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母を待つ少女の奇岩は、乗っているサバクオオカミの奇岩の背中を叩き、合図を送りました。
彼女は冒頓と戦うために自ら進み出るのではなく、群れの奥の方へと少しずつ下がっていきました。母を待つ少女の奇岩がいた位置に空隙ができると、新手のサバクオオカミの奇岩がゴツゴツとした背中を上下させながら両脇から進み出て、それを埋めるのでした。
母を待つ少女の奇岩は、自分の有利な点、つまり、多数のサバクオオカミの奇岩により冒頓の護衛隊を押し包んでいるという点を生かして、じわじわと戦うつもりでした。また、母を待つ少女の奇岩は、外周部を走っている奇岩の群れにも思念を飛ばして指示を送っていましたから、ここで時間を稼げばそれと合流して護衛隊を挟み撃ちできることまでも、計算に入れているのでした。
「くそっ、このっ! おらぁっ!」
次々と現れる新手に対して、冒頓は最低限の攻撃しか加えずに、前へ進もうとしました。時間が惜しいのです。
もちろん、自分に向かって飛び掛かってくる相手には、対処しなければなりません。ギリギリのところで相手を交わすと、すれ違いざまに短剣の一撃を加えます。こちらが先手を取れる相手には、一気に距離を詰めて短剣を振るい、跳躍しようと力をためているその肩を砕きます。
冒頓の横や後ろでは、彼の部下が懸命に短剣を振るって、冒頓の一撃を喰らって動きが鈍った奇岩たちを完全に破壊していっていましたから、敵への攻撃は最低限のものにとどめて前に進むことを優先しても、その敵によって冒頓が横や後ろから攻撃を受けることはありませんでした。しかし、それであっても、先頭に立って敵と戦い続けている冒頓の体には、サバクオオカミの奇岩の爪や牙による傷が、増え続けていくのでした。
「冒頓殿っ、大丈夫ですかっ」
「ああ、俺の心配なんかするなっ。それより、後ろは任せたからな。頼むぜっ」
「は、はいっ。任せてくださいっ!」
サバクオオカミの奇岩の群れへ突入した護衛隊は、冒頓を頂点としたくさびの形を未だに保っております。冒頓が突入した部分から、サバクオオカミの奇岩の群れの奥へと、敵を倒しながら進んでいっています。
でも、冒頓が目の前の敵と戦って道を切り開きながら進む速度と、母を待つ少女の奇岩が群れの中を後退する速度では、やはり後者の方が速いのでした。
「ちぃっ、まずいぜ。このままじゃ足りねぇ・・・・・・」
冒頓は、母を待つ少女の奇岩の姿が少しずつ遠くなることに、焦りを覚えていました。
このまま時間が経過すれば、盆地の外周部で置き去りにしてきたサバクオオカミの奇岩の群れに、合流されてしまいます。そうなれば、如何に匈奴護衛隊が勇猛であったとしても、多勢に無勢です。「死んだら終わりだ」といつも口にしている冒頓は、彼我の戦力差を現実的に判断できる男でしたから、自分たちが置かれている状況が刻一刻と悪くなっていっていることを、はっきりと認識していたのでした。
「ええい、逃げんのか、こらぁ! 悔しいとか、どうして自分だけとか、言ってたんじゃねぇのか、おらぁっ。そうだ、俺だよ、俺のせいだよ。お前の苦しみは、全部俺のせいだよっ。その敵を目の前にして、逃げんのかよっ」
なんとか母を待つ少女の奇岩を自分の前に呼び戻せないかと、冒頓は彼女が叫んでいた言葉を使って煽り始めました。
実際のところ、冒頓が母を待つ少女の奇岩の苦しみの原因であるはずはありません。もともと、「母を待つ少女」は、風や水が長い時間をかけてヤルダンの砂岩を削って作りあげた奇岩の一つに過ぎず、昔から存在するものです。その古くから立ち続けている奇岩がいまになって動きだし、サバクオオカミの形をした奇岩を生み出し、さらにはヤルダンの管理をしている王花の盗賊団を襲ったりした、その原因がなにかはわかりませんが、匈奴出身の彼にかかわりがあるはずが無いのです。
でも、焦りが喉元まで上がってきたいまの冒頓は、できることは何でも試したいという心境でした。何のことかはわかりませんが、母を待つ少女の奇岩が何かに対して怒り狂い、「ドウシテ、ワタシダケッ」などと、叫び声のような波動を発しながら突っ込んできていたのですから、それを用いて煽ってやれば、自分に対する怒りを燃え滾らせて引き返してくるかもしれないと期待したのでした。
「憎いとか言ってたのは、なんなんだあっ」
冒頓は必死で短剣を振るって、次から次へと目の前に飛び出してくるサバクオオカミの奇岩を打ち倒し続けました。胸を激しく上下させつつ前へ前へと進みながらも、その苦しい息の中から大声を絞り出し続けました。
その大声を止めようとしたのか、冒頓の喉元をめがけて新たに飛び込んできたサバクオオカミの奇岩がありましたが、彼はその体の下に潜り込むと、腹の中へ短剣をずぶりと差し込み、砂岩でできたその体を後ろへと投げ飛ばしました。そして新たな敵を求めて前方へと向き直るその瞬間にも、更なる煽り文句を飛ばすのでした。
「手下に頼ってばかりで、情けない奴だぜ!」
すると、冒頓の視界の奥の方で、サバクオオカミの奇岩の背中が作る黄土色の波の上に、こちらをじっと見ている母を待つ少女の奇岩の姿が認められました。
彼女のその姿を目にした時、冒頓の心の中に、急に一つの言葉が浮かび上がってきました。
その言葉とは、「孤独」でした。
母を待つ少女の奇岩は、同じ奇岩とは言っても、他の奇岩、つまりサバクオオカミの奇岩とは、全く異なっていました。その彼女の姿が、サバクオオカミの奇岩の背中の上にすっと飛び出している様子が、まるで、味方であるサバクオオカミの奇岩の群れと交じり合えずに、群れから一人だけはじき出されているかのように、冒頓の目には映ったのでした。
そして、その印象を基として、冒頓の口からこの言葉が飛び出たのでした。
「だから、お前は一人なんだ。ずうっと一人だ。ああ、それは俺のせいだ。この俺のせいなんだよっ!」
ゴゴオンッ! バシィィンッ!
