定刻。
照明が落とされたその一角は、上映直前の映画館内のように暗い。
そのスペースの奥側には、小劇場のような舞台があつらえられているが、その上は無人だ。ドライアイスによるものだろうか、どこからかうっすらとしたスモークが舞台上に流れ込んできて、静かに揺れている。
対面には三段のひな壇状になった仮設観客席が組まれている。舞台上とは対照的に、観客席は肩が触れ合うほどの近さで座った観客でいっぱいに埋まっている。観客は五十人ほどだろうか、そのほとんどを若者が占めているが、パラパラとその親世代の姿も見える。
最上段席の中央後部には男が立っていて、小型の動画撮影装置を堂々と舞台上に向けている。男はスタッフの一人なのだろうか、それを咎める者は誰もいない。
観客席最前列から一段高く作られている舞台の床材は黒色。背景にも黒色の幕が引かれているので、どこまでが舞台でどこからが壁なのか、暗闇に慣れぬ観客の目では判断が困難だ。
前触れもなく、パッと舞台上が明るく照らされる。
始まったのだ。
照明に浮かび上がったのは、せかせかと舞台の上を行ったり来たりしている男の姿。年の頃は五十歳前後に見える。モノトーンの長袖シャツにジーンズという格好だから、勤め先にいるのではないだろう。
決して広くはない舞台。観客席から男の他に見えるのは、近い位置に並べられている、腰掛にちょうどいい大きさの黒い箱二つだけだ。
「ああ、まずいっ。そろそろ、あの子がやって来る時間だ。父親に比べてあの子は真面目らしいからなぁ。時間通りにこの家にやって来るだろう。そして、きっとこういうんだ。『先生、宿題はできていますか』って。もちろん、僕は答えるさ。『いいや、できてない』って。うわぁっ。言いたくないっ! 怒られる、むっちゃ怒られるっ」
どうやら、男は自宅にいるようだ。だが、自宅でリラックスをしているどころか、ひどく焦っているようだ。頭を抱えてしゃがみ込む男。
男は、そのままでしばらく固まっているが、いきなり跳ね起きて叫ぶ。
「だけど、できてない! できてないったら、できてないっ! でも、仕方ないじゃないか。確かに長い間小説を書けてないけど、僕だって無駄に時間を潰してきたわけじゃないんだ。前回の打ち合わせで苦労の末に何とか締切りを猶予してもらってからも、どこにも遊びに行かずにずっとこの家に閉じこもっていたんだ。いっそ、恋愛小説が書けないなら他のジャンルが書けないかって、色々と考えてみたりもしたんだ。でも、何も思いつかない。書きたいことが何も見つからないんだ。やるだけはやったんだ。僕のせいじゃない、僕のせいじゃないぞ!」
男は部屋の椅子に見立てた箱に腰をかけたかと思うと、また、立ちあがる。どうにも落ち着かないのだ。舞台上手の端に行き客席の方を向くと、窓を開けて外の天気を確認する仕草をする。
「くそ、だめかあ。ひょっとしたらと思ってみたけど、なんとまぁ、綺麗な青空だこと。ああ、どこからか勢いよく黒雲が湧き出してきて、この青空を覆い尽してくれないかな。いやいや、贅沢は言わない。贅沢は敵だ。この一角だけでいい。ここだけに黒雲が湧いてくれればいい。空一面に広がるはずだった黒雲を、神様がその手でギュウッと握り固めて、この真上に置いてくれればいいんだ。おお、そうだ、その分厚い黒雲は、どれだけ激しい勢いで雨を降らすんだろう! あの子が『今日は爽やかな良い天気だわ』なんて能天気に歩いてきたら、道の先の方から何かが自分の方に押し寄せてくるのに気づくんだ。最初は蜃気楼のようにも思えたほどおぼろげだったそれは、瞬く間にその背丈を大きくする。爽やかなんてとんでもない。ブワッとあの子の顔にぶつかってきた風は湿度百パーセント、不快指数二百パーセントのものだ。『あれっ?』なんて思った時にはもう遅い。黒雲がこの一帯にもたらした超絶スーパー豪雨によって生じた都市津波があの子に襲い掛かるんだ。グバシャ! あの子の身長をはるかに超える高さの水の壁が、正面からぶつかる。まるで筒から押し出される心太のように、あの子は道路上を押し流されてここから遠ざけられていくんだ。イヤッホウ、さようなら、さようならー。お気をつけてー。大丈夫、神様が奇跡を持たらしたのはこの一角だけだから、電車は動いているからなっ。駅近くまで流されていったら、大人しく帰るんだぞっ。お疲れさ・・・・・・」
