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「さぁて、どうするかなぁ」
冒頓は誰に聞かせるでもない言葉を、頭の上に向かって放り投げました。
「今日中には、何とかヤルダンの入り口にたどり着けそうです」
案内人である王柔がそう言ったのは、襲撃を受ける前のことでした。
予想もしないところでサバクオオカミの奇岩の群れに襲われはしましたが、ほとんど被害を生じることもなくそれを壊滅させました。苑の合図で自分の元に集まってきた交易隊や護衛隊の男たちの士気は、大いに上がっています。
でも、冒頓が見上げた空は、昼間に広がっていた目に染みるような青い色が薄れ始めていて、あと数時間で夜が来ることを彼に教えていました。
当初の計画では、昼間に進めるだけ進んだ後でヤルダンの入り口近くで野営し、次の日の朝にその中に踏みこむつもりでした。
しかし、このような襲撃の後では、ヤルダンの近くで野営をするなんて、とても危険なことにも思えてきます。
では、この場に留まって野営をした方が安全なのかといえば、そう言い切ることもできません。なぜなら、いま正に、ヤルダンの外、交易路の途中で奇岩に襲われたばかりなのですから、再び同じことが起こらないとはとても言い切れないのです。
そもそも、ヤルダン自体にも一日で抜けることができないほどの長さがありますから、その中のどこかで危険を承知の上で野営をしなければなりません。冒頓たちがこの不可思議な現象の原因とにらんでいる「母を待つ少女」の奇岩は、ヤルダンの東側、つまり、土光村側にありますから、うまく距離を測って行動すれば、ヤルダンの中で野営することなくその場所まではたどり着けそうなのですが・・・・・・。
いつもならば冒頓の傍には副官の超越がいて、彼が思いついたままのことを口にしても、落ち着いた意見を加えてくれるのですが、ここにはおりません。始めの考えから最後の決断までを、冒頓が自分一人で行わなければなりません。
如何に即断即決の冒頓と言えども、日頃はあまり感じることのない「焦り」という感情がチクチクと喉元を刺してくるのを、煩わしく感じずにはいられませんでした。
考えを巡らせながらぼんやりとあたりを見やっていた冒頓の目に止まったのは、理亜の姿でした。彼女は冒頓の向かい側で、王柔の隣に座っていました。襲撃の前までは「はんぶん、はんぶんなのー」と、お気に入りの鼻歌を歌っていたのに、いまでは立てた膝を両手で抱えてすっかりと大人しくなっていました。
「ああ、そうだ。王柔、さっきの戦いの間、お嬢ちゃんの様子はどうだった」
「はい、冒頓殿。僕たちは交易隊の皆さんと一緒に後方に下がりましたが、そこからでも戦いの様子は良く見えました。理亜にはあまり見せたくはなかったのですが、いつでも動けるように駱駝の上に乗せたままにしていたので、隠すこともできず・・・・・・。それで、あの恐ろしい戦いを見ていたせいか、すっかり元気をなくしてしまいました」
「そらぁ、まぁ仕方ねえな。それで、あのお得意の唄も出てこないってわけだ。そういや、王柔、あのはんぶんの唄はいったいどこで覚えたんだ。俺も月の民に来て長いが、あの唄は聞いたことがないぜ」
二人のやり取りを横で聞いていた羽磋も、冒頓の言葉に合わせて王柔の方を向きました。彼も理亜が歌うあの唄が気になっていたのでした。それは、月の民で生まれ育った彼も知らない唄なのでした。
「ああ、あの唄ですか。あれは・・・・・・」
冒頓の問いに王柔は応えにくそうにしていましたが、彼と冒頓の間の力関係では、質問に答えないという選択肢はありえません。それで、とても恥ずかしそうに首の後ろを掻きながら、王柔はぽつりぽつりと理亜がその唄を覚えた経緯を話しだしました。
それは、あの王花の酒場の奥の小部屋で話し合いがあった、次の日のことでした。
話し合いの中で冒頓に「お前はどうするんだ」と問われた王柔は、一晩中自分にできることは何かを考え続けました。そして、一つのことを思いついていたのでした。
それは、理亜を連れて「精霊の子」を訪ねる、ということでした。
