コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編物語】何も書かれていない手紙が途絶えた時

 

 

 これは、遠い遠い国の昔々のお話です。

 その頃はまだ、電灯はおろかガス灯も発明されておらず、人々は朝日が昇るのに合わせて起き出し、太陽の光の下で畑仕事をしたり家畜の世話をしたりしていました。そして、夕日が沈むのに合わせて仕事を切り上げるのでした。

 でも、農作業のような外での仕事を持つ人ばかりではありません。それに、農民にも室内で行う作業がたくさんあります。

 そのような者たちが用いた明かりとしては、まず暖炉がありました。つまり、室内で薪を燃やし、その炎で室内を明るくしようというのです。多くの場合、人々が暮らす村と彼らが耕す畑よりも、その周りに広がる森の方がはるかに広かったものですから、薪は安価で手に入ったのです。

 もっとも、暖炉の明かりにも、不都合な点がありました。暖炉は人々が暮らす部屋全体を照らすには向きましたが、金属細工や木工などの細かな作業をする際に手元を照らすには、それが光と共にもたらす熱のせいで向かないのでした。

 また、お城や教会などの大きな空間にも、それは向きません。もしも、お城の広間に幾つも幾つも暖炉を作ったとしたら、広間全体が暑くなり過ぎて、誰も入れなくなってしまうことでしょう。

 そこで人々が用いたのが、ロウソクでした。村人は暖炉の明かりで部屋全体を照らし、手元を明るくする必要がある場合には、ロウソクに火を灯して近くに置いたのです。また、お城や教会に人々が集まる際には、何本ものロウソクを置けるように作られた燭台が用意され、行事や宴に合わせて用いられました。

 ロウソクには、大きく分けて二つの種類がありました。農民が飼育していた羊などの脂を元にしたものと、蜂の巣から採れる蜜蝋を元にしたものです。

 村人が使っていたのは動物油を元にしたロウソクです。このロウソクには、火を点けると臭いが立つという欠点がありましたが、その欠点が無い蜜蝋を元にしたロウソクはとても高価で手が出なかったのでした。そもそも動物油を元にしたロウソクにしても薪に比べれば非常に高価で、村人はできるだけそれを使わないようにと注意しながら生活していたほどでした。

 それほど高価な蜜蝋を元にしたロウソクをたくさん立てた燭台は、正に富と力の象徴でした。国内でそれを使うことができた人は、お城の王様、そして、一部の貴族だけでした。

 もちろん、貧しい村人には、お城の広間でそれが輝くのを見る機会などありはしません。でも、彼らがそれを見る機会が、別のところにありました。それは、教会でした。

 その国では、村々の中にその規模に応じた大きさの教会が建っているのが常でした。

 たくさんの人々が集まることができるように、広く作られた礼拝室。そこには明かり取りのために大きな窓が幾つも設けられているのですが、奥まったところに有る祭壇の背部には、荘厳なステンドグラスがはめ込まれた窓の他には窓がありません。その薄暗い一角に立ってお話をする神父様の周りを照らすのは、燭台に何本も立てられたロウソクの炎の役目でした。ステンドグラスを通してもたらされる色彩の波と温かなロウソクの炎の揺らぎが、人々に辛い日常を忘れさせてくれるのでした。

 そのような教会の中でも、オケアン村の教会は、祭壇を飾る燭台の炎の美しさで有名でした。オケアン村は田舎にある小さな村でしたから、教会の建物や説教の際に用いられる燭台は、決して大きくも無ければ豪華でもありませんでした。いいえ、むしろ小さな教会であり、そこで用いられる燭台も簡素なものでした。

 では、どうしてオケアン村の教会は有名になったのでしょうか。それは、教会の質素な燭台に立てられるロウソクそのものの品質が、とても良かったからでした。

 たとえロウソクの材料として蜜蝋を用いたとしても、それは蜂の巣と言う自然物から採られるものですから、混じり物を完全に無くすことは困難です。そして、動物油から作られたロウソクよりははるかに少ないものの、その混じり物が燃える時に匂いや煙が立つのを避けられないものです。

 それなのに、オケアン村の教会で使われていたロウソクは、神父様の説教が行われている間ずっと灯っているのに、まったく嫌な臭いも出さなければ、僅かな煙も立てないのです。それどころか、穏やかに揺れるロウソクの炎の色がとても柔らかで、神様の温かな愛がそこに宿っているかのようにさえ感じられるのでした。

 このロウソクを作っていたのは、ドミトロと言う名の若い男でした。ドミトロは裏表のない純朴な性格で、数年前に無くなった両親からロウソク作りと言う家業を引き継ぎ、それに真っ正直に取り組んでいました。仕事の手を抜くことなんて、修業時代から一度も考えたことはありません。どれどころか、妻であるサーヤが呆れるほど、それに手間を掛けるのでした。

 そうです。オケアン村のロウソクは、削った蜂の巣を詰めた布袋を水で満たした大鍋に沈める、薪を燃やして水を沸騰させロウを溶かす、完全にロウが溶けだしたら火を止めて、混じり物を布袋の中に残して水面に浮いてきたロウが固まるのを待つ、固まったロウを取り出して日光に晒し漂白する、という面倒な工程を何周も何周も繰り返し、他のロウソク職人であれば満足してロウソクとして形づくって売ってしまうほどの品質になった後も、サーヤに何周も何周も繰り返して、これ以上ないほどに品質を高めた蜜蝋で、作られていたのでした。

 

     ◆◇◇◇

 

 それは、ある初春の朝の事でした。

 穏やかな日差しの下で、一頭の驢馬を引いた若い男が、高台に設けられている教会へやってきました。その男はドミトロでした。彼は驢馬の背中に括りつけた大きな籠からしっかりとした木箱を取り出すと、慎重にそれを抱え直してから、教会の中へと入っていきました。

「おはようございます、神父様。ドミトロです。ロウソクをお届けに参りました」

「おお、おお。すまないな、大変な時に。ドミトロ」

 ドミトロの声に応じて奥の部屋から出て来た、豊かな白髭を蓄えた小柄な男は、この村の神父でした。また、台所の方からは、教会の雑務をこなしている下男が現れました。

 ドミトロは、中に入っているロウソクが折れてしまわないように、ゆっくりと木箱を床に置きました。木箱には荒縄で蓋が縛り付けられていて、縄の結び目はたっぷりとした蜜蝋で封がされていました。その蜜蝋には、蜜蜂の印がくっきりと浮かび上がっていました。この封印はドミトロが自作のロウソクの証として用いているもので、彼はいつも「このロウソクがみんなの心を明るくしますように」と願いながら、蜜蝋の封に木型を押し付けているのでした。

 神父はドミトロよりずいぶんと年長でしたから、彼を小さい時から知っていました。彼が幼い頃は、父親が作ったロウソクを届けに来たものでした。驢馬の背に載せた籠からロウソクが入った木箱を降ろすのに踏み台が必要だったあの子が、いまではこんなにも立派なロウソクを作るようになりました。ドミトロを見る神父の表情は、自然と祖父が孫を見るような優しいものになるのでした。

