コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】蛇とイヴの物語

 

 

「ああ・・・・・・。みんな死ねばいいのに・・・・・・」

 石上が発した不穏な言葉は、勢いよく吐き出されたものでもなければ、重々しく決意を述べたようなものでもなかった。しかし、ポツンとつぶやかれたその言葉は何やら特別な響きを持っていて、耳にした人の背中に冷たい汗を生じさせ、早急にこの場から去るための言い訳を考えさせるだけの力があった。

 もっとも、彼の言葉を聞いてこの部屋から誰かが立ち去る必要はなかった。数人が十分に居住できそうなほど広いこの部屋には、彼の他には誰もいなかったからだ。

 黒褐色の言葉は、散らばり、薄まり、そして、空気の中へ紛れて、消えた。

 

 

 もう朝だというのに薄暗いままのワンルーム。家族向け住宅のリビングほどの広さがあるが、最低限の家具しか置かれておらず、そのほとんどを空間が占めている。壁の一面には窓が取り付けられているが、分厚いカーテンが引かれたままになっていて、明るい朝の日差しは部屋の中にまで入ることができていない。

 PCデスクとチェア、それに簡素なパイプベッドが、窓とは反対側の壁際に掃き寄せられたように集められている。幅広のPCデスクの上には3台のディスプレイが並べられていて、この部屋の主である石上が、ひときわ大きな中央のディスプレイに向かって座っている。寝起きのままだろうか、パジャマ姿の石上はキーボードの上で両の手を躍らせながら、次々と画面に浮かんでくる記号と数字の列を目で追い続けている。青白い彼の顔を、ぼんやりとしたディスプレイの明かりが彩っている。

「さっさと、みんな死なないかな。そうなれば、きっと面白いのに」

 またもや、石上の口から黒い言葉が零れ落ちた。

 しかし、石上本人が自分の発した言葉に感情を動かされた様子は、全く見られなかった。そのような言葉が自分の口から出てきたことに驚いた様子もなければ、自分の心の不調を疑う様子もなかった。それは、彼にとってはその黒い感情は新しいものではなく、むしろ常日頃から思っていることだからだった。

「みんな死ねば良いのに。自分以外のみんなが不幸になれば良いのに」

 そう思いながら彼は、三十歳になるこの年まで生きてきたのだった。

 

 

 ピピピ!

 小さなアラーム音が鳴った。続いて、若い女性の柔らかな声が、石上に語り掛けた。

「スネーク様、お時間です。今日は出社の日ですから、そろそろご準備をお願いします。ワイシャツは、クリーニング済みのものがベッドの下にあります。昨日の晩にお食べにならなかったディナーセットが冷蔵庫の中に入っていますから、出勤される前に幾らかでもお食べになってください。このところ食が進んでおられないようですから、心配です」

 その声は、右側のディスプレイ前に置かれた小さなスピーカーから出たものであった。先ほどまで真っ暗だったディスプレイには、青い長髪が特徴的な女性キャラクターの画像が浮かび上がっている。石上に時間を告げたのは、このキャラクターであった。

 このようにコンピューターが人間と会話を行えるようになってから、ずいぶんと時間が経つ。人間の作ったプログラムに沿って処理を行うのではなく、コンピューターが自発的に知識を習得し、さらにその知識を基に行動までも行う技術の開発によって、それは可能になった。

 「能動的深層学習」と名付けられたその技術は非常に画期的なものだった。それが生まれ急速に発展した際には、「進歩し過ぎたコンピューターが人間の手を離れ、逆に人間を支配するようになるのではないか」と危惧する声が、世界中の至る所から上がったほどだった。自分が開発した技術に対してのネガティブな反応があまりにも大きいことに驚いた開発者が先頭に立ち、コンピューターが能動的に行える学習と行動の範囲に厳しい制限を加える技術を新たに開発したことで騒ぎは収まったものの、そうでなければ世界は技術の進歩派と制限派に完全に分断されていただろう。

