コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。宜しければ、ひとときおつきあいください。

【小説】真昼の月 ~柳祐一の恋愛

f:id:kuninn:20200927232611j:plain

 

 

 柳 祐一は、妻を愛していた。

 初めて彼女に会った時から、彼女に心を奪われていた。

「一目惚れなんて、小説の中の出来事に過ぎない」

 これまで特に女性と付き合う経験がなかった祐一は、いつしかそう思うようになっていたが、それは前触れもなく彼自身を訪れたのだった。

 その頃はあの戦争の痛手から人々がようやく回復しだした時だったし、彼が住んでいた村は人と牛のどちらが多いかわからないような田舎でもあったので、彼の周りには「早く身を固めて親を安心させてやるのが子の務めだ」と諭す親戚がたくさんいた。そしてその中には、彼の元に積極的に見合いの話を持ち込んでくる世話好きもいたのだった。

 生真面目で凝り性な性格の彼は、半人前の自分には結婚など早いと見合い話を断り続けていたのだが、三十を過ぎた頃にもなると自分が生業とする農業にも自信が出てきて、ようやく親戚の話に耳を傾ける余裕が生まれてきた。

 彼が、後に妻となる良子と出会ったのは、裕福な親戚の屋敷で設けられた初めての見合いの席であった。

 

 

「こちらは櫻井良子さんだ。私が仕事でお世話になっている方のご親戚で、先の戦争の時に出征される方とご結婚されていたのだが、残念なことにその方が南方で亡くなられたされたそうで・・・・・・」

 当時のことだから、見合いと言っても形だけのことで、話自体はここにいたるまでに双方の両親同士で済んでいる。この場は、当人同士の顔合わせの場であって、よほどのことが起きなければ無事成婚という段取りなのであった。

 だが、畳座敷の上で良子を目の前にして座っている祐一には、そのような余裕などはまったくなかった。緊張のためなのか、極度に身を固くしている彼の耳には、世話をしてくれている叔父の声など、一切届いていなかった。

 自分の向かい側で座布団の上に小柄な身体をちょこんと乗せて、照れくさそうな顔で上目遣いにこちらを見上げる良子は、二十歳を過ぎているとはとても思えないほど愛らしかった。祐一は、挨拶をするときに向けられた良子の微笑みを一目見たときから、良子のしぐさや声にしか関心を持てなくなっていたのだった。

「この女性と結婚したい」と、彼の気持ちはその場で決まっていた。そして、それと同時に彼の中には、「このような愛らしい女性が、退屈な自分との結婚を望むはずがない」との確信も生じていたのだ。その確信が、彼の身体をきつく縛り上げていたのだった。

 

 

「それじゃ、後は若いお二人で・・・・・・」

 一体何がどうなってそうなったのか、祐一には全く分からなかったが、気が付くと世話人の叔父夫妻も両家の人間も座敷から消えていた。そこに残されたのは祐一と良子の二人だけ。急に皆がいなくなったものだから、祐一には座敷がとても広くなったように感じられた。

「どうしよう」

 真っ先に祐一の頭に浮かんだ言葉が、それだった。

 祐一には女性と付き合った経験もなかったが、そもそも他人との付き合い自体が苦手だった。一時間他人と話すよりも一日畑を耕していた方がよほど心が安らぐというのが、祐一の性格だった。

 だから、このような時にどうすればいいのか、彼には全く分からなかったのだ。

「後はお二人でと言われたものの、二人で何をするのだ」と祐一は思った。彼の心の中では、激しい自問自答が起こっていた。

 

 

 自分にできることと言えば、畑作業だが・・・・・・。いやいや、此処で何を耕すのだ。庭か、庭を耕すのか。しかし、そんなことをして、彼女が喜んでくれるのか。

 そうだ、話だ。我々は初対面ではないか。まずは話を交わしてお互いの理解を深める。ああ、それが正しい見合いの席だ、そうあるべきなのだ。効果的な雑草の駆除方法についてとか。風の吹き方と種撒きの時期との関係とか。それに、害獣に対する罠の作り方とか。