「お前の作るロウソクの素晴らしさには、本当に感心させられるよ。教会に集まる村の者たちも、あのロウソクに灯る明かりを見ると温かな気持ちになって疲れを忘れる、と言っているぐらいだ」

 神父はドミトロの労をねぎらうと、下男にロウソクを倉庫にしまっておくように命じました。

「もったいないお言葉です、神父様。俺は、ただ一生懸命に仕事をしているだけで、そのように褒められるようなことなんて、何もしてないです」

「そうか。しかし、お前のように真面目に仕事に取り組むというのは、誰にもできることでは無いぞ。ところで……」

 神父の声が、ドミトロへの愛情を含んだ暖かなものから、急に心配気なものに変わりました。その声の様子の変化に気付いたドミトロの表情も、曇ったものになりました。

 実は、これまでロウソクはある程度の日数を置いて定期的に納められてきたのですが、今日は予定にないお届けだったのです。本来はもっと先の日に、もっと多くの本数をまとめて届けに来るはずだったのですが、ある事情が生じたために、いま納めることができるロウソクだけでも納めようとなったのでした。

 それは、ドミトロがこの村を出ることになっているためでした。

 仕事のためにでしょうか。いいえ、彼はロウソクを作る仕事をしているだけで、その材料となる蜜蝋や動物の脂の採取まではしていません。それらの材料は村の農家が持って来てくれることになっていて、その引き換えに動物油ロウソクを渡すことになっているのです。

 それに、ロウソクの製造のためには多くの薪が必要になりますし、特に動物の脂を元にしてロウソクを作る際には嫌な臭いがたくさん出てくるので、村から少し離れた森の奥にある作業場以外では仕事はできないのです。

 彼は戦に行くのです。この地方に侵入してきた異民族から、国を、そして、この村を守るために、砦へ向かうのです。

 もちろん、彼が喜んで行くのではありません。ドミトロは、良いロウソクを作ることが一番の楽しみだという欲のない若者で、穏やかで優しい性格の男でした。それに、一般の家で用いられる動物の脂を元としたロウソクにもできるだけ手を掛け、しかも、それを安価で売ったり交換したりしていましたから、村人からとても好かれ、また、感謝もされる存在でした。戦いを好む血気盛んな若者ではありませんし、戦場で活躍して一旗揚げようなどと言う思いなど、欠片も持っていませんでした。

 ドミトロが戦に行くのには、彼の暮らす村や国を超えた、地域全体の情勢の変化が関わっていました。

 遥か東方で発達した騎馬民族の国が、ドミトロが暮らす村を含む国のすぐ近くにまでその勢力を広げて来ていたのです。近隣の国々は既にその異民族との戦いに入っています。ドミトロの国が戦いに巻き込まるのも、もう時間の問題でありました。

 王様は国中の教会に対して、「貴方の子らを守ってください」と神に祈りを捧げるようにお触れを出しました。それと同時に、それぞれの教会からこれこれの数の男を戦いの為に出すようにとの命令も出しました。それは、この当時は、村々に設けられている教会の神父が、村長の役目も兼ねていたからでした。

 ドミトロの村の教会にも、戦場へこれこれの数の男を送り出すようにとの命令が届きました。それは村の大きさからすると、とても厳しい人数でした。健康で働いている男は全て対象としなければいけないと言っても、過言ではないほどでした。いつもなら王様の命令に文句を言うことなどありえないのに、「そんな人数はとても無理だ」という声が、教会の前に集められた村人の間から、いくつも上がったほどでした。

 でも、仕方が無いのです。無理を承知で招集を掛けなければならないほど、この国が追いつめられているのです。襲って来る異民族は人数が多い上にとても強力で、お城の兵隊だけではとても太刀打ちできないのが、戦う前からわかり切っているのです。

 では、考えたくも無いのですが、万が一にでもその異民族に負けてしまったら?

 聖なる神を信じていない奴らは、戦う術もない老人や赤子までも殺し、女は犯し、全ての家畜や財産を奪い去る事でしょう。恐ろしいことに、彼らは戦で負けた国の人々の肉を粉々に切り刻んで食べるとの噂もあります。

 ああ、駄目です。絶対にそのような事を許してはいけません。

 神父の説明により村が置かれている状況が明らかになってくると、村人の中から上がっていた王様の命令への不満は、すっかりと消えてしまいました。そして、「俺は行くぞ」、「俺も母さんやこの村を守るために戦う」との声が、次々と上がるようになりました。

 ドミトロも、妻のサーヤと一緒にその場におりました。人混みの中で、彼は妻の手をギュッと握りました。妻の手の温もりを感じた次の瞬間には、彼の口から「俺も戦う。サーヤを守りたい!」との言葉が飛び出していたのでした。

 こうして、ドミトロは多くの村の男と一緒に、国境近くの砦へ行くことになったのでした。一度戦場へ行けば、次に村へ戻れる日がいつになるか、全くわかりません。そのため、ドミトロは村を出る前に、いま納めることができる全てのロウソクを、教会に届けに来たのでした。

 

「お前は、明日村を出るのだったな」

「はい、神父様。もう砦に向かった男も多いのですが、俺は作りかけのロウソクを仕上げて教会に納めてからで良いと言ってもらえたので、今日まで残っておりました。でも、こうしてロウソクもお届けできましたので、明日村を出ることにします」

「そうか……。お前のような心優しい男まで……、いや、何も言うまい。お前や村の男たちが無事に戻ってくるように、毎朝毎晩、私は心から神に祈っているよ」

 神父は口から出そうになった何事かを飲み込むと、額に皺を寄せたままで緩やかに首を振りました。きっと、村の若者の未来を案じるばかりに、聖職にある者が口にしてはいけない言葉が出てきそうになったのでしょう。

「俺たちのことを心配してくれて、本当にありがとうございます。神父様こそ、お身体にお気をつけて。俺は大丈夫です。きっと、敵から村を、そして、サーヤを守って見せます。……ただ、俺がいない間、サーヤがさぞかし心細い思いをするだろうと、それだけが心配です」

 神父の迷いに満ちた振る舞いは、単なる言葉以上にドミトロの心を温かくしました。ドミトロは神父を心配させまいとするのか、自分たちは大丈夫だと言い切るのですが、家に残す妻のことになると、彼も心配の色を見せるのでした。

 他の多くの男たちも妻や家族を置いて村を出て行きましたが、彼らの多くは農民でした。共同作業を行うことの多い農民は、村の中に家を構え、横のつながりもたくさんありました。そのため、女同士の関係も近く、男どもがいなくなった後でも完全に孤立してしまうことはありません。でも、ロウソク作りを生業とするドミトロとサーヤは、村から離れた森の中に住んでいましたし、まだ年若い夫婦である彼らには子供も無かったので、これからサーヤは一人ぼっちでドミトロの帰りを待つことになってしまうのでした。

 村のまとめ役でもある神父には、ドミトロ夫妻の事情が良くわかっていました。

 王様からの命令もありますから、流石にドミトロが戦に行くのを止めることはできません。でも、なんとかしてサーヤの心を軽くしてやることはできないでしょうか。それは、ドミトロの心配の種を除くことにもなるのです。

