コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】クレタ島の迷宮

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「あぁ、退屈だ。退屈だよ、君。何か面白い事件でもないかね」

 応接室の中央に置かれたソファーに座り込んで新聞を読んでいた僕に、応接室と続きになっている事務室の奥から、なんとも形容のし難い弛緩した声が投げかけられた。

 確認をせずともわかる。どうせ、事務室の大部分を占めるほど大きな事務机の上に足を投げ出して、昇りゆく紫煙をぼんやりと目で追いながら、心の底から嘆いているのだろう。神の如き自分の知を満足させるような興味深い事件がどこにもないことを。

「なんだい。あいかわらず穏やかじゃないな、諏訪部君は」

 僕は彼の同じ嘆きを何度も聞かされている。始めの頃はあまりにも不遜なその言葉に驚きを通り越して呆れるばかりだったのだが、彼が難事件を鮮やかに解決する様を彼の傍らで何度も見てきた今では、その心持ちも少しだけわかるような気がしてきている。いや、もちろん、ほんの少しなのだが。

 僕は、彼の興味を引くような事件がないかと、新聞に載っている記事で目についたものを片端から読み上げていった。

「新聞で一番大きく取り上げられているのは、やっぱり倫敦での会議のことだよ。帝国が米国の出した妥協案をのむべきかどうかで盛り上がっている。否定すべきだという意見が太宗だがね。他には、米国に端を発した世界的な不況の広がりについて。最近各地で続いている大火事について。ああ、それに・・・・・・」

 ある記事が目に留まって、読み上げる僕の声が急に小さくなった。

 それは、しばらく前に彼と僕が関わった事件についての記事だった。板橋の貧民街で起こったそれは、あまりに凄惨で奇異な事件であったため、事件終結後も関連する記事が新聞に掲載され続けているようだった。

 あの事件に関する出来事は、表に出ているものもあれば、そうでないものもある。彼と僕が関わったものはその表に出ていない方だ。僕らがそこで経験したことは、今でも心に重くのしかかっていて、それに関連する記事を大きな声で読み上げる気には、とてもなれないのであった。

 

 

 ここは、彼、つまり、諏訪部 涼魔(すわべ りょうま)が開いている探偵事務所の中だ。先の大地震を生き残った頑丈な石造りの建物の一階を借りている。僕こと、高橋 泰(たかはし やすし)は、ひょんなことから彼と知り合い、それ以降、彼の助手兼記録係りを努めている。

「どうしたんだい、急に黙りこくって」

「う、うわっ。びっくりしたっ」

 急に背中から声を掛けられた僕は、思わず大きな声を上げてしまった。奥の事務室にいると思っていた彼が、いつの間にかすぐ後ろに立っていたのだ。

 びっくりしてソファーの上で背筋を伸ばした僕の横を、彼はまるで浜辺に打ち上げられてもがいている魚を見るかのような目で見降ろしながら通り過ぎ、応接セットのお気に入りの一角に、深々と身を沈めた。

 名工の手による漆器のように艶やかに光る彼の黒髪が、軽く肩に触れている。身に着けた白いシャツよりもなお白く思われるその肌との対比は、男である僕でも時折り目を奪われるほど美しい。

 切れ長の目に光る双眸は、とても不思議な光を宿していて、現実の世界だけでなく、その他の別の世界をも映しているかのようだ。実際、彼の周りでは、人智を超えた出来事が起きることも多く、先日事務所に飛び込んできた「箱」の若者のように、彼のことを魔法を用いて事件を解決する「魔法探偵」と考える人もあるほどだ。

 彼の朱を塗ったように真っ赤な唇は薄く、それがいたずらな笑みを形作っているときには、どんなに悪意を持って彼に挑んでいる者であっても、その笑みの原因を聞かずにはいられない。

 年の頃は二十歳になるかならないかだろうか。だが、小柄で線の細い彼は、その容姿のせいもあって、精悍な青年というよりは、むしろ、美しい少年と形容する方がふさわしい。

 その彼は今、自分の頭脳を存分に働かせることができる、興味深い事件に飢えているのであった。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

 初夏の乾いた空気の中、クレタ島の港に大きな船が入ってくる。属国であるアテネからの貢物を積んだ船だ。黒い帆は既に降ろされていて、両舷にとりついた奴隷達が屈強な上半身に汗を垂らしながら櫓をこいでいる。