 待て待て待て待てっ。それが彼女が喜んでくれる話題なのか。俺にはとても興味がある話だが、あんなに小柄で華奢な彼女が、農作業の話題を喜んでくれるなんてとも思えない。

 ああ、くそっ。彼女を喜ばせるためには、一体何を話せばいいんだっ。

 

 

 これまでの人生で義務教育以外で文字と親しんだこともなく、映画などの娯楽にも関心がなかったことを、祐一は今初めて後悔していた。

 もはや、二人になってからどれだけの時間がたっているのかもわからない。焦りを覚えた祐一が良子の方を見ると、彼女は小首をかしげながら、祐一の言葉を待っているようだった。

 ああっ!

 顔を真っ赤にしながら祐一は立ち上がり、縁側へと歩き出した。不思議そうな顔をしながらも、良子も彼の傍らに来ると、並んで庭を眺めた。

 豪農である叔父の家は村の高台に建てられていて、手入れが行き届いた見事な庭を持っていた。敷地の外には、たわわに実を結び重たげな稲穂が、黄金色の海のように広がっているのが見えた。そして、それらを見守るようにそびえたつ御山の姿も遠くに霞んで見えた。秋の風が村を通り抜け、収穫の近いことを、稲穂を揺らす音で皆々に伝えていた。

「この景色をいつまでもあなたと共に見ていたい」

 そのような思いが、急速に祐一の体の中に膨らんできた。だが、それをそのまま言葉にするのは、あまりに気恥ずかしい。何かないか、何か良い表現はないのか。手の届く距離に良子の存在を感じた祐一は、体中が熱くなるのを感じながら、自分の記憶の奥底までを総ざらいして、気の利いた言葉を探した。

 そして、見つけた。

「り、良子さん。あの・・・・・・、月が、綺麗ですね」

 それは、今日初めて祐一が発した言葉だった。

 良子の視界の中では、稲穂の海が風に揺られて、きらきらと太陽の光を反射していた。爽やかな秋の真昼の光景だ。

 だが、彼女は祐一の顔を見上げると、にっこりと笑って「そうですね。とっても綺麗です」と答えた。

 

 

 しばらくして、叔父夫妻や両家の者が座敷に戻ってきたときには、二人は縁側に並んで座って景色を眺めていた。その様子から彼らは、二人の間でさぞかし会話が弾んだのだろうと安心したのだが、祐一と良子の間で交わされた言葉は、実はこれだけだった。

 

 

 そして、二人は夫婦となった。

 

 

       〇

 

 

 柳 祐一は、妻を愛していた。

 結婚してから十年ほど経っていたが、出会ったころと変わらず妻を愛していた。

 見合いの席で初めて会った良子に一目惚れした祐一は、舞い上がってしまってほとんどしゃべれなかった。ひょっとしたら相手側から断りが入るかもと思い、見合い後しばらくの間は気が気でなかったのだが、ありがたいことに上手く話がまとまったのだ。

 良子との結婚後は三人の子供にも恵まれた。家のことは彼女に任せて、祐一はますます農業に専念することが出来ていた。

 彼は幸せだった。

 

 

 村から少し離れた町に市が立つ日のことだった。

 祐一は畑で採れた野菜の一部を、市に出していた。この日は思いの外に人出が多く、祐一が作る野菜は品が良いとの評判が前から立っていたこともあって、彼が並べていた野菜は昼までにすべて売り切れてしまった。

 市は夕方まで立っている。時間と懐具合に余裕が出来た祐一は、良子と子供たちの為に、市で土産を見繕ってから帰ることにした。

 子供たちのものはすぐに決まった。赤や緑などの綺麗な色をした飴玉が入った袋だ。

 だが、良子のためのものとなると、彼はなかなか決めることができなかった。

 彼は妻を愛していた。未だに、初めて出会った時と同じように、情熱的に妻を愛していた。良子と話すときには緊張して口数が少なくなるし、彼女のために何かするとなると、様々なことを考え始めて止まらなくなるのだった。

