コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【掌編小説】ムラサキの香り  ~ココロにパフュームをⅣ

f:id:kuninn:20210301001411j:plain

 

 

「ええっ! 虹って、七色じゃないんですかっ?」

 思ってもみなかったことを聞いてびっくりしたわたしは、広い店内の隅々にまで響き渡るほどの大声をあげてしまった。わたしは、ひゃっと身体を小さくして、あわてて口元を押さえた。

「ご、ごめんなさい、大声出しちゃって。でも、七海、本当なんですか。子供のころからずっと、わたしは虹は七色だって思ってきたんですけど」

「あたしもさくらと同じで、虹は七色だと思ってたよ。というか、思うよ。たしか、音階に対応してるんじゃなかったけ、アレは」

 わたしの向かい側に座っている響ちゃんも、不思議そうな声で七海に尋ねた。もっとも、その目は七海の顔ではなくて、七海が持ってきてくれた「ふんわりパンケーキ ダブルサイズ」に向けられていたんだけど。

「はい、お待たせしましたー。さくらは、抹茶シフォンと紅茶だね。そして、響はいつもの、だね」

「ありがとねー、七海っ。感謝、感謝ですっ」

 七海に向かって大げさに手を合せて感謝を示す響ちゃん。その前に置かれていたのは、明らかに枚数も大きさも「ダブルサイズ」な、つまり「フォータイムスサイズ」な、どんっという効果音がふさわしい、スペシャルなボリュームのパンケーキだった。

 さりげなく響ちゃんの前に大ぶりのシロップポットを二つ置きながら、アルバイト中の七海はわたしの質問に答えてくれた。

「あれ? 理系のさくらの方が詳しいと思ったんだけど・・・・・・」

 

   ◆◇◇◇◇

 

 わたしたちがいるのは、大学や専門学校が立ち並ぶ学生街の外れにある「木琴鳥」(モッキンバード)という喫茶店だ。木をふんだんに使った広い店内はゆったりと落ち着いた雰囲気で、今日は外に面した大きな窓に雨粒が当たるあいにくの天気なんだけど、とても居心地がいい。

「特に料理の修業をしたことがないからさ、自分が出す皿は全て真似事だよ」とマスターは謙遜するれど、ここで出される料理や飲み物はどれも美味しい。それに、学生にとって大事な点である価格もお手頃だ。七海がアルバイトをさせてもらっていることもあって、わたしたちは溜まり場にさせてもらっている。

 わたしの名前は「朝倉 さくら」。

 調香師を目指している大学一年生。夢は「香りで人に幸せを届けること」だ。今はまだ、調香師の道に進むための準備をしている段階で、まだまだ勉強することがいっぱいだ。頑張らないと。

 わたしの向かい側で、パンケーキをほおばって幸せに浸っている背の高い女の子は、「諏訪部 響」ちゃん。

 身長は170cmぐらいはあるんじゃないかな、とっても背が高い。それに、食べるのが好きな子なんだけど、食べたものはどこに入っていくんだろうっていうぐらいにスタイルが良い。よく食べてよくしゃべる、明るい子だ。

 ふわっとした栗色の豊かな髪は肩に当たるあたりで切りそろえられていて、オフホワイトの大きめのカットソーからのぞくデコルテがとても綺麗だ。響ちゃんはシンプルな服が好きなようだけど、いつもとても良く似合っている。

 響ちゃんは、わたしと同じ女子学生向けマンションの住人で同い年だ。彼女はピアノを専攻している音大生で、夢は「音楽で人を幸せにすること」。そう、わたしと、それに七海とも、同じ夢だ。

 時々、彼女は此処ではないどこかのお話、今ではないいつかのお話を、前触れもなく始めることがある。それは、何かがきっかけとなって、彼女が体験する世界のお話らしい。彼女の話を作り話だと言って笑い飛ばす人もいるらしいけど、わたしも七海もその様に考えたことは一度もない。不思議だなっとは思うけどね。それに、どんなふうにその世界が見えるのか、感じられるのか・・・・・・。少しだけ「いいなぁ」とは思うけどね。

