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女の気が変わらないうちにと王柔たちは急いで敷地の中に入っていきました。出入口の先には大きな中庭が広がっていて、それを日干し煉瓦造りの建屋がぐるりと囲っていました。
女が王柔たちを導いた先は、建屋の中ではなく中庭の方でした。彼女は庭のちょうど真ん中に立つ背の低い木の方を指さすと、何も言わずに入り口近くの建屋の中へと戻っていってしまいました。
「え、えーと。どうすればいいのかな。精霊の子はどちらにいるのかな?」
応対してくれた女が精霊の子のところまで連れて行ってくれるのだと考えていた王柔は、彼女の冷たいとさえ言えるかもしれない非常にあっさりとした対応に戸惑ってしまいました。
それでも、このまま入り口の近くにずっと立っているわけにもいきません。
一体どこの建屋に入ればいいのかもわからない王柔は、辺りを見回してみようと、中庭の中央に立つ低木の方へと歩きだしました。
「どこかに誰かがいないか、理亜も見てくれないか。まったく、あの女の人も精霊の子のところまできちんと案内してくれればいいのに・・・・・・」
「呼んだかい、僕のことを」
「うわぁっ!」
「きゃっ、ナニ?」
周りの建物に目をやっていた王柔たちは、自分たちの近く、それも足元の方から突然に呼び掛けられて、驚きの声を上げてしまいました。
「なんだい、大声を上げて。ああ、君たちは、ここには誰もいないと思っていたのか」
王柔に声をかけたのは、低木が中庭に落としていた濃い影の中で休んでいた少年でした。
王柔たちが周りに注意を払っていたせいでしょうか、あるいは、少年が木や地面と一体化していたとでもいうのでしょうか、声をかけられるまで王柔たちは彼の存在に全く気づけずにいたのでした。
「ここここ、こん、こんにちは。あ、ああ、その、あの、あなたが精霊の子、ですよね。ぼぼ、僕は、王柔と言い、言いますっ」
精霊の子に会ったらどのように自分たちのことを説明しようか、王柔はあらかじめ考えていました。さんざん考え過ぎて眠れなくなるほどでした。それなのに、精霊の子が急に現れたせいか、王柔の心は平常の位置からすっかり上ずってしまい、せっかく準備していた言葉も思うように出てこないのでした。
木陰の中からゆっくりと王柔たちの前に出てきた少年は、理亜と同じぐらいの年齢に見えました。多くの月の民の少年と同じように、短い袖の筒衣と下衣を身に着けていて、肸頓族の色である赤色に染められた布を腰に巻いていました。また、頭には白い布を巻いていて、その下から覗く黒髪は肩口で綺麗に切りそろえられていました。その姿には、彼が精霊の子であることを示すものは、何もありませんでした。
でも、王柔はこの少年を一目見たときから、彼が精霊の子であることを確信していました。
どうして、王柔はそこまでの確信を持ち得たのでしょうか。
それは、少年の瞳でした。
その少年の目は何のてらいも無く、ただただまっすぐに王柔に向けられていました。その瞳の輝きが、明らかに他者のそれとは異なっていたのです。
キラキラとした少年らしい輝きも、ギラギラとした他者への興味も、そこにはありませんでした。でも、その瞳からは全てを吸い尽くすような強い力が感じられるのです。自分の顔や体だけでなく、心の裏側までもが、その瞳に映っているような気がしてくるのです。
少年の言葉を待っているうちに、王柔はだんだんと彼の瞳が大きくなっていくような気がしてきました。もちろん、そんなことがあるはずがありません。でも、そうとしか思えないのです。少年の目は彼の顔の一部であり、そして彼の身体は王柔よりもずいぶんと小さく、もちろんその顔もずいぶんと小さいはずです。でも。ああ。
何の感情も示さない少年の瞳は、王柔を飲み込むかのようにどんどんと大きくなり、天に向かって伸びるそのまつげは王柔の顔に薄く影を落としました。ぱちぱちと繰り返される瞬きが起こす風が、王柔の前髪を揺らしました。
「あ・・・・・・、あなたは・・・・・・、誰、ですか?」
いまでは自分の頭よりも大きくなって迫ってくる眼球、その中心にある真っ黒な真円に映しだされている男に、王柔は語りかけました。その黒い海に浮かぶ細い体つきの男は、いかにも心細そうに両腕をぎゅっと自分の体に巻き付けていました。
王柔は、この男を知っているような気がしました。それも、とても身近な存在として知っていると思いました。
さらに大きくなって空の青さも日干し煉瓦造りの建物もその背に隠してしまった少年の眼球、その真ん中に映る男の背中に、王柔の心は吸い寄せられてしまいました。彼はなにも考えることができないまま、ゆっくりと男のところへと歩きだしました。
王柔のつま先が、白い雲のような白眼に触れようとした、その時。
「こんにちは、あなたが精霊の子デスカ?」
何の不安も帯びていない健やかな少女の声が、王柔の耳に飛び込んできました。理亜です。理亜の声です。
「理亜?」
王柔の心の目が精霊の子からわずかにそれたとたん、すべての怪異は消え去りました。あの自分を飲み込もうとしていた精霊の子の眼球などは、最初から全く存在していなかったかのように、何の痕跡も残されていませんでした。
「やあぁ、君は僕を見てくれているんだね! まったくありがたいよ。何しろほとんどの人は、僕ではなくて自分の見たいものを見てしまうからね」
理亜の声に応えた少年の声には、少しの驚きが混ざっていました。でも、それ以上にたくさん混じっていたのは、嬉しさでした。
精霊の子の口ぶりは、まるで、王柔が何を見ていたかを知っているかのようなものでした。彼は意味ありげに肩をすくめると、王柔と理亜を見比べるのでした。
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