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その背中が他人から声をかけられるのを強く拒んでいるように思われたので、自分の足が赤土を踏みしめて生じるザクザクという音で彼を煩わせることがないようにと、苑はできるだけゆっくりとその男に近づいていきました。
それでも、その男はかなり離れた所でからでも苑の気配に気づいたようで、下を向いたままで言葉を寄越しました。それは、怒りを含んだ激しいものでもなく、哀しみを含んだ冷たいものでもありませんでしたが、いつもの男の言葉の調子からは程遠い、とても静かな口調でした。
「よお、苑か。眠れなかったんだな。明日はまたしっかりと働いてもらわなきゃならねえんだが、まぁ、仕方ねぇよな」
広場の縁に立って谷底を見下ろしている細身の男は、この交易隊と護衛隊を率いている冒頓でした。
彼に気づかれてしまった以上、もう気を使う必要はありません。苑はいつもの軽い足取りで冒頓の横に来ると、彼と同じように谷底を見下ろしました。
もとより深夜のことですから、ここに太陽の光などはありません。それでも、広場の開けた場所では月の明かりの恩恵を受けることができるのですが、複雑に張り出した岩壁のさらに下を流れる川面まではそれも届きません。
何か手掛かりとなるものが見えやしないかと、祈るような気持ちで苑が見下ろした谷底は、まるで濃い黒雲で満たされているかのようで、どれだけ注意をして見ても、そこには何も見て取ることはできませんでした。
「冒頓殿・・・・・・。谷底に落ちてしまったという羽磋殿や王柔殿、それに理亜は・・・・・・、きっと無事っすよね。大丈夫っすよね」
もちろん、冒頓にとっても谷底に何も見て取れないのは同じなのですから、答えが、それも、良い答えが返ってくるはずなどありません。それでも、苑は冒頓に尋ねずにはいられませんでした。自分の内側にとどめ続けるのが困難なほどに、羽磋たちに二度と会えないのではないかという不安が、大きくなってきていたからでした。
冒頓は、自分の横に立つ小柄な少年にちらりと目を向けると、また谷底に視線を戻しました。
「冷たい言い方になるかもしれねぇが、わかんねぇ。普通に考えりゃ、この高さから下に落ちりゃ、命はないさ。だが、ありがたいことに、ここの下には川が流れているようだからな。うまく川に落ちて、うまく流れに巻き込まれず、どこかの岸に上がれていれば、あるいは・・・・・・」
谷底に充満している暗闇のその向こう側を想像するかのような冒頓の言葉は、「そうであってくれればいいのだが」という思いを込めたものでした。
彼自身が言うように、この高さから落下しているのですから、固い地面に激突したり、張り出した岩壁にぶつかったりすれば、とても命はないでしょう。運よく谷底を流れている川に落ちたとしても、その川の水が少なければ、落下の衝撃を十分に和らげてはくれません。一方で、川の水が多い場合はと言えば、川の流れに巻き込まれて溺れてしまう恐れがあります。つまり、幸運にも川に落ちたとしても、大怪我を負うか、それこそ命を失うことまでも、十分に考えられるのです。
ただ、自分の中でそのような判断がなされていることを自覚しつつも、冒頓はそれを受け入れることに難しさを感じていました。その理由は、自分が気に入っていた羽磋という男へのこだわりなのかもしれません。あるいは、理屈ではない、勘とでも言うべき何かが、彼に囁いているのかもしれません。いずれにしても、これまでは戦いで仲間が倒れた場合にも、「死んだら終わりだ」として、残念には思いつつもそれを割り切って前へ進んできた冒頓が、このような心の持ち様になるのは、とても珍しいことなのでした。
「そうっすよね。羽磋殿はとても身軽な方ですし、王柔殿も理亜のこととなると必死で頑張る方ですし、きっと、大丈夫っすよねっ」
一抹の希望を示す冒頓の言葉に、すかさず苑は飛びつきました。苑も、この状況を考えると、羽磋たちが生きているとはとても考えにくいことはわかっていました。でも、彼は冒頓よりもずっと年若い成人前の少年でしたから、彼よりもずっと簡単に、そのような受け入れたくない考えよりも、自分の感情に沿った希望にすがることができるのでした。
「ああ、おそらく、な」
冒頓は、苑の少年らしい素直な物言いに、どこか救われたような気がして口元を緩めました。自分一人では持ち得なかった希望を、この少年が手渡してくれたような気がしたのでした。