 考える時の癖で白髭を右手で撫でつけていた神父は、甘い匂いを感じました。それは、はちみつの匂いでした。ドミトロが教会の入口で声を上げた時に、神父はちょうど蜜蝋を触っていたのでした。街にある主教会へ宛てた手紙を書き終え、それを封筒に入れて蜜蝋で封をしていたところだったのです。

「そう言えば、この蜜蝋もドミトロが納めてくれたものだったな。良い若者だ。彼の妻のサーヤも気立ての良い女で、正にお似合いの夫婦だ。どうにかしてやれないものか……。おう、そうだっ」

 神父の頭の中にある考えが浮かび上がりました。彼はドミトロに少し待つように言うと、奥の部屋に戻って行きました。

 僅かな時を置いて戻って来ると、神父はドミトロに一束の紙を手渡しました。

「神父さま、これは?」

 ドミトロは、怪訝そうな顔をしました。神父がどういう意図で自分に紙束を渡したのか、わからなかったのです。

「ドミトロ、手紙だ、サーヤに手紙を書くのだ。戦地にいるお前から手紙が届けば、それは無事の知らせだ。形の無い不安と心配は人の心を弱らせてしまうが、そのような形あるものが届けば、サーヤも心強く思うであろう」

 パッとドミトロの表情が明るくなりました。確かに神父の言うとおり、自分が村を出た後は、サーヤは夫の身を案じながら毎日を過ごすことでしょう。そこでは、形のない心配がどんどんと大きく冷たくなって、彼女を苦しめるに違いありません。もしも、手紙と言う形のあるものを送ることができれば、それが彼女の心をしっかりと支えてくれることでしょう!

 でも……。

 一度は明るくなったドミトロの表情が、すぐに暗くなりました。彼はこれまでに一度も手紙を出したことがありません。それに、サーヤも一度も手紙をもらったことがありません。それには、大きな理由がありました。

「神父様! とてもありがたいお話ですが、俺もサーヤも読み書きができません。ですから、貴重な紙をいただいても、手紙を書くことも読むこともできないんです!」

 悲しい目をしてドミトロは訴えます。この当時、文字を書いたり読んだりできる人は、上流階級の者や、教会やお城などで特別な仕事に当たる人に、限られていました。農民や職人の多くは、自分の名前さえ書くことができなかったのです。

 この村のほとんどの人は農民や職人ですから、読み書きはできません。もちろん、ロウソク職人であるドミトロもできません。神父は村の教会を長く守ってきたのに、それを知らなかったのでしょうか。

「大丈夫だ、ドミトロ。ほら、よく見てみろ」

 神父は慌てた様子も見せずに、優しい口調でドミトロに紙をよく見るようにと言いました。

 言われるままにドミトロが紙の面を見ると、何やらその一部に文字が並んでいて、端の方には切手が貼ってあるのに気づきました。紙束を捲ってみると、全ての紙に同じような文字が書き込まれていました。

「神父様、これは?」

「これはな、この村とこの教会の名を記したものだ。さっき奥の部屋で私が書いた。この手紙の宛先をあらかじめ書いておいたのだ」

 自分の思い付きに興奮していた部分もあるのでしょうか、神父は熱心に説明を始めました。

 つまり、こういうことです。

 神父が用意したのは、宛先として村と教会の名を書いた紙。それには、切手も貼ってあります。彼はドミトロの目の前でその一枚を取ると、宛先が表に来るように折り畳み、筒状にしました。ただ、このままでは手を離すと紙が開いて、封筒の形が崩れてしまいます。でも、神父はそこが大事なところだと、語気を強めました。

「封筒の形になるように紙を閉じて、蜜蝋で封をするのだ。そして蜜蝋の上からお前が使う蜂の木型を押し付ける。すると、どうだ。ドミトロ、お前からの手紙だということが、その蜜蝋に刻まれた印を見るだけでわかるだろう!」

 確かに、神父の言うとおりです。この蜂の木型で印をつけるのはドミトロしかおりませんから、その印が付いた蜜蝋で封をした手紙が届けば、文字を読めないサーヤでも、それがドミトロから送られてきたものだとわかるでしょう。

 それに、手紙を送る側のドミトロにしても、あらかじめ神父が紙に宛先を書き、切手を貼ってくれていますから、文字を書けないことが問題とはなりません。紙を折りたたんで、蜜蝋でそれを留め、刻印を施すだけで良いのですから。

 神父の言いたいことがわかってきたドミトロの表情は、目に見えて明るくなってきました。そして、その変化を見た神父の方も、嬉しさが増してくるのでした。

「そうだ、ドミトロよ。戦地からの手紙や情報は一度お城に集められるが、この教会を宛先にしたものであれば、そこからまた送り直されるだろう。私の下に手紙が届いたら、それをサーヤに送り届けてやろう。そして、ほらこのとおりお前は無事だと、伝えてやることにしよう」

「ありがとうございます、ありがとうございます! これでサーヤも安心して、俺の帰りを待つことができます!」

 ドミトロは、神父から貰った紙束を胸に押し当てて深々と頭を下げました。そして、何度も何度もお礼の言葉を口にしながら、教会を出て行くのでした。

 十字を切り、「ドミトロを御守りください」と唱えながら、彼を送り出す神父。その顔には、先ほどまでは浮かぶことの無かった、ドミトロの、そして、この村の人々の未来への深い憂いが表れていました。

 

     ◇◆◇◇

 

 森の中の家へ戻ったドミトロは、さっそく妻のサーヤに、神父から紙束をもらったことを伝えました。少しでも早く、彼女に圧し掛かっている不安を、軽くしてやりたかったのです。

「この紙の一枚一枚には、神父様があらかじめ教会の名を書いてくださっている。俺は折りたたんだこの紙を蜜蝋で封をして手紙の形にする。そして、いつも使っている蜂の木型を蜜蝋に押して、教会宛てに送るよ。この手紙が教会に着いたら、神父様がお前に届けて下さる。俺もお前も文字の読み書きができないけれど、お前のところに蜂の印が刻まれた手紙が届けば、それで俺が無事だとわかるだろう」

「そうね、ドミトロ。もちろん、貴方のような真面目に働く人は神様が御護りになってくれるとあたしは信じているけれど、貴方から無事を知らせる手紙が届くなら、それ以上に嬉しいことは無いわ。神父様のご配慮が本当に有難いわね」

 ドミトロの顔を見上げるサーヤの顔に浮かんだ表情は、言葉以上に雄弁に、彼女の不安が軽くなったことを物語っていました。神父が考えていたとおり、形ある知らせが届くのなら、それに勝るものは無いのです。

 ドミトロは妻の不安を軽くできたことにホッとすると、大事な紙束を忘れることが無いようにと、すぐにそれを大きな皮袋の中にしまい込みました。この皮袋は彼が村を出る時に持って行くものとして、僅かばかりの食料や衣類、日頃から使い慣れた小刀などが入っていました。

