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太陽が大地に小野の影を黒々と映し出していました。その影は、小脇にしっかりと包みを抱え込んでいました。
小野は「秦でこの『火ネズミの皮衣』を手に入れた」と交結に話していましたが、いったいどの時点でこれが偽物であると知ったのでしょうか。
実は、これが偽物であることを見破ったのは、小野ではありませんでした。それに気が付いたのは、彼の同志である大伴だったのです。
秦から吐露村へ戻る長い旅の途中で、小野が補給の為に立ち寄った村が讃岐村でした。そして、偶然そこに滞在していたのが大伴でした。大伴は、自分の息子である羽の成人と彼を肸頓村へ出すことの許可を求めに、讃岐村にいる貴霜族の族長の元を訪れていたのでした。
その晩、小野の天幕の中でのことです。大変な貴重なものを手に入れたと、珍しく興奮している小野を制して、大伴は自分の皮袋から兎の面を出して被りました。そして、じっくりと「火ネズミの皮衣」を検分した後で、固唾をのんで見守っていた小野に、こう告げたのでした。
「小野殿、大変残念ですが、これは偽物です。これには何の力も見て取れません」
と。
小野にとっては、自分が苦労して手に入れた祭器が偽物だという大伴の言葉は、大変辛い宣告でした。
でも、この讃岐村での出会いは、正に精霊が導いてくれた出会いだったのかもしれません。
この出会いがなければ、小野は偽物の「火ネズミの皮衣」を本物として主人に届けるという、大失態を演じるところでした。また、大伴にとっても、自分の息子である羽磋を肸頓族へ送る手段を得ることができず、途方に暮れなければならないところでしたから。
この時に大伴が「火ネズミの皮衣」の鑑定に用いた、兎の面。
それは、月の民の中で月の巫女に関する祭事を司っている秋田が被っている面で、「この面を被ることで精霊の力の動きを見ることができる」と言われているものでした。
この面の裏には、代々の持ち主の名が連なって彫られていました。いまはその並びの末尾、「大伴」という名の次には「羽磋」という名が彫られています。成人を許された時に、大伴からこの面を受け継いだからです。
その若者は、秋空の下を歩きながら、風に浮かぶ羊のような雲を見上げつつ、大きな伸びをしていました。
羽磋は、交結に対しての留学の徒としての挨拶を終えると、小野を残して先に館を出ていました。
如何に留学の徒が将来を期待された幹部候補生と言っても、相手は自分よりも小野よりもずいぶんと年上で、この大きな村の代表者を長年務めている交結ですから、挨拶をするための短い時間が与えられただけでも、幸運なことなのでした。
やはり、自分よりもずっと目上の人へ挨拶をすることに、緊張していたのでしょう。交結の館からの帰り道では、羽磋の気持ちはとても軽くなっていました。再び戻ってきた大通りでは、周りで交わされる人々の会話や露店の様子などに気を向けるだけの余裕が生じていました。
「いやはや、珍しいものばかりだな。月の民の国の中でも、こんなに珍しいものがたくさん見られるのだから、他国へ旅をしたらいったいどのようなものを目にできるのか、想像もできないな」
物珍しそうにあたりをきょろきょろと見まわしながら歩く羽磋は、ここに並べられている荷の種類の多さに圧倒されていました。また、それが運ばれてきたはるか遠くの国の景色を想像する度に、世界のいろいろなところを旅したいという、輝夜姫の願いが思い返されるのでした。
その時、見知った二人連れが、羽磋の視界に入ってきました。
「あ、あれ。王柔殿に理亜じゃないか?」
二人を見つけた羽磋は、心の中にスッと日差しが差し込んできて、明るくなったように感じました。
もっとも、この嬉しさは、単に人込みの中で見知った者に出会ったからだけではありませんでした。
羽磋は明確な感情としてではなく、形の無いもやもやとしか意識していなかったのですが、朝方に王柔と理亜が村外れに向かうのを見かけたときに、心の底に疑念を生じさせていたのです。その疑念とは、「王柔が理亜を連れて逃げ出そうとしているのではないか」というものでした。