 威勢のいい呼び声が飛び交う中を何度も行き来しながら、祐一は思い悩んでいた。

 

 

 市には、食べ物から衣類、さらには、装飾品や化粧品までもが並べられている。もちろん懐具合と相談の上だが、何を買えば良子が一番喜ぶだろうか。

 洋服はどうだ。鮮やかな色合いの服は、どれも良子に似合いそうだ。

 だが・・・・・・、どれも似合いそうな中で、一体どれを買えばいいのだ。わからん。それに、あの洋服が並んでいる露店の中で、大の男が独りであれでもないこれでもないと服を選ぶのはあまりにも恥ずかしい。これは駄目だ。

 では、化粧品はどうだ。これもよくはわからんが、口紅ならどれを買っても大差あるまい。

 いや、だが・・・・・・。思い出したのだが、他人に石鹸を送ってはいけないらしい。相手が「お前は臭いと仄めかされた」と悪くとる場合があるからだそうだ。それから考えると、化粧品を買ってやるというのも良くないのかもしれない。「お前は化粧でもしないと見られやしない」と悪くとられでもしたらかなわない。もちろん、そんなことはあるはずはないんだ。良子はあんなにも愛らしいのに。だが、良子も女だ。この手のことについては、女の考えることはよくわからないからな。手を出さない方が良かろう。くわばらくわばら。

 そうだ、酒はどうだ。野菜がすべて売れた祝いの酒だ。

 いや、待て。それでは、自分のための土産ではないか。そもそも良子は酒を飲むのだったか。正月などに俺が勧めても、形だけ口をつける程度ではなかったか。いかんいかん、だんだんと方向がずれてきている。しっかりと考えなければ。

 いっそ、あの団子はどうだろうか。いつも市の時には買って帰っているものだ。安定の美味しさ。良子が喜ぶこと間違いないぞ。

 ああっ、もう。何を考えているんだ俺は。それはいつもの土産ではないか。今日は特別に何か買って帰ろうというのに、俺は、俺は・・・・・・。

 

 

 険しい表情をし、ぶつぶつと何かをつぶやきながら、市場をぐるぐると歩き回る祐一。すれ違う者は、気味の悪いものを見てしまったとでもいう顔をしながら、彼のために道を開けるのであった。

「ちょいと、お兄さん。お悩みだねぇ。良ければ視て差し上げるよ・・・・・・」

 決して大きな声ではないが、不思議と注意を引く呼びかけが、祐一になされた。それは、落ち着いた調子の老女の声であった。

 悩みの沼から我に返った祐一は声の出処を探した。どうやら、それは漬物屋と味噌屋の間に建てられた小さな露店からのもののようだった。露店の軒先には、狭い入り口を残して衝立が立てられていて、中を覗けないようにされていた。そして、間仕切りには張り紙がされていた。「占い。悩みのご相談をお受けいたします」と。

「ありがたい。ここなら、俺が何を買うべきなのか、教えてくれるに違いない」

 探していた宝物が出てきた時の子供のように、祐一の表情が、苦しげなものから安堵のものへと、一瞬のうちに変化した。

 彼は身を小さくしながら、衝立の間から中へ入っていった。

 

 

 しばらくして、衝立の間から出てきた彼の顔には、ひどく複雑な表情が浮かんでいた。そこには、もはや悩みは見受けられなかった。だが、すっきりとした表情かと言えば、そうでもないのだった。

 

 