 もちろん、蜂の木型と蜜蝋も忘れてはいけません。

 それらを取りに作業場へ向かおうとするドミトロに、サーヤが声を掛けました。

「ねぇ、ドミトロ。持って行く蜜蝋は、いつも封をするのに使っているものでなくて、教会に納めるロウソクを作った時に余った晒し蜜蝋にしたらどうかしら。あれほど混ざりものの無い真っ白な晒し蜜蝋は貴方にしか作れないから、それで封をされた手紙を貰ったら、もっともっと貴方を感じられると思うの」

 サーヤの言うとおり、僅かな量でしたが、晒し蜜蝋が作業場に残っていました。それは、教会用のロウソク製造作業の最後に、ロウソク一本分には満たない量が残ったものでした。

 木箱を縛る綱の結び目や封筒に封をするための蜜蝋には、混じり物を取る作業を行っていません。ロウソクのように燃焼させるわけではないので、それほど高い品質を要求されないのです。通常であれば、長い時間とたくさんの手間をかけて作った晒し蜜蝋を封筒の封に用いるなんて、もったいなくてとてもできないところですが、今回は事情が事情です。それに、ドミトロが村を出た後は、蜜蝋を元としたロウソクは作りません。サーヤ一人ではとてもできないのです。

 このまま半端な量の晒し蜜蝋を家に置いておいても仕方が無いですが、その程度の量でも何通かの手紙の封をするには十分です。ドミトロにとっても、それで手紙の封をすることでサーヤの心がより静かになるのであれば、とても有難いことです。

 作業場に入ったドミトロは、作業台の引き出しの中から、木型と子供の拳ほどの白い塊を取り出すと、家に戻りました。そして、「君の言うとおり、これを持って行くよ」とサーヤに示してから、皮袋の底にしまいました。

 しゃがみ込んでいるドミトロの背中を、サーヤが小さな手で撫でました。

 ドミトロは立ちあがると、優しく妻を抱きしめました。

 いま確かに存在を感じることができる夫、そして、妻。ですが、次にそれを確かに感じることができるのは、いつになるのでしょうか。

 ドミトロもサーヤも、何の言葉も発しません。ただ、お互いの温もりを身体全体で確かめ合うのでした。

 

 次の日の朝早く、ドミトロは森の中の小屋を出ました。もちろん彼は、あの大事なものが入った大きな皮袋を背負っています。

 村の外へと続く小道を進みながら、何度も振り返り手を振るドミトロ。その姿が完全に見え無くなるまで、いいえ、見えなくなった後もしばらくの間、サーヤは戸口に立って彼を見送るのでした。

 

     ◇◇◆◇

 

 多くの男たちが戦場へ旅立った後のオケアン村は、すっかりと活気を無くしてしまいました。ほとんどの家庭では、男たちが畑作業や家畜の放牧などの力仕事や屋外作業を担い、女たちが収穫物の加工や家事などの家の周りでの仕事を行っていましたから、家の外に立って働く人の姿がめっきりと減ってしまったのです。

 とは言え、小麦畑では春の初めに蒔いた種が小さな芽を出していて、その世話をしないわけにはいきません。異民族を追い払って男たちが村に帰ってくるのがいつになるのかは、神様にお祈りしても、教会の神父様に聞いてもわかりませんから、女たちが畑仕事もするしかないのです。そうしないと、飢えて死んでしまいます。

 女たちは、身体が弱くなっているために戦にはいかなかった老人たちから畑仕事を学び、近くに住む者同士が協力して作業を行うなどの工夫をしながら、朝日の昇る時から夕日が沈む時まで外で仕事をするようになりました。

 慣れない肉体労働はとても身体に堪えます。また、考えすぎないようにしようと思っていても、ふとした拍子に戦に行った男たちの事を思い出して、心臓を冷たい手でギュッと握られるような辛い気持ちになります。そのような時には、女たちは大声で歌うことで気を紛らわせるのが常でした、

 ですから、一時はすっかりと静かになって家畜や鳥の鳴き声だけがやけにはっきりと響いていた村には、しばらくするとまた人々の声が戻っては来たのです。ただ、それは以前とは様子が異なっていました。かつては、畑仕事をする男どもの陽気な鼻歌や、仲間内で飛ばし合う冗談と豪快な笑い声で溢れていた村には、いまでは、女どもが歯を食いしばって苦しみに耐えながら歌う唄が、風が小麦の葉を撫でて起こす「ザワザワ」と言う調べに乗って、流れるようになっていました。

 また、この事は村から離れた森の中に住むサーヤの生活にも、大きな影響を与えていました。

 日中を畑で過ごすようになった女たちは、これまで窓から入る太陽の光を頼りに行っていた手作業や家事の内のいくつかを、ロウソクの明かりの下で行わなければいけなくなりました。そのため、これまでよりもたくさんのロウソクが、もちろん、それは安価な動物油を元にしたロウソクでしたが、必要とされるようになりました。

 村の女たちがこれまでよりも頻繁にサーヤの下を訪れて、自らが作ったパンや野菜などとロウソクを交換するようになりました。森の中の小屋に一人でいるサーヤには、それは嬉しい訪問でした。大事な夫や息子を戦地に送り出したという状況は村の女もサーヤも同じですから、お互いが抱える不安や苦労もわかります。彼女たちはすぐに打ち解けて、不安を感じた時は励まし合い、ほっとする出来事を見つけては共有して笑い合って過ごすようになるのでした。

 ドミトロが家を出てから、一週間が過ぎ、二週間が過ぎました。

 サーヤは、日中はロウソクを買いに来た村の女と話をしたり、自分たちの為に作っていた小さな畑の世話をしたりして過ごしていました。もちろん、ドミトロのことは常に気にかかっていましたから、朝起きた時と夜寝る間には必ず、そして、食事の時やちょっとした時間が取れた際にも、「彼が無事に帰って来ますように」と神に祈るのでした。

 三週間が過ぎ、そして、四週間が過ぎました。

 まだ、男たちは誰一人戻ってきていません。それに、教会の神父のところにも何の情報も入って来ていないようで、女たちが必死に問いかける、「神父様、夫は、子供は、父は、いつ帰ってくるのでしょうか」という声にも、神父はいかにも苦しげな声で「私にもわからないんだ、すまない」と答えるしかありませんでした。

 ある暖かな日の夕暮れ時、サーヤは村の女に渡すロウソクを補充しておこうと、作業場へ入りました。

 日用品である動物油ロウソクの材料は羊や牛などの家畜の脂でしたが、蜜蝋とは違ってそれらを原料の状態で長く保存することはできません。ですから、祭りや儀式で家畜を潰す時にその脂部分をもらい受けると、それが腐って駄目になってしまう前に急いで全てロウソクにしてしまうのです。ドミトロの作業場には、これまでに作り貯めた動物油ロウソクが、まだたくさん残っていました。

 サーヤが作業場に入るのは、ドミトロが家を出てからこの時が初めてでした。長い間開いてくれなかったことに抗議するかのように、入口の戸は中々動いてくれませんでした。

 ガタ、ガタガタ、ガタンッ。

 ようやく開いた戸口を抜けて作業場に入ると、ヌメッとした独特の獣脂臭と蜜蝋の甘い匂いが混ざり合ったものが、薄暗い室内から流れ出てきました。最近は、家の中に取り置いた動物油ロウソクしか触っていませんでしたが、ドミトロがいた頃はこの作業場の中で、この臭いに包まれながら、一緒にロウソクを作っていたのです。

