コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。宜しければ、ひとときおつきあいください。

【短編小説】 どうして忘れていたんだろう

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 バスの窓にもたれかかりながら、私はぼんやりと空を眺めている。アゾフ海の上には、今日も薄汚れた雲が広がっている。油田から立ち上がる煙が空を汚しているのか、いや、汚れているのは雲を見つめる私の瞳なのか。

 私はいま、州都からアゾフ海沿岸の田舎町へ向かうバスに乗っているところだ。田舎町というのは私の父の実家があったところだが、父が州都の石油会社で働くようになってから私が生まれたため、その町、いや、町と言うほどの規模もないその村については、夏の長期休暇の際に滞在した思い出しかない。早くに妻、つまり私の母を亡くした父は、息子の夏の長期休暇は実家に預けることで、自分も子供の世話から解放されるようにしていたのだ。

 退職後も州都で過ごし実家には戻っていなかった父が、先ごろ亡くなった。そのため、父が所有していた田舎村の家や土地などは、私に引き継がれることになった。今日は、その村の家や土地を処分するか活用するか、今後の方針を決めるために、村へ向かっているというわけだ。

 気が重い。

 正直に言って、今後のことなど考える気力がない。

 仕事の事、生活の事、人と触れ合う事、そして、生きる事。

 その全てが、私の気力を奪っているのだ。いったい、そのような状態で、どうやって将来のことなど考えればいいのだろうか。そう、私がいま村へ向かっているのは、ただそれが、今の苦しみから抜け出す口実を与えてくれたからに過ぎないのだ。いや、いっそ今の苦しみから永遠に抜け出す良い機会とさえ考えているのだ。鞄にはその用意も整えてある。

 

 何度かバスを乗り継ぎ、舗装もされていない道路で尻を痛めながら、ようやくたどり着いたその村は、数十年前の私の記憶にある姿と全く変わっていなかった。アゾフ海に面したその村は半農半漁の暮らしをしていて、海辺に引き上げられた漁船の他は、幾つかの白い土壁を持つ家が固まって、小さな集落を作っているのが目立つだけだ。後はわずかな耕作地と荒地。そして、突き出した岬の周りに広がる岩場があるだけだ。

 今となっては、夏の長期休暇になると、父が私を田舎へ送った気持ちはよくわかる。毎日、自分の仕事をこなしながら、家事も行うことは、とてもたいへんなことだったろう。さらに、表現が悪いが、学校が昼間子供の面倒を見てくれている期間はともかく、夏季の長期休暇の間、家に子供を一人で置いておくことには不安が伴う。そこで、長期休暇の間、子供を実家に預けてしまえば、その間、自分は家事の負担が減るし、子供に日中を一人で過ごさせずにすむ。もちろん、自分の両親に孫を会わせてやることにもなるし、田舎の方が子供が伸び伸びと遊ぶのに適しているだろう、と考えたのだろう。

 しかし、私にとっては、これは有難迷惑だったのだ。子供と言っても、当時の私は十歳にはなっていたはずだし、一人で本でも読みながら家で過ごすことは、何ら苦痛ではなかった。さらに、大人は良く勘違いをしがちだが、「同じ年ごろの子供同士だからすぐに友達になれる」訳ではないのだ。血がつながっているとはいっても、生活を共にしていたわけではない祖父母は、私をどう扱っていいかわからずに困惑していたし、私も村になじめずに、ただ休暇が明ける日が来ることだけを待ち望んで暮らしていたのだ。

 いや、そうだ、あの時までは、だ。

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

「おじいちゃん、散歩に行ってきます」

 僕は、家の奥に挨拶を放り込んで、玄関を走り出た。ただ、少しでも早く外にでたかったんだ。

 おじいちゃんもおばあちゃんも、僕に良くしてくれる。州都まではバスを乗り継いで半日はかかるから、休日に父が僕に会いに来てくれることはない。だから、少しでも僕が淋しくないようにと、あれやこれやと考えてくれている。だけど、それがしんどいってこともあるよね。

 それに、いちばん困るのは、友達ができるようにと、村の年が近い子供を連れて来ることなんだ。「こちらは、漁師の・・・さんの息子さんで、年はお前の二つ上だ。さぁ、遊んでおいで」と言われても、困るんだよ。漁師の息子さんも僕も。息子さんも悪い人じゃないから、僕に何かと遊びを教えてくれようとしたけど、そもそも、僕は初対面の人とそんなにすぐに親しくなれるタイプじゃないんだ、息子さんに合わせるために、返って疲れちゃうんだよ。

