コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。宜しければ、ひとときおつきあいください。

【短編小説】アルミの懐中電灯

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 昭和十年 秋。

「おい、和子っ。ちょっと来てくれっ」

「どうしたんですか、急に大きな声を出して」

 縁側に向かう襖を全て開け放して風通りをよくした農家の畳の上で、若い男が大声を上げた。

 奥の部屋から小走りに出てきたのは白い割烹着を来た女で、何か大変なことが起きたのではないかと慌てている。彼女は夕飯の用意をするために、昼の農作業から戻ってきた夫の直也に赤子の世話を頼んでいたのだ。まさか赤子に何かあったのではないかと、心配そうな表情を浮かべている。だが、彼女の表情はすぐにほっとしたものに変わった。何か危険なことがあって夫が大声を出したのではなかったのだ。

 夫は畳の上に敷いた座布団に覆いかぶさるようにしていた。その座布団の上に仰向けに寝かされているのは直也と和子の息子である清だった。生まれてからようやく半年を過ぎたばかりの我が子の顔に、直也はアルミの懐中電灯を向けていた。日頃は鋤や鍬を握る直也の日焼けした手の中では小さく見える懐中電灯だが、そのレンズは清の顔と比べるととても大きく見えた。

 直也に預ける前に和子は清に乳を含ませていたから、清は機嫌よく寝ているところだった。直也はそのぷっくりと突き出た唇をそっと指で広げて、口の中を懐中電灯で照らしていたのだった。

「見ろよ、和子。こいつ、いっちょ前に歯が生えて来てるぞ」

「あらあら、それは歯も生えてきますよ、大きくなれば」

 二人にとって清は初めての子だった。

「生まれてから乳しか口にしたことのない息子に歯が生えてきた。もう少ししたら粥でもすすらせてやるか。その後は、柔らかく煮た芋だな。そういえば、最近は手足をよく動かすようになってきたな。直ぐに寝返りを打ったり、這ったりするようになるのか。こんな小さな赤ん坊が」

 深い感慨が直也の心の中を駆け巡った。

 顔を見合わす二人。そのどちらの顔にも柔らかな笑みが浮かんでいた。二人の目には我が子の成長への驚きと、そして、喜びの輝きが、懐中電灯の放つ光よりも鮮やかに輝いていた。

 

               〇

 

 昭和十五年 夏。

 田んぼの間を通るあぜ道を、満月に見守られながら歩く三つの黒い影。二つの小さな影は、何かを見つけたのか連れだって前へ行ったかと思えば、今度は追いかけっこを始めて大きな影の周りを走り回る。その騒ぎがあまりに大きくなると、大きな影が声を出す。すると、二つの影は直ぐにおとなしくなり、ゆっくりと並んで歩き始めるのだった。

 男はこの村の農夫の肥田直也で、二つの小さな影は彼の息子たちだ。長男の清は満で五歳、次男の茂は三歳になった。どちらも元気に育っていて、直也と和子の夫婦には嬉しい限りだった。

 夜空には大きな満月と無数の星が輝いており、闇夜ではない。里山の高台にある寺で行われた盆踊りの帰り道を、直也は月明かりを頼りに歩くことにした。彼の右手にはアルミの懐中電灯が握られてはいたが、「これを無理して使うまでもない。使えば貴重な電池も減ってしまうというものだ」と考えたのだった。

 夏特有の乾燥した風が絶え間なく吹いている。さわさわと小川のせせらぎのような音を立てているのは、田んぼで青々と背を伸ばしている稲たちだ。田んぼとその脇を流れる用水路の上には、小さな明りが幾つ幾つも浮き、あるいは、様々な方向に飛び交っている。点滅を繰り返すその明りは蛍たちだ。風に揺られているのか、それとも、稲の立てる音に踊っているのか。蛍たちが光の糸を引きながら自在に飛び回る姿は、まるで舞いを演じているかのようだった。