「ドミトロ……」

 サーヤの心の中で、ドミトロの顔が、身体が、声が、急に膨らんできて、そのために破裂しそうになった胸がキリキリリッと痛みました。

 戸口で立ち尽くしたサーヤの手から、ロウソクを入れようと下げていた籠が落ちました。

 夕日を背中に浴びたサーヤの影が作業場の室内へ長く伸びていましたが、それが急に短くなりました。両手で顔を抑えた彼女が、背中を丸めてしゃがみ込んでしまったからでした。

「ああ、あああっ、ドミトロッ! ああ、うああ、ドミ、ドミト、ろおああぁ……」

 泣きじゃくりながら夫の名を呼び続けるサーヤ。でも、ここには、彼女を抱きしめて慰めてくれる者はおりません。

 夕日が沈み、短くなった影が完全に夜の闇と一体化してしまった後も、サーヤはその場から動けないままでした。

 

 次の日の事です。

 その日一番に森の小屋を訪れたのは、ロウソクを求めに来た村の女ではありませんでした。

「サーヤさん、サーヤさんっ。教会からお届けものですっ」

 家の前に立って彼女を呼ぶのは、教会の使いでやって来た神職見習いの少年でした。

 教会からの届け物と耳にしたサーヤは、昨日の夜に泣きはらした目を隠すのも忘れて、家を飛び出してきました。届け物。教会。それは、ひょっとしてっ!

 サーヤの勢いに驚いた少年がオズオズと差し出したそれは、正にサーヤが待ち焦がれていた手紙でした。その片方の面には彼女には意味が解らない文字が連ねられていましたが、反対の面には何も書かれてはいませんでした。ただ、その面に何もなかったわけではありません。文字が書かれていない面には、蜂の刻印がされた晒し蜜蝋の封印が、その中央にドンッと施されていました。

 ドミトロです。ドミトロからの手紙ですっ。ああ、これを送ってきたということは、彼は無事なのです!

 サーヤは少年が手渡してくれるが早いかそれを強く胸に押し当て、その手紙が与えてくれる温もりをできるだけ感じ取ろうとするかのように、ギュッと目を閉じました。手紙を握っていると、ドミトロの「僕は大丈夫だ」と言う声が聞こえるような気がしました。

 どれだけの間、彼女はそうしていたのでしょうか。ようやく落ち着きを取り戻した彼女が、手紙を届けてくれた礼を言おうと目を開いた時には、少年の姿はどこにも見えなくなっていました。

 

 神父が考えていたとおりでした。

 寂しさと不安のせいで、日照りの際の畑のようにサーヤの心はカラカラに乾き脆くなっていました。でも、蜂の封印が施された手紙がそこに潤いの雨を降らせて、豊かさとしなやかさを取り戻させてくれたのでした。

 さらに、それは形のあるものでしたから、サーヤは寂しくなったり不安になったりする度に、それを取り出してドミトロの無事を確認することができるのでした。

 そうです、ドミトロの手紙が届いた後も、男たちが戦場から戻って来ることはありませんでした。サーヤや村の女たちが、大事な人を待つ日々は、まだまだ続くのでした。

 お城や街の教会から、途切れ途切れに神父に伝わってくる情報では、東の国境近くの砦でお城の騎士を始めとする守り手と異民族とが睨み合っているということでした。

 このままでは、夏から秋にかけて行う麦の刈り取りも、女たちだけで行わなければならなくなるかもしれません。

「せめてこれが、同じように土地に根差した民同士のいざこざであったなら、収穫の間は戦を止めると定めることもできるのに……」

 かつて、村を襲った飢饉を何度も経験したことのある神父は、白い髭の奥からホゥッと大きなため息を漏らしました。

 戦の専門家でない神父にも、守るよりも攻める方が難しいことはわかります。それに、国境の要所を固める砦を抜かれなければ、異民族が国内に入り込むことはありませんから、敢えて撃って出て雌雄を決するのではなく、砦を守り抜く方向で考えられているのだとも思えます。それはわかるのですが、村の守り役としては、村人の命を繋ぐ大事な小麦の刈り入れの時期までには、働き手である男たちに帰って来てほしいと、願わずにはいられなかったのでした。

 でも、事態は神父の願ったようには進みませんでした。

 双方の間で小さな戦いはいくつか起きたようですが、決戦と言えるほどの大きな戦いは起きておらず、男たちの不在の期間はどんどんと長くなっていったのです。

 ドミトロからの手紙は、不定期ではありましたが、継続的にサーヤの元に届いていました。ひょっとしたら、サーヤを安心させるためにドミトロの方では「何日おきに」と決めて手紙を出しているのかもしれませんが、戦地から送られてくるものでもありますし、一度お城に届いたものが、さらに田舎のオケアン村に転送されて来るものでもあるので、一週間の間をおいて届くこともあれば、三週間も間が空くこともあるのでした。それでも、一番初めの手紙が届くまでにかかった一か月と言う期間を超えて、手紙が届かなくなることはありませんでした。

 

 季節が春をとうに過ぎて初夏に差し掛かった頃、村の教会の前で大きな騒ぎが起きました。

 そこには、不安げに眉を寄せた女たちが何十人も集まっていました。

 一時間ほど前のことでしょうか、村の外から馬を駆って飛び込んできた男が、ひどく慌てた様子で教会の中に駆け込んでいくところを、畑仕事をしていた女の一人が見かけたのです。

 おそらくその男はこれまでに何度も村を訪れているお城からの連絡員だと思われましたが、その様子はいつものものとは明らかに異なっていました。きっと、何か重大な報告を持って来たに違いありません。女たちの口から口へと、この話は直ぐに伝わりました。そして、彼女たちは手にしていた鋤や鎌をその場に放り棄てると、急いで教会の前に集まったのでした。

 彼女たちは大声こそ出しませんでしたが、黙って静かにしていたわけでもありません。何でも良いからしゃべって気を散らしていないと、悪い方向にばかり想像が走って行ってしまうからです。そのため、教会の中にいる神父たちにも、女たちが集まって自分たちの言葉を待っていることが、しっかりと伝わっていたのでした。

 女たちに何も伝えないと返って不安を掻き立てることになると考えた神父は、連絡員を部屋に残して外に出ました。

 その姿を女たちの目が捕らえた瞬間に、あれほど騒がしかった教会前の広場が、空高く飛ぶ鳥の声が聞こえるほどに静かになりました。彼女たちの意識の全ては、神父が何を話すかに向けられていたのです。

「みんな、いまお城から知らせが入った。東の砦を守る我が軍と敵との間で、大きな戦いがあったそうだ」

 アアッ! ワアアッ!

 一度にいくつもの叫び声や悲鳴が上がりました。

 ジリジリと向かい合っていた砦の軍と敵が、つまり、村の男たちと敵が、とうとうぶつかり合ったのです。

 その戦いの行方は? どちらが勝ったのでしょうか? 戦は終わるのでしょうか? 村の男は、私の夫は、子は、父は、無事なのでしょうか?

