
![]()
「兎歯、だと。おめぇは確か……」
「は、はい。交易隊の兎歯です。隊の先頭の方で駱駝を引いております」
王柔と似たような細身で、兎の歯のように飛び出た前歯と切れ長な目が特徴的なこの男は、皆から兎歯(トシ)と呼ばれていました。兎歯の役割は、交易隊の前の方で駱駝を引くことでした。ただ、彼はこの場に集まって冒頓に報告をしている小隊長格の男ではなく、その部下に当たる男です。そのような男が、怪我をしている体を押しながらこの場に駆けつけて、一体何を言おうとしているのでしょうか。
冒頓の鋭い視線が苑から自分に向けられると、兎歯も自分の身体が緊張で固くなるのを感じました。でも、言わなければいけません。自分が見たことを、冒頓に報告しなければいけません。
「冒頓殿。羽磋殿と王柔殿は、理亜を乗せた駱駝が興奮して走り出さないようにと、道の真ん中で必死に手綱を引いていました。そこへ、あれが来たのです。激しく興奮した駱駝の群れが。そして、その群れの中の一頭が、理亜を乗せた駱駝にぶつかったのです。それで……」
「それで? それでどうしたんだっ」
冒頓の前に立った兎歯は、弾む息を何とか押さえつけて、とても言いにくいことを一気に口にしました。一息で言い切らないと二度と話し始めることはできないだろう、兎歯にそう思わせるほどの圧力が、冒頓の全身から発せられていました。
「それで、突然後ろからぶつかられてびっくりした駱駝は細道から飛び出して、崖下に落下してしまいました。背に乗っていた理亜はもちろん、手綱を引いていた羽磋殿や王柔殿も一緒に、崖下に落下していきましたっ」
「落ちたのか・・・・・・。羽磋も王柔も・・・・・・」
「はい・・・・・・。私は駱駝の暴走を避けるために壁際に逃げていましたが、羽磋殿たちが落ちるところを、この目で見ました。申し訳ありません、どうすることもできず・・・・・・」
冒頓の脳裏に、まるで自分で見たことのように、その時のことが思い浮かびました。
あの時は細道全体に大変な轟音と異常な興奮が満ちていましたから、理亜を乗せた駱駝も興奮してしまって、前方へ走り出そうとしたのでしょう。王柔はもちろん、その横にいた羽磋も、駱駝が走り出して理亜が振り落とされたりしないように、必死で手綱を引いて止めたに違いありません。自分たちの後ろから興奮した駱駝たちが激流となって押し寄せてきたとしても、理亜を放っておいて自分たちだけが壁際に避けるなど、あの二人がしようはずがありません。そして、その結果、興奮した駱駝にぶつかられた理亜を乗せた駱駝が、驚いて空中に飛び出してしまったのに引きずられて、羽磋と王柔も空中に飛び出し、そのまま崖下に転落していったのでしょう。
この崖下がどうなっているのかは、よくわかりません。一番下を川が流れているのは間違いないようですが、水面から交易路までどれくらいの高さがあるのかもわかりません。もちろん、そこまで下りていくような道もありません。
「羽、羽磋殿おっ」
兎歯の報告でこの場に生じた絶望的な空気に耐えかねたのか、それとも、一縷の希望を探すためなのか、前触れもなく苑は広場の中央から端に向かって走り出しました。細道の崖下を流れていた川は、この広場の遥か下の方で岩壁の中に吸い込まれています。広場の縁まで来た苑は、自分も崖下に転落するぎりぎりの所まで身を乗り出して下を眺めましたが、月明かりの下では崖下の様子は全く分かりませんでした。
「羽磋殿ー、返事をしてください、羽磋殿ーっ」
苑が羽磋に呼び掛ける声が、辺りに響き渡りました。でも、谷底から返ってくる声は苑のものだけで、羽磋や王柔の声はもちろん、落下した駱駝の鳴き声さえも返ってはこないのでした。
冒頓が羽磋のことを気に入っているのは、この場にいる誰もが知っていました。また、ここまでの旅の間に、羽磋は護衛隊や交易隊の中に溶け込み、皆に好かれていました。それに、そもそもこの隊が編成された目的の一つは「羽磋を無事に吐露村へ送る」ことでした。
そのため、苑が必死に繰り返し羽磋に呼び掛ける声は、冒頓だけでなくて、この場にいる全員の上にも非常に重苦しくのしかかるのでした。
「おい、もういいぞ、苑。もう、十分だ。隊に戻って、空風の世話でもしていろ。明日の朝になったら、空風に見てもらうかもしれねえからな。俺たちはこっちで、これからの話を続けなきゃなんねぇ」
何度目かの苑の呼び声が風に流されて行ったあとで、冒頓はもう十分だと苑に呼びかけました。それは、自分の中の迷いを断ち切るような、とてもはっきりとした声でした。
冷たいようではありますが、いまは母を待つ少女の奇岩とサバクオオカミの奇岩に襲われて、その被害の状況を確かめているところです。一刻も早く現状を把握し、必要な指示を出さなければ、万が一再び敵に襲われた時に対処のしようがありません。それに、羽磋たちのことを含めて今後どうするかの明確な方針を示すことは、敵の襲撃を受けて不安な気持ちを募らせている隊員を落ち着かせるためにも、最も大切なことなのでした。
もちろん、羽磋のことを冒頓が心配していないわけではありません。でも、この隊を率いるものとして、冒頓は苑のように感情に流されるわけには行かないのでした。
ただ、冒頓は羽磋たちが崖下に落下したと聞いて自分の心が激しく波打つのを感じましたが、不思議なことに、それは「羽磋が死んだ」という報告には聞こえませんでした。普通に考えれば、この交易路から落下して命が助かるとはとても思えないのにです。あるいは、それは自分が作り出した「都合のいい願い」なのかもしれませんが、速やかに隊をまとめなければならないこの状況もあって、冒頓はその自分の直感がどこから来たのか、それを信じられる根拠は何なのかなどについて深く考えることはせずに、ただそれを受け入れたのでした。
しょんぼりと肩を落とした苑が野営の準備に戻っていった後のこの場の雰囲気は、とても緊張したものになってしまいました。怒りや悔しさや心配、それらが表面に現れないように努力していたからか、それとも、この集まりが襲撃の被害の確認というとても事務的な目的であったことからなのか、いつもなら冒頓の口からでる陽気な軽口も全く見られません。そのため、被害状況の聞き取りは思っていた以上に順調に進み、焚火に新たな乾糞が足されるころには、冒頓は現在の隊の状況を詳しくつかむことができていました。
交易隊と護衛隊の中には、落下してきた大岩に当たって命を落とした隊員は、幸いにも出なかったのですが、多くのけが人が発生していました。また、岩に打たれて死んでしまった駱駝や、狭い道を勢いよく走ったせいで崖下に転落してしまった駱駝が、数多く出ていました。救いと言えば、走り出した駱駝の多くを積んでいた荷と共にこの広場で回収できたことでしたが、先ほどの兎歯からの報告にあったように、そもそもの目的である、羽磋を吐露村へ安全に送り届けるということは、その当人である羽磋が崖下へ落下しまっていて、とても難しい状況となっていました。
これらをまとめて一言で言い表すとすれば、母を待つ少女の奇岩が行ったと思われる襲撃で、冒頓の護衛隊と交易隊は大損害を受けた、というところでしょう。
では、この後、隊はどうするのでしょうか。土光村へ戻るのでしょうか。それとも、このままヤルダンへと突入するのでしょうか。崖下に落下した羽磋たちのことはどうするのでしょうか。いったい冒頓はどのような決断を下すのでしょうか。
![]()