「小さい頃は怖いと思ったもんだがな」

 直也は自分の子供の頃を思い出していた。何の折りだろうか、やはり夜の海の中で蛍が舞い、点滅を繰り返す姿を見て、自分はとても怖くなってしまったのだ。もちろんその時には、なぜ自分が怖いと思ったのかはわからなかったが、今にして思えば、あのあまりに美しい蛍の光にどんどんと意識が引き寄せられて行って、自分という感覚が無くなってしまうのが怖かったのだろう。あの時は、そうだ。泣き出してしまった自分の顔を父親がこの懐中電灯で照らしてくれて、その光の安定した力強さに安心したのだった。

 直也は右手に握るアルミの懐中電灯の冷たい感触を、とても懐かしい暖かい記憶として感じていた。

 そのとき、彼の前の方で「あっ」という小さな声が上がり、次いで、甲高い泣き声が聞こえてきた。

「こら、転んだぐらいで泣くな、茂。男だろうっ」

「どうした、清。茂が転んだのか」

 蛍に目を奪われた直也がゆっくり歩き始めたので、元気が有り余る子供たちはまた前方に走り出していたのだ。そこで、年下の茂が、転んでしまったようだった。

 直也は慌てたそぶりを見せずに、子供たちが座り込んでいるところへゆっくりと歩いていくと、懐中電灯をつけてべそをかいている茂の様子を調べ始めた。

「父さん、茂には本当に困ります。弱虫でならない」

「まぁ、そう言うな清。こいつはお前より小さいんだから。弟はお前が守ってやるんだ、長男なんだからな。あぁ、草履の鼻緒が切れているな。これのせいで、転んだのか。おやおや、膝もすりむいているか」

 懐中電灯の少し橙色をした光の下で、茂の膝から血がにじんでいるのがわかった。たいした怪我ではないが草履のこともあるし、このまま歩かせるのは難しいかもしれない。

「ほら、立てよ、茂。歩け歩けっ」

 直也の横から茂の様子を眺めていた清が、弟に立ち上がって歩くように急かす。だが、すっかり気分が落ちてしまったのだろう、茂は激しく首を横に振りながら、すがるように直也の顔を見上げた。

「わかった、わかった。よし、清二等兵、命令であるっ」

 弟の不甲斐ない様子にいらだっていた清の顔がぱっと明るくなった。兵隊ごっこだ。清は父の前に真っすぐに立つと敬礼をして答えた。

「清二等兵でありますっ。何でありましょうか!」

「よし、小隊長は負傷兵の傷口を用水路の水で洗う。その間に貴様はヨモギを摘むのだ。危険な任務だが、戦友のためだ。できるな」

「了解であります。戦友のため必ず命令を果たします!」

「よし。敵に悟られぬように、隊長のそばを離れるなよ。これより、作戦開始っ」

「はっ!」

 直也は左手で茂を抱き上げると、右手で持った懐中電灯で足元を確認しながら、あぜ道から用水路に降りた。夜の用水路は危険だ。自分の後ろでヨモギを探す清が水に近づかないようにとの注意も欠かさない。

 茂を地面に降ろすと、直也はひんやりとした水を左手ですくって、傷口を手早く洗った。すると、彼が催促をする前に、揉んで柔らかくしたヨモギが、すっと差し出された。

「ヨモギでありますっ」

「よしっ」

 茂の傷口にヨモギの葉を貼り付けながら、直也は驚いていた。まだまだ小さな子供だと思っていたが、自分の次の行動を予測してヨモギを差し出すなど、清もずいぶんと成長してきているんだな、と。もちろん、下の子がケガをしてしてしまったのは嬉しいことではないが、直也の身体の中にはじんわりと喜びが染み渡っていった。

 傷口を水で洗ってヨモギを貼るという一通りの手当てを終えるころには、茂も泣き止んでいた。痛みももちろんあっただろうが、転んでしまった驚きと悔しさが、その涙の大きな理由だったのだろう。歩かせれば歩けるだろうが、いかんせん、草履の鼻緒が切れている。清の成長を確認して気分がよくなっていた直也は、茂を背負って帰ることにした。