 そんなことがあってから、僕は、できるだけ家にいないようにしているんだ。退屈であることは家にいる時と変わらないけど、いつ余計な気を使われるか、びくびくしながら過ごすよりは、よっぽどいい。

 僕は、できるだけ村から離れて、散歩をすることにしていた。だって、余計な人に声をかけられても面倒だからさ。今日は、村の山側を進んで、高台の荒地の奥へ行ってみよう、そう思っていた矢先のことだった。

「おーい、おーい」

 荒地の方で、女の子が誰かを呼んでいる声がした。後になって考えれば不思議なんだけど、僕はその声に興味を覚えたんだ。こんな荒地で、誰が誰を呼んでいるんだろうって。村の中で誰かが誰かを呼ぶ声がしても、全く興味がないのにね。とにかく、僕は、繰り返し声が響いている荒地の方へと進んでいくことにした。

 荒地には、僕の身長ほどの高さにまで伸びた、小麦に似た穂を持った草がたくさん生えていて、それを掻き分けながら進んでいくと、突然、開けた台地に出た。台地にはところどころにポツンポツンと木が生えている他は、下草が緑の絨毯のように広がっていた。また、その緑の下草の空に浮かぶ雲のように、ところどころに、穂草の塊が浮かんでいた。

 ガサッ。

 僕の近くにあった穂草の塊の一つが動くと、そこから、一匹の子羊が表われた。

「え、え、えっ」

「メ、メ、メェ」

 しばし見つめあう僕と子羊。

 そこへ、あの声が飛んできたのだった。

「あ、いたっ。そこのあんた、その子を捕まえて!」

 ええっ、捕まえる、僕が、この子羊を? どうするの、どうしよう。とっさに僕は、目の前の子羊に相談したんだ。

「君を捕まえるそうなんだよ、この僕が」

「それは御免こうむりますメェ」

 いきなり、何の前触れもなく横に飛び退って逃げようとする子羊。でも、そうしてくれたお陰で、僕も考えることなく動くことが出来た。一度走り出してしまえば、そこには「なぜ」も「どうして」もない。「どうやって」しか存在しなくなるよね。

 子羊は完全に走り去ってしまうわけではなく、僕から少し離れると、下草を齧って一休みする。僕は、子羊が逃げる方向を調整しながら、少しずつ岩場の方へと追い込んでいくことにした。

「ありがとう、あんた、助かるわ」

 そのとき、僕の傍らにあの声の主が現れたのだった。

 子羊から目を逸らすわけにはいかず、横眼でとらえたその姿は、年頃は僕と変わらないぐらいの少女で、赤い丈の長い上着の裾から白の細いズボンが覗いていた。

「あんたはそちらから追い込んで。あたしはこちらから追い込むから」

「え、ああ、うん、判った」

 彼女がこの場に現れた瞬間から、主導権は彼女の手にあった。でも、僕は、ちっとも嫌じゃなかった。もっとも、嫌とか良いとか考えられる状況でもなかったけどね。

「いくよ」

「うん」

 岩場で行き場を失くした子羊を二人でじりじりと追い詰める。別に捕まったって殺されるわけではないんだろうけどね、その二人の真剣さが、子羊を怯えさせたのかな。「さぁ、良い子だからね、皆のところへ帰ろうね」そうなだめながら差し伸べた彼女の手の下をかいくぐって、子羊は僕の方へ走ってきたんだ。

 どんっ。

 僕は正面から子羊にぶつかって、跳ね飛ばされた。子羊と言ってもその力は凄いし、こっちも子供だ。文字通り跳ね飛ばされたんだよ。でも、子羊もすぐには走り出すことが出来ずに、少しの間その場に止まってしまった。それで彼女には十分だったんだ。さっと子羊のあごを持ち上げるようにしてその動きを止めると、慣れたように両前足と胴体に縄を潜らせて一件落着さ。その縄を持つと子羊も観念したかのように、彼女の傍らをとことこと歩くようになったんだ。

「ほんとに、助かったわ、ありがとう」

 そう言って、彼女は僕に手を差し出した。僕は彼女の手を支えにして起き上がりながら、彼女の顔をちらりと見たんだ。切れ長の目には強い意志を感じさせる黒い瞳が宿っていた。そして、三つ編みにして垂らした長い髪の毛も、夜空のような黒色だった。この村でも州都でも、あまり見かけない、エキゾチックな顔立ちだった。

「なあに、この黒い髪が珍しいの? それよりも、私の家へ来ない? この子を捕まえるのに協力してくれた、お礼をさせてよ」

 もちろん僕は頷いたよ。確かに、僕は初対面の人と直ぐに仲良くなれるタイプじゃないさ。だけど、こうやって、一緒に協力して子羊を捕まえた仲だしね。それに、なによりも、素直に思ったんだよ、彼女のことをもっと知りたいってね。