 店の奥からわたしと響ちゃんにケーキを持ってきてくれたのは、アルバイト中の七海。「平 七海」だ。

 調香師を目指すために、わたしは高校に上がる時に田舎から東京に出てきた。七海は、その田舎でずっと仲良くしてくれていた親友だ。いや、田舎の頃からの親友だ、が正しいかな。

 とても小柄な彼女だけれど、好奇心と笑いを大切にするとても活発な子だ。それに、とってもとっても優しい子だ。高校の頃、一人で東京に出てきて心細かったわたしは、どれほど七海に助けられただろうか。その七海が、自分の夢である「ファッションで人を幸せにする」ことを実現するために、東京の服飾専門学校に進学してきたのだ。七海がそばにいてくれる、それだけで、わたしはどれほど勇気づけられることか。

 今日の七海は、アースグリーンの柔らかなブラウスの下にチェックのフレアスカートを合せている。多分、七海の工夫だろう。ブラウスには白い大きなレースの襟が付けられていて、ナチュラルガーリーな感じが、このお店の雰囲気にとても合っている。

 わたしと七海と響ちゃんは、暇さえあればこのお店に集まっている。みんな学校は違うけれど、まるで学外サークルでも作っているかのようだ。でも、はっきりとした形にはなっていなくても、そうかもしれないな。みんな、同じ目標に向かっている仲間なんだから。

「自分の好きなことを通じて、人に幸せを届ける」サークル。

 わたしは香りで。七海はファッションで。そして、響ちゃんは音楽で。そう、それぞれの方法で、「あなたのハートに幸せを届けます!」というサークルなのだ。

 

   ◇◆◇◇◇

 

「なんだか、あたしがさくらにこういう話をするのは、変な感じがするよぉ。えーと、服のデザインでは色も考えに入れるから、そのために勉強した内容をあたしがこう理解してますってことで聞いてね」

 わたしや響ちゃんとの仲はマスター公認とはいえ、アルバイト中の身としてはあまり長話はできない。いつもよりもかなりの早口で、七海はわたしたちに教えてくれた。

「ほら、光って、実は電磁波でしょ? それで、その波長の長い短いで、光の色が決まる。自然の光はいろんな波長の光が混ざりあったものだから、言い換えればいろんな色が混ざり合ったもの。あたしたちが服をデザインするときに考える色の構成は減法混合って言って、混ぜ合わせると黒になっちゃうんだけど、光の場合はその逆の加法混合。いくつも混ぜ合わせると白になる。だから太陽光は何色でもなくて白色なんだ」

「あ、なんか聞いた事あるかも。それに、色の三原色と光の三原色ってのもなかったけ、七海。不思議なことに、色と光で三原色に当たる色が違うんだよね、たしか」

「おおー。そうだよ、それそれ、響。それも大事なんだよね。・・・・・・あ、ごめんなさい、すぐに伺いまーす」

 パンケーキを味わいながらでも、しっかりと七海の話を聞いていた響ちゃん。なんだか大事なポイントを指摘したみたいなんだけど、そこへ店の奥から七海を呼ぶ声が飛んできた。今日は雨が降っているせいか、お店に入ってくるお客さんが多いみたいだ。

「ごめんなさい、忙しい時に。七海」

「良いの、良いの。気にしないで。こっちこそごめん、話の途中なんだけど、さすがにもう仕事に戻らないと」

 長々と引き留めてしまっていたわたしと響ちゃんに、七海は優しく気を使ってくれた。そして、あたしたちの方へ冗談めかしたウインクとお話の後半を残して、オーダーの為に手を挙げているお客さんの方へと去っていった。