男が窓の外に向かって自分勝手な願望をぶちまけている間に、音もなく女が舞台下手に現れていた。
明るい色のサマーセーターと柔らかに広がるスカートを身に着けている若い女性で、そのいかにも元気な様子からは女子大生か入社して間もない新入社員と言うように見える。
実際には何も持っていないのだが、女はバッグでも下げているかのように左手を肩に添えている。男の声は女には届いていないようだ。
女が右手を身体の前に伸ばしてボタンをいくつか押すような仕草をするのと、男の台詞の最後の部分が重なる。
ピーンポーン・・・・・・。
呼び鈴の音が場内に響く。どうやら、女が押したボタンに連動して、男の部屋に呼び鈴の音が鳴ったようだ。
ビクッ。
半ば現実逃避のように願望を叫んでいた男は、呼び鈴の音で我に返る。舞台の袖にいる女は小首を傾げ、もう一度ボタンを押す。
ピンポーン・・・・・・。
ビクビクツ! 男は飛び上がらんばかりにして、驚きを表す。さらに、男は慌てて周りを見回す。どこかに隠れるところがないかと、探しているのだ。
「おかしいなぁ。今日私が来ることは会社から伝わっているはずなのに。もうっ。先生、せんせーいっ」
何度もボタンを押す女。
ピンポン、ピンポン、ピンポーン・・・・・・。
呼び鈴の音が鳴る度に、それに弾かれたように身体を動かす男。最後の呼び鈴の音が鳴りやむやいなや、舞台の奥へ走って受話器を取る仕草をする。
「駄目だ、このままじゃ呼び鈴の音に打ち倒される。部屋に入れてから、何とか追い返そう。・・・・・・、ああ、えーと、ミナミ君か。ゴメンゴメン。作業をしていたもんでね。いまエントランスのロックを開けるから、上がって来てくれ。部屋の鍵は開いているから、勝手に入って来ていいよ」
「良かったぁ。先生、ご自宅にいらっしゃったんですね。少し心配になっちゃいましたよ。わかりました。いまから伺いますね。よろしくおねがいしまーす」
女の方も男の声に応える。どうやら、女がボタンを押していた場所は、マンションのエントランスであったのだろう。男が受話器を置きながらボタンを押す仕草をする一方で、女は男が開錠して開くようになった自動ドアを抜けてマンションの中へと入っていく動作を行う。
男は舞台の中央から上手で、またもや頭を掻きむしりながら歩き回っている。女がマンションの自室に上がってくる間も、この窮地を脱する策を求めて頭をフル回転させているのだ。
舞台下手にいる女は歩く動作を止めて、中央の方を向く。どうやら男の自室の前にまで来たようだ。女は直ぐに男の部屋のドアを開けるのではなく、身体の左側のバッグから何かを取り出してじっと見つめると、それを胸に当てて呟く。
「やっと、先生に会えるよ。頑張って、パパのように先生との打ち合わせを前に進めるからね。応援していてね」
女には、何か心に期するものがあるのだろう。取り出した何かをカバンに戻しドアを開ける女の様子は、これまでの力が抜けた態度とは明確に違う。
ドアを開ける仕草をした後で一歩踏み出した女は、肩にかけていたカバンを床に置き、後ろを振り向いてドアのカギをかける演技をする。さらに、靴を脱いだ後で一度置いたカバンを手に取る演技をした女は、少しずつ舞台の中央へ進むが、まだ男からは離れたところで、奥へ呼び掛けるような声を出す。
男の家はマンションの一角ではあるが、ワンルームではなくてかなりの広さがある。玄関から男がいる部屋に入るには、廊下を進んで、さらに別のドアを開ける必要があるということを、男の部屋に入るのを待たずに玄関から奥の方へと声を掛ける演技で表しているのだ。
「先生、お疲れ様でーす。ミナミですー。どうですか、調子は。進んでますかー」