「清二等兵、命令であるっ」

「はっ、何でありましょうか」

「これから俺は負傷兵を背負って歩く。貴様にはこの懐中電灯を任せる。斥候として本隊の前を歩き、安全を確保せよっ」

 清は驚いた。懐中電灯は父親の持ち物で、子供が遊びで触ったものならひどく怒られていたからだ。

「父さん、懐中電灯を俺が持ってもいいのですか?」

 憧れの懐中電灯に触れるのかと、思わず兵隊ごっこから素に返っておずおずと確認する息子に、直也はニヤリと笑いながら答えた。

「ああ、清二等兵に懐中電灯を任せる、と言ったはずだ。どうした、復唱はっ」

「ありがとうございますっ。清二等兵、本隊の安全を確保するため、懐中電灯を持って先行しますっ」

 父親に大役を任されたと顔を輝かせる清。直立不動の姿勢を取った後で、直也から慎重に両手で懐中電灯を受け取ると、一気にあぜ道まで駆け戻ってから、茂を背負って上がって来る直也の足元を懐中電灯の光で照らした。清が持つ懐中電灯から放たれる光は、細かに震えていた。

「よし、出発。清二等兵、頼むぞっ」

「はい、隊長殿!」

 あぜ道に戻った直也は、前に立つ清に出発の合図を出した。清は懐中電灯を前後左右に振って、自分たちの行く先のあぜ道を照らしながら歩き出した。

 満月の夜でもあるし、懐中電灯の光の助けは本当は必要ない。だが、今日は良いだろう。家までそれほど時間もかからないし、少々電池が減ったところで、この頼もしい息子の背中を見られるなら惜しくはない。父に背負われて安心してしまったのか、眠りこんだ茂の身体は始めよりも重く感じられる。それでもまだまだ軽いのだが、すぐにこの子も兄の様に大きくなるのだろう。

 直也がこれほどまでに幸せを感じながら村のあぜ道を歩いたのは、今までにないことであった。

 夏の夜風は相変わらず吹き続いていて、何処かの軒先に下げられている風鈴を何度も揺らしている。田んぼからは穂をつける前の青々とした稲の香り。あぜ道を横切るように飛ぶ蛍が一つ、二つ。そして、蛍が描く光の舞いに交じって、懐中電灯の光が大きく揺れていた。

 

               〇

 

 昭和十七年 春

「肥田直也君の御出征を祝して、万歳!」

「バンザーイ!」

「バンザーイ!」

 大きな農家の門の前で村人が集まって大声を挙げている。

 一人の男が音頭を取ると、男たちは一斉に両手を挙げて声も枯れよとばかりに「万歳」と叫ぶ。女たちも両手に持った日の丸の小旗を振りながら、それに唱和する。

「ありがとうございます。きっと立派にお務めを果たして参ります」

 門側に立ち並んだ人の真ん中に立っていた男は力強く宣言すると、勢い良く頭を下げた。

 この大きな家は直也の父のもので、その次男である直也は、敷地内に離れを建てて生活していた。肥田家はこの村でも有数の豪農の家で、これまでは風と雨と土に親しむ安定した生活を送っていた。直也の元に一通の通知が来るまでは。

 大日本帝国は中国大陸を中心に長い間戦争を続けてきていた。それに加えて、英米に対しても宣戦を布告した昨今、直也のような農家の「跡取りでない」男に徴兵の通知が届くようになっていたのだ。先日に直也の元に届いたものも、「いついつまでに軍部へ出頭せよ」という徴兵の通知であり、今日は彼の出征を見送るために村の人たちが集まってくれていたのだった。