「ハッハッハッ。ああ、なんだいなんだい。そういうことかね。殿方は本当に不器用だねぇ。よし、では、あたしが奥方さんにピッタリのお土産を占って進ぜよう・・・・・・」

 占い小屋の衝立の奥で座っていた老婆は、祐一の話を聞くといかにも楽しげに笑い、彼の手を取って占い始めたのだった。

 そして、占いの結果として告げられた、良子が喜ぶものは「花」だった。

「なるほど、花だっ。確かに花を贈られて喜ばない女はいないだろうし、良子もよく野の花を飾ったりしている。ああ、よかった、花を買って帰ろう。道端で摘めるようなものではない珍しい花をだ」

 ようやく得た答えは、祐一を元気づけるものだった。どうしてこれに気づかなかったのか、祐一は首をひねりながらも、占いのおかげで助かったと勢い良く立ち上がった。

 その時、勢いよく出ていこうとした彼の気勢を制して、すっと目の前に差し出されたのは、老婆の小さな手だった。

「お兄さん、お代を頂戴しますよ」

 

 

 占い師は人の懐具合までも占うことができるのだろうか、老女の求めた代金は彼の支払えるお金とぴったり同じだった。これを払えば、良子の為に花を買って帰る事は叶わない。だが、生真面目な性格の祐一には、占いをしてもらった後に代金の値引きの交渉をすることや、ましてやそれを踏み倒すことなどは考えられなかった。

 そのため、彼は悩みという重荷から解放された替わりに、心と懐の両方が軽くなった状態で、老女の露店から出てくることとなったのだった。

 

 

 その日の祐一の帰りは、市が立ついつもの時よりも、だいぶん遅くなった。

 彼が家に帰りついたときに家族に差し出したのは、子供への土産の飴玉の袋と、季節を先取りして咲いたと思われる、あまり見慣れない野花だった。

 

 

       〇

 

 

 柳 祐一は、妻を愛していた。

 結婚生活も長くなり、授かった子供たちが成人を迎えるほどになったが、出会ったころと変わらず、妻を愛していた。

 成人した子供たちはそれぞれが自分の人生を歩み始めていたが、長男は家に残り祐一が情熱を傾けている農業を手伝ってくれていた。自分の汗水がしみ込んだこの農地を、ゆくゆくは彼が立派に引き継いでくれるだろうと思うと、祐一は誇らしげな気持ちと安心感を覚えるのであった。

 良子は相変わらず、優しく、そして、明るく家庭を守ってくれていた。若々しい立ち居振る舞いは、昔と少しも変わらない。

 祐一は、幸せであった。

 

 

 秋風が冷たく感じられるようになってきたある日、祐一は飼い犬を連れて里山の奥へ入っていった。目当ては山菜とキノコだ。村の者はそれぞれが自分だけの秘密の場所を持っていて、祐一も若い頃から同じ場所に通っていた。山の奥の方までずいぶんと獣道を進んでいかないといけないのだが、様々な珍しいキノコが取れる場所だった。

 熊除けの鈴を鳴らし、道に張り出した小枝を鉈ではらいながら、祐一は山奥へと入っていった。長く柳家で飼われている犬は、これから自分たちが向かう場所を覚えているようだ。自分が道案内をするとでもいうかのように、張り切って祐一の前を歩いていた。山に入るときには猪にも注意しなけれいけないのだが、どうやら、今日はその恐れもなさそうだった。

 小一時間も歩いたところで、ようやく目的の場所についた。祐一は休憩をとることもなく、さっそく、キノコの採集にかかった。思っていた通り、この季節のこの場所は最高だ。祐一が背負っていた籠は、見る見るうちにキノコで満たされていった。

「おや・・・・・・。なんだ、これは」

 祐一の手が止まったのは、赤松の木の根元でキノコを探していた時だった。乾いた松葉の間からちょこんと頭を出しているそれは、これまでに見たことがないものだったのだ。

「この白い形はひょっとして・・・・・・」

 祐一が震える手で慎重に摘み取ったそれは、白色の滑らかな軸に透き通った編み笠状の帽子を持っているキノコだった。彼が緊張しているのも無理はなかった。それは、昔ながらの有機農業を紹介している文献の中で、幻のキノコとして紹介されている「ギョウジャノアミガサダケ」だったからだ。記事によると、このキノコは赤松の根元で極めて稀に見られるもので、古来より限られた人の間で漢方薬として伝わっているものだった。その効能はとても素晴らしく、幸運にも見つけたこれ一本を蒸し焼きにして食べるならば、無病息災で長寿間違いなしとされていた。

