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「どうした、王柔。何かあったのかっ」
険しい顔をして自分の方へ走ってくる王柔に、冒頓もすぐさま反応しました。なにしろ、王柔が自分を怖がっていることは、冒頓本人が一番良く知っているのです。彼の方から自分の方に走り寄って来ることなど、特別な出来事でもなければ、あるはずがないのです。
「ヤルダンが、ヤルダンが見えます。この先にっ! まだ、あるはずのない場所なのにです。気を付けてください。おかしいのです。何かがおかしいのです!」
「聞いたか、小苑。王柔が指さす方だ、頼むぜ」
興奮した様子で話す王柔の言葉を、冒頓は疑うことなく受け入れましした。そして、自分の傍らにいる苑に、飲み物を取ってくれとでもいうような落ち着いた声で指示を送りました。さらに、今度は一転して大きな声を張り上げて、全体に指示を送りました。
「おい、みんなっ! お客さんが来るらしいぜっ。交易隊は一塊になってゆっくりと進め! 護衛隊! 徒歩のものはその外側で警戒! 相棒がいる奴は、とっとと騎乗しろ!」
「おおぅ!!」
単調な行進を続けていたせいか静かだった交易隊の中は、一気に慌ただしくなりました。男たちの表情は、パッと真剣なものに切り替わりました。その中で王柔は、自分の報告を冒頓がまったく疑いもせずに受け入れてくれたことに、驚いていました。これまでに自分が案内した交易隊の中には、王柔のことを頼りなく思い、その指示を疑ってかかる者もたくさんいましたし、それに加えて、いま自分が報告した内容は、俄かには信じがたいものでありましたから。
でも、冒頓にしてみれば、それは当たり前のことだったのでした。
彼は、口では王柔のことをからかいもし、その考えの浅いところを指摘したりもしますが、彼のヤルダンの案内人としての仕事については信頼をしていましたし、敬意を払ってもいたのでした。自分が一度信用した男はとことん信用する。ただし、その信用を裏切った者があれば、地の果てまでもその者を追い詰めて、この世界に生まれたことを後悔させる、それが冒頓という男でした。
冒頓の指示により、スナヘビのように長く伸びていた隊列は、ゴビの海に浮かぶ一枚の木の葉のように丸く集まりました。
息を潜め周囲を警戒しながら、ゆっくりと進む交易隊。
ゴビの荒れ地に潜んでいる人がいないかと空から警戒を続けるオオノスリの空風からは、何の合図もありません。
重苦しい時間がゆっくりと流れる中で、この状況のきっかけを作った王柔は、だんだんと自信がなくなってきました。
「すみません、王柔殿・・・・・・。ひょっとしたら僕の見間違いなのかも・・・・・・」
でも、冒頓は、王柔の謝罪を受け入れませんでした。
「お前なぁ、もう少し自分を信じてやれよ。誰もお前の見たものを疑ってやしないぜ。ほら、お前本人よりもお嬢ちゃんの方が、お前の言葉を信じているようじゃねぇか」
冒頓の言葉を聞いて、自分の傍らに連れてきていた理亜の方を見ると、彼女は道の先の方から目を離せずにいるようでした。
「オージュ、なにか、コワい・・・・・・」
「ほらな、お嬢ちゃんは、ちゃんとわかっているようだぜ」
冒頓は理亜が見つめる先を慎重に見渡しながら、王柔を勇気づけるのでした。
突然。
冒頓の身体が馬上でピンッと伸ばされ、右手が大きく掲げられました。
「見えた! 前方から敵が来るぞ! お前ら油断するなよ、あちらさんはいつも相手にしているような奴らじゃなさそうだぜ。いいか、死んだら終わりだからなっ!」
「わかりましたっ」
「はい、死んだら終わりですからっ!」
あらかじめ手はずは整えられていたのでしょう。護衛隊の男たちは冒頓の号令に声を合せたかと思うと、騎乗の者のおよそ半数は右に、残りの者は左に、そして徒歩の者は中央で交易隊を守る体制にと、一斉に動き出しました。
「王柔! お前は交易隊の一番真ん中へ、お嬢ちゃんを連れて下がれ。いいか、自分の一番大事なものは、しっかりと守れよ!」
「は、はいっ!」
「ああ、それと、奇岩の変化に良く気づいてくれた。おかげで不意打ちを食らわねえですんだぜ。ありがとうよ」
自分で自分の言葉を疑ってしまったことに落胆していた王柔の表情は、冒頓の言葉に救われたように、明るくなるのでした。
そのころには、オオノスリの空風が大きく旋回する下で、砂煙が立ち上がっているのが、交易隊や護衛隊の男たちにもわかるようになっていました。
ドドド、ドドドド、ドドドドド・・・・・・。
何かが砂煙を上げ大地を揺らしながら、一塊になってまっすぐこちらへ向かって来ているのです。
「交易隊は、右後ろへ後退だ!」
冒頓は、交易隊とそれを守る者たちへ、後退するように指示を出しました。
交易隊の正面から突っ込んでくる敵を引き込んで、あらかじめ右と左に展開している騎乗の護衛隊でそれを挟撃すると同時に、おとりとなった交易隊本体はそのまま戦場から遠ざけようという作戦でした。
このような大胆な作戦で未知の敵に対応することができたのには、冒頓が言うように、王柔の報告によって相手の動きをいち早く察知することができたことが大きく貢献していました。
ドド、ドドド、ドドドドド!