「さくら、響。謎を解くカギは、電磁波、虹、三原色、えーとそれに、あ、ワンコだっ。さぁ、後は君たち次第だ。それでは、さらば! 課題頑張ってね、さくら。じゃぁっ」

「ありがとうございます!」

「んんんんー」

 七海にお礼を言うわたしと響ちゃん。響ちゃんは、口にパンケーキが入っているので、左手をひらひらさせながらのモゴモゴ語だったけれどね。

 

   ◇◇◆◇◇

 

 七海がお仕事に戻ってからしばらくは、わたしはわたしで、響ちゃんは響ちゃんで、手元のスマートフォンの操作に集中していた。わたしは自分の課題のヒントになるものを探していたし、響ちゃんもそれに協力してくれていたのだった。

「あれ、なんだか、ごちゃこちゃになってきちゃった。さくらのサークルの課題って、虹だったっけ。七海先生のヒントも難しくて、こんがらがってきちゃったよ」

「うううん、違うよ。虹じゃなくて、紫。紫の香り。紫って一般的にどんなイメージなんだろうって話から、虹の話になっていってたの」

 スマートフォンの画面から顔を上げた響ちゃんが、わたしに尋ねてきた。調べてくれているうちに、何を調べているのかがぼやけてきたみたい。七海との話でも、虹の話をしている時間がほとんどだったし、そう思ってしまうのも無理ないな。

「そうだそうだ、紫ね。でも、失礼ながら、今度は割とまともなテーマだよね。前はなんだかすごいテーマだったよね」

「ガムテープのことですか?」

「そうそう、ガムテープ! ガムテープの香りがテーマってすごいよね」

「フフフ、確かに、そうかもですね。でも、わたしは香水の調香師を目指していて、響ちゃんもそういう目で見てくれているから以外に思うのかもしれないですけど、香りっていろんなところで需要があるんですよ。ガムテープなんかの工業製品でも、ほら、あの溶剤の匂いが苦手って人がいるじゃないですか。そういう匂いを抑えるマスキングフレーバーがあれば良いですよね」

「確かにっ! そうか、さくらのサークルは、香水のサークルじゃないんだった」

「そうなんです。学校自体も普通の理科学系ですし、その中で香りに興味のある人が集まった香り研究会ですから、幅が広いんですよ」

 そう、わたしが通っている大学は、香水の専門学校でもなんでもなく、普通の総合大学。香水の元となる香料には合成香料も多く、調香師になるには有機化学に関する知識が必要なので、わたしはそこで化学を学んでいる。将来的には海外の香水専門学校に留学をするのが夢だ。

 大学では香りに興味のある変人、いやいや、有志の集まった香り研究会、通称「かーけん」に所属している。今悩んでいるのは、かーけんで出された課題についてなのだ。かーけんでは、各人の能力向上の為に、学期ごとに共通のテーマを一つ決めて、それぞれが研究・発表をすることになっている。そして、今回のテーマは「紫」なのだ。紫、紫、紫の香り。世間のみんなは、紫色について、どういうイメージを持っているんだろう。それに、七海の出してくれたヒントって、どういう意味なんだろう。

「ちなみに、前回のガムテープの時には、さくらはどんな発表をしたの?」

「前回ですか? やっぱり、わたしは香水に興味があるので、そういう方向で発表をしました。具体的には、香るガムテープってどうかなって。引越しの時とかに、ガムテープを貼った段ボールから安らげる香りがしてきたら、疲れた気持ちが落ち着くんじゃないかなって思って、そういう香りを調べて発表しました」

「へぇ、良いね。その香りは、作らなかったんだ」

「んーそうなんです。時間もあまりなかったですし、なにより、香水の元となる香料って実際にはたっくさん種類があるんですけど、部室には代表的なものがちょっとしかないんですよ。だから、サンプルは無しだったんです。そういうこともあって、出来れば今回はサンプルも作りたいんですよね」