 港には物資の搬入の為に多くの奴隷が集められている。また、それを監督するクレタの役人たちも。

 船の舳先近くには、一人の若者が立っていて、島の景色や岸壁に集まっている人々を興味深そうに眺めている。幾つもの傷跡があるその大柄な体や激しい揺れをものともせずに立つその体幹の強さから歴戦の強者と思われる彼は、アテネの王の息子テセウスであった。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

「いや、君の興味を引くような事件はないなぁと、考え込んでしまってね。考えてみれば、帝都の警察組織も頑張ってくれているわけだし、迷宮入りになるような事件がゴロゴロしているはずもないしね」

「僕が求めているのは、迷宮入りになっている事件ではなくて、深い迷路に入り込んでいるような事件なんだがね、高橋君」

「迷宮入り? 深い迷路? それらは同じことじゃないのかい。どういう違いがあるっていうんだい」

 僕の質問に対する彼の最初の答えは、軽い侮りの表情だった。継いでの説明にも、どうしてこんなことを説明しなければいけないのかという、億劫さが見え隠れしていた。おかしいな、僕の方が年上だったはずなのだが。

「物書きの高橋君のことだから承知していると思い込んでいたよ。まぁ、言葉とは認識を載せる船。君が意図して同じ認識をそれぞれの言葉に載せたのであれば、それを否定するものではないが、相手が同じ認識を持っていないとその意図は伝わらない。ここで、一般的な認識を説明するとすれば、迷宮とはLabyrinth(ラビリンス)のことであり、複雑で入り組んだ長い道ではあるが分岐がない秩序だったものだ。一方で、迷路とはMaze(メイズ)を指し、迷宮とは違って、目的地に達するまでの道のりには分岐や行き止まりを有している」

 暇を持て余しているときの彼は、このように小さなことから話を広げて僕をからかってくることが多い。ただ、僕としてもこれに対して悪い気ばかりがするという訳ではない。彼の話には、考えてみたこともない視点からのものや、聞いたこともない興味深い知識が絡むものも多いのだ。この時の彼の話もそのようなものだったので、僕はどんどんと話に引き込まれていくのだった。

「なるほど、僕はどちらも同じように考えていたな。単純な通路でなくて複雑に入り組んでわかりにくいものが迷路であり迷宮だと。ああ、せいぜい、迷宮の方には構造物などの立体的なものという意識があるぐらいかな」

「ラビリンスという言葉よりも迷宮という漢字に先に触れた日本人は、そうかもしれないね。いずれにしても、迷宮はラビリンスであり分岐のない一本道であるのだから、たとえ複雑で入り組んだ道であっても、歩き続けていればいずれ目的地にたどり着ける。迷宮入りした事件も解決に至る道は基本的には一本道であり、時間は掛かりこそすれ捜査を続けていれば、そこに辿り着けるという訳さ。その過程に、僕の好奇心を満足させてくれるような瞬間があるとは思えないね」

「反対に、迷路であれば分岐点や行き止まりを有しているから、深い迷路に入り込んだ事件であった方が、より難しくより悩ましい。皆が頭を抱える分かれ道が多いその様な事件こそが君好みであるということか。言ってくれるじゃないか、まったく」

 傲慢とさえ言えるような論理ではあるが、彼の発する言葉にはこれまで数々の難事件や奇妙な出来事を解決してきたという裏打ちがある。僕には、彼が「自分の好奇心を満たしたい」という望みを素直に表現しているだけだということが、はっきりとわかっていた。 

 僕のような凡人には、毎日は新鮮な驚きに満ちているとさえ言えるのだが、天才には天才の悩みがあるということなのだろう。彼の日々の無聊を慰める、なにか興味深い出来事でもあれば良いのだが・・・・・・。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

「そこの貴方、さぞかし腕の立つお方とお見受けしました。お願いしたいことがございます。我が屋敷へご招待させていただけないでしょうか」

 銅の髪留めから額に垂れる亜麻色の髪を手で弄びながら荷役の様子を眺めていたテセウスに、一人の若い女が近づき声をかける。港で船を待っていた側の一人だが、その身なりからも後ろに控える従者の数からも、この女が極めて高い身分にあることがわかる。何かよほどうれしい出来事でもあったのか、興奮を隠し切れない様子だ。