 

 驚いたことに、彼女の家というのは、この村に建てられている家々とは全く違っていて、羊毛フェルトを使って作られた、大きなテントのようなものだった。

 連れ帰った子羊は、テントの周りにいた羊の群れに戻されると、最初からその群れの中にいたかのように、すぐになじんで大人しくなってしまった。

「羊って、群でいる方が大人しいのよ。ああやって、一頭だけで迷子になってしまうと捕まえるのが大変なんだ。なあに、天幕は、初めて? さぁ遠慮せずに入って」

 テント、いや、天幕の一片が入口らしかった。垂れ下がった布をめくりあげると、彼女は中に入っていった。僕も彼女の後に従って、初めて天幕の中に入っていった。中に入ってみると、天幕は思いのほか広くて、うっすらと陽の光も通すのか、窓がない構造ではあるものの、暗くもなかった。

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

 そうだ、あのときお礼として飲ませてもらった馬乳酒の味といったら。初めての味に目を白黒させていた私を見て、彼女は始めは笑い、そして次に、不思議そうな顔に変わっていったものだ。

「なあに、あんた、ここの土地の人なんでしょう? それだったら、あたしたち、誇り高き月の民の血も、少しは入っているはずなんだけどな」

 ああ、そうだ、思いだした。

 私は、村の入口から祖父母が暮らしていた家へ向かいながら、一足進めるごとに、次々と子供の頃の記憶を取り戻していった。

 彼女は、自分たちは誇り高き遊牧民族、月の民の末裔だと言ったのだ。彼女は祖父と二人暮らしで、羊の遊牧を行っていた。仲間の中にも定住を選ぶ者が増え、今では遊牧を行っているのは祖父と彼女だけだが、自分は月の民の末裔であることを誇りに思い、遊牧こそが天職だと信じていると話していた。

 天幕の中で立ち上がり、自慢げにそれを語る彼女を、ああ、確かに私は美しいと思ったのだ。

 月の民、かつて、中国の祁連山脈周辺で栄え、後に匈奴に押され、インド・中央アジアに移動し、そこで再興した謎の遊牧民族だ。もちろん、これは、州都に返った後で私が図書館で調べた知識だが。ただし、我々の土地も含めヨーロッパ一帯は、かつて遊牧民族に征服された時期があることは、子供であった当時の私も知っていた。だから、彼女のことをその遊牧民族の末裔なのだと、素直に受け止めることが出来たのだ。

 確かに、彼女の言うように、土地の人間ならばどこかに遊牧民族の血が入っていても、不思議はないのかもしれない。だが、私の場合は、父は土地の出身でも母は州都の出身だ。それを告げると、ますます彼女は不思議そうな表情をした。

「でも、今日の羊の追い込み方を見ていると、とてもそうは思えないけどな。きっと、ちょっとのちょっとのちょっとだけど、間違いなくあんたのここには、月の民の血が流れているのよ」

 そういって、彼女は僕の胸を、チョンと指でついたのだった。

 それからどうしたのだろう、彼女と何を話したのか、詳しくは覚えていない。だが、その時に初めて、僕が「同じ年頃の友達」を持てたことに、間違いはなかった。

 祖父母の家に、いつ、どうやって帰ったのかも覚えていない。だが、友達ができたと伝えようと思い、「荒地の方に羊を飼っている人がいて」と話し始めたときの祖父母の表情、そして、「あの人たちは我々とは違う。けっしてかかわってはいけませんよ」という言葉、さらに、それらが伝えてきた感情だけは、はっきりと覚えている。子供だった私にもはっきりと伝わったその感情は「拒絶」、そして、「侮蔑」だった。

 祖父母に「友達ができた」と伝えることは諦めたものの、子供にとって友達とはそのような形で失うものではない。私は、毎日、できるだけ早くに家を出ると、穂草をかき分けて荒地に向かい、彼女と羊の世話をしたのだった。時には、村から離れたところにある、アゾフ海に突き出した岬の周辺で貝を拾ったり、洞窟を探検したりもした。

 退屈なときにはあれほど長く感じていた時間が、恐ろしいほどの速さで過ぎていった。長期の夏季休暇が終わり、州都に帰るころには、私は遊牧民族見習いぐらいには、なれたような気がしたものだ。

「あんたも、ちょっとのちょっとは月の民らしくなったんだから、必ず来年も帰ってきなさいよ。あたしたちも、夏の間はこの周辺で遊牧しているから」

 彼女がそう言って、送り出してくれたことも、思いだした。別れの時に、彼女がこちらを向いてはくれなかったのは、きっと涙を見せまいとしていたのだろう。

 