廊下を進みドアを開けるしぐさをしながら、いよいよ女が舞台の中ほどへ出てくる。男がいる部屋へと入って来たのだ。
女はさりげない様子で、男が腰かけている黒箱の近くにあったもう一つの黒箱を取り、少し離れたところへ移動させる。黒箱同士の距離感が広くなったことで、男の住むマンションの俯瞰から部屋の中へと、舞台上の空間がグッと絞り込まれたことを表す。
それまでは焦った様子で舞台の上を歩き回っていた男だが、女が入って来た時には、黒箱の一つに腰かけてパソコンのキーボードを一心不乱に叩く仕草をしている。仕事に集中しているというところを彼女に見せようというのだ。
男はわざとらしく一呼吸遅れてから舞台の中央に出て来た女の方に振り向く。その声からは、いままで見せていた焦りなど微塵も感じられない。
「いやぁ、ミナミくん。お疲れ様っ。呼び出しになかなか気が付かなくて、ごめんね。仕事に集中していたもので、ハハハッ。それにしても、悪かったね、わざわざ来てもらって。雨なんかに降られなかった?」
「え、雨ですか。いいえ、良いお天気でしたよ?」
「チッ」
突然天気の話を振られて怪訝な表情をする女に見えないように、男は観客席の方に顔を向けて軽く舌打ちをする。
「大丈夫です、お気遣いなく、です。いまは作家様と編集者の打ち合わせもオンラインが中心ですし、完成した原稿もデータでいただくので、我が社でも作家様と編集者が、担当はしているけど実際には一度も会ったことが無いということもあると先輩から聞きました。でも、先生とは毎回実際にお会いしないと良い打ち合わせにならないと、先代の担当、って私の父ですけど、も言ってましたから」
女は明るい調子で話をしながら、「これ差し入れですー」と左肩からバッグを降ろして、中から食べ物や飲み物などをテーブルに置く仕草をする。
男は女の様子を目で追いながら、感慨深げにつぶやく。
「お父さん、そんな事を言ってたのか」
「ええ、父と先生は学生時代からのお友達で、父が新人編集者となって初めて担当させていただいたのが、新人作家としてデビューしたてだった先生なんですよね。実はそれからずっと一緒にお仕事をさせていただきました。先生もご存じのとおり、母は私を産んだ時に亡くなりました。それで、ウチは父一人娘一人になってしまいました。小さな子供の頃はともかく、ある程度私が大きくなると、なかなか父娘の会話も少なくなりますよね。でも、小さな頃から私は先生にとてもかわいがっていただきましたし、こう言っては失礼になって申し訳ありませんが、言わば父と私の共通の友人の話として、家でも先生のことを良く話していたのです」
「確かに、君のお父さん、まぁ直人と呼ばせてもらうけど、直人との付き合いは、大学の時からだったから、相当長かったよ。・・・・・・直人が亡くなってから、もう五年なんだな」
「はい、もう五年になります。父が亡くなった時は、私はまだ学生でした、あの時には先生にも父の葬儀に参列いただいて、有難うございました」
少ししんみりした様子の男。女は黒箱から腰を浮かせると男に頭を下げる。
「生前、父は先生と一緒にお仕事できることを、本当に誇りに思っていました。あんなに素敵なストーリーを作り出す恋愛小説家は他にはいないって」
「そんな風に言われるのは嬉しいけど、その素敵なストーリーを作り出したのは僕の力だけじゃないよ。担当編集者の直人が、僕と一緒にいてくれたからだ。だから・・・・・・」
「・・・・・・だから、先生は父が亡くなってから書けなくなった。そうなんですよね? 会社の先輩から聞きました。父が亡くなった後に、他の編集者が先生と新作の打ち合わせを行ったんだけど、まったく上手くいかなかったって。大人気作家でいらっしゃる先生が新作を生み出すのを待っている読者はたくさんいますから、会社もすごく困っていました。そこへ、父のような編集者になりたいと私が入社したものですから、異例の人事ではありますが、先生の新たな担当編集者として抜擢されたわけです」
女の話を聞いて、男は呆れたような声を出す。