「明日の朝、明るくなったら空風を飛ばして、羽磋たちを見つけてくれや。頼むぜ。そうしたら、今度はあいつらを引き上げる手段を考えないといけねぇから、それはそれで大変だがな。ハハハ。まぁ、そいつは、明るくなってからの話だ。明日、お前が空風を上手く操れないと、それこそ羽磋たちが困っちまう。もう戻って、寝てしまえよ、小苑」
背中を軽く叩きながら、冒頓は苑に戻って体を休めるように言いました。彼の言うとおり、これ以上ここで谷底を見下ろしていても仕方がありません。それに、苑の中で湧き上がっていたどうすることもできない強い感情も、冒頓と話をし、共に谷底を見つめることで、すっかりと消えてしまっていました。
気分の軽くなった苑は、冒頓に対して勢い良く頭を下げると、眠りに付くために広場の中心の方へ戻ることにしました。焚火の明かりが力を及ぼす圏内に入ろうとするところで、彼が後ろを振り返ってみると、冒頓は相変わらず広場の縁に立っていて、そこから谷底を見下ろしているようでした。
「俺にはああ言ってたけど、やっぱり冒頓殿は、羽磋殿たちのことが気にかかってるんだな」
苑のように表に出せない分、冒頓の心に生じたもやもやとした気持ち、なんとかしたいのにどうしようもできないという焦燥感は、容易には消えてくれないのかもしれませんでした。
再び足音を忍ばせながら、苑は自分の寝場所と定めた砂岩の陰に戻ってきました。いざというときの為に近くに留め置いている愛馬だけが、苑の帰りに気づきました。苑はその鼻面をつるんとなでると、マントを被って横たわりました。
羽磋のこと、王柔のこと、理亜のこと。それに、冒頓のこと。
いろんなことが心の波の上に浮かんできますが、もうそれらが先ほどのように苑を悩ませることはありませんでした。
健康な少年の体は、休息を必要としていました。
横たわってからさほどもせずに、苑は深い眠りに落ちていくのでした。
次の日の朝。
まだ薄暗い中で、多くの者がマントに包まり体を休めている横で、苑だけが動き始めていました。隊の物資を運ぶ駱駝が集められているところへ行き、飼い葉と水を手にして戻ってくると、愛馬の世話を始めました。それを手早く終えると、今度は自分の荷を下ろしておいた場所へ行き、布がかけられた大きな木箱を引き出しました。木箱の中からは鋭い鳴き声が漏れてきていました。それは、オオノスリの空風を夜の間休ませている箱でした。
苑は身体をそらして空を仰ぎ見ました。
頭の上の空は黒青の夜の色をしていますが、東の方へ行くにつれて、だんだんと黒色が抜けて青色が勝ってきています。そして、ゴビの大地との接線が近くなると、今度は薄い黄白色や橙色が現れてきています。
まもなくです。まもなく、夜が明けようとしているのです。
苑は少しの間、布の隙間から木箱の中を覗いて空風の様子を確かめるなどして過ごしました。
そして、ついに、その時が来ました。
頭上の空が早朝の鮮やかな青色に変わり、砂岩や駱駝や馬たちがそれぞれの影をゴビに落とし始めたのを確認するやいなや、苑は空風の入った木箱を覆っていた布を勢いよく取り去りました。そして、箱のふたを開けて空風を外へ出すと、大空に向かって差し出しました。
「行け、空風っ! 谷底のどこに人がいるかを探して、教えてくれっ」
苑の上げた大声に乗って、空風は翼を大きくはためかせて飛び立ちました。苑の頭上を、広場の上を、ぐるぐると回って風をつかまえながら上昇していきます。
苑は空風に指笛で指示をしながら、広場の谷に面した縁の方へと走っていきました。もう周りの人たちのことは彼の頭から抜け落ちています。朝早くから何事だという文句が男たちから彼に投げかけられますが、それは広場の縁へ急ぐ彼には追い付かず、動き始めた朝の空気の中へ溶けていきました。
「もうすぐ、もうすぐだ。空風が、羽磋殿たちを見つけてくれるっ」
広場の縁に立ち、谷の上を旋回するオオノスリを見つめる少年の瞳は、希望に溢れていました。
でも、時間が経過するにつれて、その瞳は深い心配の色で染められていきました。
どれだけ待っても、オオノスリの空風はただ谷の上空を舞うだけで、人の姿を認めたとの合図を送ってこないのです。
朝一番では明るい希望に溢れていた苑の顔には、いまでは不安と苦しみが深いしわを刻んでいました。
不意に苑の肩に手が置かれました。びくんっと苑の体が震えました。
そして、それと同時に、冒頓の落ち着いた声が聞こえてきました。それは、苑が空風に指示を送りながら、いつ来るかいつ来るかと、恐れ続けていたものでした。
「小苑、いまはここまでだ。そろそろ行くぜ」
その声は、羽磋たちを探すのをやめるように、と苑に告げるものでした。
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