 女たちは口々に神父に質問を投げかけます。そのため、彼はこれまでに出したことの無いような大声を出して、返答をしなくてはなりませんでした。

「聞けいっ! いいか、砦は落ちてはおらん。だが、敵も去ってはおらん。戦いが始まった、だが、終わってはおらん。そう言うことだ。そして……」

 神父はここで一度口を閉じました。でも、やはり言わなければいけないと意を決すると、再び声を張り上げるのでした。

「先ほど受けた知らせによると、僅かな数とは言え、村の男たちにも死んだり傷ついたりしたものがおるそうだ。それが誰かまではわからん。これからも、犠牲が出るかもしれん。ああ、神よ、貴方の子らを護り給えっ。祈ろう。いま我らにできるのはそれだけだ。お前たちの大事な者たちが、無事に帰りますように。この国が護られますように。さぁ、祈ろうっ!」

 神父の声が響き渡る中、集まった女たちは一人、また一人と、両手を胸の前で握り合わせながら地面に膝をつきました。

「ああ、神よ! お護りくださいっ」

 教会前の広場に集まった村人たちの声は一つになって、天にまで届けよと、高く高く上がっていくのでした。

 

 ちょうど同じ時期のことです。ずっとサーヤの所に届いていた手紙が、パッタリと届かなくなったのは。

 

     ◇◇◇◆

 

「私は余計なことをしてしまったのだろうか……」

 教会の奥に設けられた自室で机に向かっていた神父は、ポツリとつぶやきました。机の上には開かれた経典が置かれていましたが、神父の目はそこには向いておらず、窓を通して見える、夏特有の高く澄んだ青空に向けられていました。

 東の砦周辺で敵との大きな戦いがあったとの知らせが届いた日から、すでに数十日が経過していました。そして、それは、ドミトロからの手紙が途絶えたままで経過した日数でもありました。

 知らせを聞いた当初は、そのまま戦いが激しくなっていくのかと心配をしていたのですが、戦況は再び睨み合いに戻っていました。戦地にいる大事な人の身を案じて、教会前の広場で声を一つにして祈りを捧げていた女たちは、だいぶん平静を取り戻していました。睨み合いになっているということは、戦いの中で傷ついたり死んだりする者が出ていないということでもあるからでした。

 もちろん、不安な気持ちもたくさんあるのでしょうが、「戦いが起きていないんだから、きっと大丈夫だ」と、無理やりにでも明るい方向に考えて、気持ちを奮い立たせていたのでした。

 でも、サーヤは、その様に考えることができないでいました。

 神父がドミトロに持たせてくれた紙はとても貴重なものでしたから、出立前にそれが何枚あるか二人で確認をしていました。その枚数とこれまでに届いた手紙の数から考えると、少なくともまだ五、六枚は彼の手元に残っているはずでした。

 それなのに、どうして手紙が届かなくなってしまったのでしょうか。

「今日はこの村に来る便が無かっただけ。きっと明日は手紙が届くわ」

 そのように自分で自分を励ましながら、いったいサーヤは何日を過ごしたのでしょうか。少なくとも、これまでにこれほど長い間手紙が途絶えたことはありません。

 あの恐ろしい知らせが村にもたらされた時に、サーヤはその場にはいませんでした。でも、後にロウソクを取りにサーヤの元を訪れた村の女が伝えたのです。

「砦を守る兵と敵との間で大きな戦いが起こった。村の男たちもそれに参加していて、傷ついた者や死んだ者もいる」

 その様に、神父が話したと。

 これまでは教会で行われる説教には必ずサーヤの姿もあったのですが、近頃では神父が彼女の姿を見ることは無くなってしまいました。

 それとなく、神父が村の女にサーヤの様子を聞いたところでは、彼女は体調を崩して寝込んでいるとのことでした。

 なまじっか「手紙」と言う形あるものが届き、それを支えにしていただけに、一度それが届かなくなると、「きっと大丈夫だ」というおぼろげな希望を持つこともできずに、最悪の事が起きたとはっきりと考えざるを得なくなってしまったのでしょう。

「サーヤには可哀想なことをしてしまったか……。しかし、あやふやな状態のまま一筋の希望に縋ったところで、やがて悲しい事実に直面しないといけなくはなるのだが。いや、希望を持てるだけその方が良いのか、いやいや……」

 神父はゆっくりと首を振りました。

 ボンヤリと眺めている空の下では、小麦が穂を大きくしています。早蒔きの小麦は、もうすぐ刈り取りを始めないといけないでしょう。

 ホウッと白髭の下でため息をつくと、神父は経典の上に視線を戻しました。

 その時です。

 ドン、ドドドンッ!

 教会の戸が激しく叩かれました。そして、下男が戸を開ける僅かな時間さえも待ち切れないのか、男の大きな声が戸の外から聞こえてきました。

「神父様っ! 終わりました! 戦いが終わりましたっ! 敵が引き上げて行ったんです。終わった、終わったんですっ!」

 神父は勢いよく立ち上がりました。椅子が大きく音を立てて倒れましたが、彼はそれに全く気づきませんでした。説教に使う大部屋へ勢いよく出て行った神父の目に、扉を開けた下男を弾き飛ばさんばかりの勢いで入って来た連絡員の姿が映りました。

「終わった、のか?」

「はい、神父様。終わりましたっ」

 二人はそれ以上何も言わないまま歩み寄ると、しっかりと抱き合うのでした。

 

 戦が終わった!

 その知らせは、瞬く間に村中に広がりました。なにしろ、女たちはその嬉しい知らせを口伝えするのではなく、離れたところにいる者にも伝わるように、できるだけの大声を出して走り回ったのですから。

「国は護られた。砦を抜かれなかったので、敵がこの村を襲うことは無い」

 この時の女たちの頭の中には、そのような事はまったく浮かんでいませんでした。

「夫が、子が、父が、大事なあの人が、帰って来る!」

 彼女たちの心の中は、この想いで一杯でした。そして、この想いは彼女たちの身体を、まるでタンポポの綿毛のように軽くしたのでした。

 もちろん、女たちの上げる歓声は、教会の神父の所にも届いていました。連絡員は次の村へ知らせを伝えるために、既に馬上の人となっていました。きっと、戦場からお城へも早馬で報告があり、それをこうして国内の村々へ伝えているのでしょう。そのことから考えると、荷物を抱えて徒歩で移動する男たちが村へ帰ってくるまでには、もう少し日が掛かりそうです。

 でも、もう危険は去ったのです。待っていれば、無事に男たちは帰ってくるのです。

 神父は目を細めて空を見上げました。

「どうやら、麦の刈り入れには、間に合ってくれそうだ。有り難い、有り難い」

 村のまとめ役としての神父の気持ちをも、その知らせが軽くしてくれたようでした。

 

 それからは、これまでとは違う希望に満ちた日が過ぎていきました。

 お城からは何度か早馬による追加の連絡があり、お城の兵隊は警戒の為に砦に残すものの、村々から徴集した男たちは返すと伝えられました。王様も小麦の収穫時期が近づいている事を心配していたのです。その早馬の最後の便で伝えられたのは、村ごとのおおよその帰参日でした。