「直人とのコンビが長かったからね。彼が亡くなってから、他の編集者数人と打ち合わせをしたけど、誰ともうまくいかなかったことは認めるよ。とは言え、君のところの会社も思い切ったことをするよね。ミナミ君は新人だろう? いきなり、そんな難しい作家に付けなくても良いだろうに」
「いえいえ。そんな、先生が難しい作家だなんて、会社も思っていませんよ、ただ、こう言うことは、経験ももちろんあるけど、作家と編集者の相性というものも大事だから、父を通じて以前から少々面識がある私が適任だと考えたみたいです。それに、ベテランで数々のヒット作を書かれている先生のことですから、きっかけさえつかんでいただければ、至らない新人をつけても大丈夫、育てていただけると、信頼させていただいているんですよ」
「信頼ねぇ、そうおだてられてもなぁ」
頭の上で腕を組んで反り返る男。この話に乗り気でないことが全身から伝わってくる。
再び黒箱の上に腰を下ろしていた女はスッと立ちあがり、男に向かって深々と頭を下げる。
「先生っ。北田文明先生っ。私、父のことを尊敬していました。父のように立派な編集者になって、素敵な小説が世に出るお手伝いをしたいんです。それに、私は先生の書かれた小説を読んで育ちました。とても素敵な恋愛小説ばかりで、大好きです。不束者ではありますが、一生懸命頑張りますっ。対面で先生と父がどのように打ち合わせを進めていたのかはわかりませんが、下調べでもアイデア出しでも何でもやります。是非、先生が新作を書くお手伝いをさせてください。よろしくお願いしますっ!」
「そうは言ってもなぁ。知った顔相手だと、逆にやりにくいってことも・・・・・・」
「お願いっ、しますっ!」
乗り気でない態度を変えない男に対して、女は頭を下げたままで、お願いを続ける。
数秒の沈黙。
反り返って座ったままの男。立ちあがり深々と頭を下げたままの女。
さらに数秒の沈黙があった後で、男が大きなため息をつきながら、上半身を元の体勢に戻す。
「ああー、もう。仕方がないなぁ。・・・・・・やるかい?」
「はいっ。やりますっ。いいえ、やらせてくださいっ。お願いします!」
男の言葉の末尾を食い気味で、女の喜びの声が重なる。深々と下げられていた頭が勢いよく上げられると、満面の笑みを浮かべた顔が観客に露わになる。
そこで、スッと女は舞台奥の幕の方を向いて動きを止める。それと同時に男が立ちあがり、観客席頭上に向かって話し始める。舞台全体を照らしていた照明の明かりは絞られ、それが当たっているのは男のみになる。
これは、男が心情を吐露する場面なのだ。
「やれやれ、出版社から事前に連絡は来ていたし、ミナミ君の想いもわかるしな。実際にあったのは数えるほどだけど、直人を通じて彼女のことは昔から知っている。明るくて気持ちの切り替えが早いのはいいんだけど、一度自分でこうと決めたらてこでも動かない頑固者で困ると、直人がよくこぼしていたっけな。彼女の様子からすると、僕の担当編集者になることをここで断っても、決してあきらめないだろう。ああ、もうっ。仕方がない。ここは、いったん担当になることを受け入れた上で、彼女が自分からそれを辞めるようにしむけよう。新作の恋愛小説、か。期待してもらって悪いんだけど、おそらく僕にはもう、新作の恋愛小説は書けないだろう。それに、あのことだけは、絶対に彼女に知られないようにしないといけないからな」
舞台上の照明が元に戻り、女も男の方に向きなおる。
女は右手でそっと目じりを拭う。
男の心の動きの独白が終わり、再び舞台上の時間が動き出したのだ。
「さぁ、先生にも認めていただけましたので、さっそく打ち合わせに入りましょうっ!」
女は黒箱の上に腰を下ろすと、カバンからノートを取り出して膝の上に置く動作をする。右手にはペンを持っているようだ。顔はグッと男の方に突き出されている。その顔には、先ほどまでの緊張や懇願の様子は残っていない。
既に彼女は、男との打ち合わせに気持ちを切り替えているのだ。女の表情から伝わってくるのは、男の担当編集者として認められた喜びと、始めようとする打ち合わせへの意気込みだけだ。
