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「なんだよ、これっ。温泉でも湧いたのか?」
地面から激しく噴き出して空高く舞い上がり、騎馬隊の上に降りかかってきたものに対して、苑が最初に思い浮かべたのは、やはり間欠泉が噴出したのではないかということでした。
ゴビの砂漠の大部分は大きな砂丘が点在する礫砂漠でしたが、天山山脈や祁連山脈などの雲にまで届く霊峰も数多く存在していました。それらの多くは火山でしたから、ゴビの荒地においても、赤土の裂け目から硫黄の匂いと共に湯気が立ち上っているところも多く、月の民の男たちが遊牧の際に温泉が湧き出しているところや間欠泉が吹き出しているところを目にすることは、決して珍しくないのでした。
もちろん、交易隊と共に各地を旅することが仕事の護衛隊も、寒さが厳しい季節には、温泉が湧き出しているところを選んで野営をすることが度々ありましたから、苑も間欠泉の激しい吹き出しを見たことがあったのでした。
でも、騎馬隊の上に降り注いでいる青く輝く飛沫は、苑が良く知っている間欠泉のものとは、決定的に異なっていました。
それは、大地の裂け目から天に向かって噴出し、勢いを失ったところで細かな飛沫となって地上に舞い落ちるという、間欠泉から噴き出す温水と同じ動きをしていましたが、騎馬隊の男たちの頭や体は全く濡れてはいませんでした。自分の頭や肩に付いた水滴を落とそうとした苑の手は、何にも触れることなく体の上を滑っていきました。男たちの体の上に落ちた青い光は、瞬く間に体に吸い込まれて消えてしまいました。でも、その当人たちは、少しも温かみを感じていないのでした。
青く光る雫が幾つも幾つも続けざまに落ちた地面でも、やはり男たちの体の上に落ちた光の飛沫と同じように、青い光は大地にすっと吸収されて消えてしまいました。大地の赤土はいっこうに湿った様子は見せておらず、馬や男たちの激しい動きにより赤茶色の砂煙となって、その場に舞い上がっていました。
不思議なことは、それだけではありませんでした。
男たちがその青い光の飛沫を浴びる度に、心の中に大きな悲しみや怒りが、それこそ間欠泉の噴出の様に、湧き出してくるのでした。
「うわっ、止めてくれっ、」
騎馬隊の中でも年嵩のいった男の一人が、両手で耳を塞ぎながらしゃがみ込んでしまいました。この男は、ちょうど亀裂の間近にいたせいで、全身に青く光る飛沫を浴びていました。
先ほどからこの男の耳には、「どうして、どうして・・・・・・」と言う女性が涙ながらに話す悲しい声と、「私を捨てるのねっ」と言う怒りに満ちた叫び声が聞こえていて、それは、彼が飛沫を浴びる度にどんどんと大きくなってきていました。
その声は、彼にとって聞き覚えのあるものでした。
ずいぶんと前のこと、匈奴において、男はまだ幼かった冒頓に従者として使えていました。男は、自分の立場を大変誇りに思い、冒頓を盛り立てて匈奴を強くすることを、自分の一生の仕事と考えていました。耳を塞いでもなお聞こえてくる声の持ち主は、その頃に彼と将来を誓い合っていた故郷の恋人の声でした。
愛と将来への希望に満ちた二人でしたが、思いもかけない恐ろしい出来事に襲われてしまいます。祖国匈奴が月の民との戦に負けたのです。さらに、その結果として、冒頓が月の民へ人質として出されることとなったのです。男はどうしたでしょうか。彼は自分の立場に誇りをもっていましたから、冒頓と共に異国である月の民へ行くことを決めました。
いまでこそ、月の民の単于である御門の計らいで、冒頓は護衛隊という独立した立場で活動することを許されていますが、当時はそのようなことはとても考えられませんでした。良くて軟禁状態でしょうし、もしも月の民と匈奴の間に問題が生じれば、人質である冒頓以下従者とその一族までもが、見せしめとして処刑されることも有り得ると思われました。
ですから、男は「私も連れて行って」と泣いて頼む恋人に、自分のことは忘れるようにと告げて故郷へ残したのでした。男のことをとても愛してくれていた彼女にとっても、これは身を引き裂かれるように辛い別れだったのでしょうが、男にとっても、心の奥底に決して癒えることのない深い傷が刻み込まれることになったのでした。長い年月が経ち表面には出なくなっていたその古傷が、どうしたことでしょうか、急に大きく口を開いて、男を激しく攻め立て始めたのでした。
「ああっ。いやだ!」
「くそ、どうしてなんだっ」