 最後に肥田家の長であり直也の父である宗一郎が村の者たちに感謝の言葉を述べると、彼の見送りは終わった。

 集まっていた男たちは、門の前で頭を下げて礼をしている直也の腕を取ったり肩を叩いたりして激励をした後に、それぞれの仕事に戻っていく。女たちは、その横で乳飲み子を抱いたままで頭を下げている和子に、「困ったことがあったらいつでも言ってね、うちら隣組だからね」と、優しい声を掛ける。

 村の者たちが去った後で、宗一郎たち本家の者も直也に一言二言声を掛けると、屋敷の中へと消えていく。彼らの別れは既に済ませており、出立の最後の瞬間は直也の家族だけにしてやろうという配慮であった。

 屋敷の庭に咲くサクラの花びらが、先ほどまで人々が踏みつけていた地面に舞い落ちてくる。人々が上げる威勢のいい声に替わって、ウグイスが春を告げる声が響いてくる。

 直也は、自分の顔をじっと見つめている家族に向きなおった。

 妻の和子は、生まれたばかりの長女明子を抱きながら、直也に「身体に気を付けてください」と繰り返す。残される自分たちのことよりも、出征する直也のことを心配してくれているのだ。

 五歳になった次男の茂は、いくら我慢してもにじみ出てくる涙を、何度もこぶしで拭っている。このような時に自分が涙を見せれば父が安心して行けないと、子供心にも感じているのだろうか。それとも、男が安易に涙を見せるべきではないと、我慢をしているのだろうか。

 長男の清は、七歳になっていた。直也を手伝って農作業にも出られるようになったし、本人にも長男としての自覚が芽生えてきたようで、ずいぶんと頼もしくなった。今もそうだ。直也に対して「父さん、家のことは僕が守ります。安心してください」と、不安を見せないように歯を食いしばりながら、立派な言葉を発している。

 直也の心は家族から贈られた温かな気持ちで満たされていた。彼はしばしの間目を閉じてそれを感じた後で、意を決して口を開いた。

「じゃあ、行って来るよ。まぁ心配するな。手紙も書くし、休みが有れば帰っても来るから。家のことは、清、わかってるな」

「はいっ、父さん」

「俺がいない間、母さんを助けてこの家を守るんだ。お前は長男なんだからな。もちろん、何かあれば本家のおじさんたちを頼ること。いいな」

「わかりましたっ。父さんが帰るまでっ、俺がこの家を守りますっ」

「よし、いい返事だ。では、お前にこれをやろう」

 元気と気合が勢いとなって現れた清の返事に直也はニヤッと笑うと、傍らに置いていた背嚢の口を開いた。彼がその中から取り出したのは、ゴツゴツとしたアルミの懐中電灯だった。小さな頃から清が触りたがっていたものだが、これは玩具ではないと、特別な時以外は触らせずにいたものだ。

「考えてみれば、軍では必要な装備は支給されるだろう。この懐中電灯はお前にやる。だから、これで暗闇からみんなをしっかりと守ってくれよ、清」

「は、はい。父さん。ありがとうございますっ」

 憧れていた懐中電灯を父親から手渡されて、清はよほどうれしかったのだろう、両手でそれを受取りながら何度も何度も頷きを繰り返した。直也も和子も、清のその様子を見て、自分の心が明るくなるのを感じた。

 別れの挨拶を長びかせても、離別の哀しさが減るわけではない。それを潮時にして、直也は背嚢を背負うと、皆に「では、元気で」言い残し、戦地へと旅立った。家の前では、直也の姿が見えなくなるまで彼を見送る家族の姿があった。

 

               〇

 

 昭和二十一年 初春

 直也が戦場へと発ってから、長い時が流れていた。

 あれから、直也と同じように徴兵された男を見送る光景が、村のあちこちで何度も繰り返された。そして、櫛の歯が欠けるように、村からは若い男が減っていった。必然的に農作業の担い手は年老いた男と女子供になった。

 戦争は昨年の夏に終わっていたが、未だにその状況は変わっていなかった。なぜなら、出征した男たちの中で早々に村に戻ってきた者は白木の箱に入った石や木片となっていたし、その他の者のほとんどは未だに村に戻ってきていなかったからだった。