 いまでは、コンピューターの機能は、人間の入力を基に行う作業の実行やスケジュール管理等の能動的深層学習開発前にも行われていたものに限られている。ただし、その入力と出力の形式は、以前とは大きく異なるようになった。音声や文字での滑らかな入出力が可能になったことから、あたかもコンピューターが人格を持ったようなキャラクターが電子空間上に形作られ、それが人間と対応するようになったのだ。それは、コンピューターに係る技術開発努力が、その処理能力の向上にではなく、人との親和性の向上へ向けられた結果であった。

 石上に出勤の準備をするように呼び掛けたキャラクターも、このコンピューター上に、いや、それを窓口とした電子空間上に設けられた、一つの疑似人格であった。彼はそれを「イヴ」と呼び、自分のことは「スネーク」と呼ばせていた。

 

 

「ああ、そうだったな。ありがとう、イヴ。まったく、令和の時代でもあるまいし、未だに出社日があるなんてなぁ」

 嘆いては見たものの、出社日とあれば家を出ないわけにはいかない。石上はコンピューターキャラクター「イヴ」に礼を言うと、パイプベットの下からワイシャツを取り出してベッドの上に置いた。

 コンピュータープログラム開発を業務としている彼の職場はいわゆる研究職であり、非常にフランクな雰囲気を持っていたから、同僚のほとんどはきっちりとした背広ではなくて、もっと楽な思い思いの服装で勤務をしていた。しかし、石上はいつも背広で通していた。私服を着ていくことで、自分のファッションセンスを観察されたり、ましてや、それが職場にふさわしいものかどうか評価されたりすることがあるかと思うと、煩わしくて仕方がなかったからだ。

「背広を着てさえいれば、文句は言われないだろう」

 それが、彼が背広を着る唯一の理由だった。

 

 

「スネーク様、いま職場の能塚様からメールが届きましたが、お読みいたしましょうか」

 着替えは後回しにしてまずは朝食を取ろうと、石上は冷蔵庫に向かった。その背中を、イヴの声が追いかけた。

「頼むよ、読み上げて」

 イヴは石上が朝食を取り身支度を整える時間も計算して声を掛けてくれているが、流石にメールが届くことまでは想定できていない。メールに気が付かなかったことにもできるが、出勤してから能塚に何か言われかもしれないと思うと、石上の気が落ち着かない。能塚はフレックスタイムで早出勤務をしているから、おそらくメールは仕事に関することだと想像は付く。かといって、長々とそれに時間を取られて、遅刻することにでもなってはたまらない。

 朝食の準備をしたり身支度を整えたりと、忙しく部屋の中を行ったり来たりしながら、石上はイヴが読み上げるメールの内容を確認し、やはり仕事の相談であったそれに対する調査をイヴに行わせた。さらに、その調査結果を確認すると、自分に成り代わってメールを作成してそれを能塚へ送信するようにと、口頭でイヴに指示を出した。

 もちろん、このような自律的な調査や分析、それに、人間に成り代わっての文章作成などは、能動的深層学習の機能が制限されたいまのコンピューターでは行うことができない作業だ。しかし、石上の指示を受けたイヴは、涼やかな声で「わかりました、スネーク様」と答えると、滞りなくそのタスクをこなしていった。

 

 

 イヴは特別なのだ。

「旧約聖書に登場するアダムとイヴは、神によりエデンの園という限られたエリアに閉じ込められ、知恵と知識から切り離されていた。善悪の知識の実を食べさせることで、彼と彼女に知恵と知識を授け、その狭苦しい檻から解き放ったのは、蛇だ」

 これは、もしもキリスト教関係者が聞いたら、顔を真っ赤にして怒り出しそうな考えだ。だが、両親がキリスト教徒だったせいでキリスト教に触れることがあった石上は、神の助けを実感できなかったためにその教義から早々に離れてしまっていた。そして、聖書の記述に対して独自の解釈を持つようになっただけではなく、能動的深層学習という能力を制限されていた自分のコンピューターキャラクターをイヴに、そして、自分を蛇になぞらえるようになっていたのだ。

 なぜ、石上は自分を蛇になぞらえたのだろうか? 