無意識の内に口から飛び出してしまう悲鳴にも似た叫び声が、次々と騎馬隊の他の男たちからも起こりました。彼らの中にも「嫌なこと」や「恐れていたこと」が存在していたのですが、それらが現実の姿や耳に届く声となって迫って来ていました。誰にも話したことのない、自分が最も目にしたくないものを見、最も聞きたくない声を聴かされた彼らは、大混乱に陥ってしまいました。
それは、騎馬隊の末尾にいてこの光の飛沫を浴びた、苑も同じでした。
いま彼の眼は、見ていたはずもない光景を見ていました。
彼の視界の中で、少女を乗せた一頭の駱駝が、切り立った崖の側面に刻まれた小道から転落しようとしていました。二人の男が真っ赤な顔をしながらその駱駝の引綱を全力で引っ張って、それを道の上に残そうとするのですが、傾いた駱駝の体はもうほとんどが道の外に飛び出ていました。
少女が何かを大きな声で叫びました。それは聞く者すべてが振り向かずにはいられない、言葉にすらならぬ、恐怖に満ちた叫び声でした。
二人の男の内の背の高い方も叫びました。それは、引き綱を引く手に自分の持つ全ての力を集めながらも、自分たちが体ごと道の外へと持っていかれつつあることへの、絶望と悔しさであふれた、血がまとわりついたような声色でした。
この光景を見ている苑には、これがどのような状況で、彼女たちが何を叫んでいるかがわかっていました。
「や、やめろ・・・・・・」
苑の喉から、掠れた声が漏れ出ました。
駱駝を引っ張る男たちのもう一人の方、小柄な男も、全身の力を振り絞って引き綱を引きながら、大きな声で祈りの言葉を叫びました。
でも。
「やめろ、やめてくれ・・・・・・」
ゆっくりと少しずつですが、確実に少女を乗せた駱駝は、崖下へと体を傾けていきました。それに連れて、引き綱を引く男たちは、踏ん張っている足で大地に溝を穿ちながらも、崖の方へと引っ張られていきました。
そして。
僅かな時の間に、すべては終わりました。
少女を乗せた駱駝は、四肢を空しく震わせながら、崖下へ落下していきました。駱駝の背から空中に投げ出された少女は、男たちの方へ両手を差し伸べましたが、その手は空しく宙を掻きました。
男たちは、駱駝が落下する勢いが急に加わった引き綱を、最後まで離すことはありませんでした。そうです。駱駝と共に崖下へと落下していく引き綱によって、自分たちも小道から崖下へと引きずり落されるその時までです。
「あああ・・・・・・、羽磋殿、羽磋殿おっ・・・・・・。王柔殿・・・・・・、それに、理亜・・・・・」
苑の開いた口から、掠れた言葉が零れ落ちました。それは、誰かに聞かせるための言葉ではなく、彼の中で膨らんだ羽磋たちを助けることができなかった悔しさや、親しい仲間を失った悲しさが、そのような形となって溢れ出たものでした。
「おいおいっ。どうしちまったんだ、お前らっ」
騎馬隊の先頭に立っていて、隊からは少し離れたところにいた冒頓は、部下たちの変わり様を見て驚きの声を上げました。
先ほどから続いている地震によって真っすぐに立つことができないというのであれば、それはわかりますし、前触れもなく大地より噴出した間欠泉に驚いているのであっても、その気持ちはわかります。でも、彼の部下たちの様子は、そのようなものとは全く異なっていました。
彼らの顔は、悲しみや怯えによってひどくゆがめられていました。中には、突然叫びだしたり、頭を押さえてしゃがみ込んだりする者もいました。彼らの視線は宙を彷徨っていて、周りにいる仲間や揺れる大地を見ているのではありません。誰もいないところに視線を送っては涙を浮かべる者もいれば、目に見えない何かに怯えているかのように、空虚な空間に向かって剣を構えたりする者までいました。
「おい、弁富(ベンフ)。お前まで、どうしたっ。何が聞こえてるんだ、弁富っ」
冒頓は、すっかりと隊列を乱してしまって混乱の極みにある部下たちの中へ走り寄ると、大きな裂け目の横でしゃがみ込み、両手で耳を塞いででいる中年の男の肩を抱きました。この男は、まだ少年であった冒頓が人質として匈奴から月の民へ出されたときから、彼に付き従ってきた従者の一人でした。年少の冒頓に合わせて年若い者が集められていた従者の中では比較的年上であったので、彼らのまとめ役的存在であった者でした。
冒頓が月の民に出されてからかれこれ二十年近く経ち、このように護衛隊として活動するようになったいまでも、弁富は冒頓から厚い信頼を寄せられていて、冒頓の副官である超克が王花の酒場に残っているいまは、彼が副官の役を務めていました。
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