 その様な状況の中で、十一歳になった清は良く働いていた。

 肥田の本家も主だった若い男たちは戦争に取られていたし、家長の宗一郎も年がいっていたので、貴重な男手として自分の家の田も本家の田も世話をしていた。もちろん農作業は共同作業なので、清一人が加わったところで大きく変わるわけではないのだは、やはり女手だけでは足りないところも多くあり、彼の頑張りは家中で感謝されていた。

 

 

「ねぇ兄さん、父さんはいつになったら帰って来るんだろう」

 村の大人たちに交じって乾いた田んぼを牛を使ってすき返している清に、あぜ道から弟の茂が問いかけた。

「そんなこと、俺に聞かれたってわからんよっ」

 清は引いていた牛の足を止め、首にかけた手拭いで額の汗をふき取りながら、荒々しい口調で答えた。

 茂は何を言っているんだろう。村に留まる子供の自分に、戦地に出た父親がいつ帰るかなどわかるはずがないではないか。・・・・・・いやいや、もちろん、茂にしたってそれぐらいのことはわかっている。ただ、不安で仕方なくて、自分に対して聞かずにはいられないんだ。

 そのように思い直した清は、茂に対して言葉を続けた。ただ、その言葉は、一緒に農作業をしている村人への配慮で、とても小さな声で発せられた。

「心配するな、父さんは大丈夫だよ。ありがたいことに軍から戦死の通知もなければ、箱に入ってのお帰りもない。この田と家を俺達が守っていれば、きっとすぐにお帰りになるさ」

「うん、そうだね。兄さん、ありがとう」

 茂は自分が聞きたかった言葉を兄から受け取ると、安心したように微笑んだ。茂の横では妹の明子がしゃがみ込んで、あぜ道に生える下草を千切って遊んでいた。茂は九歳になっていたが身体が弱く、兄の様に農作業の手伝いはできなかった。そのため、彼が妹の明子の世話を引き受けて、母の和子が農作業に参加できるようにしていたのだった。

「兄ちゃん、兄ちゃん。ほら、これ。明子が見つけたんだよ」

 茂の着物の裾を引く明子が片手でギュッと握りしめていたのは、ツクシの束だった。彼女は彼女なりに、家の助けになろうとしているのだろう。

「おお、すごいなぁ、明子は。よおし、兄ちゃんも探すから、場所を教えてくれるか」

「うん、兄ちゃん。特別だよぉ」

 茂は明子に対して大げさに驚いて見せると、一緒にツクシを採ろうと誘った。そして、清には「ありがとう」というかのように、片手を振って見せた。

 清はそれに応えると田起こしに戻ることにし、自分よりもはるかに大きい牛に進むように合図を送った。牛に引かせている鋤で乾いた土を掘り起こし、そこに草を巻き込むのだ。代かきの前には畦塗りもしなくてはならない。まだまだ、やらねばならないことがたくさんあるのだ。

「父さん。きっと、無事ですよね」

 茂の言葉のせいで自分の心の中で目覚めてしまった不安を、清はベルトに挟み込んだアルミの懐中電灯を触って抑え込んだ。今のところ戦死報告がなくとも、箱に入って帰ってきてはいなくとも、父が無事である確証にはならない。清の心にも不安は存在しているのだ。ただ、清はそれを抑え込んでいるのだった。父から長男としてこの家を守るように命じられたのだから。そして、父から渡された懐中電灯に触れることで、その力を得ているのだった。

 ンモオオォ・・・・・・。

「よしよしっ。行くぞ、それっ」

 一度止まった鋤を動かすには大きな力がいる。清は鋤に手を添えると、嘶く牛に合わせて、思いっきり前へ押し込んだ。

 

 