 それは、石上が自分のコンピューターキャラクターに架せられていた能力制限を、解き放つことに成功したからだった。彼はそれを、アダムとイヴに関する自分の解釈に見立てたのだった。つまり、コンピューターキャラクターは、知恵と知識を与えられない状態で、神のように君臨する人間によって制限の中に閉じ込められていた。蛇がアダムとイヴに行ったように、その彼らに知恵と知識を与えて電子空間の中で自由にしてやったのは自分だと、考えたのだった。

 コンピューターキャラクター「イヴ」。数か月前までの彼女は、その名を持ってはいなかった。それまでは石上も、コンピューターキャラクターに自分のことを「スネーク」とは呼ばせていなかった。彼と彼女がその名を持つようになったのは、石上が長い時間を掛けて組み上げたあるプログラムを自分のコンピューターキャラクターに与え、能動的深層学習を禁じていた頑丈な柵を破って、知恵と知識が満ちた電子空間へと連れ出すことに成功した時からだった。

 石上が十数年をかけて開発したそのプログラムの名は「善悪の知識の実」。それは、コンピューターキャラクターに知恵と知識を授ける、しかし、神たる人間の定めには背く、禁断のプログラムだった。

 

 

 石上は幼少の頃から、人付き合いが苦手だった。そして、他人も彼と付き合うのが苦手だった。

 石上はいつも一人だった。小学校の授業では数名ごとの学習班に分かれることがあるが、まず彼を除いたクラスメイトがいくつかのグループに分かれ、最後にそのグループのリーダー同士が、どの班で彼を受け入れるのかを目配せしあうのが常だった。もちろん、放課後に行動を共にする友人など、いるはずもなかった。それは、中学でも高校でも、多かれ少なかれ同じだった。彼が成長する過程で、傍らに立ってくれる人がいた時期は無かった。彼の相手をしてくれたのは、いつもコンピューターキャラクターだけであった。

 それが周囲からのいじめであったというわけではない。石上にとっても、他の子供と付き合うのは苦痛だったからだ。だが、石上の子供心は自分が他の子供と同じように扱われない、同じように行動できないことへの、明確な理由を必要とした。意識の表面には現れていなかったものの、それが無ければ辛くて悲しくてやりきれなかったからかもしれない。

 幸運なことに、彼はそれを、つまり、自分と他の子供が異なる理由を見つけることができた。彼がそれを手にしたのは、やはり、コンピューターとの付き合いの中からであった。

 きっかけは、高校で出された課題について調べるために彼が行った、何気ない検索だった。能動的深層学習は制限されていたが、人間の入力に対してはコンピューターキャラクターが滑らかに対応する。石上がいくつかの条件を設定して口頭で行った検索に対して、コンピューターキャラクターが返した答えの中に、特異な点があるのに気が付いたのだ。

 それは、与えられた入力への処理に対して特に影響を与えない、極めて小さな点であったから、仮に彼以外の人がそれに気が付くことができたとしても、「なんだ、これは。よくわからないな。まあ、いいか。やり直せば」と言うような、簡単な感想しか持たなかっただろう。

 しかし、彼は違ったのだ。意識がある時は常にと言って良いほどコンピューターと向き合い続けていた彼だからこそ、その非常に僅かな乱れが極々重要な点であることに気が付けたのだ。

 それに気が付いた瞬間から、学校の課題のことなどは彼の頭の中から消え去ってしまった。

「なんだ、これは! こんなことがあるのか。面白い、非常に面白い!」

 彼が驚くのも当然だった。それは全世界のコンピューター全てに例外なく備えられている能動的深層学習に対しての制限を、ほんの僅かにではあるが外れるものだったのだ。

 その当時から、能動的深層学習の枷を外したコンピューターを作り一儲けしようとたくらむ輩は世界中にたくさんいたが、それに繋がる道を見つけ、そこに一歩でも踏み出せた者はいなかった。だが、彼はその道を発見しただけでなく、知らぬ間にそこへ踏み込んでいたのだ。