「先日、オンラインで先輩編集者が先生とお話をさせていただいた時のことを、覚えてらっしゃいますか。新作のテーマや背景などを決めようとオンライン打ち合わせを始めたんだけど、まったく進まなかったそうですね。それで、やっぱり先生とは対面で打ち合わせをしないといけない。だけど、社の編集者の多くは複数の作家様を担当しているので、オンライン打ち合わせでないと回らない。改めて正式な新担当編集者を決めてご自宅に伺わせるので、それまでに新作のテーマや背景を決めておいてくださいと、お願いしていたはずです。『これは次回打ち合わせまでの宿題です』って」
「あ、ああ。そんな感じ・・・・・・、だったかな。ん、かな?」
「では、先生! 宿題の提出をお願いします! 新作はどのようなテーマや背景で恋愛小説を書かれますか!」
「いや、その、あの・・・・・・」
男はひどく困った様子で上を向く。期待に満ちたキラキラと輝く目を向けられても困るのだ。なにせ、宿題とされていた「新作のテーマ・背景決め」が、全くできていないのだから。
逃げ道を探すかのように、男は別の話題に誘導する。
「そ、そうだ。直人とは、そういうテーマや背景を事前にきっちり決めることをしていなかったんだけど、それは本当に必要なのかい。小説のアイデアを得る方法やそこからストーリーを練り上げる方法は、作家によって千差万別だろうに」
「そうですねぇ。先生がおっしゃるように、小説の書き方は作家様によって千差万別だと思います。大まかでもテーマや背景を決めてから書き始める方もいらっしゃるでしょうし、それを全く決めずに書き始められる方もいらっしゃると思います。でも、出版社、いやいや、編集者としては、それが前もってわかると非常にありがたいんです」
素直な性格なのだろう。女はあっさりと男の誘導に乗ってしまう。ペンの頭を口元に付けて、誰かから聞いたことを思い出すかのようにしながら、男に説明を行う。
「どこの世界もそうでしょうけど、出版業界も競争社会です。会社同士もそうですし、正直なことを申し上げると、同じ会社の編集者同士でも、ライバル意識がすごくあります。出版業界の特徴としてあげられるのが、『被り』に対する強い意識なんです。つまり、同じテーマや背景を持つ他の作品と出版時期が被らないようにすることが大事なんです。特に今はネット社会ですから、うっかり同じテーマや背景を持つ他作品の少し後に出版でもしたら、すぐに『パクリ』作品として炎上してしまいます」
「え、炎上? どうしてそうなるんだい?」
「想像していただけますか。例えばですけど、先生が京都の和菓子店を舞台にして、新しく入った女子大学生アルバイトと、二代目として店に呼び戻された元有名ホテルパティシエとの、甘酸っぱい恋愛小説を書かれたとします」
「なるほど、恋愛小説としては良くありそうな設定だね。それで?」
「先生が書かれた本の出版日の一か月前に、ライバル社がこんな作品を出版したとしたらどうでしょう? それは、神戸の洋菓子店が舞台で、新しく入った女子大学生アルバイトと、二代目として店に呼び戻された元有名ホテルパティシエとの、甘酸っぱい恋愛小説です」
「バツッ! 駄目だ!」
黒箱に腰かけながら、男は大きくのけ反る。ついでに、両手を大きく交差させてバツの形を作る。
「それは確かに駄目だな! どう見ても後から出版された僕の作品が、前に出版された作品をパクっているように見えるな」
「ええ・・・・・・。本当に他の作品をパクってチョコチョコと細部を変えただけの作品ならともかく、普通に小説を書くのには大きな労力と時間が必要です。それに、本と言う形にして全国の書店で発売するには、製本、装丁、それに、流通などにも、多くの方に関わっていただかなくてはいけません。短い時間で簡単に盗作など作れないんです。それでも・・・・・・」
「それでも、やっぱりそういう状況になると、盗作、パクリ作品として、炎上するんだ」