 テセウスは、女の方に顔を向ける。ぱっと、船の方に顔を戻すと、もう一度女の方へ向き直る。今度は全身でだ。

 テセウスの前に現れたのは、太陽だった。いや、太陽の光を形にしたような美女だった。陽の光を反射して輝く黄金色の髪は、その一本一本が純金で出来ているかのようだ。その白い肌は地中海で採れる真珠のように滑らかで、彼を見つめる瞳はどこまでも広がる空のような蒼だ。処女神アテナもかくやというような知的な顔つきの彼女が、彼の為に笑いかけてくれている。

 これまでに多くの山賊や怪物を打ち倒してきた彼は、世界中の富が集まるクレタ島で名を上げようとやってきた。自分を安売りするつもりは毛頭ない彼であったが、彼女の誘いを断る気持ちなどは、微塵も生じなかった。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

「ん、高橋君、ちょっとその記事を見せてくれるかい」

 再び新聞をめくり始めた僕をつまらなさそうに眺めていた彼だったが、なにかに興味を持ったようだ。なんだろう。改めて紙面を見てみても、特に彼が興味を示すような事件は見当たらないのだが。僕は手にしていた新聞を彼に渡すことにした。

「はい、どうぞ。ただ、特に君が興味を持つような事件は、載っていないと思うのだけれど」

 僕の言葉には何も答えずに新聞を手にした彼は、たちまち紙面の活字の中に埋没していった。まったく、何に興味を持ったかぐらい、話してくれてもいいのに。

「・・・・・・迷宮だよ。クレタ島の迷宮」

 新聞紙の向こう側で仏頂面をしている僕の気持ちを察してくれたのだろうか。紙面から顔を上げないままではあるが、自分が何に興味を持ったのかを、彼は簡単に教えてくれた。

 迷宮か。ちょうど今、我々の話に上っていたものではないか。

 しかし、いったいどのような記事が紙面に載っているのだろうか。それに、クレタ島の迷宮とはどの様なものだっただろうか。聞き覚えはあるのだが・・・・・・。今彼に尋ねてみてもこれ以上の説明は得られないことを、僕は経験から学んでいる。何かに興味を覚えて集中している彼が、断片的であっても、このように気を配ってくれること自体が珍しいのだ。

 仕方がない。僕は快適なソファーから腰を上げると、事務室の方へと歩いて行った。事務室の壁は全て重量感のある大きな書棚となっている。そこに整理されている本の中から、僕は百科事典を取り出して調べることにした。クレタ島の迷宮。そして、それにまつわる有名な神話を。

 

 

 クレタ島の王位について、ミノス王とその兄弟の間で争いが生じた。ミノス王はポセイドン神に自分の正当性を証明するために白い牡牛を送ってほしいと願う。ポセイドン神は後に生贄に捧げるという約束でそれをミノス王に与えた。しかし、白い牡牛の美しさに夢中になったミノス王は、別の牡牛を生贄とし、それを自分のものとしてしまう。これに怒ったポセイドン神はミノス王の妻パーシパエーに、白い牡牛に欲情するように呪いをかける。パーシパエーは名工ダイダロスに牝牛の模型を作らせ、その中に入ることで白い牡牛と交わり子をなす。この子は牛の頭を持って生まれてくる。パーシパエーが産んだ子は「星」等を意味するアステリオスと名付けられたのだが、「ミノス王の牛」を意味するミノタウロスと呼ばれるようになる。

 ミノタウロスは、成長するにしたがって乱暴になる。手に負えなくなったミノス王は、ダイダロスに命じて迷宮を造り、そこに彼を閉じ込める。そして、ミノス王はクレタの属国であったアテネから毎年7人の若者と7人の乙女を集めて、ミノタウロスの食料として迷宮の中へと送りこむ。

 何度目かの生贄の中に、アテネ王の息子テセウスがいた。彼は、自国から毎年若者と乙女が生贄として差し出されることを終わらせるために、自ら志願してクレタ島へ来たのだった。ミノス王の娘アリアドネはテセウスを一目見て恋に落ち、彼に迷宮からの脱出方法とミノタウロスを倒すための短剣を授ける。脱出方法とは赤い糸玉で、これを紐解きながら迷宮に入ると紐を辿って帰ってくることができる、というものであった。