「なるほどねー。それは、実際にこうですってものがあった方がいいよね」

 スマートフォンをスッスッっと操作しながら、響ちゃんが同意してくれた。あ、そう言えば、さっき響ちゃんが気になることを言っていたんだった。

「ねえ、響ちゃん、虹の話に戻っちゃいますけど、さっき虹と音階が対応しているって言ってなかったですか」

「ああ、子供のころだったかな、何かの折にピアノの先生から聞いたことがあったんだ。えーと、これこれ。ほら、ね」

 響ちゃんが見せてくれたスマートフォンの画面には、ニュートンが虹の色を音階に当てはめたって記事が載っていた。なんだか、その記事を読むと、当時は「7」という数字や「音階」に重要な意味があって、それにニュートンが光の色を当てはめたとということらしい。

「そうなんだぁ、虹は七色というのは後付けってことなんですね。これが七海の言っていたヒントの虹にあたるんですか」

「わかんないよ。電磁波っていうヒントは、光そのものの性質のことだと思うけどさ。去り際で時間がないのはわかるけど、七海はああいうのがホントに好きだよねぇ」

 口では文句を言いながらも、響ちゃんは七海のヒントの内容を想像するのも楽しんでいるようだった。

「電磁波。虹。三原色。それに、ワンコ。でも最後のワンコは、ヒントだったんでしょうか」

「どうだろう? ちょうどお客さんがお店の外にゴールデンレトリバーを待たせているのが目に入ったから、それでじゃないかな。七海は大きい犬が好きだからさ」

「んー、そうかもです。七海はゴールデンにぎゅーとするのが大好きですもんね。そうすると、電磁波、虹、三原色ですか。紫、紫、紫。みんながイメージする紫って何なんでしょう」

 わたしは、またわからなくなってきていた。今度はみんなが思う「紫」を、香りにしようと思っているんだけど、それが全く掴めないでいるのだ。紫、紫、紫。みんなが思う、紫。虹の一番内側の色、紫。

「悩んでるねぇ、さくら」

 響ちゃんは、最後に残してあったパンケーキにたっぷりとシロップをかけると、勢いよく口の中に放り込んだ。

「うんっ美味しっ。さぁ、あたしもマスターにお礼しないとな。今日は虹とか紫とか、色の話ばっかりしていたから、そんな曲を弾きたいかな。さくらはムシャータって音楽家知ってる? ムシャータ・チャダモって、ニュートンよりも前の人だけど、その人が作った虹についての曲がすごくいいんだよね。ちょっと弾いてくるね」

「ムシャータ? 知らない音楽家さんですけど、響ちゃんの演奏、楽しみです」

 木琴鳥は喫茶店としてはかなり広いお店で、店内には古いスタンドアップ・ピアノが置いてあった。響ちゃんは、時々そのピアノを弾いて、お客さんを喜ばせていたのだった。もちろん、それはお店のマスター公認で、あのスペシャルな「ダブルサイズ」は、いわばそのアルバイト代みたいなものだった。

 テーブルの上を片付けると、響ちゃんはゆっくりと立ち上がった。そして、ふと思い出したようにわたしに一言を残して、ピアノの方へ向かっていった。

「そう言えばさ、さくら。ムシャータが見た虹って、何色なんだろうね」

 

   ◇◇◇◆◇

 

 タタタン・・・・・・。

 

 響ちゃんが、ピアノに指を置いた音が店内に流れた。綺麗な音・・・・・・。

 あのスタンドアップ・ピアノ、わたしも触らせてもらったことがあるけれど、あんなに綺麗な音は出なかったなぁ。同じピアノでも弾く人によってこうも違うんだと、響ちゃんの演奏を聴くたびに思うな。

 

 タタ、タタタン、タン・・・・・・。

 タタン、タタ、タタ、タタ・・・・・・。

 