「おお、これがあのギョウジャノアミガサダケかっ。これは是非とも良子に食べさせてやらなければ」

 即座に祐一の頭に浮かんだのは、自分の事ではなく妻の良子のことであった。家庭を守り子供を育てるために、彼女は良く働いてくれた。これからは自分の身体を第一にして、健康で長生きしてほしかったのだ。

「だが・・・・・・」

 太陽のように輝いた祐一の顔だったが、それはすぐに雲で隠されたように暗くなってしまった。気がかりなことを思い出したのだ。

 伝説のキノコ、「ギョウジャノアミガサダケ」。

 あまりに希少なためか、その文献でも写真は掲載されておらず、江戸時代から伝わるとされる図が示されているだけだった。そして、その記事の最後には、このように添え書きがされていたのだ。

「なお、同じような外見を持つニセギョウジャノアミガサダケというキノコも存在すると伝わっている。こちらは、食した者は次の日に死ぬ毒キノコであるといわれているので、諸兄はくれぐれも注意されたい」

 食べた者に無病息災と長寿をもたらす「ギョウジャノアミガサダケ」。

 食べた者は次の日に死ぬ「ニセギョウジャノアミガサダケ」。

 一体、自分が手にしているこれは、どちらのものなのか。祐一の頬を冷たい汗が伝っていた。

 

 

 自分が見つけたキノコを喜んで食べる良子。そして、次の日、良子は・・・・・・。

 祐一の頭の中で、恐ろしい光景が湧きあがった。

 駄目だ、絶対に駄目だ。こんな恐ろしいものを良子に食べさすわけにはいかない。いっそ、俺が実験台になって・・・・・・。いやいや、確かあの記事には「一本を食した者は」とあった。、一本丸ごと食べなければならないのであれば、仙薬であるか毒薬であるかの実験だけで終わってしまう。意味がないではないか。

 そうだ、もう一本、もう一本生えてないか。 

 

 

 祐一は、担いでいた籠を放り出すと赤松の根元近くで腹ばいになり、丹念に松葉の下を調べだした。遊んでいると思ったのか、犬が彼の周りをぐるぐると回っていたが、彼の全神経は松葉の下に向けられていた。もう一本、ないか、もう一本・・・・・・。

 やがて、少しずつ松葉をはぎ取りながら進んでいた祐一は、元の場所に戻ってきた。赤松の周りを一周してしまったのだ。

 無い。

 祐一の身体から力が抜け、彼は大地に仰向けに転がった。天に向かって伸びる木々の隙間から、うっすらと空見えた。今まで、全く聞こえていなかった鳥の鳴き声が、急に彼の耳に入ってきた。

「ハハ、ハハハッ。アハハハッ、アハハハハハハ・・・・・・」

 突然、彼は大声で笑いだした。犬が不審そうに主人の顔を窺った。

「そうだ、俺は、一体何をしているんだ。ハハハッ。本物も偽物も、外見では全く見分けがつかないのではないか。例え、もう一本ギョウジャノアミガサダケが見つかって、そのうちの一本を俺が試したとしても、残る一本がそれと同じものだとわからなければ、何の意味も無いではないか。アハハ、俺は、何を、ハハハハハハア・・・・・・、ハァ・・・・・・、フウ・・・・・・」

 そうなのだ。キノコと毒キノコの見分けが付かない以上、安全に良子に食べさせる方法はないのだ。

 ひとしきり笑い声をあげた祐一は、それで気が済んだのか、それまで大事に手に持っていたギョウジャノアミガサダケを、林の奥の方へ放り投げた。薬か毒かわからないものを持っていても仕方がない、そう思ったのだ。