 テセウスは見事にアリアドネから授けられた短剣でミノタウロスを倒し、入り口から張っておいた糸を辿って迷宮を脱出する。そして、アリアドネを妻としてアテネに向けて船出するのであった。 

 

 

 迷宮の奥に潜む牛頭人身の怪物ミノタウロスについては、ぼんやりとではあるが僕も知識を持っていた。しかし、このような波乱に満ちた物語であったとは知らなかった。興奮を覚えながら僕が応接室に戻ってくると、ちょうど彼が新聞記事を読み終えたところであった。

「これはまた、実に波乱に満ちた神話だね。しかし、君が神話に興味があるとは、初めて知ったよ。それで、新聞にはミノタウロス神話に関する本でも紹介されていたのかい」

「ああ、これかい。ほら」

 再びソファーに腰を掛けた僕の前に、彼が新聞を放ってよこした。表に出されていた面には、帝国博物館でギリシヤのクノッソス宮殿遺跡についての特別展示が行われるという記事とそこで出土したと言う短剣の写真が、大きく掲載されていた。

「この記事で紹介されているクノッソス宮殿遺跡が、ミノタウロス神話に出てくるクレタ島の迷宮、つまりラビリンスのモデルとなったものと言われているんだ」

「ははぁ、これがそうなんだ。しかし、ミノタウロスの話は完全な神話、こう言っては何だが、作り話だと思っていたよ」

 正直に答えた僕の言葉がよほど面白かったのだろう。彼の形のいい唇が開くと、先ほどまでとは全く違う、楽しそうな響きの言葉が紡ぎ出されてきた。

「いやいや、君。多くの場合、神話とは歴史の先にあるもの。そして、歴史とは、ある意味、時折り構造を変える手ごわい迷路だ」

「時折り構造を変える?」

「ああ、そうだね。我々が歴史を学ぶ際には、発掘物や伝承を基に考えを進めるしかない。それは限られた手掛かりを基に進む迷路のようなものだ。ところが、新たに遺跡が発掘されたり文献が見つかったりすることがあれば、その迷路はたちどころに形を変えてしまうのだよ」

 確かにそうだ。この新聞記事によると、クノッソス宮殿はほんの三十年ほど前に見つかっている。これが発見される前と発見された後では、きっと世界中の学者のミノタウロス神話に関する見方は、大きく変わったことだろう。

「それに、神話は実際の出来事を基にしたものが多いのだよ。特に支配者層の起源であったりするものはね。なぜなら、支配者層は自らの立場を神や超自然の存在とつなげることで確固としたものとしたいのだが、そのためには、完全な作り話では困る。現実の自分たちの祖先とその行動を、うまく神格化する必要があるのだよ。これを逆に言うと、神話を読み解くことによって現実の世界の歴史に近づくことができる、という訳だ」

「たしかに、我が国も中国も、歴史を遡っていくと神話になるね。それは、完全な創作ではなくて、実際にあった出来事を反映したものだということか」

「ああ、だから、歴史や神話は興味深いんだ。いくら考えても考えが尽きることがなく、新たな手掛かりがこのように不意に与えられることもある。それに・・・・・・」

 わかるだろう、という視線を僕に送って、彼は言葉を続けた。

「事実は小説よりも奇なりとも言うが、我々は事実はおとぎ話よりも不思議だということも知っているじゃないか。このクノッソス宮殿に纏わるミノタウロス神話も、現実のどの様な出来事を反映しているのか。ひょっとしたら、我々が考えているよりももっと奇妙で不思議な出来事であるのか。それを考えると、楽しくて仕方がないね」

「牛の頭を持ったミノタウロスが、どのような出来事を反映しているか・・・・・・。それは、僕も興味深いね」

「それだけじゃないさ。さっきまで我々が話をしていたのは何についてだね。迷路と迷宮だろう?」

 彼が言う通り、我々は迷路と迷宮の違いについて話をしていた。だが、それがなんだというのだろうか。ミノタウロスが閉じ込められていたのは迷宮の奥で間違いないだろう。迷路の奥だなんて話は聞いたことがない。