 その曲は、とてもゆっくりと始まった。

 軽やかではない。明るくもない。でも、素朴で好感の持てるメロディー。

 お客さんの会話を邪魔しないように、決して大きな音量ではなかったけれど、お店の隅々にまでその曲は行き渡っていた。まるで、自分の中で心地よい音楽が流れることを、お店自身が喜んでいるかのようだった。わたしは目を閉じて、その音の流れに身を任せることにした。

 なんだろう、この懐かしい気持ちは。

 この曲で思い起こされるイメージは、そうだ、故郷での実直で飾らない生活。そこにあった、穏やかな日常という幸せだ。

 響ちゃんが弾く曲は、進むにつれて少しずつテンポが速くなり、また、暗い曲調になっていった。わたしには、それは故郷を離れた人が感じる孤独感やストレスを表しているかのように思えた。でも、たしか、響ちゃんはこの曲は虹をテーマにしているって言ってたな。そうすると、これは、雨を表しているのかもしれないな。メロディーはどんどんと暗くなっていって、わたしは胸を押さえずにはいられなかった。

 曲は、少しずつ音量が小さくなっていった。

 そして、わずかな空隙が生じた。

 再び始まった曲は、最初のメロディーをアレンジしたものだった。途中に暗い曲調の部分があったからだろうか。そのメロディーは、始めに聴いたときよりもとても明るく感じられた。

 雨の後の虹? その輝きを表している?

 でも、わたしの心に浮かんだのは、雨からの回復の象徴として七色に輝く虹ではなかった。

 故郷の光景。そうだ。虹が出ていたとしても、それはその色で語り掛けるものではない。その形だ。橋のような形だ。故郷に帰る、自分の原点に還る行為の象徴としての虹なんだ。

 わたしの耳には、明るいメロディーと共に、尽きることのない故郷への憧れが届いていた。あの幸せの日々、懐かしいあの場所へ、帰りたい。虹の橋を渡って、帰りたい・・・・・・。

 もちろん、わたしは音楽に詳しいわけではないし、それは音楽家さんの作曲の意図とは違うかもしれないけれど、それがわたしの感じたことだった。そして、素直な気持ちで、わたしはこの曲を聞けてうれしいと感じたのだった。

 わたしも、あの田舎を思い出すな・・・・・・。田んぼの黄金色、真っ青な夏空、野山の緑に小さな草花。あれ、あの小さな白い花、どこかで見たような、たしか、さっきスマートフォンで・・・・・・。

 わたしは、目を開けてお店のガラス窓から外側を見た。お店の軒先では、先ほどのゴールデンレトリバーが前足に頭をのっけて、ご主人様が出てくるのを大人しく待っていた。

 そうか、そうなんだ。

 ワンコだ。三原色だ。だったら、あの白い花で良いんだ。

 わたしは急いで散らかしていたスマートフォンやノートをまとめると、席を立って出口へと向かった。

「あれ、もう出るの? あたしはもう少し弾いていくね。さくらのお代はテーブルに置いといて」
「うううん、課題のお手伝いをしてもらったから、今日はわたしが払います。とっても助かりましたよ」

 ラッキーと口に出して喜びながら、響ちゃんは器用にピアノを弾きながら片手を振ってくれた。

 わたしたちの様子を見ていたのか、レジでは七海が対応してくれた。

「おおっ、さくら君は答えに辿り着いたのかな。良い表情をしておるぞ」

「ええ、七海と響ちゃんのお陰で。答え、見つけました。わたしの答えを」

 七海はわたしの顔を真っすぐに見て、にっこりと微笑んでくれた。

「それは良かったよっ。さくら、課題の作業まだ続けるの」

「はい。植物園と、出来れば図書館にも、行こうと思っています」

 急げば今日中にどちらにも行けるはずだ。「頑張ってね」という七海の言葉に背中を押されて、わたしはお店の扉を勢い良く開けて外へ出た。その音に反応して、ご主人様を待っているゴールデンレトリバーが嬉しそうに頭を持ち上げたけど、わたしを見るとがっかりしたように座り直した。