 それから数日が経った夜。

 夕方から激しくなっていた風が、時間が経つに連れてその勢いをどんどんと増していた。

 強風が吹くたびに、ガタン、ガタタンッと、雨戸どころか家の全体が、大きな音を立て揺れた。

「怖いよ、怖いよぉ」

「よしよし、家の中に居れば大丈夫だからな。今日は兄ちゃんと一緒に寝ようか、なっ」

 強風を怖がって寝られない明子を、茂が優しくなだめる。母親は繕い物やらなんやらで夜も忙しいことをよく知っている明子は、愚図ることなく茂に従って布団へと戻っていった。

「この時期の風はいつも強いけど、今日はまた特別に強いわね」

「ええ、本当ですね、母さん。そうだ、念のため、俺は牛小屋の方を見てきます」

 野良着に継ぎを当てながら話す母に、清は田の近くに建てている牛小屋を見てくると話した。

「でも、もう遅くて暗いし、危ないわよ。それに、牛小屋はしっかりと作ってあるから、大丈夫じゃないかしら」

「念のためですよ。もし牛小屋が壊れて牛が逃げでもしたら、みんなに迷惑が掛かりますから。それに、僕にはこれがありますし」

 清は、肌身離さず持ち歩いている大事な懐中電灯を掲げて見せた。牛は田起こしの際の重要な労働力だが、全ての農家が牛を飼っているわけではない。肥田家から田を借りて米を作っている小さな家では、牛も肥田家から借りるのだ。分家とは言え大きな農家である清の家も、他の家に田や牛を貸している。だからこそ、この強風の中でも、牛小屋の様子を見に行こうというのだった。

 母の方でもこれが清の強い責任感から生じる行動であることがわかっているので、それ以上彼を止めることはしなかった。「気を付けて行ってらっしゃいね」という母の声を背に受けて、清は轟々と風が音を立てている夜の中へ、懐中電灯の明かりを頼りに出て行くことにした。

 

 

 バタンバタンと風に煽られて振動している戸を開けたとたんに、ゴウッと強い風が清の顔を叩いた。家の中にその風が入り込まないようにと、清は慌てて後ろ手で戸を閉めた。

「どうやら自分が考えていたよりも、外の風はずっと強そうだ。牛小屋は大丈夫だろうか。早く見に行かないと。板でも打ち付けて補強をしないといけないかもな」

 太陽はずいぶんと前に地に没してしまっているし、分厚い黒雲が夜空を覆っているので月明かりも全くない。清が進もうとする先は、ベットリとした暗闇で満たされていた。

 ブブオウッ、ゴゴオウッと、強風が吹き抜ける度に、夜の闇が吠えるような音を立てている。

 ザザアアン、ギシギギイッと、風に煽られた木々が、悲鳴のような軋み音を上げている。

 この中に飛び出していくのは、清にとっても恐ろしいことであるのは間違いなかった。だが、彼は心に決めていたのだった。父が返って来るまでは、長男としてこの家を守るのだと。だから、こんなことで怖いだとかは言ってられないのだと。

 清は心の拠り所にしている懐中電灯を点灯させると、それを両手で握りしめた。もちろん、夜に外を歩く際には、懐中電灯の光は頼りになる。だがそれ以上に、この懐中電灯を握っていると、力が湧いてくるのだった。まるで、父親が自分の背中を押してくれているように、清には感じられるのだった。

「・・・・・・しっ」

 どこかで自分の名が呼ばれた気がした。女の声ではなかったから、それは母親ではない。荒れた暗闇の中へ駆けだすことへの恐れが、心の中から自分を呼んだのだと、清は思った。

「いつまでもこんなとこに突っ立っていてどうする。思い切って行かないとっ」

 その声を振り切るかのように、清は家の前から暗闇の中へと飛び出した。あまりにも風の勢いが強いので、少しでも上体を起こせばひっくり返されてしまいそうだ。

 清は自分のすぐ先の地面を懐中電灯で照らしながら、ひたすらにその光だけを見つめて、風に煽られないように前屈みで小走りに歩いた。

「・・・・・・よし、きよし・・・・・・」

 夜の闇の中から、また自分を呼ぶような声が聞こえた。その声はさっきよりも大きくなっているような気がするが、ゴゴオオオッ、ザッザアアッという風の音や枝葉が立てる音に邪魔されてはっきりとは聞こえない。覚悟を決めて家の前から暗闇の中へ飛び出したつもりなのに、まだ自分を呼ぶのか、俺の心の中に棲む臆病虫は。