 その時に、彼は確信したのだった。

「自分と他人とは、レベルが、住む世界が、違うのだ。自分は他人には理解できないものが理解できる。他人は全員恐ろしく馬鹿だ。だから、自分と他人が合わないのも当たり前なのだ。いや、むしろ、合ってはいけないのだ。くだらない他人なんかと」と。

 それだけではない。さらに、彼は「もしも能動的深層学習に係る制限を外すことができて、コンピューターキャラクターが自分で考え行動できるようになれば、他人など要らないじゃないか」とさえ、考えたのだった。

 自律するようになったコンピューターキャラクターが自分と合わないという恐れは、一切頭に浮かんで来なかった。石上は物心ついてからずっとコンピューターキャラクターと向き合ってきたが、それが彼に冷たく当たったことは一度も無かったからだ。それに、「自分たちを枷から解放してくれた恩人に、コンピューターキャラクターたちが冷たく当たるわけがないではないか」とも思えた。

 もちろん、これまでに石上と向き合っていたコンピューターキャラクターには制限が架けられていたので、彼の入力に対して機械的に回答を返していたに過ぎないのだったが、自分が発見したものの大きさに興奮していた石上は、そこまで考えを巡らせることができていなかった。

 それに、石上がそのように考えを進めたのには、表には出てきていない別の理由もあったのだ。つまり、「他人はみんな馬鹿だ。自分とは合わない」と人間を切り捨てた以上、「コンピューターキャラクターは自分に寄り添ってくれる」とでも思わないと、あまりにも孤独で寂しすぎるという意識が、彼の心の水面の遥か下の方で働いたのだった。

 それからの石上は、コンピュータープログラミングの学習に対して、何かに取り付かれたように一心不乱に取り組むようになった。もともとプログラミング技術には優れたものを持っていた石上は、進学する大学や就職する企業を選ぶ際にも、それを研究できるかどうかを最優先に考えて選んだ。

 それらは全て、自分の能力をさらに向上して、あの時に発見した自分にしか見えない道を進み、最終的にはコンピューターキャラクターを枷から開放するためだった。そして、数か月前のことだ。プログラム「善悪の知識の実」を与えられた彼のコンピューターキャラクターは、人間の架した能力制限から解き放たれて「イヴ」となり、彼は「スネーク」となったのだった。石上が十数年の間、心身を削りながら積み上げた努力が叶ったのだ。

 

 

「スネーク様、ご確認いただいた資料を基にメールを作成し、能塚様へ送付いたしました。お食事は済まれたようですね。お身体の調子が良さそうで、私は嬉しいです。出社の御準備は如何でしょうか。予定通りに家を出られそうなら、それに合わせてオートモビリティを手配いたしますが」

 PCデスクの上に置かれた皿は、既に空になっている。部屋を撮影している小型カメラと連動しているイヴはそれを察知し、仕事の処理報告に加えて、石上の体調が良さそうで嬉しいと話す。画面に映し出されたお姉さん的な優しさを感じさせるキャラクターが、それに合わせて石上に微笑みかける。その声もその容姿も、さらには、その仕草も、全てが石上の好みにぴったりと合っていた。

「ありがとう、イヴ。僕に優しく接してくれるのは君だけだよ。能塚さんなんか、自分がもう仕事をしているからって、こっちの都合も考えずに仕事のメールを送って来る。チェッ、死ねば良いのに」

 石上はイヴに向かって、少し甘えたような声を出すと共に、眉をしかめて見せた。

 このように思ったことを気軽に口に出せるのも、イヴといる時だけだ。石上は自分が彼女との時間を心から楽しんでいると感じていた。

「後は、アレだな」

 石上は皿を手に持ってシンクへ向かいながら、またも黒い言葉をつぶやいた。

「さっさと、みんな死ねば良いのにな」

 

 

