磋の背を押して部屋を出ながら、声を掛けました。
それは、せっかくの他部族への留学の機会を生かして、できるだけ多くのつながりを羽磋に持たせてやりたいという、小野らしい気配りから出た言葉でした。
羽磋にも小野の配慮は十分に伝わりましたから、振り返って小野に大きく頭を下げました。再び顔をあげた羽磋は、王柔を部屋に残したままで、王花が扉を締めたことに気が付きました。
「王柔殿、大丈夫でしょうか」
「いいのよ。ああ見えて、王柔は頑張れる子だから」
羽磋の顔に浮かんだ心配の色に気が付いたのでしょう。王花は優しく答えました。これまで王柔のことを見守ってきた王花にとっては、王柔が自分の考えを堂々と主張したことが、とても嬉しくも思えているのでした。
部屋の外でそのような会話がなされていることに、王柔が気付くはずもありませんでした。
小部屋の中で、彼は自分の椅子に腰かけたまま、自分の心の中を彷徨っていたのです。
「冒頓殿が話した言葉は、的を射ていたのではないか。僕はみんなに理亜のことをお願いするばかりで、自分がどうするかなんてちっとも考えてなかったんじゃないか。そりゃ、実際には、王花さんや小野殿や冒頓殿が、いろんなことを決めるんだろう。だけど、僕がどうするか、どうしたいかは、もっともっと、考えないといけなかったんじゃないか。僕にも何かできることがあるかもしれないじゃないか・・・・・・」
王柔は考えました。繰り返し繰り返し考え続けました。
酒場での酒宴が終わり、後片付けをする人の気配が消えてしまった後も、王柔は小部屋の中に残って考え続けるのでした。
翌日の朝を、羽磋は天幕の中で迎えました。その天幕は、土光村に留まる間、小野の交易隊の者が寝起きする場所として、村の外に設置されたものでした。
荷物は倉庫に搬入したものの、交易隊にはたくさんの駱駝や馬がいます。それに、隊員たちを宿屋に泊めるには費用も掛かります。ですから、小野の交易隊を始めとして、ほとんどの交易隊は、土光村の外に宿営地を設営するのが常なのでした。
「羽磋殿、おはようございますぅ。どうっすか、体調は。俺、頭が痛いんすよ・・・・・・」
交易隊員に交じって駱駝の世話をしている羽磋に、苑が話しかけてきました。彼はひどく頭が痛むようで、しかめ面をしながら、片手で頭を押さえていました。
「おはよう、小苑。そうか、昨日は初めての酒場だったんだな。ちょっと、飲みすぎたんじゃないか?」
羽磋が苑と別れた段階で、既に彼はかなり酔っていました。しかも、彼はその後も、先輩から注がれる酒を飲み続けていたようなのです。
明らかに、苑は飲み過ぎていました。
人生で初めての酒場を経験した次の朝に、苑は人生で初めての酷い二日酔いを経験しているのでした。
そんな苑に、先輩達がにやにやとしながら声をかけてきます。「先輩に飲まされてつぶれる」というのは、自分たちもかつて通った道ですから、苑のことを怒る人はいません。ただ、面白がってからかったり、「迎い酒」を勧める人はいましたが・・・・・・。
一通り駱駝たちの世話が終わったところで、隊の今後の予定について、小野からの伝達が行われました。これは、昨晩に小部屋の中で話し合われたことを基にしたものでした。
羽磋が隊を離れることを聞いた苑はとてもびっくりして、羽磋の護衛として自分も同行したいと勢い良く立ち上がるのですが、たちまち気分が悪くなり、口を押えながらしゃがみこんでしまいました。
「羽、羽磋殿。俺も、一緒に・・・・・・・。オ、オウエエェ・・・・・・」
「大丈夫か? 水でも飲んで、大人しくしとけよ。無理するな」
羽磋は苑の頭をポンと叩くと、その場を離れていきました。それは、小野と一緒に、この村の責任者に挨拶をしに行くためでした。
盗賊などの襲撃を警戒して、土光村の周囲には高い土壁が設けられ、入り口には門番が立っていました。その門を抜けると、とても広い道が村の中心へまっすぐに伸びていました。