ですから、交結への挨拶を終えて天幕に戻る途中で、あちらも用事を済ませたのか、村外れから戻ってくる途中の二人に出会えたことで、心の奥の一部を占めていた黒い塊が消えて嬉しくなったという訳なのでした。
「王柔殿、理亜っ! こんにちはっ。どこかへお出かけだったのですか」
「あ・・・・・・、ああ。羽磋殿、こんにちは」
元気よく王柔に声をかける羽磋。
でも、羽磋とは正反対に、羽磋に気が付いた時の王柔の顔にさっと浮かび上がったのは、喜びとも驚きともと違う何かでした。
「私はこの村の代表者のところへご挨拶に伺いまして、いまはその帰りなんです。実は、今朝も、その代表者のところへ行く途中で、王柔殿と理亜殿をお見掛けしていたんですよ。どちらに行かれていたんですか」
「あれ、そうだったんですか。僕の方では、羽磋殿には全く気がつかなかったなぁ」
王柔は、照れたような、あるいは、苦々しいような、複雑な表情を浮かべました。それは、隠そうという本人の意思にもかかわらず、笑顔の仮面の下から漏れ出てしまった本心でした。
「ええ、まぁ、ちょっと。明日は出発ですし、色々と準備を」
そのような返答を王柔がとっさにしてしまったのは、何も深い考えがあってのことではありませんでした。ただ、ちょっとだけ、話しづらいことがあっただけなのでした。
王柔の横では、理亜が「はんぶーん、はんぶん。はんぶんナノ。ぶんぶーん」と、小さな声で適当な唄を歌っていました。
そのまま大通りを並んで歩いた羽磋たちでしたが、通りの端に来ると別れることになりました。羽磋は村の外の天幕へ、王柔たちは王花の酒場へ行くためでした。
小柄な体格をした、明るく元気だが生真面目な面もある羽磋。月の民の五大部族の一つ貴霜族の若者頭である大伴の息子で、将来を期待された留学の徒。
ひょろりと背の高い、自信がなくて気弱な性格の王柔。異民族である烏孫族の出身で、王花の盗賊団の一員でヤルダンの案内人。
生まれも育ちも性格も全く異なる二人でしたが、共通するところもありました。それは、二人とも「守りたい女性」があるということでした。
常日頃から「魔鬼城」と呼ばれるヤルダン。人里から遠く離れたゴビの荒れ地の一角で、砂岩の台地が複雑に絡み合う中を、案内人でなければ見分けがつかないような細い交易路が通っています。数々の逸話を持つ奇妙な形をした砂岩の像や悪霊が潜んでいるような暗がりが至る所に存在するその場所では、いま精霊の力が乱れたせいだとしか思えない不可思議な出来事が起きています。
明日は、そのヤルダンに向かって、二人が足を踏み出す日なのでした。
次の日の早朝のことです。土光村から吐露村へ向けて、小さな規模の交易隊が出発しました。
交易隊の先頭に立つのは、ナツメヤシのように細く背の高い男で、彼は白の頭布の上に赤い布を巻きつけていました。その若い男は右手で駱駝を引きながら歩いていて、駱駝の上には旅装束に身を包んだ小柄な人物が乗っていました。太陽から身体を守るためか、その人物は目深に頭巾をかぶっていました。
赤い頭布を巻いた男の傍らには、小柄でいかにも身の軽そうな少年が、こちらは馬を引きながら歩いていました。
通常の交易隊であれば、先導する者に続いて、荷を積んだ駱駝とその世話をする男たちが続いていて、それが川のように長い列を作ります。でも、この交易隊はかなり小規模で、大空を周回するオオノスリの目から見れば、ゴビを削りながら滔々と流れる川ではなく、小さな泉から湧き出した水が近くの地面に吸い込まれて消えてしまうまでのせせらぎにしか見えないのでした。
この隊は、羽磋と王柔、それに冒頓が率いる護衛隊、さらに荷を積んだ駱駝を連れた男たちで構成されていました。もともとは荷を運ぶ交易隊員が同行する予定はなかったのですが、羽磋を吐露村まで送り届けるのであれば、吐露村へ送ることが決まっている荷もそれに合わせて送ってしまおうと、小野が決めたのでした。
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