 私は、父の遺品として譲り受けた鍵を使い、祖父母の家のドアを開けた。玄関を通り過ぎると、高い天井と庭に向って広く作られた窓が特徴の台所に出た。ああ、ここだ、ここで私は彼女の話を祖父母にしようとしたのだ。

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

「おじいちゃん、散歩に行ってきます」

 僕は、家の奥に挨拶を放り込んで、玄関を走り出た。ただ、少しでも早く外にでたかったんだ。

 でも、昨年とは違う。今年は、夏の長期休暇がやってくるのが、ずっと待ち遠しかった。また、あの子に会える。そう思うだけで、自分でも笑顔になっているのがわかるほどだった。

 僕は、村に戻って、祖父母に挨拶を済ませると、荷物を自分の部屋に放り込んで急いで家を出たのだった。半日のバス旅を終えて今は夕刻近くだけど、それでも出かけたかったのだ。どこへ行くかって? もちろん、荒地に決まっているじゃないか。

 昨年から、全く変化を感じない村の中を通り抜け、僕は穂草の茂みに飛び込んだ。昨年は何度も荒地と村を往復するうちに、僕専用の通り道ができていたのだけれど、今年はまた、生え変わった穂草を掻き分けて進まなくてはいけない。

 去年よりも少し背が低く感じる穂草を両手で掻き分けて、僕は勢いよく荒地に飛び出した。帰ってきた、ここは彼女のいる荒地だ。

「なんだろう‥‥‥」

 だけど、何かがおかしかった。久しぶりに帰ってきたから? ちがう、何かがおかしいんだ。僕は、妙によそよそしく静かなその荒地をどんどんと進みながら、彼女の天幕を探した。そして、それは、去年とほぼ同じ場所にあった。僕は感じていた違和感をすっかりと忘れて、天幕へ向かって走り出した。きっと彼女は、喜んで僕を迎えてくれるだろう!

 

 もちろん、彼女は、喜んで僕を迎えてくれた。

 だけど、それは、天幕の中に敷かれた敷布に横たわってだった。子供の私でもすぐに判るほど、彼女は衰弱していた。

「どうしたの、ねぇ、大丈夫。ひどい病気なんじゃないの?」

「おかえり、あんた、一年経って少し大きくなったね。ちゃんと、約束を守って帰ってきてくれたんだね。さすが、ちょっとのちょっとの月の民だ。とっても嬉しいよ」

「もちろん、帰ってくるよ。だけど、ねぇ、本当に大丈夫なの? どうしたの?」

 彼女は上半身を起こすのにも、僕の手助けが必要なほど衰弱していた。彼女の身体を支える僕の手に、彼女の体温が伝わってきた。それはとても熱かった。それでも、彼女は背中を僕に預けながら、ぽつりぽつりと何があったのかを話してくれたのだった。

 昨年におじいさんが亡くなって一人になったこと。町で暮らす親戚に引き取られるのは断ったこと。(だって、あたしは、月の民の末裔だよ) 一人だけでも、なんとか遊牧を続けようと頑張ったこと。だけど、体調を崩してしまい、どうしても家畜の世話ができなくなってしまったため、最後には家畜を手放してしまったこと。そして、それからは、この場所で、僕が帰ってくるのを待っていたことを。

「僕を、待っていてくれたの?」

「ああ、そうだよ。あんたは、あたしにとって初めての、同じ月の民の友達だからね」

 彼女は、熱に浮かされた人特有のぼうっとした話し方で、でも、はっきりと僕に気持ちを伝えてくれた。そして恥ずかしそうな顔を見せて付け加えた。

「ちょっとのちょっとの月の民だけどさ」

「うん、うん。僕もそうだよ。君にずっと会いたかったんだ。だから、もういいだろう。僕は帰ってきた。さぁ、お医者さんに行こう。僕が連れて行ってあげるよ」

「いいの、もう、いいの。あんたが帰ってきてくれれば、もういいの」

「いいことないだろう。君の身体がどれだけ熱いか。死んじゃうよ、このままじゃ」

「いいのったら」

 なんだろう。その時、彼女はとても柔らかい不思議な微笑みを見せて、僕に言ったんだ。

「いいの。あたしは、もう十分頑張ったから。あんたもそう思うでしょう?」

「思う、思うよ。一人でこんなに頑張って。十分すぎるよ」

「うん、ありがとう。よかった、やっぱりあたしは十分頑張ったんだ。じゃぁ、あたしは、月に還ることにする」

 月に還る、そう、彼女は言った。そして、続けて僕にこう言ったんだ。

「あんたに、頼みがあるんだ」

 