 そして、とうとう、オケアン村から戦場へ出ていった男たちの帰参予定日になりました。

 まだ朝の光が夜空の一角を明るくしだしたばかりだというのに、砦の方角から村へ入る小道には、多くの女たちが集まっていました。

 それは、少しでも早く大事な人の無事を確認したいという気持ちが昂って、眠れぬ夜を過ごした人たちでした。「戦が終わった。男たちが帰って来る」という知らせを聞いたときには、喜びと安堵で心がいっぱいになっていたのですが、いざ男たちが帰って来る日が近づいて来ると、埋もれていた心配の種が芽を出してきていたのでした。

 以前に神父は言っていなかったでしょうか。「砦の兵たちと敵との間で大きな戦いがあった。村の男たちも戦いに参加し、僅かな数とは言え、その中には傷ついた者も死んだ者もいる」と。

 村に残された者にとっては、自分たちの大事な人が無事かどうかが、一番の気がかりです。でも、砦には国中の村から多くの男たちが徴集されていましたから、きっとその確認と連絡までは手が回らなかったのでしょう。オケアン村にも、戦いに行った男たちの誰が無事で誰が死傷したというような連絡は、来ていませんでした。

「きっと無事だわ。明日の朝には、あの人はきっと帰って来る。神父様は言ったもの。傷ついたり死んだりした人もいたけど僅かな数だったって。あの人は大丈夫。うん、大丈夫。だけど……」

 人の心の動きとは不思議なもので、大事な人の身を案じる気持ちが強ければ強いほど、どうしても万が一の事にも考えが行ってしまいます。その不安を消し去る方法は、大事な人の無事な姿を自分の目で見て、その温もりを肌で感じることしかありませんでした。

 太陽が空の端に姿を現し、どんどんと高く上がって行くに連れて、その場に集まる人の数も増えていきました。夜明け前からこの場にいる人は、もう数時間も待っていることになりますが、そこから去るものは誰一人ありませんでした。

「あ、ほら、あれっ!」

 女の一人が小道の先の方を指さしました。女たちは一斉に目を細めて、その指が示す方向に注目します。

 草地の上を走る小道。それは、なだらかな丘を登り、山々の間を埋める黒々とした森の中へ消えていきます。その先の方をよく見ると、小道に懸かる森の木々の影の一部が少し動いているような……。いいえ、動いています。小さな小さな影が、確かに動いています。

「帰って来た!」

「あなたっ!」

 若い女たちは村を飛び出して、小道の上を駆けて行きます。中年の婦人は、息子を迎えに来た老女の手を取って、速足で前へ進みます。

 小道の先に見えた影の方も、急に動きが大きくなりました。きっと、村から女たちが飛び出してきたのがわかったのでしょう。その影はずんずんと大きくなり、すぐに村の男たちが帰ってきたことがわかるまでになりました。

 村を出て砦を守っていた男たち。その帰りをずっと待ち続けていた女たち。

 両者はちょうど丘の裾で出会いました。

 「帰って来た、帰って来たぞ!」と叫ぶ男たち。

 「お帰りなさい」と言おうにも、涙が溢れて言葉にならない女たち。

 母親の胸に飛び込む若者。力いっぱい息子を抱きしめる母親。

 胸の前で十字を切り、神の加護を感謝する老女。その背中を何度もさする男。

 抱き合い、何度も口づけを繰り返す若夫婦。

 そこに表れた歓喜の一幕には、男たちが村を出てから消えてしまっていた喜びと感謝と慈しみなどが、一度に放たれたかのようでした。

 再会の興奮はなかなか治まりません。皆は口々に近況を報告し合いながら、ゆっくりと村へと向かい始めました。

 その中に、キョロキョロと誰かを探す様子をしている若い男がいました。彼と手を繋いで歩いている妻が「どうかしたの?」と尋ねました。

「ドミトロの奥さんのサーヤさんが来てないかと思って。彼女に謝らないといけないことがあるんだよ」

「サーヤさん、ね……」

 妻の顔に悲し気な表情が浮かびました。サーヤはこの場には来ていなかったのでした。

 

 この日、サーヤは森の中の家におりました。

 彼女が、戦が終わったことや村の男たちが帰って来る日のことを、知らなかった訳ではありません。時折り動物油ロウソクを求めにやってくる村の女たちが、自分が知っていることを彼女にも伝えてくれていたからです。

 村の女たちに悪気があったわけではありません。彼女たちはドミトロの手紙のことを知らなかったのですから。

 でも、サーヤにとっては、彼女たちが伝えた「大きな戦いがあった」、「僅かだが村の男たちにも死傷者が出た」、「戦いが終わった」、そして、「村の男たちが帰って来る」という情報は、とても辛く悲しいものでした。

 何故なら、ドミトロからの手紙が途絶えていたからです。

 村の女から聞いた話と考え合わせると、どれだけそれが辛いことであったとしても、一つの結論にしか至りません。

 ドミトロは、大きな戦いがあった時に、死んでしまったのです。「僅かな数の死者」の一人は彼なのです。だから、手紙が途絶えてしまったのです。

 その結論はサーヤを激しく打ちのめしました。数日の間、彼女は涙を流し続けました。ただでさえ彼女は体調が悪くなっていたのですが、もう無理をしてまで村に顔を出す気力は無くなってしまいました。

 男たちが帰ってくる予定日もそうでした。いまさら、この重い身体を引きずって村へ出て行ったとして、それが一体何になるというのでしょうか。どうせ、大事な人との再会に喜ぶ人の中で、ドミトロの死を再確認して悲しみの涙を流すだけなのですから。

 サーヤは台所の椅子に腰を掛けて、ドミトロから貰った手紙の封印を見返していました。

 混じりっ気のない真綿のように白い晒し蜜蝋にくっきりと力強く押された蜂の印。

「ドミトロ……」

 手紙の上にポツンと涙が落ちました。

 その時、ドンドンッと小屋の戸を叩く音がしました。

 ロウソクを求めに来た村の女でしょうか。きっとそうです。今日は戦場から男たちが帰って来る日ですし、暖炉を使う季節でもありませんから、ロウソクを灯して夜遅くまで語り合うのでしょう。

「……いま、出ます」

 サーヤは机の上に手紙を置くと、戸のかんぬきを外しました。

 すると、それを待ちかねたかのように、向こう側から戸が開かれました。

「え、あ、あああっ……」

「サーヤ! ただいまっ。帰って来たよ!」

 なんと、戸を開けたのは、村の女ではありませんでした。それは、ドミトロでした。

 いまここで何が起きているのかわかりません。でも、これだけはサーヤにもわかります。目の前に立っているのは、自分の愛する夫、ドミトロです。死んだとばっかり思っていたドミトロが、帰って来たのです!