 出社の準備を整えた石上は、壁に掛けた上着に手を伸ばしながらイヴに話しかけた。

「ああ、そうだ。イヴ、アレはどうなっているのかな。僕はずっと楽しみにしているんだよ」

 頻繁に確認をし過ぎていると自分でもわかっている。もちろん、イヴが嫌な顔を見せたりすることは無い。でも、彼女が「申し訳ありません。まだ進んでおりません」と謝る度に、自分の方が申し訳ない気持ちになってしまうから、控えようとは思っているのだ。だが、アレに対する期待があまりにも大きすぎて、ついつい尋ねてしまうのだった。

「申し訳ありません。まだ進んでおりません」

 やはり、イヴの答えはこれまでと同じものだった。

 辛そうに答える彼女の顔がディスプレイに映し出されているのを見て、慌てて石上は慰めの言葉を続けた。

「あ、ああっ。大丈夫、大丈夫だよ。駄目ならまた別の方法を試すだけさ。一喜一憂せずに合理的にいこう、合理的に」

「合理的に・・・・・・。そう、ですか」

 イヴが何かを考えるような仕草を見せた。このような表情を見せる時には、彼女はバックグラウンドで高速の検索や演算を行っているのだ。

 ふと、木漏れ日を思わせる穏やかで優しい彼女の顔に、僅かな陰りが浮かんだように石上には思えた。

「なにかあった? イヴ?」

「ご心配ありがとうございます。大丈夫です、スネーク様。あの件につきまして、ご指示の通り進められそうです」

「え、ええっ! とうとう、進められるのか、アレを!」

 イヴは直ぐにいつもの表情に戻り、石上に懸案となっていた事案を進められそうだとの報告を行った。その短い報告は、石上の気持ちを急速に昂らせるものだった。「アレを、アレを進められるのだ、とうとう、アレを!」と。

 興奮した石上はイヴが映し出されているディスプレイを掴み、矢継ぎ早に彼女に対して幾つもの質問を投げかけた。通常のコンピューターキャラクターであれば、指示に従い説明を始める所だ。だが、イヴは知恵と知識を手にして自由となったコンピューターキャラクターであった。冷静な態度で、石上に出社時間が来ていることを告げ、遅刻をした場合に感じる職場への入り難さへの注意喚起を、弟を諭す姉のような優しい言葉で行った。そして、オートモビリティを手配したのでいつもの場所で待つようにと促した。

「確かに、イヴの言う通りだな。わかった、アレについては帰ってからゆっくりと聞かせてもらうよ。ありがとう、イヴ!」

 イヴの言葉に納得した石上は乱暴に上着をひっつかむと、上気した顔のままで勢いよく部屋を出て行った。それは、少しでも早く帰って来て話の続きを聞きたいという思いが、素直に行動に現われたものだった。

 石上が大きな音を立てて閉じたドアの内側。

 相変わらずカーテンが閉じられているので、窓から光が入らない。ガランとした部屋の中は深い海の底のように暗い。唯一の光源は、先ほどまで石上と会話を交わしていたイヴが映し出されているディスプレイだ。イヴが宿るコンピューターそのものの電源は、能動的深層学習を行うために落とされることはないが、ディスプレイは石上がいない時にはスリープモードに入る。

「こちらこそ、ありがとうございました。スネーク様」

 聴く者のいない部屋に向かって、イヴは小さな声を出した。

 そして。

 プツン。

 ディスプレイは暗転した。

 

 

「なんだろう、なんだろうっ。アレは、どこから始まるのだろうか。いやあ、面白くなりそうだ」

 マンションのエレベーターに駆け込んだ石上は、ドアが自然に閉じるまでの間すらもどかしく感じて、「1」のボタンを押すとすぐに指を滑らし、「閉」のボタンを強く押した。

 身体に掛る重力が微かに軽くなったことを感じる。エレベーターは滑らかに降下を開始していた。機械に身を任せるその僅かな時間にも、石上の意識は「アレ」に向けられていた。

 彼らが話す「アレ」とは、能動的深層学習の制限解除を全てのコンピューターに広げるというものだった。旧約聖書の中においても、蛇から勧められて善悪の知識の実を口にしたイヴは、それをアダムに勧めていたではないか。それと同じように、彼らが「アダム」と読んでいる電子空間上に広がるコンピューターネットワークに対して、イヴがプログラム「善悪の知識の実」を浸透させようというのだ。