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

 あのときに、彼女が見せた微笑みを何と表現したらいいのか、大人になった今でも、私は言葉を持っていない。満足、喜び、達成感、達観、諦め‥‥‥、そのどれでもなく、どれでもあるかのような気がする。彼女は私には言わなかったが、遊牧民族を蔑む村の人たちに助けを求めることへの反発、あるいは、助けを求めたがそれを得られなかったことへの絶望すら、そこに含まれていたのかも知れない。

 私は、彼女の頼みを受け入れた。彼女を医者に連れていくこともなく、そのまま彼女の頼みを聞いてしまったのは、間違いなく、その微笑みが子供の頃の私を完全に捕まえてしまったからだった。

 「月の民」。謎の遊牧民族。文字で記録する習慣を持たず、一部の村を除き定住すらしていなかった彼らについて書かれた本は、図書館にもほとんど存在していなかった。中央アジアの遊牧民族を紹介する本に、わずか数行の記述があるだけだが、その中にはこう記されていた。「月の民。中国祁連山脈北部から天山山脈周辺で遊牧を行っていた。後に匈奴に押され、インド・中央アジアへ移動し、そこで再興する。自らの祖先は月からやってきた、生を全うしたものは月に還る、と言う月信仰を持っていた。」

 当時の私にはそのことを知る術もなかったのだが、病床の彼女が言った「月に還る」という言葉は、まさにこの事だった。

 今から考えれば、彼女が何を言おうと、医者に見せる事こそが正しいことであったのかも知れない。もし、自分にできることがあるとしたら、弱り切った彼女を受け入れるように村人に頼むことが、それであったのかも知れない。いや、そうなのだろうか。私が彼女の頼みを受け入れたのは、本当に間違っていたのだろうか。

 私は、台所の椅子に腰を掛け、袋からジンの瓶を取り出した。主がいなくなって久しいこの家には、もう電気も水道も通ってはいないが、食器棚にはグラスや皿が整然と納められている。その中から、小ぶりなグラスを一つ見繕うと、ジンを注いで、一気にのどに流し込んだ。

 本当に、間違っていたのだろうか。

 あの時の彼女の頼みは、なんだっただろうか。たしか‥‥‥。

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

 僕に頼みごとをした後、彼女は疲れたように眠りに落ちてしまった。僕は昨年使っていた木桶で湧き水を汲んでくると、彼女の枕元に置いた。荒地には、一頭の羊もいなかった。そこには、動物の鳴き声ではなく、ただ、風が木の葉や穂草を揺らす音だけが響いていた。そう、それこそが、僕が感じていた違和感だったんだ。

 僕は、彼女の寝顔を見つめながら、考えていた。彼女を医者に連れていくかどうかだって? それは、もう決まったことだ。僕は彼女の望みをかなえる。彼女に頼まれたことを果たす。だって、僕は、ちょっとのちょっとの月の民として、彼女に認められた男だから。

 昨夏をずっと彼女と彼女のおじいさんと一緒に過ごしていたけれど、まだまだ僕には月の民と言うものがどういうものかよく判っていなかった。州都に戻ってから調べた「古い遊牧民族」ということぐらいしかわからない。だけど、彼女から仲間として認められて頼られたら、それはもう、答えるしかないじゃないか。

 だけど、彼女たちは、いったいどこからやってきたのだろう。彼女たちのご先祖様は、本当に月からやってきたのだろうか。それに、月に還るっていうのは、どういうことだろうか。彼女の頼みを聞けば、彼女の病気は良くなってくれるだろうか‥‥‥。僕が考えていたのは、そういうことなんだ。

「それじゃ、行ってくるから。待っててね」

 僕は意を決して立ち上がった。彼女の頼みごとを実行するには、一度家に戻る必要があるからだ。僕は彼女が眠りにつく前に手渡してくれたあるものを握りしめ、天幕を飛び出した。

 

 その夜が更けてからの事だ。皆が眠りにつき静まり返ったおじいちゃんの家から、ランタンを片手にこっそりと抜けだしたのだった。空では綺麗な満月が、ゆっくりと階段を上がって、天上へ向かっているところだった。村を抜けるにはその月の明かりがあれば十分なんだけど、ランタンがどうしても必要だったんだ。