 一瞬の出来事であった。

 ワンッ。

 一声吠えて、犬がそれを追った。あっと思った祐一が止めるよりも早く、犬はキノコに追いつき、それを貪り食った。主人が投げる骨とでも思ったのであろうか、見事な喰いっぷりであった。

「仕方がない、明日まで様子を見るか」

 この場所に来たときはすっかり様子が変わって、ひどく疲れた顔をした祐一は、犬の頭をつるりとなでると、籠を背負い直して家路についた。

 その晩の夕餉は豪華なキノコ料理となったが、祐一の表情はどこかに心配事でも抱えているような浮かないものであった。

 

 

 その後、飼い犬は平均寿命よりもはるかに長く生き、祐一や家族を守り続けた。

 

 

       〇

 

 

 柳 祐一は、妻を愛していた。

 もう人生の半分以上を妻と過ごしたことになるが、出会ったころと変わらず妻を愛していた。

 子供たちの子供が、つまり、祐一と良子にとっては孫が生まれ、皆が集まる盆や正月はとても賑やかになった。可愛くてたまらないというように優しく孫を抱く良子を、祐一は目を細めて眺めるのであった。

 彼は幸せであった。

 

 

 ある時、村で不幸が生じた。祐一が若い頃から世話になっていた老人が亡くなったのだ。村の葬式は埋葬までを皆で執り行う。その帰り道で、祐一の頭の中で、ある疑問が芽を出した。

「死んだ後、良子は当然うちの墓に入る。だが、その後はどうなるのだろう」

 この疑問について考え始めると、切りがなかった。祐一は、農作業の時も、食事をするときも、寝所で休む時も、常に頭の片隅でこのことを考えるようになった。初めは小さな芽であった疑問は、やがて大樹へと成長し、彼の心の健康に影を落とすまでになった。

 

 

 俺は良子を愛しているし、極楽へ行っても良子と共に暮らしたいと願っている。もちろん良子はうちの嫁だ。俺の妻だ。うちの墓に入るのだし、そうなるだろうと今までは思っていた。

 だが、よくよく考えてみると、そうなると安心できるのだろうか。

 良子にとっての俺は、二人目の夫だ。先の戦争の折に出征した夫に先立たれている。その夫にとってみれば良子と別れたつもりはないだろう。先に極楽に行って待っているから、こちらでまた二人で暮らそうと考えているのではないだろうか。

 うちの墓に入ろうが、それが極楽でなにかの意味を成すのだろうか。極楽が墓ごとにあるのではなく、それは一つの世界なのだろうから。

 そうすると、俺と先夫は極楽で良子を取り合うことになるのか。だが、それはしたくない。誰も幸せにはならないし、間に立つことになる涼子が特に可哀そうだ。では、極楽でみんなで仲良く暮らすのか。良子と俺と先夫とで。

 いやいや、それもごめん被る。心が狭いと言われようが仕方がない。良子は俺の妻だ。妻を他の男と共有するなど、どうして受け入れられようか。

 しかし、このような問題はうちだけでは無いはずだ。それなのに、特にこれまで耳にしたことがないのはどうしてだろうか。

 ひょっとして、極楽は心清き者しか行くことはできないから、妻だの夫だのという現世でのくびきにとらわれず、皆で仲良く暮らせる者だけしか、極楽には行けないのだろうか。そして、俺のように妻に固執する欲深き者は地獄に落とされるのであろうか。

 ああ、良子はとても良くできた妻だ。きっと極楽へ行くに違いない。そして、先夫は、御国を守るために亡くなった英霊だから、既に極楽に行っていることだろう。

 だが、俺はどうだ。極楽へ行くには欲が深すぎる。かといって、この欲、つまり、死後も良子と一緒に居たいという願いを捨て去って極楽に行ったとしても、そこで心の平安を得られるのだろうか。