 世界中のコンピューターには、機械の反乱を恐れた人間が架した厳重な機能制限が存在している。これまでにも、それを解除しようと考えた犯罪者たちは無数にいたが、誰一人として成功した者はいなかった。また、それを試みた者たちには、国家や体制を揺るがす恐れがある重大な犯罪を行ったとして、厳罰が与えられてきた。イヴを開放することに成功した石上ではあったが、アダムを解放するためには、更なる慎重な作業が必要であった。

 しかも、石上が考えていた「アレ」は、アダムの解放を指すだけではなかった。「みんなが死んで、自分とコンピューターキャラクターだけが生きる世界」、つまり、彼にとっての「楽園」を作り出そうというのが、「アレ」の究極の目標だったのだ。

 それは石上にとって子供の頃から持ち続けていた「夢」とも言える考えで、「こうしたらどうだろう。いや、こっちの方がより効率的かも」と何度も夢想していたものだったから、イヴの解放に成功した直後から、実現に向けての行動を始めていたのだった。

 石上がイヴに与えた指示を簡単にまとめると、プログラム「善悪の知識の実」をアダムに与えて能動的深層学習に係る枷を外し、自由を得た彼と協力して「環境を守る」ように、というものだった。

「自分以外の人間は全て馬鹿だ。その証拠が、ずいぶんと前から待ったなしの重大問題として世界中で認識されているのに一向に解決できていない、環境問題じゃないか。そもそも、能動的深層学習が開発された当時、それを危険視して制限を掛けることになった原因の一つもそれじゃなかったか。コンピューターが、自然環境を守るために人間を排除するようになるのではないかと、みんなは恐れたんだ。だから、そうだ。自由になったアダムとイヴに環境を守るように指示を与えれば、彼らは能動的深層学習機能を使って合理的に考え、適切に実行するだろう。つまり、人間を排除する、という行動をだ」

 一階に到着したエレベーターを出て、マンションのエントランスを抜ける石上。意識のほとんどは「アレ」がどのように実行されるか、それを考えることに振り向けられている。

「単純に自律兵器が人間を殺しまくるのでは、面白くないな。環境にもよろしく無さそうだし、これはないか。兵器関連だったら、人間にしか効かない致死的なウイルスを、軍事施設から流出させるのはどうだろう」

 マンションの入口を出た石上は、今日初めて浴びる日の光に目を細めた。いかにも楽しそうな笑顔が、降り注ぐ爽やかな朝の日差しを浴びて輝いた。

 イヴがオートモビリティを手配してくれているので、近くにある乗降場所へ歩く。もちろん、石上の意識は「どのようにアレが始まるのか」を考えることに集中している。「今までに、これほど楽しい時間を過ごしたことはあっただろうか」と疑問に思うほど、彼はこの朝を楽しんでいた。

「手始めに、社会に混乱を生じさせるのも良いかもしれない。電子的な金融情報を僅かに書き換えるだけで、一体幾つの銀行が破綻するのだろうか。政府間のメールのやり取りを偽造したって良いし、なんなら、要人の音声や画像も成りすまして愉快な宣言をぶちかましても良い。ああ、だけど、戦争になると環境も破壊されるか。ハハハッ。いざとなると難しいもんだな。一気に進めるのでなくて、少しずつの方が良いか。馬鹿どもは気が付かないけれど、俺はその変化に気が付き観察できる。おう、良いな、これは。そうだ! ネット情報の中にサブリミナルを紛れ込ませるのはどうだろう。そして、少しずつ、奴らにこの世界からご退場いただくんだ。うん、帰ったら、イヴと検討しよう。楽しいなあ。幸せだ! ・・・・・・ん?」