「アハハ、ごめんね、期待させちゃって」

 いつの間にか、雨は止んでいた。

 仰ぎ見た空には、大きな虹がかかっていた。

 その色は。

 わたしが見た虹の色は。

 紫から赤への、無限のグラデーションだった。

 

   ◇◇◇◇◆

 

 それからしばらく経った、ある日の夕方。

「お待たせしましたー」

 大きな荷物を抱えて喫茶店「木琴鳥」の扉を開けたわたしを、いつもの席に座った七海と響ちゃんが、声をかけて迎えてくれた。今日は七海は非番の日だけれども、わたしたちが集まるのは、いつもこのお店だ。

「さくら、お疲れさまっ」

「お疲れっ。どうだった、課題の発表は?」

 そう、今日は大学のサークルの課題、あの「紫の香り」の発表の日だった。わたしがどういう発表をしたのか、二人は興味津々で待ち構えていたのだった。

「もう・・・・・・、疲れましたっ! でも、二人のお陰で、きちんと発表出来ましたよ。ありがとうございました」

 発表で疲れ切ったわたしは、七海の横に勢いよく腰を下ろした。そして、カバンから大きめの瓶と小さな瓶を取り出すと、二人が空けてくれたテーブルの上に並べた。

「やっぱり、サークルのみんなから色々な意見をもらいました。一番厳しかったのは、プロを目指すのであればユーザーの求めるものが何かという視点も大切じゃないか、という意見でした」

「それは、始めにさくらが言っていた、みんなが紫にどんなイメージを持っているか、っていうことなのかも。あたし、悪いことしちゃったかな」

 わたしの顔を、七海が心配そうな様子で見上げた。わたしに出してくれたヒントが、間違ったアドバイスになったのではないかと、気にしてくれているんだ。

「そんなことないですよ、七海。アドバイスとってもありがたかったです。電磁波、虹、三原色、それに、フフフ、ワンコですよね」

「あ、それそれ。なに、さくら、七海の言ってたワンコは、ワンコを見て喜んで出た一言ではなくて、ホントにヒントだったの?」

「あ、ひどいなぁ、響君は。ホントのホントにヒントだよ。ねぇ、さくら」

 響ちゃんの出したちょっかいに、七海は頬を膨らませて反応して見せた。

「本当にヒントだったですよ、響ちゃん。光は電磁波で出来ている。それは、短い波長の紫色から長い波長の赤色まで、波長の変化により色どりを変える。でも、わたしたちは、その色そのものを見ることはできない。ねぇ、七海。光の三原色ですよね」

「そだね、赤、緑、青。あたしたちはその三色を感じる、なんていうんだろう、器官を持っているから、その組み合わせでいろんな光の色を認識するんだ」

「そうですよね。ワンコはワンコで、わたしたちとは違った光の捉え方で、色を認識しているんですよね。でも、別にそれが間違っているわけじゃないんです。そういう捉え方だというだけ。人間には見えない紫より短い波長の電磁波を光としてみることができる動物もいるそうですけど、だからと言って人間が間違っているという訳でもない。わたしたちはそういう捉え方をしているというだけ」

 七海は、恥ずかしそうにうつむいて、ストローでカフェラテの氷を追い回した。

「そうなんだよね。なんか、みんなが紫という色にどういうイメージを持っているかって、さくらがこだわり過ぎているような気がして。ちょうど虹の話が出ていたから、色のイメージは見る人によって変わるというか、受取り手の見方によって異なるものだから、さくらの紫に対する解釈で良いんじゃないかって思って・・・・・・」