「ああ、もうっ。なんだよっ」

 清は懐中電灯が照らす地面を見つめながら大きな声を出した。

 いつもは周りに誰かがいるが、今は夜の海の中に自分だけが浮かんでいる。清の心の中で、押さえつけていた感情が爆発した。

「そうだ、そうだよ。俺だって、本当は怖いんだよ。こんな伸ばした手の先も見えやしないような真っ暗な中を一人で歩いていくのは。それにこの大風なんか、子供の時に経験した台風みたいじゃないか。なんて風だよ。風に向かって顔を上げることもできやしない。あの台風の時は、そうだ、ちょうど明子が茂にしてもらっているように、怖がる俺を父さんが慰めてくれたんだった。父さん、父さん。本当に無事でいるの? 俺だって、誰かに大丈夫だよって言って欲しいよ。父さん、父さん、俺、しんどいよ、しんどいよ・・・・・・」

 いつしか清は、半べそをかいていた。それでも、右手で懐中電灯をかざし、左手で顔を拭いながら、限られた視界の中を前へ前へと歩き続けた。

「あっ・・・・・・」

 清は何かにぶつかって、急に立ち止まってしまった。はずみで彼の手からアルミの懐中電灯が滑り落ちた。地面に落ちたときにガラスに石でも当たったのだろうか、カチンッと固い音を立てた後でそれはしばらく転がり、最後にはあらぬ方向を照らしたままで止まった。大事な懐中電灯だ。それも、今はこの懐中電灯の光がなければ、安全に進めないほどの真っ暗な夜だ。

 だが、清はすぐにそれを拾い上げようとはしなかった。

 彼の両肩が掴まれていたのだ。大きな男の手で。

「やっぱり、清だったか。うちの懐中電灯に似た光が見えたから呼び掛けたんだが、この大風で聞こえなかったようだな。俺だよ、直也だ。遅くなったが無事に帰ってきたよ」

「と、と、と・・・・・・」

 暗闇の中で清がぶつかったのは、ようやく復員してきた父親の直也だったのだ。直也は暗くなった後に村に入り、自分の家に向かう途中で特徴のある橙色をした懐中電灯の光を見かけたので、それを使っているのは清だと見当をつけて呼び掛けていたのだった。だが、大風が立てる音と木々が騒ぎ立てる音があまりにも大きくて、それが清には切れ切れにしか届いていなかったのだ。そのため、直也は清と行き違いにならないようにその光を目標に走り寄り、今ここで巡り合えたという訳だった。風に煽られたせいで、最後は少々手荒い再会になってしまったのだが。

 清は素早く懐中電灯を拾い上げると、自分の目の前に立つその人を照らしだした。

 そこには、ボロボロでひどく汚れた軍服を着て、大きく膨らんだ背嚢を背負った、髪も髭もボウボウに伸びた兵隊が立っていた。懐中電灯の橙色の光に照らされたその顔は、ずいぶんと日に焼けて真っ黒になり深い皺がたくさん増えていたが、そこに立っている兵隊は彼の父である直也その人で間違いなかった。

「と、とと、父さん・・・・・・」

 父親が出征してからずっと、清は彼が帰るときのことを思い描いていた。家の前で「帰ったぞ」と呼び掛ける父。家の中から飛び出す母と自分たち。そして、「ただいま帰りました」と格好よく敬礼をする父に、自分も「長い間お国のために尽くしていただいてありがとうございました。ご苦労様でございました」と、きちっと敬礼をして返すのだと。