「おや、わからないかい」

 彼はいかにも楽しそうだ。もはや、先ほどまでの退屈を持て余していた様子は、どこにも見当たらない。

「迷宮とは複雑に曲がりくねった一本道。それとは対照的に、迷路は分岐や行き止まりを有する。ミノタウロスが迷宮の奥に潜んでいたのだとしたら、どうしてアリアドネの糸が必要なんだろうね」

「ミノタウロスの迷宮は、ラビリンスだから複雑に曲がりくねってはいるけれど一本道。アリアドネの糸は、迷宮から脱出するときに道に迷わないようにするもの。ん・・・・・・。ああ、そうかっ。どうして、一本道のラビリンスに道を示す糸が要るんだろうかっ」

 始めは彼が何を言いたいのかわからなかったが、要点を掴んだとたんに、ぱっと周囲が明るくなったような気がした。迷路のように分かれ道がたくさんあるのであれば、どの道を進めばいいのか目印が必要だ。だが一本道にはその様なものは必要がない。ただ、飽くことなく進めばいいのだから。

「どうだね。アリアドネの糸で脱出するというのに、何故メイズでなくラビリンスなのか。あるいは、ラビリンスであるのに、何故アリアドネの糸という要素があるのか。この点も興味深いだろう」

 まったく、彼の言うとおりだ。神話とは言え、それが成り立つには起源となる出来事が存在する。そうであれば、何故、牛頭人身であり、何故、ラビリンスなのだろうか。僕は、すっかりクレタ島の迷宮の話に魅了されてしまった。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

 強い日差しに長い間晒されてきた岩山は、太陽の色が染みついたような明るい黄色をしている。ぽつぽつと点在する下草の茂みと柑橘類の低木が、地中海を渡ってくる強い風に揺れている。岩山はクレタ島の高地にあり、王宮からも港町からも離れている。また、餌となる植物が乏しいことから、家畜の遊牧をする者もいない。生命を感じさせるものは風が運ぶ果実の香りだけだ。

 その岩山には、周囲の様子とは似つかわしくない、明らかに人の手の入った小道があった。切り立った岩と岩の間を迂回しながら続くその道は、一本道ではあるものの長く複雑な文様を描きながら頂上へと続いている。

 小道を上がりきったところを、一人の女が歩いている。女は牛に引かせている大きな荷物を載せた荷車と共に、長い長い道のりをようやく歩き切ったところだ。黄金色の髪。真珠のような肌に理知的な美しさを持つ女。彼女は、港でテセウスに声をかけた、あの女性だ。

 女の目の前には小規模な台地が広がっていて、そこには小ぶりではあるが手間をかけて造られたとわかる宮殿が建っている。

 女は、額に流れる汗を拭うと、宮殿に向かって大声を上げる。整った顔が嬉しさで弾ける様子は、まるで少女のようだ。

「おおーい。あたしだー。アリアドネだー。来たぞー。やっと、来れたぞぉー」

 彼女の声の残響が消えるか消えないかのうちに、宮殿から一人の男が駆けだしてくる。アリアドネと名乗った女性と同じぐらいの年齢の若い男だ。ほっそりとした体つきに亜麻色の髪。その顔つきは、クレタ島の男というよりは、テセウスというアテネの男に似ている。男の名はアステリオス。彼の母はミノス王の妃であるパーシパエー。アステリオスは、パーシパエーが自分に付けられていたアテネ人の奴隷の男と通じた結果生まれた子であり、世間に出せないことからこの地に幽閉されているのである。アリアドネは、ミノス王とパーシパエーの娘である。つまり、この二人は、異父兄妹にあたる。

「アリアドネ、久しぶりだね。こんな山上までよく来てくれた。大変だったろう」

 アリアドネの来訪を心から喜んでいる様子で彼女を労わるアステリオス。兄の言葉に嬉しそうな様子を見せながらも、同時にアリアドネは苛立たしさも感じている。これまでと変わらない兄の優しくて穏やかな様子に、安心もしたが物足り無くも感じてしまったのだ。なぜなら、これから大きな仕事を二人で成し遂げなければならなかったからだ。

 二人は荷車を中庭に置き、出迎えに出てきた宮殿でアステリオスの世話をしている奴隷たちを遠ざけると、裏庭にまで進む。そこは、建物と岩壁の間にある僅かな空間で、人目を気にすることなく話ができる場所だ。

