昭和19年5月。
南の海からやってきた初夏の風が、鮮やかな新緑をまとった山々の間を通り抜けていく。木々がざわざわっと身を震わした様子は、まるで南風に挨拶を送っているかのようだ。
ラクダのこぶのように隆起した尾根を越えて勢いづいた風は、キリンの網目模様のように区切られた田んぼの上を走っていく。代かきを終え満々と水を湛えている田んぼは、太陽の光をきらきらと反射させて南風を出迎えた。
南風は田植えの準備に忙しくしている農夫たちの頭の上を通り過ぎ、高台に建つ農家を目指す。俄かに生じた爽やかな風に人々は農作業の手を止めると、気持ちよさそうに額の汗をぬぐった。
農村の外れには細い川が流れている。その流れを見下ろすように山からせり出した高台の上には、一軒の農家が建っていた。
農家の庭先では、一人の若い女性が縁側に腰を下ろしていた。この家の嫁の民子である。民子の膝の上には、先ほど届けられた手紙が広げられていた。
民子はこの村の生まれではない。彼女が町からこの家に嫁に来て、約一年が経つ。嫁入りする前は農村での暮らしに不安もあった民子であったが、自然の中で暮らすことは、思いのほか彼女の性に合っていた。夫と義理の両親に教えられながら家業である米作りを行っているのだが、まだまだ体は慣れないものの、農作業はやってみると楽しかった。
ただ、農村での新しい暮らしの中で、彼女を悩ませるものが一つだけあった。
それは、幽霊。彼女は、幽霊が大嫌いだったのだ。
町中の実家は商店街の一角にある花屋で、決して大きな家ではなかった。彼女にとって田舎の家は広すぎて、いたるところにある暗がりに幽霊が潜んでいるような気がするのだった。また、この村には土葬の習慣が残っていることも、民子を怖がらせるのだった。
民子の夫は、年上の優しい人だった。幽霊を怖がる民子が、一人になることを避けたり、暗がりから目をそらそうとするたびに、「民子、安心しろ。幽霊なんていないよ」と、優しく勇気づけてくれたものだ。
しかし、その夫は、年が明けてすぐに兵隊にとられてしまった。
身重となっていた民子を残して出征しなければならなくなった夫は、彼女と生まれてくる我が子のことがどれほど心配であっただろうか。だが、そのようなことを、口にできる時代ではなかった。徴兵された者は御国の為に粉骨砕身することを誓い、送り出す者はしっかりと銃後を守ることを誓う、そうでなければいけない時代だったのだ。
それでも、夫は幽霊を怖がる民子のことが心配だった。
自分がいなくなると、この広い家からさらに人の気が減ってしまう。だが、怖がりの彼女を隣で励ましてやることは、もうできないのだ。
できることならば民子のそばに居て彼女を護ってやりたい。表には出さないものの、それが夫の本心であったのだろう。
最後に家の前で家族に見送られる際にも、夫は「家や両親のことを頼む。それに、生まれてくる子も含めて、皆健康に気を付けるように」と真面目な顔で述べた後で、民子の耳元に口を寄せて、「大丈夫だ。幽霊なんていないんだ。絶対にな」と念を押したのだった。
出征後も、夫は何通も手紙を書いて、民子を気遣ってくれた。徴兵されたとはいえ、即座に戦地に送られるわけではない。一定期間本土で兵隊としての訓練を受けるのだ。夫はその訓練地から、民子に宛てて手紙を送ってくれていたのだった。
手紙にはいつも、「自分は元気でいるから心配ない。日本男子としての本分を尽くす覚悟である。父母を大切にし家族全員の健康に気を付けてほしい」ということに加え、「幽霊などいないから、心配しないように」と、落ち着いた字で記されているのだった。
だが、いま民子が膝の上で広げている手紙は、いつものものとは様子が違っていた。
日付からすると、この手紙が書かれたのは数週間程前のようだ。