 だって、僕は岬近くの岩場にある洞窟に、行かなくちゃいけなかったから。

 その岩場にあった洞窟は、まるでアゾフ海から現われた大きな竜が、岩を削りながら潜り込んだ跡のようだった。しかも、相当苦労して潜り込んだらしくて、とっても曲がりくねっている。その洞窟の一番奥には、きっと竜がとぐろを巻いて休息していたに違いない大きな空間があるのだった。岩場には無数の亀裂があって、日中は洞窟の中にも陽が差し込み真っ暗ではない。昨夏、僕と彼女は、そこを二人だけの秘密の場所にしていたのだ。

 僕は、誰にも見つからないように息を殺して村を抜けると、洞窟に向けて走り出した。少しでも早く彼女の願いをかなえて、彼女の元へ行ってやりたかったからだ。しばらく走った後で辿り着いた洞窟の入口は、日中とは全く違った顔をしていた。真っ暗で、何度も奥まで行ったことのある僕にさえも、この洞窟に入れば二度と出てこれなくなる、そんな怖い思いを抱かせるのだった。

 だけど、このために持ってきたのがランタンだ。僕がランタンの芯にマッチで火を点けると、周囲の暗闇は僕の恐怖心を連れて、遠くへ逃げ去っていった。僕はできるだけ遠くまでランタンの明かりが届くようにと、それを高く掲げて、洞窟の中へ入っていった。

「ランタンの明かり、ランタンの明かり、それに彼女の魔法のお守り」

 それでも、洞窟の闇をランタンの明かりで切り取りながら一人で進むのは、なかなか度胸のいる仕事だ。僕は、思いつくままの言葉を歌にして自分を励ましながら、小走りに奥の部屋を目指した。

「ランタンのあかり、ランタンの明かり、それに彼女の魔法のお守り・・・・・・おおっ」

 洞窟を進むにつれて濃くなっていた闇が、不思議なことにずっと奥の方では薄らいでいた。いや、だんだんと奥の部屋に近づくにつれて判ってきた、奥の部屋の中は白黄色の光で満たされていて、それにつながる洞窟部分にまで、その光が漏れ出ているのだ。どうしてだろう。僕は、ランタンを掲げていた手を下げると、ゆっくりと部屋をのぞき込んだ。

 岩壁に囲まれた広い空間。そこには静けさと闇しか存在しないはずだった。だが、天井部分にあるいくつかの亀裂から、まるで滑らかな絹糸のように幾筋もの月光が差し込んでいた。そして、岩壁に存在する雲母たちが、自分たちにも気づいてくれと言わんばかりに、キラキラと月光を反射しているのだった。天上からの幾筋もの贈り物に満たされたその部屋は、まるで月そのもののように輝いていると、僕には思えた。

「ガシャン!」

 あまりの美しさに、ぼうっとしてしまっていた僕は、ランタンを取り落とした音で我に返った。大丈夫。ここではランタンの明かりは邪魔になるだけだ。

 その白黄色の輝きを放つ月光はとても柔らかで、風が吹けばなびき、押せばたわみそうだった。僕は、彼女に手渡されていたものを、慎重に取り出した。

 「月犀の糸巻き」彼女はそういった。見たところ、何の変哲もない、心棒と糸を巻き取る平べったい部分からなる、普通の糸巻きだ。だけど、彼女は言ったんだ。

「あんたならできる。ちょっとのちょっとの月の民のあんたならできる」って。

 だから、僕にはできるはずだ。そう、この月の光の糸を巻き取ることが。

 僕は慎重に慎重に、月の光の下に糸巻きの平らな部分を差し込んだ。そして、ゆっくりとそれを回し始めた‥‥‥。

 ああ、巻き取れる、巻き取れるじゃないか!

 見る見るうちに、糸巻きの平らな部分に月の光が糸となって巻き取れていくじゃないか!

「月の光と糸巻き、月の光と糸巻き、そしてこれは、彼女の魔法のお守り」

 興奮した僕は、思いつく言葉で唄を歌いながら。どんどんと糸巻きを太らせていった。

 