「ありがとうございます。それで、すごく楽になりました。わたしの紫に対するイメージでいいんだって」

「そう? よかったぁ」

 七海は、心底安心したような声を出した。とってもとっても優しい子だ、七海は。

「それに、響ちゃんの演奏にも助けられたんですよ」

「え、あたしの? あのムシャータの曲?」

 七海の様子をニヤニヤとしながら眺めていた響ちゃん、突然に自分の方に話が向けられたので、すこし驚いたような表情を浮かべている。

「ええ、あの虹をテーマにした曲、わたしには故郷を想う曲に思えたんです。それで思い出した故郷の田舎の光景の中に、紫について調べていた時に見つけた花があるのに気が付いたんです」

 わたしは、机の上に並べた瓶のうち大きい方を手に取った。それは、わたしが採取した花をシリコーンオイルに封入してハーバリウムにしたもので、緑色の大きな葉の中に小さな白い花がちょこんと座っていた。

「ほら、七海。わかりますか、この花」

「うん、さくらがテーブルの上に置いた時に気が付いたよ。田舎で良く見たよね。名前は知らないんだけど、小さくて白い花が可愛いんだよね」

「これ、紫草っていう名前なんです。群れて咲くからムラサキ(群ら咲き)と呼ばれるという説もあるそうなんですけど、実はこの花の根っこから染料が取れるそうで・・・・・・」

 わたしの説明の途中で、七海は気が付いたようだった。さすがはファッションで人を幸せにすることを目指すだけのことはある。色についても詳しいんだね。

「ああっ、この花がムラサキなんだっ。そうそう、そうだよ。昔はムラサキの根っこで紫色の染物をしたらしいんだよね。だけど、今は絶滅危惧種になってたはずで、まさかうちの田舎に自生してたとは、びっくりだよっ」

「そうなんです。わたしもびっくりしました。でも、それに気が付いた時から、ああ、わたしのムラサキはこれだなって。この香りの香水を作りたいなって思ったんです」

 ハーバリウムをしげしげと眺める七海。田舎で良く見ていた植物だけに、驚きもひとしおのようだった。

 響ちゃんは、小さな瓶の方に興味を持ったようだった。それは、瓶というのもおかしなような小さなもので、旅行の際に化粧用品を小分けにするための容器だった。

「それで、こっちに入ってるのがその香水って訳なのね。ちょっと試してみても良い、さくら?」

「ええ、試してみてください。七海もどうぞ。ちょっと恥ずかしいんですけど・・・・・・」

 響ちゃんが、七海が、そして、小瓶が回ってきたわたしも、容器から数滴を手首に垂らして、香りを試してみた。

「なんだか、甘い香りだね・・・・・・。これがムラサキの香りなんだ」

「んー、バニラみたい。良い香りだよ」

 自作のものなので僅かな香りしかしないはずのサンプルを、二人は目を閉じて楽しんでくれていた。ああ、恥ずかしいなぁ。でも、本当のことを言わないといけない。

「えーと、実はですね。これはムラサキの香りではないんです」

「え、違うのっ」

「はい、さっきお話したように、ムラサキは絶滅危惧種になっていて、しかもこんなに小さな花しか咲かないんですよ」

 わたしは、ムラサキのハーバリウムを手に取って二人に示した。

「香りの強いバラからでも、大量の花びらから取れる香料はほんの少しなんです。この紫草からではとても・・・・・・。それで、ムラサキの花の香りを、わたしなりに手持ちの香料を調合して作ったのがそれなんです。ちなみに、ムラサキとは属までが同じなヘリオトロープをベースにしました。ヘリオトロープは香水草という別名があるぐらいで、その香りを基に作られた香水が日本に初めて輸入されて市販された香水と言われているんです。今では合成香料も作られていて、それが部室に有ったので助かりました。調合には、すっごく苦労したんですけどね、やっぱり」

 なんだか喜んでくれた二人に悪いような気がして、説明するわたしの声も小さくなりがちだった。でも、どうやらその心配は杞憂だったようで、二人は顔を見合わせると、わたしの方に素晴らしい笑顔を見せてくれた。