手紙には、部隊の訓練が終わり、戦場へ向かう日が決まったと綴られていた。いつどこへ向かうかは、機密であり言えない。だが、どこへ行くにしても、天皇陛下と御国のために力を尽くす。だから、民子も家をしっかりと守ってくれと、いつものように記されていた。
ただ、その後に記されていた内容が、いつもの手紙とは全く違ったものであったのだ。
なんとそこには、「幽霊はいる」と記されていたのだ。幽霊を怖がる民子を安心させるために、あれほど「幽霊はいない」と繰り返してきた夫が、どうしたことか「幽霊はいるのだ」と断言していたのだ。
手紙の後半を記す夫の字はいつもの整ったものではなく、ところどころが震えていて、そして、激しくうねってもいた。
「民子、私はこれまで君に幽霊などいないと言っていたが、あれは嘘だ。
幽霊はいるのだ。
主の皿を割って罰を受け、井戸に飛び込んだ女の幽霊もいる。それに、男に振られたことを苦にして、鴨居に縄をかけて首を吊った女の幽霊もいる。
そうだ、間違いなく、幽霊はいるのだ。いや、いなくてはならない。
だが、安心しろ。私が必ず君を護る。
これからどんな敵と戦うとしても見事これを打ち倒し、凱旋して君を護る。
もし、万が一、この命を天皇陛下と御国の為に捧げることになったとしても、心配するな。
その時には、幽霊となって祖国へ帰り、君を護ろう。
主に叱られた恨みよりも、男に振られた辛みよりも、私が君を、そして、まだ見ぬ我が子を護りたいという想いは、もっともっと強いのだ。それらとは比べられないほどに大きいのだ。
彼女らが恨みや辛みを力として幽霊になるのだから、私が君たちへの想いを力として幽霊になれぬはずがない。そうだろう?
だから、安心してほしい。私は必ず国へ帰り、君を護るから」
手紙を読み終えた民子は、しばらくの間、目をつぶりその手紙をぎゅっと胸に押し当てていた。それはまるで、そこに込められた夫の暖かな気持ちを、ゆっくりと肌で感じ取っているかのようだった。
バサァ、バフバフッ・・・・・・。
庭で干されていた洗濯物が大きな音を立てて、民子を現実に引き戻した。
海からの南風が、高台を駆け上がってきたのだ。その風は庭先を通り抜けると、大きく開け放たれた軒先から家の中へ入り、部屋の隅にこもっていた陰気な空気を外へ掃き出してしまった。
「ああぁあ、ああぁあ・・・・・・」
奥の方から、赤子の泣く声が起こった。数日前に生まれた民子の子であった。まだ体調の戻り切らない民子は、農作業に出ることを休んで家事を行っていたのだった。
「あらあら、お乳かしらね。あら・・・・・・」
布団の上で声を上げる赤児のところへやってきた民子は、赤子の枕元に見慣れぬ植物が転がっているのに気づいた。いくつもの赤い花が玉のような形に並んで咲き誇っている植物で、可愛らしい小さな花はやや反り返った花弁を持ち、鮮やかな緑色をした肉厚の葉に支えられていた。
「うちの庭で咲いている花ではないわね。紅弁慶、かしら。この強風でどこからか舞い込んだのかしら・・・・・・。ああ、ごめんね、いまお乳を上げますよ」
民子は、まだ慣れない様子で、慎重に我が子を抱き上げた。
義理の両親が農作業に出ているため、この家に残っているのは民子と赤子だけだ。今までであれば、薄暗い土間の隅や目の届かぬ奥の部屋などから、幽霊がこちらを見ているのではないかと、不安になるところだ。
だが、この爽やかな風のせいだろうか。それとも、夫からの手紙のおかげだろうか。あるいは、両腕の中に感じている大切な存在のためだろうか。
赤子に乳を含ませる今の民子には、幽霊を恐れる気持ちなど、まったくないのだった。
農家の中を走り抜けた南風は、裏山の竹林をざわめかせた後、大空へと駆け上がった。白い雲が薄く広がって、それを受け止めた。
五月の青空の中で、小さな赤い花が数輪、嬉しそうに舞いを踊っていた。
<了>