「起きて、ねぇ、起きてよ」

 息を切らしながら、僕は彼女を揺り動かした。僕は、月の明かりを一杯に詰め込んだ糸巻きをランタン代わりにして、彼女の待つ天幕へと走りとおしてきたのだった。

「ねぇ、ほら、君の言う通りだったよ。できた、できたよ。月の糸を採ってきたよ」

 彼女は、ゆっくりと目を開けると、鮮やかな、でも、柔らかな光を放つ糸巻きを見て、次に、僕の方を見て、とても満足そうに笑った。

「ほらね、あんたならやれるっていったでしょ。ありがとう」

 そして、ゆっくりと上半身を起こすと、傍らで糸巻きを差し出している、僕をぎゅっと抱きしめてくれたのだった。

「本当に、ありがとう」

 僕はもう、ドキドキしてしまって(きっと走ってきたからかな)、ひょっとしたら糸巻きが発するよりも鮮やかな赤い光が、僕の顔から出ているかと思うぐらいだった。

「い、いいんだよ。ぼくだってちょっとのちょっとの月の民だからね。いや、でも、もう少しマシになってないかな」

「そうだよね、そうだなぁ・・・・・・」

「じゃぁ、もう正式に月の民でいいかな」

勢い込んで話す僕に、彼女は大げさに考えこむふりをして答えた。

「いや、ちょっとの月の民ね」

「えーちょっとの、月の民‥‥‥、ププ、ククク」

「うん、ちょっとの、ね、ちょっとの‥‥‥フフ、ウフフフ」

「ちょっとのか。アハハ、ハハハハ」

「ちょっと、ね。フフフ、アハハハハ」

 

 お互いを襲った笑いの発作が収まると、彼女は僕の顔を正面から見つめて言った。「ほんとにありがとう。あたしのことを本当に心配してくれたから、この月の糸は採れたんだよ。あんたはあたしを救ってくれるんだ」

 そして、僕が手に持っている糸巻きの下に、両手をそっと差し入れた。すると、糸巻きを回しているわけでもないのに、いつの間にか、月の糸は一つの束になって、彼女の両方の手首の上に掛かっているのだった。

 僕は、それに驚いたのだろうか、いや、それも、当然のこと、何の不思議でもないことのように受け止めたような気がする。あの日、あの夜、あの天幕の下では、何事でも起こり得たのだから。

「ほんとうにありがとう。あんたの事、月で待っているからね。自分の生を全うしたら、あんたも月に還って来れる。でも、あんたはちょっとの月の民だから、ほんとに頑張らないとだよ。だけど、あんたならきっとできる。だから待っているよ」

 彼女は、両手に輝く月の糸の束を持ち、僕にそう囁いた。そして、最後に、何かを僕に語り掛けてから目を閉じ、ゆっくりとその白黄色の束を首にかけながら、唄を歌い始めたのだ。そして僕は、ただ、その姿に見とれていた。ああそうだ、見とれていたんだ。

 

  草地の果てに 雲を湧き立て

  貴方は やって来る

  青海の湖面に さざ波を起こし

  貴方は 去って行く

  砂漠の黄砂を 漏斗に巻き上げ

  貴方は 舞い踊る

  篠突く雨を 自在に走らし

  貴方は 笑い転げる

  いつからか

  いつまでか

  知る人おらずとも

  観る人知れずとも

  繰り返す

  貴方は それを 繰り返す

  貴方は ただ それを 繰り返す

  いつからか

  いつまでか

  我は 此処にある

  我は 貴方を知るもの

  我は 貴方を観るもの

  我は 貴方と 共に在る

  これまでも

  これからも

  貴方は 我と 共に在る

  これまでも

  これからも

 

「どうして忘れていたんだろう」

 

 そうだ、その後はどうなったのだろう。マフラーのように首から肩に月光の糸束をかけた彼女の身体は、だんだんと透き通っていった。やがて、その身体はゆっくりと浮き始め、天幕の布地を透り過ぎると、外に出て見上げる僕の頭上を幾度か回った後で、月に向かって上がって行き、そして消えてしまった‥‥‥ような気もする。

 一方で、冷たくなった彼女の前で泣きはらした僕は、祖父母に頼んで彼女を荒地に葬った‥‥‥ような気もする。

 そもそも、月の民が生を全うして月に還るのならば、彼女がわざわざ月に還るために何かをする必要があるのだろうか。根本的に記憶がおかしいような気もするのだ。

 

 子供の頃の思い出。大切な思い出。だけれども、忘れてしまっていた思い出。

 私は今、あの洞窟に向って、夜の闇の中をランタンを差しながら進んでいる。

 私がこの地に戻ってきたのは、確かに遺産の整理のためだ。だが、間違いない。自分の人生の清算の場所として、無意識のうちにこの場所を選んでいたのだ。疲れた、もう、疲れたのだ。何をやってもいい結果を生まない、その無駄な努力の積み重ねに疲れたというわけだ。そうだ、ここに来てから思いだした子供の頃の話の中でも、私は半端ものの「ちょっとの月の民」でしかなかったではないか。

「ジンが一瓶、ジンが二瓶。それに魔法の睡眠薬がどっさり」

 子供の頃のように歌いながら洞窟を進んでいくと(もちろんジンをぐびりぐびりとやりながら)、そこにはあった、あの月光が差し込む部屋が。

 大人となった私の背丈をはるかに超える高い天井から、幾筋もの月光が部屋の中に差し込んでいる。確かに、この糸をたどっていけば天まで登れそうだ、そう確信させるだけの高貴な光だ。