「あたしは、大丈夫。兄さんこそ、変わりないわね。これから、おっきな仕事をしてもらわないといけないんだから、しっかりしてよっ」

「そ、そうだね・・・・・・。でも、やっぱりやるのかい。ぼ、僕は・・・・・・」

 アステリオスは、中庭の荷車に載せられている包みにこわごわと視線をやりながら、声を小さくして答える。同じような顔つきをしていても、陽気で自信家なテセウスとは好対照だ。

「もう、兄さんっ。何度も話し合ったじゃない。あたしは、この王家にうんざりなの。王は兄弟とその地位を争うことにしか興味がないし、下の者も誰に付けば自分が利を得られるかしか考えていない。女どもと言えば、目先の悦楽しか求めていないし、いざそれが形になれば、兄さんのように放り出される。みんな、自分のことだけしか考えていないんだから」

「う、うん、だけど・・・・・・」

「七人の奴隷と七人の女奴隷を付けてもらったから、この宮殿に一生幽閉されたとしても、それで満足だって言うの? ああ、この王家で優しい気持ちを持つのは兄さんだけ。やっぱり兄さんには幸せになってほしい。できることなら、兄さんのような人にこそ王座についてほしい。そして、あたしはこの島を離れて世界を見てみたい。こんな小さな島で一生を終えたくない。だからっ」

 一度荷車の包みに向けてからアステリオスに戻したアリアドネの瞳には、全てのものを焼き尽くさんばかりに強く輝く、美しくも怪しい青い光が宿っている。

 その炎のような輝きを目にしたアステリオスは、心の中で独り言をつぶやく。

「アリアドネは気が付いていないんだ。自分もまた、その王家の血を引くものだということを。やっぱり、彼女は僕が見ていないと危険だ・・・・・・」

 アステリオスは自分の迷いを断ち切るように、頭を振る。そして、アリアドネの青い瞳を正面から見据えて、はっきりと自分の決意を伝える。その彼の瞳にもまた、ゆらゆらと青い光が揺れている。

「わかった。やろう。二人でこの島を出よう、アリアドネ」

 アリアドネは兄の覚悟を聞いて、恍惚とした表情を浮かべる。ああ、これで、この島を出られるのだ。この腐りきった家と縁を切って、愛する兄と二人きりで世界へ旅立つのだと・・・・・・。

「ありがとう、兄さん。じゃぁ、兄さんは、ここで死んでね・・・・・・」

 

 

 宮殿の中庭。

 荷車の横にはアリアドネとアステリオスが立っている。二人の前に並んでいるのは、アステリオスの世話するために付けられた奴隷たちだ。彼らは、この秘められた地で一生を過ごすことが義務付けられている者たちだ。

 突然に宮殿で働く全ての奴隷をここに集めて、一体主人は何の話をするつもりなのかと、奴隷たちはざわめいている。

「いいか、よく聞け、奴隷ども。この地で一生を兄と過ごすこととされた奴隷ども。ミノス王の娘アリアドネの名において、お前たちを開放しようじゃないか」

 アリアドネは、細かな線文字が刻まれた羊皮紙の束を高く掲げながら、奴隷たちに宣言する。始めは何を言われているのかわからずに、ぽかんとしていた奴隷たちも、彼女の言葉の意味が理解できるに連れて大きな声を上げて騒ぎ出す。

 解放! 奴隷の立場からの解放!

 解放奴隷となれば、これまでのように牛馬と同様にこき使われ、人ではなく物として扱われるのではなく、クレタ島の市民に準ずる者として生きていけるようになる!

 こんなにありがたい話はない。だが、一体どうして、急に?

「もちろん、この奴隷解放証明書を渡すには条件がある。いいか、お前たちは、これから町に帰った後に、次のように話さなければならない」

 アリアドネは羊皮紙の束を腰紐に挟むと、荷車の荷台に載せられている包みに手をかけ、勢いよく覆いを払いのける。

 荷台に載せられていたのは、青白い顔をした若い男。亜麻色の髪を銅の輪でまとめたその男は、アリアドネが声をかけていたテセウスだ。生きているのか死んでいるのか、荷台の上に横たえられている彼は、身動き一つしない。