「精霊の子」とは、稀に生まれてくる、他の子供たちより発達の程度が遅かったり、周りの人との意思の疎通が困難だったりする子のことでした。彼らの中には、周りの人間とではなく精霊と言葉を交わしているような子たちもたくさんいましたから、人々は彼らのことを「精霊の子」と呼び、自分たちよりも精霊に近い存在として扱っていました。
遊牧民族である月の民は、ゴビという厳しい環境の中で草地を求めて移動を繰り返し、うまく連携をしながら少ない人数でも多くの家畜を養っています。でも、このような遊牧生活にそのような子供が適応し活躍することは、大変難しいと言えます。
そこで月の民の人々は、それぞれの部族の根拠地の中で「精霊の子」たちを育てていました。また祭事や戦いなどの吉兆占い等を執り行う際には、「月から来たもの」という共通の祖先をもつ兄弟である精霊と自分たちの橋渡しを任せるのでした。そう、「精霊の子」は彼らにとって「厄介者」ではなくて、敬意を持って接するべき存在なのでした。
理亜が土光村に辿り着いた時に、彼女は王柔の触れることができないまま、日没と共にその姿を消してしまいました。それを見た王柔は、自分の理解を超えた出来事に圧倒されて意識を失ってしまいました。そして、連絡を受けた王花が王柔を酒場に引き取り休ませていたところ、翌朝を迎えた時に再び理亜が彼の傍らに現れたのです。
盗賊団のまとめ役としてこれまでに様々な経験を積み重ねてきた王花にとっても、このような不思議な出来事は見たことも聞いたこともありません。でも、「しっかりと肝の据わった女性」で「みんなのお母さん」と評されている彼女は、それを無理に理解しようとはせずに、最初の大きな驚きが過ぎた後には、「自分を頼ってくれた小さな女の子」として理亜を受け入れていました。そして、本当の保護者の様に彼女の身体について心配をするようになりました。ひょっとしたらこの不可思議な出来事について何か知りはしないかと、その日の昼には村の長老元を訪ねたほどでした。
本来ならば、このような人間の世界よりは精霊の世界に近い出来事については、月の巫女に相談するのが一番良いのですが、土光村には月の巫女がいなかったのです。そのため彼女たちは多くの知恵を持つ長老を訪ねることにしたのですが、残念ながら自然との付き合い方や遊牧の仕方などには明るい長老も、理亜の身に起きているような出来事には何の助言も持っていなかったのでした。
記録を残すのではなく口伝てに経験を伝えていく遊牧民族では、長老が知らない、わからないということは、他の誰にも知り得ないことであるということでありました。つまり、そこで「これは誰にもわからないことだ」とあきらめてしまっても、おかしくは無かったのです。でも、冒頓の激しい言葉に突き動かされていた王柔は、諦めません。自分にはまだできることがあるのではないか、と考え続けました。そして、彼が辿り着いた答えが、理亜を連れて「精霊の子」を尋ねるということだったのでした。
精霊の子は人よりも精霊に近い存在とされ、人と細かな意思の疎通をすることは困難とされています。また、彼らは村の中で大切に守り育てられていて、多くの場所で様々な経験を積んでいるわけではありません。ですから、長老の様に「知恵のある者」とは言い難いかもしれません。
でも。
いま必要なものは、人の世界に属した知恵などではないはずです。
「そうだ、そうだよ。理亜の身体に起きていることは、僕たちの常識を外れたことじゃないか。もしヤルダンに棲むといわれる悪霊がこのことの原因なら、僕らよりも精霊に近い精霊の子が、何かを教えてくれるかもしれない。そりゃ、行ってみたところで、話もできなくて無駄足になるかもしれない。だけど、それがなんだ。できることは全部やってみるんだ」
自信がない時には、もしも何かを思いついたとしても、それをしないことの理由を自分自身で作り出してしまって、実行に至らないことがあります。これまでの王柔は、そのようなことがたくさんありました。
でも、いまの王柔は違いました。
「お前は、どうするんだ」
冒頓は、そう言いました。
「お前には、何ができるんだ」
冒頓は、そうは言わなかったのです。
冒頓が言いたかったことは、王柔の心にしっかりと伝わっているようでした。
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