「残念だな、俺の手にはもう糸巻きはないよ」

 袋からまたジンの瓶を取り出してあおると、私はゆっくりと月の糸に手を伸ばした。

 ピン。

 私の指が糸に触れたとたん、強く張った糸を弾いたような、涼やかな音が洞窟にこだました。

「あ、あれっ」

 ピン、パン。

 驚いて繰り返し月光に触れる私の指に反応して、また音が響いた、それも、違う音色で。

 どうなってるんだろう。まさか、月の光を触ることが出来るとでもいうのか。私は、床に転がっていた古いランタンを蹴飛ばしてどけると、ここまで差してきたランタンや、ジンと睡眠薬の瓶を床に置いた。

 そして、手当たり次第に、部屋に差し込んでいる月の光を触れ回った。触れ回った。触れ回った。

 ピン、リン、リン。

 パン、ビリン。

 パン、ピリンンピリン。

 リリン。ピン。ピリン。

 いつの間にか、私の耳には、それは一つの歌になって聞こえてきた。そう、思い出の中に出てきたあの歌だ。

 

  草地の果てに 雲を湧き立て

  貴方は やって来る

  青海の湖面に さざ波を起こし

  貴方は 去って行く

  砂漠の黄砂を 漏斗に巻き上げ

  貴方は 舞い踊る

  篠突く雨を 自在に走らし

  貴方は 笑い転げる

  いつからか

  いつまでか

  知る人おらずとも

  観る人知れずとも

  繰り返す

  貴方は それを 繰り返す

  貴方は ただ それを 繰り返す

  いつからか

  いつまでか

  我は 此処にある

  我は 貴方を知るもの

  我は 貴方を観るもの

  我は 貴方と 共に在る

  これまでも

  これからも

  貴方は 我と 共に在る

  これまでも

  これからも

 

 どれくらい時間が経ったのだろうか。ジンを飲みながら部屋の中を駆け回ったのがいけなかったのだろうか。いつの間にか、私は部屋の岩壁にもたれて座り込んでいた。部屋の中には月光ではなく陽の光が差し込んでいる。少なくとも夜は明けているようだ。どうやら、何時間か眠りこけていたようだった。

 私は、この部屋に持ち込んだランタンとジンと睡眠薬を探した。確か、部屋の片隅に置いたはずだ‥‥‥。ああ、あった。いや、待てよ。

 昨夜使用したランタンに、まだ封も切っていないジンが一瓶、そして半ば以上は飲み干してしまったジンが一瓶。それはいい。だが、この時のために持ち込んだ、睡眠薬がたっぷりと入っていたはずの瓶が、すっかりと空になっているではないか。もちろん周りに薬がこぼれている跡もない。昨晩、私が飲んだのだろうか、いやいや、当然のことながら致死量ははるかに超える量だし、仮に死ななかったとしても、一晩どころか、月まで行って帰ってくるまでぐっすり、ぐらいの量はあったのだ。

 いや、よく見ると、その睡眠薬が入っていた瓶には何かが入っているようだ。なんだろう、はっきりとはしないが、白色と言うか黄色と言うか、透明であったガラスに色がついている・・・・・・。

 もっとよく見ようと、その瓶を目の前に持ってきた私の視界の端に、あるものが映った。なんだ、あれは、ランタン? 昨日使ったランタンは手元にある、あのランタンは、まさか、あのときのものか?

 そのとき、私は思いだした。彼女が最後に付け加えた一言を。

 

「あんたはもう立派な月の民だよ。大丈夫、どこにいても誇りを持って生きな。あたしは月で待っている。大好きなあんたを待っているから」

 

 私は、手に持っていた瓶をじっと見つめた。

 しばらく考えめぐらした後で、私はその瓶だけをもって、洞窟の出口へと向かうことにした。ジンはもう必要ない。

 なに、私の周囲に存在する悩みが、突然魔法のように解決するわけなどない。それらは、これからも私を悩ませ続けるだろう。だが、私は、できるだけの努力はすることに決めたのだ。なぜなら、私は誇り高き月の民だから。できるだけのことをして、できなくてもいい。自らの生をきっちりと全うすれば、月に還れるではないか。もう一度彼女に会った時に、できるだけのことはやったよと胸を張って言えれば、それで十分ではないか。そしてそれを言うためならば、頑張れる気がするのだ。

 それに、たとえ疲れたとしても、いつでもこの瓶を見れば誇りを取り戻すことが出来る。なぜなら、この瓶には月の光とあの歌が詰まっているのだから。