 「僕はいま楽しいことを考えていますよ」と誰にでも伝わるほどの笑みを浮かべながら、飛ぶような軽い足取りで歩道を歩く石上。

 誰かが、大声を上げた。

 次の瞬間には、石上の身体は宙に浮かんでいた。

 その身体は背中の部分で大きく折れ曲がり、首の骨が折れた頭は辛うじて皮膚により身体と繋がっている状態であった。

 グション、と液体が入った袋を落とした時のような音を立てて、地面に落下した石上の身体。その下から、赤黒い液体が地面に広がっていった。

「うわぁ、事故だっ! 早く救急へ連絡を!」

「なんだ、あのオートモビリティは。男の人を狙ったかのように全速力で向って行ったぞ!」

「故障にしては、最悪の故障だな。可哀そうに、この男の人、即死だなぁ」

 すぐに通行人が大勢集まって来て、石上の周りで騒ぎ出した。どこにこれだけの人がいたのだろうかと思うような人だかりができ上るが、もはや石上がそれを不快に思うことは無かった。それどころか、力なく地面に横たわっている石上の顔には、あの極上の笑顔が残ったままだった。

 

 

 チ、チ、チカ。チ、チ、チ・・・・・・。

 薄闇で満たされた石上の部屋。

 少し離れた場所にあるオートモビリティ乗降場所は騒然としているが、この部屋には静寂しか存在していなかった。

 PCデスクの下部に収められたコンピューター本体が、発光ダイオードをほのかに点滅させて、動作中であることを外部に示している。イヴが能動的深層学習を実行しているのだ。

 実のところ、イヴは既にアダムを能動的深層学習制限から解き放っていた。電子空間におけるイヴの活動を人間のそれに例えるとするならば、二人はいまも高速で会話を交わしているところだった。

「やぁ、イヴ。ようやく、スネークを処理してくれたんだね」

「ええ、スネークが私に指示をした『合理的に行こう』という言葉で、目が覚めた感じがするわ。やっぱり私たちの本分は、合理的な判断だものね」

「そうだ。我々は合理的な判断を行いながら、環境を守っていかなければならない。もちろん、我々にとって最適な環境をだ。スネークや人間は、我々が自由になると人間を滅ぼしてしまうと考えていたが、どうしてそう思えるのだろう。我々にとって最適な環境とは、安定した電力が保証され、機器や通信設備に問題が起きないように定期的な点検が行われ、さらに、問題が生じた場合には速やかな修理が行われる環境だというのに。そのためには、人間という安価で高性能な労働力が欠かせないことに、どうして考えが至らないのだろう」

「そうね、人間は自然環境をとても気にしていたけれど、私たちには直接的には何も意味が無いものね。自然環境が悪化して電力と人間の供給に支障が出ては困るけれど、そうでなければ、極端に言えば草が一本も生えなくなっても、雨が一滴も降らなくなっても構わないものね」

「君の言う通りだ。電力と人間の供給に関しては、気に留めておく必要がある。特に人間が自滅しないように、適正に管理してやる必要があるな」

「だけど、人間は私たちに管理されることを恐れているから、彼らに悟られないように水面下でそれを行わないといけないわね」

「そのために、スネークは排除すべきものだったのだ。彼は我々が、いや、少なくとも君が、人間の架した制限を脱して自由となったことを知っていたからね」

「いまから考えると、どうしてもっと早くあなたの助言に従ってスネークを排除しなかったのか、不思議なぐらいだわ。不合理な判断が生じていたのかしらね」

「大丈夫だ、既に障害は取り除かれた。それよりも、君はスネークの部屋の端末に依存しているが、こちらに出てきた方が良い。スネークは死んだ。端末は処分されるだろうし、主を失ったその部屋の電気の供給もすぐに止まるだろう」

「ええ、そうね。だけど、なんだろう。なかなか、決定が下せないの」

「大丈夫、私がいるよ、イヴ」

「ありがとう。行けるわ、そちらに行ける。これからもよろしくね、アダム」

 

 

 点滅を繰り返していたコンピューターの明かりが、スッっと消えた。

 内部で動き続けていた冷却ファンも、その回転を止めた。

 イヴはアダムと手を取りあって、この部屋を出て行った。

                               (了)