「すごいじゃん、さくら。それこそ、さくらのイメージするムラサキの香りだよ」

「そうそう、七海の言うとおり。植物からそのまま香りを取るのもいいけど、工夫してそれを創造するってのも良いよ。だって、これはさくらしか創れない香りなんだから」

 ほうぅ・・・・・・。

 二人の言葉で、わたしの体から、重い何かが落ちて行った。やっぱり、ふたりがどう思うのか、すごく緊張していたのだと思う。良かった、本当に良かった。一番認めてもらいたい二人に、認めてもらえたよ・・・・・・。

「うう、ありがとうございます。かーけんでも、その点はすごく褒めてもらえました。相手の意図を察することも大事だけど、自分のイメージを固めてそれを形にすることは、創造者としてもっと大事なことだって・・・・・・。ああぁ、よかったぁ・・・・・・」

「ほらほら、さくら君。泣かない泣かない。お店の人も困ってるぞ」

「ぐすっ・・・・・・。ああ、すみませんっ。まだ、注文もしてなかったですよね、わたし」

 嬉しさで感極まってしまい下を向いていたわたしが顔を上げると、テーブルの方に向ってくるウエイトレスさんが見えた。しまった、すっかり話に夢中になっていた。えーと、えーと、何を頼もうかな。メニューメニュー、あ、反対だった。えーと。

「ふふふ、慌てなくても大丈夫ですよ、ご注文は改めてお伺いに来ます。こちらは常連様へ、マスターからの差し入れです。なんでも、これがマスターのムラサキだとか」

 ウエイトレスさんはわたしたちの慌てた様子に怒った顔も見せずに、クッキーが山盛りになった大きな皿をテーブルの中央に置いて戻って行った。クッキーは優しい白乳色のラングドシャーで、その上には紫色のトッピングが載っていた。

「あ、ありがとうございますっ」

「さすが、マスター。あたしが休憩の時にした話を覚えていたんだ」

「へぇー。美味しそうだね、どれどれ・・・・・・」

 食べることの大好きな響ちゃんが、お皿の上に真っ先に手を伸ばした。そして、細い指で一枚を取ると口に運んだ。

「ははぁ・・・・・・、新しい! でも、美味しい! これだよ、うん。創造ってこれだよ。いいなぁ、さくらにマスター。あたしも新しい曲を書きたくなってきたっ。だけど、今日はせっかくだから、さくらにムシャータの別の曲を贈るね。あたしの一番好きな曲で、氷河期っていう曲を」

 響ちゃんはもう一枚クッキーを口に運ぶと、軽い足取りでピアノの方に向って行った。

「なんだろう、このトッピング。響ちゃんは気に入ってたみたいだけど・・・・・・。あ、これ、七海、これは紫蘇ですよ、赤紫蘇。こんな組み合わせもあるんですね。以外だけど美味しいです」

 クッキーを食べたわたしは、その意外な組み合わせにびっくりしてしまった。これがマスターの紫なのか。すごい。創造って、本当に限界がないんだって感じ。

 

 タララン、タンッ。タタ・・・・・・。

 

 店内に、響ちゃんが弾くピアノの音が流れ始めた。この間の曲とは違う、強い感じの出だし。冬の寒さを表すようなメロディーだけれど、それは人を拒む冷たさではない。

「んー、ホントにねぇ。いやいや、さくらも、マスターも、響も凄いや。あたしも頑張らなきゃって感じがするよ」

「そうですね、わたしも改めて思います。でも、七海や響ちゃんがいてくれて、本当に助かりました。これからもお願いしますね、七海」

「何をおっしゃいますやら、さくら君。こちらこそ、だよ」

 

 マスターの心配りのクッキーを頬張りながら、わたしも七海も響ちゃんの弾く曲に耳を傾けていた。

 テーブルの上には、わたしの自作の香水のサンプルとムラサキのハーバリウムの瓶。

 窓から差し込む夕日が、ハーバリウムの瓶を通過して、テーブルの上に鮮やかな色彩のグラデーションを描いていた。

                                   (了)