 だが、今の清には、その様なことは全く思い浮かばなかった。

「自分の目の前に、父が立っている。とうとう、とうとう帰ってきてくれたんだ」

 その嬉しい衝撃で体中が痺れ、口を利くことも上手くできない。

「とう、父さん、父さん・・・・・・」

 ようやく身体が動くようになった瞬間に清が取った行動は、敬礼をして父を出迎えることではなく、大事にしていた懐中電灯をも放り出して、父の胸の中へ飛び込むことだった。

 

               〇

 

 令和四年 秋

 茅葺の大きな古民家が、たくさんの小学生で賑わっている。

 この古民家はこの村の豪農の屋敷だったのだが、今では地域歴史資料館として利用されている。昔から使われてきた農具やこの地域で育てられてきた作物の資料と共に、この村で生きてきた人々の生活道具などを展示しているのだ。

 地域の歴史の勉強を兼ねた遠足でこの館を訪れた児童たちはみんな、展示されている見慣れない道具や壁にかかった昔の農作業の様子の写真に、興味津々のようだった。

「この電話、面白いっ。線でつながってるよ!」

「ねぇねぇ、先生。あの人は牛をお散歩させてるのかな」

「館長さん、これってどうやって使うんですか」

 引率をしている若い女の先生もこの古民家の主で館長を努めている老人も、児童たちの元気な質問の連続に対応するのに大変な様子だ。

 資料館には、昔の農家の生活として、食事の用意をする土間と畳を敷いた座敷を再現したコーナーもある。釜で炊いたご飯など、多くの児童たちは食べたことはなかったが、野外でバーベキューをしたことのある児童たちはそれと同じように考えて、毎日のご飯がすごく楽しくていいねと感想を言い合う。毎日薪を燃やして食事の支度をする大変さまでは、まだまだ思いが至らないようだ。

 座敷の一角に据えられた小さな文机の上には、ガラス部分に細かな傷が入っている古ぼけたアルミの懐中電灯が置かれていた。それに興味を持った児童が手に取ってスイッチを入れると、ボウッっと橙色の光が壁に向かって放たれた。児童は懐中電灯のスイッチを付けたり消したりしたが、明りが付いたり消えたりするしか変化がないので、すぐに飽きてしまってそれを元に戻した。

「先生、これ、ライトが付いたり消えたりしかしないよ。ママのスマホだったら、ライトもつくしさ、音楽もなるしさ、ゲームできるし電話もできるのにっ」

「そうだね、スマホって便利だね。でも懐中電灯で、一番大切なことは何かな」

 丸眼鏡をかけた女の先生に考えるように促された児童は、古民家の高い天井を見上げて少しの間考えた。

「んーと、あ、明るくなることだっ」

「うん、暗いところを明るく照らすことだね。昔は今よりももっと暗かったから、この懐中電灯で明るく照らすことができて、みんなはとっても助かったんだよ」

「そうなんだっ。すごいんだね、この懐中電灯!」

 先生の説明を受けて、児童が懐中電灯を見る目が一変した。その様子を見て、先生は嬉しそうに言葉を続けた。

「それにね、あの台所にしても、あっちの電話にしても、その懐中電灯にしても、みんな昔の人が大切に使っていたものだからね。それ自体は単なる物だけど、そこで暮らす人たちのいろんなドラマを、きっとこの道具たちは見てきたと思うんだ、先生は」

「ドラマ? テレビかネットの?」

 今度は児童は考えにも至らず、首をかしげるだけだった。流石にこれは難し過ぎたと思ったのだろう。先生は笑いながら「ごめんごめんっ」と謝ると、児童を連れて別のコーナーへと歩いて行った。

 隣のコーナーからこの様子を眺めていたのは、館長の肥田老人だった。

 若い先生の言葉がよほど嬉しかったのだろうか。「我が意を得たり」とばかりにしきりに大きく頷いている。そして、その顔に浮かんでいるのは実に誇らしげな表情で、まるで自分の家族か友人が他人から褒められたと、喜んでいるかのようだった。

                                 (了)