「ドミトロ……」

「ああ、僕だよ。あ、あれっ、おいっ」

 二人は抱き合うでもなく、口づけをかわすわけでもありませんでした。

 それは、気を失ったサーヤがその場に倒れそうになるのを、ドミトロが慌てて支えなければならなかったからでした。

 

「ん……」

「やあ、気がついたかい。良かった」

 サーヤはベッドの上で意識を取り戻しました。ドミトロが運んでくれていたのです。

「え、ええっ、ドミトロ! 貴方!」

「そうだ、俺だよ。ドミトロだ。ごめんな、心配をかけただろう。どうしても手紙を送れなくなってしまったんだよ」

 ドミトロはとても申し訳なさそうな顔をして視線を落としました。彼の視線の先には、左腕がありました。その左腕の先は、巻き付けられた布が丸くなっていました。ドミトロは、左手を失っているのでした。

 言葉を無くしてしまったサーヤの頬を、ドミトロの右手が撫でました。それはサーヤが長く忘れていた温もりでした。

「大丈夫だ、俺は生きて帰って来た。神様と蜜蝋とお前のお陰でな。大事なのは、そこだよ」

 ドミトロはそう言って、サーヤの頬を撫で続けました。そして、彼女の心が落ち着いたところで、自分に起きたことをポツリポツリと話し出しました。

 

 あの大きな戦いは、前触れもなく起こりました。

 それまでの睨み合いの時期と同じように、徴集された男たちは数人ずつの隊に分かれて、砦の周りを巡回しておりました。そこへ、敵の襲撃があったのです。

 砦の上部から「敵だ! 中へ逃げろ!」との声が掛かり、外に出ていた男たちは砦の出入口に向かって必死に走りました。ドミトロの隊も全力で戻ります。

 遠くから敵が何事かを叫ぶ声が聞こえます。

 シュウ、シュウンッと、空気を切り裂く音が響いたかと思うと、ブスン、ブスンッと近くの地面に矢が突き刺さります。

 でも、矢を避けるために、後ろを振り向く余裕なんてありません。砦の入口に向かってひたすら走るしかありません。少しでも遅れれば、敵の侵入を防ぐために分厚い扉が閉ざされてしまいます。

「早く早くっ! 閉めるぞ、駆け込めっ!」

 門の内側から兵の叫び声が聞こえます。外にいた者たちは、そこへ次々と飛び込んでいきます。

 ドミトロたちが半ば閉じられた門の近くまで来た時、彼の隣で走っていた男がドウッと倒れました。彼の肩には矢が立って、ブルブルと震えていました。

 ブスッ。トス、トストスッ!

 矢は途切れることなく降り続きます。砦の門は間もなく閉められそうです。同じ隊の男たちは、倒れた男には目もくれず、門の中へ飛び込んでいきます。

 ところが、ドミトロは立ち止って男を助け起こし、右肩を貸して歩き始めました。倒れた男は、同じ村の男だったのです。

「すまない、ドミトロ!」

「良いよ、それより早く、うわっ」

 ドミトロは悲鳴を上げました。彼の左手にも、敵が放った矢が当たったのです。まるで左手を大釜の湯に突っ込んだような痛みが走ります。でも、ここで蹲っていては門の外に取り残されてしまいます。歯を食いしばってドミトロは男を支えたまま進みました。彼らが中に入るのを待っていてくれたのでしょう。ドミトロたちが門を抜けた瞬間に、ドドンと門が閉じられたのでした。

 この時ドミトロに助けられたのが、村に帰ってきた時にサーヤを探していた男でした。彼は自分を助けるためにドミトロが傷ついてしまったことを、謝りたいと思っていたのでした。

 肩に矢を受けた男とドミトロは、同じ隊の男たちに支えられて、自分たちの待機場へ戻りました。

 隊員たちは男の肩を抑えると、小刀を使って傷口を開き、矢じりを取り除きます。そして、焚火の中から燃えさしを一本取るとそれを傷口に押し当てて、血止めをしました。

 ドミトロの方は……。彼の左手は矢によって引きちぎられていました。手首から先が無くなっており、大量の血が流れ出ています。急いで腕を縛り傷口を焼き、出血を止めようとするのですが、それだけでは止まりません。このままでは、血が流れ過ぎてドミトロは死んでしまいます。

 その時に、真っ青な顔をしたドミトロが隊員に頼んだのです。「自分の皮袋の中に紙と蜜蝋がある。熱っして柔らかくした蜜蝋を紙の上に延ばし、それを傷口に貼り付けて止血してくれ」と。

 隊員たちは急いでドミトロの皮袋から蜜蝋と紙束を取りだすと、彼の言うとおりにしました。傷口が大きかったために、それを塞ぐためには蜜蝋と紙束の全てが必要となりました。彼が戦場に持って行った蜜蝋と紙束は、この時にすべてなくなってしまったのでした。

 蜜蝋で血止めを行うという判断が良かったのでしょう。それに、この蜜蝋は通常封印に用いられる素の蜜蝋ではなく、ドミトロが手間をかけて混じり物を取り除いた純粋な晒し蜜蝋でした。サーヤがそれを持って行くように進めたのですが、きっとそれも良かったのでしょう。もちろん、忘れてはならないのが、包帯代わりに用いられた紙に書かれた教会の名です。きっと、それが傷口に悪い風が入るのを防いでくれたのでしょう。

 これらのどれが欠けていても、ドミトロは命を失っていたでしょう。でも、彼は左手を失いはしたものの、最悪の事態を避けることはできたのでした。

 

「昔から、作業場で怪我をした時は、晒し蜜蝋を傷口に被せて血止めをしたものさ。ただ、持って行った蜜蝋だけで手首の傷を塞ぐのは難しかったし、それに、あの紙には聖なる教会の名が書かれているからね。きっと、神のご加護があると思ったんだよ」

 ベットの上で上半身を起こして自分の話に聞き入るサーヤに、ドミトロは恥ずかし気に話しました。

「ただ、そのせいで蜜蝋と紙が無くなってしまったからね、その後は手紙を送ることができなくなってしまったんだ。お前には心配をかけてしまったね、すまなかった」

「ううん、良いの。貴方が生きて戻って来てくれたんだもの。それで十分だわ」

「ああ、そうだ。俺は左手を失ったが、生きている。親父からロウソク作りを教わった時も、始めはできなかったことが、一生懸命に取り組んでいるうちにできるようになった。確かにいろいろと不自由だけど、一生懸命に頑張ればなんとかなるだろうさ」

 ドミトロは自分を奮い立たせるために、そして、妻を安心させるために、力強く言い切りました。

「ええ、私にも作業を手伝わせて。きっと何か役に立てると思うの。これからは二人で……」

 ここで、サーヤは言い淀み、ドミトロに微笑みました。彼女の手はお腹に当てられていました。

「いいえ、そのうち、三人で素晴らしいロウソクを作れるようになるわ」

「サーヤ、それって!」

「ねぇ、貴方。父親になるのよ、ドミト、キャッ」

 ドミトロは勢いよくサーヤを抱きしめていました。彼の目からは、涙が滲み出ていました。これは、戦のために村を出ることになってから、彼が初めて流した涙でした。

 突然の抱擁に驚いたサーヤでしたが、すぐに目を閉じて彼の背中に腕を回しました。微笑む彼女の目からも涙が流れ落ち、ベッドを濡らします。でも、これは何度も彼女が流した不安と悲しみの涙ではなく、安堵と幸せの涙でした。

                                 <了>