土光村は交易路の中継地として栄えている村で、大小さまざまな交易隊がこの地を訪れます。この大通りの両側には、土光村に滞在している交易隊が他の交易隊と荷のやり取りをしようと品物を広げていましたから、異国から運ばれてきた品物を見に来る村の人や掘り出し物を探す交易人らが右往左往していて、道はとても混雑していました。
小脇に包みを抱えた小野は、小魚が水草の間をすいすいと泳ぐように、その人込みも苦にせず進んでいきます。小柄な羽磋が、同じく小柄な小野についていこうとするのですから、少しでも目を離せば、人込みの海の中で見失ってしまいそうでした。
それでも、両脇に並べられている遊牧生活で見たことのない品物は、羽磋の興味を強く引くのです。小野に遅れないようについていきながらも、羽磋は何度も周りに視線を走らせずにはいられません。
「あ、あれ?」
その時、羽磋の視界の端に、気になるものが入ったような気がしました。
ひょろっとした背の高い月の民の男が、赤髪の異国の少女を連れて歩いている・・・・・・。それは、羽磋が昨日初めて会った、王柔と理亜に見えました。ただ、すぐに人波に消えてしまったその二人は、王花の酒場の方でもなく、交易隊の荷が保管されている倉庫の方でもなく、村の外れの方へと歩いていくように見えました。
「ひょっとしたら、見間違いかな。・・・・・・あ、すみません、小野殿。私はここです。すぐに行きますっ」
自分が見かけたもののせいで、なんだか心がもやもやして歩みを遅くしてしまった羽磋でしたが、先を歩く小野に呼ばれて我に返るのでした。
人で溢れんばかりの大通りを抜けて村の中心部に入っていくと、周囲の建物の様相が変わってきました。
そこには、土壁で広い敷地を囲い中庭といくつかの建屋を持つ、立派な家が並んでいました。おそらくこの一角は、村の責任ある立場の人たちが住むところなのでしょう。
小野が立ち止まったのは、その中でも飛びぬけて広い敷地を持つ館の前でした。この館こそが、土光村の代表者である交結(コウユ)の館なのでした。
大きな館にふさわしい立派な門の前で、羽磋は小野から与えられた注意を思い出しました。
それは、「月の巫女の力については知らないことにする」ということと、「ヤルダンに起きている問題の詳細は知らないこととする」ということでした。
月の民全体の単于(王)である御門は、積極的に月の巫女の力を利用しようとしています。一方で、阿部や大伴は、表面上はそれに従いながらも、月の巫女を月に還すために動いているのです。羽磋に与えられた注意は、羽磋の存在が御門の注意を引くものとなり、その争いの中に巻き込まれることがないようにという、小野の配慮なのでした。
「でも、この村の代表者の方は阿部殿と同じ肸頓族で、御門殿は双蘼族の方です。月の民全体の単于とは言っても、他部族の村長にまで御門殿の力が及ぶのでしょうか」
月の民は、国とは言ってもたくさんの部族の緩やかな集合体ですから、通常であれば単于(王)が指示を出すのは、各部族の長に対してです。羽磋が疑問に思うのも当然のことではありました。
「この村の代表者の交結殿は、とても気さくで、非常に人当たりの良い方です。それに隠し事のできない方でして」
羽磋の疑問に、小野は丁寧に答えました。
「交結殿が直接教えてくれたのです。交易路の中継地であるこの村には多くの情報が集まります。だからでしょうね。月の巫女の祭器に関する情報が手に入ったらすぐさま知らせるようにと、阿部殿を飛び越えて、御門殿から直接に依頼があったそうです」
驚きを隠し切れない様子の羽磋に対して、小野は軽く頷いて見せました。その頷きで、小野は「ね、隠し事のできない方でしょう」と言うのでした。
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