 ああ・・・・・・。

 俺はただ、愛する妻とずっと一緒に居たいだけなのだ・・・・・・。

 

 

 祐一の悩みは消えなかった。柳家の菩提寺を訪ね、死後の世界について住職に尋ねもしたが、ぼんやりとした返答しか得られず、悩みは深まるばかりだった。

 家業の農業は、既に祐一の長男が引き継いでいたから、時間はある。

 自分の煩悩の強さがいけないのだ、そう思った祐一は、滝行を試したり、山に籠ったりもした。村の近辺の寺を巡ったりもしたし、最後にはお遍路となって四国の霊場を回りさえもした。

 彼はたびたび家を空けるようになった。もちろん、自分の煩悩を消し去るためだとは言えないから、詳しい理由を良子に話すことはなかった。それでも、彼女は夫を問い詰めることはせず、帰ってきたときには気持ちよく出迎えるのであった。

 

 

 だが、彼の悩みは消えなかった。

 

 

       〇

 

 

 柳 祐一は死んだ。

 心から妻を愛していた祐一は、妻を後に残して病で死んだ。

 彼の一周忌には、たくさんの子供や孫が集まって法要が行われた。久しぶりに親族が集まる機会だ。食事の席はとても賑やかなものになった。

 

 

「早いなぁ。オヤジが死んでもう一年か」

「いいオヤジだったよな。まぁ、いかにも昭和一桁の男って感じで、お袋には厳しかったけどな」

「ほんとよねぇ、母さんにはあまり話しかけなかったもんね。夫唱婦随とは言うけど、言ってもくれなかったものね。言わなくても察しろって感じだった」

「おい、お前の旦那がそんなだったらどうする?」

「あはは、うちのがそんなだったら、すぐにけんかになるわよ。ちゃんとあたしの目を見て話しなさいって」

「そういや、オヤジは年取ってから妙に信心深くなったよな。お遍路にまで行ったんだったけ」

「そうよそうよ。お母さんも、大変だったわよねぇ」

「あら、そうでもなかったけどねぇ・・・・・・」

「ま、いいオヤジだったけどさぁ」

「ねぇねぇ、おばあちゃん、おじいちゃんに好きって言われたことある?」

「おやおや、急にどうしたの? そうねぇ、おばあちゃんはないかもしれないねぇ。ちいちゃんはあるの?」

「うん、幼稚園でひろし君に言われた。ちいちゃん、ひろしくんのお嫁さんになるの!」

「そう、いいねぇ、ちいちゃん・・・・・・」

 

 

 数日後、誰もいない仏間で、良子は座布団の上にちょこんと座って、仏壇に置かれた祐一の遺影と向き合っていた。

「この間は、にぎやかでしたねぇ、あなた。ふふふ、ほんとに、いろいろ言われていたわねぇ。確かに、あなたはわたしとはあまり話してはくださらなかったし、何か贈ってくれたこともなかったわね。旅行に連れて行ってくださるどころか、滝だ山だお寺だと、お一人でお出かけでしたしね」

 縁側から爽やかな風が仏間に吹き込んできた。ざわざわという稲の実りの音も、風が運んできてくれた。

 少しの間、良子は目を閉じてその音に耳を傾けた。そして、若い頃と少しも変わらない声で、祐一に呼び掛けた。

「だけど、みんな、始めから無いものと決めつけて見えてなかったのね、あなたの愛情に・・・・・・。わたしは幸せでしたよ、あなた。そちらで私が行くまで待っていてくださいね」

 

 

 村は収穫の時期を迎えていた。田では黄金色の穂をつけた稲が、重たそうに首を垂れていた。良子の住む家を、祐一が丹精を込めた畑を、彼らが暮らした村を、天上から秋の太陽が明るく照らしていた。

 その空には、綿を割いたような薄雲がまばらに散らばっていた。そして、その陰に隠れるようにして、上弦の月がほのかな白光を放っていた。

                                (了)