母を待つ少女の奇岩の体は、天上から落ちた雷に打たれでもしたかのように、大柄なサバクオオカミの奇岩の背の上で激しく跳ね、何度も大きく揺れました。
冒頓が発した言葉は、まさに稲妻ように激しく母を待つ少女の奇岩の体を打ったのでした。
母を待つ少女の奇岩は、ブルブルと震え続ける体が落下しないようにと、乗っているサバクオオカミの奇岩の背中の上に上半身を伏せて、両手でしがみつく必要さえ生じたようでした。
「な、なんだよ。どうした、お前っ」
それは、その言葉を発した冒頓でさえもが驚くほどの大きな効果でした。
生きているかのように動き、さらには怒りという感情をぶちまけてさえいた母を待つ少女の奇岩でしたが、戦いの中で冒頓たちと言葉や思いを行き交すことはありませんでした。彼女は人間とは明らかに異なる敵であって、大声で煽り文句を叫んでいた冒頓でさえも、それが人に対する時のような効果を発揮するとは、正直に言ってあまり期待してはいませんでした。ところが、「お前は一人なんだ」という冒頓の言葉が、初めて母を待つ少女の奇岩から反応を引き出したのでした。それも極めて激しい反応をです。
「オ、マエ、カ・・・・・・」
母を待つ少女の奇岩が絞り出した言葉の波動は、冬山の尾根を降りてくる北風の様に、冷たく乾ききっていました。
サバクオオカミの奇岩も冒頓たち護衛隊も、母を待つ少女の奇岩が発する黒い冷気によって凍らされたかのように、動きを止めてしまいました。圧倒的な負の思いをこの場に撒き散らしつつ伏せた顔をゆるりと持ち上げる彼女の仕草から目をそらすことなど、それが人であるか奇岩であるかにかかわりなく、その場にいたすべてのものには許されていなかったのでした。
「オ・・・・・・オ、マエカ、オマエカ、オマエカァアアアッ!」
母を待つ少女の奇岩は、雪崩が発する轟音のような大声の波動を発しながら、その顔を冒頓に向けました。
その目に当たる窪みには何らかの光るものが見えたように、冒頓には思えました。
涙?
まさか、如何に動く砂岩の塊と言えども、涙を流すことなどありえません。短剣で四肢を切り飛ばされたサバクオオカミの奇岩でさえも、一滴の血も流していないのですから。
それでも、冒頓には、彼女の目から、そうです、少女の瞳から、涙が流れているように思えました。そして、その涙は、キラキラと光る透明のものではなく、どろりとして真っ赤な血のようなものであると確信しました。
なぜなら、その目が言っていたからです。ニクイ、ニクイ、ニクイ、と。
さらには、その憎しみを晴らす相手が見つかって、ウレシイ、ウレシイ、ウレシイと。
「オオオオオオッツ! アハアァッツ・・・・・・・・・・・・。ァア・・・・・・・・・・・・」
母を待つ少女の奇岩は極限にまで上半身を逸らして天を仰ぎ、まっすぐに伸ばした喉を通して体内の全ての空気を絞り出すようにして、叫びの波動を上げ続けました。
そして、その波動が途切れると、今度は両手を天に差し上げて、大きく息を吸い込むような波動を発しました。長く、長く、深く、深く。もしも、彼女が人の様に呼吸をするものであるとしたら、その場の空気をすべて吸い込んでしまうかのような勢いで。
それにつれて、ほのかなものであった母を待つ少女の奇岩の肌が放つ青い光が、見る者が眩しさを感じるまでに明るさを増していきました。
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