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「思っていたよりも、大規模な隊になりましたね、王柔殿」
「ええ、そうですね。でも、空荷は交易を行う者が最も嫌うものですから、小野殿は始めからこうされるおつもりだったのかもしれませんね」
「なるほど、そういうことなんですか。すごいですね、王柔殿は。私とそんなに年も変わらないのに、いろいろなことをご存じで」
「羽磋殿のような方にそんな風に言われると、なんだか恥ずかしくなってしまいますよ。僕はもう、本当に駄目駄目で・・・・・・」
誉め言葉に恐縮して王柔は下を向いてしまいました、羽磋は彼のことを悪く思う気持ちを少しも持っていませんでした。むしろ、王柔が勇気を振り絞って理亜の為に頑張るところを見て、自分もそうでありたいと思いさえするのでした。
「理亜の為に王柔殿がなさったことは、とても立派なことだと思います。理亜が奴隷の立場から解放されたことも、王柔殿のお陰ですし。それに何よりも、ほら、理亜を見てくださいよ」
「理亜を、ですか」
王柔が見上げた駱駝の上の人物は、機嫌よさげに鼻歌を歌っていました。
「ぶんぶーん、はんぶんナノー。はんぶん、ぶん・・・・・・、ん、ナニ、オージュ」
「いや、理亜、はしゃぎすぎて駱駝から落ちないようにね」
「ハイハーイ、大丈夫だヨー」
王柔が自分を気遣ってくれるのがとても嬉しいようで、理亜の声は弾んでいました。
「理亜はとても嬉しそうですよ。確かにいまは色々と大変な状況ですけど、これまでに王柔殿がなされたことは間違ってなかったと、彼女自身が証明してくれていると僕は思います」
「そう、ですか・・・・・・」
「ええ、そうですよ!」
確かに理亜は心配な状況の中にいます。でも、あのような安心しきったような微笑みを浮かべている理亜が、幸せでないわけでない。だから、これまでに王柔がしてきたことは、間違ってはいないんだ。そのような確信を持っている羽磋の言葉は、とてもはっきりとしていて力強いものでした。
ブワンッとひときわ大きな西風が、大通りに吹きこんできました。
この風は、あのヤルダンも通り抜けてきたものなのでしょうか。
羽磋は風の吹いてきた方へ目を凝らしましたが、村と外部とを隔てる木柵の他には、僅かに朱が混じり始めた青空しか目に入りません。
でも、確かに明日になれば、自分たちはあの西の空の下にいるはずです。これまで同行させてもらっていた小野の交易隊よりももっと少ない数の人たちと、悪霊の仕業としか考えられないような恐ろしい出来事が起こっているというヤルダンを通り抜けるために、明日の朝には出発するのですから。
そのように考えると、この大通りにいる人たちや彼らが立てる喧噪が、自分には全く関りが無いものであるにも関わらず、自分を守ってくれる綿入れの様に感じられてくるのでした。
羽磋を吐露村に送り届けるための小規模な交易隊が土光村を出発して、二日目の朝になりました。
「先頭の方は何やら楽しそうだなぁ。どうだ、小苑、お前も話に加わってくるか?」
「え、いいんすか? え、いやいや、遠慮しとくっす。今は仕事中っすから」
交易隊の真ん中で、先頭の二人を遠めに見ながら話をしているのは、冒頓と苑でした。
苑としては、土光村までの旅の途中で自分が仲良くしていた羽磋を、王柔にとられたような気がして、面白くないのも事実でした。でも、彼は先頭に走っていこうとする自分の身体を、必死に押しとどめていました。なぜなら、いまは周囲の警戒の為に、オオノスリの空風を飛ばしている最中なのですから。
複雑な表情をしながら上空を仰ぎ見ている苑を、冒頓はいかにも楽しそうな表情で眺めていました。その面には、弟のようにかわいがっている苑にちょっかいを出して楽しむ気持ちと、彼がしっかりと仕事を行っていることに成長を感じる気持ちの両方が、交じり合いながら浮かんでいました。
「おう、だいぶん陽が傾いてきたな。どこかでいい場所を見つけて野営しないとな。夜番は二交代制にするとして、護衛隊と交易隊のどっちからも一人ずつ出すか。おい、小苑。お前、早番はいけるか」
「もちろんっす。それで、交易隊からは誰を早番に出すんすか?」
「そりゃ、おめぇ、羽磋に決まってんだろうが」
「羽磋殿? ありがとうございますっ、冒頓殿」
苑と羽磋を同じ組にしてやろうという冒頓の粋な計らいに、苑は文字通り飛び跳ねて喜びました。
この小規模な交易隊は、冒頓が率いる匈奴の男たちからなる護衛隊と、小野の部下である月の民の者たちで構成されていますが、全体の指揮は冒頓が取っていました。荷と駱駝の世話をする月の民の男たちには、あらかじめ小野から「冒頓の指揮に従うように」との指示が出ていたのでした。