 何が行われようとしているのか。

 固唾を吞んで見守っている奴隷たちの前で、アリアドネはゆっくりとテセウスの身体に手を添え、彼の腰から短剣を抜き取る。

 そして。

 ためらうことなく、アリアドネが振り下ろしたその短剣は、テセウスの首を切り飛ばす。

「ヒ、ヒイイイッ」

 泣き声のような叫び声をあげたのは、自分の足元にテセウスの首が転がってきたアステリオスだ。あまりに想像を超えた出来事に、奴隷たちは声を上げることも忘れている。

 テセウスの血に濡れた短剣を右手に握ったままで、アリアドネは低い声で愉悦の笑い声を上げている。

 兄に似た風貌を持つ若いアテネの男がこの地に現れるのを、彼女はずっと待ち続けていたのだ。そして、夢にまで見たその男が港に現れ、首尾よく彼に毒薬を混ぜた食事を与えた後は、この瞬間が、彼の首を跳ね飛ばすこの瞬間が早く来ることを、大神ゼウスに請い続けていたのだ。

 ようやく待ち望んでいた瞬間が訪れたその喜びが、自分の右手に感じるぬらぬらとしたテセウスの血の感触が、アリアドネの心を極限まで高揚させる。

 アリアドネは獣のような高い声を発したかと思うと、ここまで荷車を引いてきた牡牛に走り寄り、短剣を振り上げる。

「アアアッ」

「ウワァアアッツ」

 今度大きな叫び声をあげたのは、自分たちの足元に牡牛の頭が飛んできた奴隷たちだ。しかし、混乱する奴隷たちの間に、ゆっくりと入り込んでくる人がいる。黄金色の髪と真珠のような肌のそこかしこに赤い彩を付けたその人は、アリアドネだ。彼女はためらうことなく牡牛の頭を拾い上げると、荷台の上、テセウスの体の上側に置く。あたかも、彼がその様な頭を有していたかのように。

 自分たちは何を見せられているのか・・・・・・。奴隷たちの混乱も、アリアドネの声を聞き姿を見ると直ぐに治まる。

 横倒しになって大地に血を流し続ける牡牛の体の横で、全身に返り血を浴びながらもこの上もない幸せな表情を浮かべるアリアドネ。人のものとはとても思えない、堂々とした彼女の姿は、あたかも女神のそれとも思われる。そして、息一つ乱れずに語られるその言葉は、女神から送られる信託のように思える。

「いいか、奴隷ども。お前たちの主人アステリオスは、神々の呪いにより牡牛の頭と人の体を持つ者であった。それゆえに、この地に閉じ込められていたのだ。だが、今、アステリオスは死んだ。アテネから来た勇者テセウスが、彼を倒したのだ」

 アリアドネは、真っ青な顔をして立ち尽くしているアステリオスに歩み寄ると、その足元に転がっているテセウスの頭から銅の髪留めを外し、それを彼の頭にはめる。きつく目をつぶりながらそれを受け入れるアステリオスの頬に口づけをすると、アリアドネは再び演説を続ける。

「勇者テセウスはわたしアリアドネを妻とし、この地を去る。お前たちは町に帰り、テセウスの冒険談を伝えなければならない。牛頭人身の怪物を倒したテセウスの話を。もちろん、今見たものは忘れて、だ。さもなくば・・・・・・」

 アリアドネは、青い炎の宿る瞳で奴隷たちを見回す。この場で自由に動くことを許されているのは、アリアドネのみだった。

「さもなくば、この短剣が天より降り、お前たちに裁きを下すことになるだろう」

「・・・・・・」

 もちろん、女神がこの場に降臨したようにさえ思っている奴隷たちには、沈黙により同意を示す他はない。これに満足したアリアドネは、腰紐に挟んでいた羊皮紙の束を再び掲げ叫ぶ。そして、奴隷たちの中へその束を投げ込む。

「奴隷たちよ、この奴隷解放証明書を受け取るがいい。それに、あの宮殿にあるものは、お前たちの好きにしていい。荷役用の驢馬一頭を除いてな。さあ、我らが英雄、アテネから来た勇者、テセウスに感謝の叫びを!」

 

 