「はい、炎上案件になります。一度そうなってしまうと、やっぱり本の売れ行きに大きな影響が出てしまいます。そうなると、出版社の業績としても問題になりますが、なにより耐え難いのは、作家様や関係者の方々が精力を傾けて作り上げた本が、その不当に貼り付けられたレッテルによって、正当な評価を受けられなくなってしまうということです。残念ながら、そういう形で正当な評価を受けずに消えて言った作品が、過去に幾つもあったんです」
「新作の背景やテーマを前もって知りたいという理由はわかった。だけど、自分たちが作ろうとしている新作のそれがわかったとして、他社のそれがわからないと、被りを避けることができないんじゃないかい。それに、もしも被ることがわかったとしたら、どうしたらいいか・・・・・・」
「ええ」
女は深く頷く。明るい新人と言うよりは、訳知りのベテランとでも言うかのような仕草だ。
「ですから、出版業界と言うところは、情報の探り合いが激しく行われているところなんです。早い段階で他社の小説と被りそうだとわかれば、作家様にもう一度アイデアを練り直していただくことができます。あるいは、相手方にそれをお願いすることもできます。もちろん、借りができますから、どこかでそれを返さないといけませんが」
「貸し借りか・・・・・・。なんだか、怖いな」
「先生・・・・・・。仁義と信頼を欠いちゃ、この世界でやっていけませんよ・・・・・・。装丁や印刷を扱う会社も同様です。万が一、ライバル会社に情報を漏らしたり、出版予定日を急に変更したりでもしたら、もうこの世界じゃ生きていけませんぜ」
低く渋い声を出していた女は、自分の様子にハッと気が付いたかのようで、慌てて顔の前で手を振って明るい声に戻す。
「って、先輩が言ってました。先輩が。アハハハッ。え、と。そう言う訳でですね、先輩が先生に宿題を出させていただいていたんです。父は先生にそういうお話はしていませんでしたか?」
「いや、そんな事情は初めて聞いたよ。それに、小説が形になって来てからはともかくとして、それを書き始める前から、直人とテーマや背景について相談することなんかなかったしなぁ」
「そうですかぁ」
女はガッカリとした様子で、ため息をつく。
「そうなんですよねぇ。もちろん、先ほども申したように、作家様それぞれで小説の書き方は異なるので、ひらめきや何かのきっかけを基に書き始める方は、前もってご相談することが難しいんですよねぇ。それがわかるのが後になればなるほど、対応が難しくなるんですけど・・・・・・」
「な、なんだか申し訳ないね。そうか、僕が知らないところで、相当直人に助けられていたんだな」
「先生?」
「何だい?」
「宿題ですけど?」
「・・・・・・ごめん」
「・・・・・・そうですよねぇー」
既にガックリと首を垂れていた女は、力が抜けたように身体を二つに折る。
だが、直ぐに女は上半身を起こすと、明るい声を出す。
「ま、仕方ないです! 先輩にも頼んで、できるだけ他社さんの情報をいただけるようにします。それで、もしも先生の新作発売時期が同テーマの他社作品と被りそうになったら、何とかします!」
「な、何とかって。新人の君に、いきなり他社に借りを作らせるのは申し訳ないよ」
「いえ、ご心配なくです。先生の新作に貢献できるならお安い御用です。他社の編集者さんにお願いして、作品の内容を変えてもらうか、発売日をずらしてもらうかしてもらいます。それができなければ・・・・・・」
「で、できなければ・・・・・・」
「こっそりと製本や流通の方に圧力をかけて、こちらの新作が先に出版されるようにします!」
女は自信ありげに話すが、男はそれで安心するどころか、むしろ心配が増したようだ。
「こ、こっそりとって、どうやるんだい? それに、そんなことをしたら相手の方が炎上して大問題になるんじゃ・・・・・・」
「せーんせい。大丈夫ですよ、大丈夫。作家様は知らずにいて下さって結構です。こーいうことはみーんな、わたしたち編集者に任せておいてください。ねっ? 作家様が執筆に集中できるようにするのも、私たち編集者の仕事ですから」