久しぶりに羽磋とじっくり話ができる喜びを体全体に表している苑に苦笑しながら、冒頓は自分たちの行く先を注意深く眺めるのでした。
羽磋が苑と共に夜の番を務めた翌朝も前日と同じように、太陽が天上に悠然と腰を据えていて、時折秋特有の薄い雲がかかることはあっても、その強い光は途切れることなく地上に降り注いでいました。
身を隠すところのないゴビの赤い大地の上で、身体を布で覆って強い日差しを避けながら進む交易隊。
その先頭には、今日も王柔と羽磋が立っていました。
王柔は羽磋の体調を心配していました。まさか、留学の徒である羽磋に夜の番が割り当てられるとは思ってもいなかったのです。
でも、羽磋に夜の番の疲れが残っているようには、見えませんでした。羽磋は貴霜族の遊牧隊の一員でしたから、季節の変わり目に草地を求めて長い距離を移動することもたくさん経験していましたし、その中では夜の番に当たることもあったのでした。
「土光村から吐露村へ行くには、ヤルダンを通らなければならないとのことですが、そのヤルダンはどのあたりにあるのでしょうか、王柔殿」
前方をしっかりと見つめながら歩く羽磋が、王柔に旅の目安を尋ねました。
足取りにどこか迷いがあり、目線が下に落ちがちな王柔とは違って、羽磋の意識は常に前にありました。
彼には、吐露村で会うべき人があったのです。そして、それは自分の大切な輝夜姫のためなのです。
時間の経過に伴って、いつしか自分の行動の元となった出来事を忘れてしまう人も多くいますが、王柔と理亜を見るたびに、羽磋は輝夜姫の笑顔を思い出し、自分の目的を改めて思い起こすのでした。
「え、ああ、ヤルダンですか。そうですね、いまはお昼頃ですから、今日の日暮れぐらいには、奇岩がぽつぽつと立っているヤルダンの入り口に着くと思います」
「まだ、半日はかかるのですか。遠いですね・・・・・・」
羽磋は少しでも先に進みたいのか、片手を筒状に丸めて握ると、それを通して前方をぐるりと見やりました。これは遊牧隊で先輩から教わった方法で、視界を狭めることで遠くのものがはっきりと見えるようになるのでした。
王柔はその羽磋の様子をまぶしそうに目を細めて眺めていました。そして、自分が引く駱駝の上の理亜を見上げました。
ぶーんぶん、はんぶんナノー。はんぶんぶん・・・・・・。
今日も理亜は機嫌よさそうに鼻歌を歌っていました。王柔はその理亜の様子を見ると、また自分の足取りが重くなってしまうのを感じるのでした。それは、「理亜をヤルダンに連れていっていいのか」という迷いが、まだ彼の中に残っているからなのでした。
「あ、あれ、王柔殿。この先に盛り上がった岩が幾つか見えますが、あれはひょっとして、ヤルダンの奇岩なのではないですか?」
「いいえ、羽磋殿。僕はこの辺りを何度も通っていますが、ヤルダンの入り口まではまだだいぶんありますから、ここいらには奇岩などないはずですよ」
羽磋よりもだいぶん背の高い王柔が周りを見る限りでは、特に変わったものは見当たりませんでした。
「いえ、王柔殿。こうして手を丸く握ってみてください。変なものが見えるのですよ!」
「羽磋殿はよほど気がせいているのだな」と思った王柔でしたが、それを口に出すわけにもいきません。羽磋の勢いに押されるように、彼の真似をして手を筒のように握って目に当て、前方を見てみることにしました。
「あ、あれ? そんな、まさか?」
王柔は一度手を開いて目をこすると、もう一度同じようにして前方を確認しました。
「ほら、ありますでしょう。岩のようなものが。王柔殿、我々は思っていたよりも早く進んでいるのではないですか」
興奮気味で話す羽磋の言うとおり、隊は思いのほか早く進んでいて、既にヤルダンの入り口にまで来ているのでしょうか。
いいえ、案内人としてこの交易路を何度も往復している王柔は、遠くに見える山々の形や、ゴビに形作られた襞の形などを記憶していましたが、それらは交易隊がまだヤルダンの入り口に至ってはいないことを示していました。
でも、王柔が目にしたそれは、確かにヤルダンの中に転がっている奇岩でした。
どうしてこんな交易路の途中に、ヤルダンの奇岩が・・・・・・。
その時、彼の頭の中に、ヤルダンにまつわる昔話の一節が浮かんできました。
「かつて、ヤルダンが溢れようとしたとき、吐露村の月の巫女が精霊に祈りを捧げ、ヤルダンの門を築いて村を守った」
それは、そのような一節でした。
「そうだ、自分が覚えているゴビの地形も、いま見ているこの岩も、どちらもが正しいんだ。おかしいのはヤルダンなんだっ」
そう考えた王柔は、羽磋に先頭を任せると、隊の中央にいる冒頓の元へと走り出したのでした。
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