「うわぁ、なんだあれは・・・・・・」
「信じられん。前もって聞いてはいたが、本当にこんなことがあるのか・・・・・・」
もう護衛隊の者たちにも、自分たちに向かってきているソレがどのようなものかが、見て取れるようになっていました。
異形。
その姿を表すには、これ以上の言葉はないと思われました。
サバクオオカミの姿を大まかに写し取ったいびつな砂岩の塊が、激しく地面を蹴りながら近づいてくるのですが、獣が起こす「ハッハッ」という荒い息遣いや、体から立ち上がる湯気などは、そこからは一切生じていませんでした。感じられるものと言えば、ソレらが立てる足音だけなのでした。
目にしている光景があまりにも非現実的なものであったので、ヤルダンに不思議なことが起きていると前もって聞かされていなければ、護衛隊の男たちは自分が起きているのか寝ているのかさえも、自信がなくなってしまうところでした。
ドドッ! ドドドドッ! ドドドドッ!
「まだだ、まだ撃つなよ!」
これまでには経験したことのない状況下であっても、護衛隊の男たちは、恐怖のあまり命令を待たずに射掛けたり、あるいは、持ち場を捨てて逃げ出したりすることはなく、じっと冒頓の攻撃命令を待っていました。それは、敵からこのような異質で強い圧力を受ける下ではとても困難なことなのですが、彼らが持つ冒頓への強い信頼がそれを可能としていたのでした。
「よし、よし。もうすぐだ。へへ、あいつら頭ン中まで砂が詰まっているらしいぜ。まっすぐ突っ込んできやがる」
ブツブツとつぶやく冒頓の傍らでは、羽磋と苑が息を凝らしながら彼の様子を見つめていました。苑の両手には、小さな銅鑼とバチが握られていました。
わずかな時間、沈黙があったでしょうか。
次の瞬間、冒頓は叫びました。
「よし、いまだっ!」
ドーン、ドーンン、ドーンン・・・・・・。
冒頓の合図を受けた苑は、持っていた銅鑼を大きく鳴らしました。その低く力強い音は、すぐ近くまで迫ったサバクオオカミの砂岩が立てる足音を上塗りし、左右に分かれていた護衛隊全てに行き渡りました。
「よし、いけえいっ」
「ほら、よおぅ!」
シュウッ!! シャシャシャッ!!
自分たちに圧し掛かっていた重苦しい何かを吹き飛ばすように大きな声で叫ぶと、男たちは一斉に矢を放ちました。
その矢は雨のようにサバクオオカミの群れに降り注ぎました。でも、サバクオオカミの奇岩は、自分たちを傷つける無数の矢に驚いたり、それを避けようとしたりはしませんでした。それらは、まるで生きているかのように動いているのに、驚いたり怖がったりするような心を全く持ち合わせていないかのようでした。
バシッ。
一本の矢が、サバクオオカミの奇岩の足を吹き飛ばしました。
ドス、ドスッ。
続けざまにいくつもの矢が命中した奇岩もありました。矢は胴体の一部を突き崩して、地面に突き刺さりました。
しかし、サバクオオカミの奇岩たちは、痛がるそぶりを見せるどころか、自分の体の一部が砕けたことにも気が付かないようで、護衛隊の男たちに近づくために、ただひたすらに無言で大地を蹴り続けるのでした。
それは、ほんのわずかな時間であったかもしれません。でも、あまりにも常軌を逸した相手の圧力に、護衛隊の男たちの気が揺らぎました。
「うわぁ!」
護衛隊の男の一人が、大声を上げました。自分の心が麻痺していたその間に、サバクオオカミの奇岩の先頭が、目の前まで来ていたのでした。
「あああああっ!!」
男は慌てて弓を放り投げて剣を抜こうとしましたが、恐怖のあまり身体がうまく動きません。彼にできたことは、唯一動かすことのできた口を大きくあけて、かすれた叫び声をあげることだけでした。
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