 岩山に刻まれた細い小道。

 曲がりくねった一本道を、一頭の驢馬に荷車を引かせながら、若い男女が降りてくる。

 男はテセウスと名を変えたアステリオス、女はアリアドネだ。荷車の荷台には大きな包みが載せられている。包みの中身は、かつてテセウスと呼ばれていた男の頭部と牡牛の胴体だ。牡牛の胴体からはどす黒い血がジトジトと流れ続けている。包みを濡らし荷台からも漏れ落ちたそれは、小道に赤い線を描き続けている。

「大丈夫かな。あんな荒唐無稽な話、通用するのかな・・・・・・」

「もう、大丈夫だって。王宮にしてみたら、王妃と奴隷との醜聞なんて絶対に表に出せないけれど、神々の呪いとしか思えないような出来事であれば、むしろ王族と市井の民との違いを強調できてありがたいと考えるに違いないもの。あれ、兄さん、じゃなかった、テセウス、腰の短剣は自分のものなの」

「ああ、あの短剣は上に置いてきた。やっぱり、自分が使い慣れたものの方がいいからね」

「そうなの」と、アリアドネは簡単に答える。細かいことはどちらでもいいのだ。大事なことは、もう少しでこの道を降り切ることができるということだ。もうすぐ、もうすぐだ。

 ここまでに何度も繰り返してきたように曲がり角を折り返すと、切り立った岩の間を抜けているため薄暗い小道の先に、太陽の光が差しているのが目に入る。出口だ、とうとう、出口まで、降りてきたのだ。

「にい、違う、テセウス! 出口だ。やったよ、やったんだよ、あたしたち。あとは、この荷物を海にでも投げ込んで、港から船でこの島を出よう! テセウスとなら、あたし、何でもできる。世界を冒険して回ることだって、もう一度この島に戻ってあの王家を滅ぼし、テセウスを王位につけることだって!」

「あ、ああ。そうだな。そうだな・・・・・・」

 興奮して自分の胸に飛び込んでくるアリアドネを、テセウスは優しく抱きとめる。彼の顔を見上げる彼女の笑顔はまさに女神のみに許されたもので、全ては彼女の言葉通りに運ぶのだろうという強い確信がテセウスの心に目覚める。そして、アリアドネの瞳には、あの青い炎がキラキラと輝いている。その輝きのあまりの強さに、テセウスは目を細めずにはいられない・・・・・・。

 

 

      §§§  §§§  §§§

 

 

「面白い。実に面白いよ、諏訪部君。この神話について、もっと知りたくなってきたよ。クレタ島を出た後の二人はどうなるんだい」

「それは良かった。この後の二人についてだが、実はアリアドネはテセウスと一緒にアテネへは辿り着けない。途中に立ち寄った島でアリアドネが神に気に入られて連れ去られるとか、テセウスがアリアドネを置き去りにしたとかいろんな説があるんだが、僕はこう思っている。結局、このミノタウロス神話はテセウスというギリシャの英雄にまつわる一連の神話の一つなんだと。だから、主人公であるテセウスは次のエピソードへ移るのだが、アリアドネにはここでご退場願うことになるのさ。何故なら次のエピソードには次のヒロインが待っているわけだからね」

「ええっ。テセウスの一連の神話だって。まだまだ彼の活躍は続くというのか。それは一体どんな話なんだい」

「まぁ、それは、道すがら話をするよ」

 彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。

「道すがらだって? どこかへ出かけるのかい」

 何を言っているんだ、というような顔をしながら、黒の上着と大柄な山高帽を手に取る彼。

「帝国博物館だよ。君は行かないのかい? このクノッソスで出土したという短剣を見に行こうじゃないか」

「ああ、行くよ。行く。是非とも行くさ。少しだけ待ってくれ」

「ははっ、置いて行きやしないよ。せいぜい早く用意をしたまえ」

 慌てて立ち上がった僕を見て、彼は軽い笑い声をあげた。その美しい表情を見た僕は、不意に不思議な感覚に捕らわれた。

 日常の出来事が後世に神話として伝えられることがあるのだとしても、その日常を生きる当事者にはそれを知る術はない。だが、この男は。この男が、奇妙な出来事を紐解く姿は。いつしか何らかの神話となって語り継がれるのではないか。

 想像力に乏しいと周囲の者から言われる僕にさえも、その様な思いを抱かせる。

 彼が浮かべた笑顔は、女神のみが浮かべることのできる笑顔であった。

                                  (了)