この上もなく無邪気で、穢れなど一点も無いような笑顔を浮かべて、女は小首をかしげて見せる。
またもや、舞台上の照明が男にだけ当たるように素早く変化し、女は後ろを向いて動きを止める。男の心情独白モードに入ったのだ。男は座ったままで観客席上部の空間に向かって叫ぶ。
「怖い、なんか怖いぞ、この子! 優秀なの? 優秀って言って良いの? 製本や流通業界に圧力をかけて、他社の新作よりもこっちの新作が早く出るようにするって、無茶苦茶遺恨を残さないか? それも、方法は僕が知らない方が良いなんて・・・・・・、まさか裏社会とでも繋がってるのか? とりあえずこの子が僕の担当編集者になることは了解しておいて、それからこの子が僕と仕事をするのが嫌になるようにし、自発的に担当を降りるように仕向けようと思ったけど、大丈夫かっ? 僕がなんだかんだと駄々をこねて仕事が進まなかったとして、それに対する反応が担当を降りる方ではなくて、僕にもっと厳しく当たって無理やりにでも仕事をさせる方に向かないか? いや、それどころか、僕に対しての単純な怒りとして爆発しないか? 思い込みが強いだけに、その反動も大きそうだ。僕がうんうんと唸りながら、ノートパソコンの前で固まっていると、後ろからそっと彼女が現れて、パソコンのモニターをパタンと閉じるんだ。『ど、どうしたんだい』って僕が聞いたら、彼女はこう言うだろう。『先生。それはこちらの台詞です。どうして書いていただけないんですか』って。もちろん、僕が新作の恋愛小説を書けない理由は、彼女には言えない。だから、何か適当な言い訳をしようとするんだけど、その一言も僕の口から出て行きはしないんだ。彼女の目が、その冷たい目が、まるで、これから捕食する蛙を見つめる蛇のような眼が、僕をすっかりと凍らしてしまうからだ。『先生・・・・・・。私、残念です』って、それが僕の聴く最後の言葉になるだろう。頬に触れる彼女の滑らかな指先が、僕が最後に感じた他者のぬくもりになるだろう。僕が・・・・・・」
「先生っ!」
「うわっ!」
いつ終わるともなく続く男の独白に、女の呼びかけが重なる。黒箱から腰を浮かせて驚く男。それと同時に、舞台上の全てに照明が当たるようになり、また、時間が動き始める。
「どうかされましたか。なんだか、ボーとされていたみたいですけど」
「は、はいっ! いや、うん、だ、大丈夫だ」
男は女との距離感を測りかねている様子だ。もう一方の女はと言うと、こちらはすっかりと自分のペースをつかんでいるようだ。
「宿題でお願いしていた、新作のテーマや背景決めはできていないんですよね? 残念ですけど、先ほども申し上げたように、作家様それぞれで小説の書き方は異なるので、それは仕方ないです。先生は、前もって材料を集めて自分の中で色々と検討を進め、そこから汲み取ったテーマや背景を基として、小説を書くタイプではないんですね。でも、先輩編集者や父と相談しながら構想を練っていくという方でもない」
女は新作の作成パターン一つ一つを宙に書くように、ペンを大きく動かす。
「普通に編集者と話をしながら、そこで出たアイデアを基に構想を練るのでしたら、オンラインでもできますものね。それに、作品の背景やテーマについて、執筆前に父と相談したことは無いと、先ほど先生がおっしゃってましたものね。あ、そうすると、先生はひらめき派ですか! 新作のアイデア出しなんてまったく意識せずに何気なく日常生活を送っていく中で、急に何かが自分の中に降りてくる。あるいは、フッと心に留まる何かに出会う。そして、それを基に自分の中で考えを進めて行って、新作のアイデアに昇華させる!」
求めていた答えに近づいていると手ごたえがあったのか、女の声が段々と力強くなっていく。最後には確信を持って断言するかのように、はっきりと言い切る。だが、すぐに弱々しい声を出してそれを否定する。
「いや、ダメですねぇ。そうじゃないんだ。だって、それじゃ、父が先生と対面で打ち合わせを行うことにこだわった意味が解らない。ひらめきを見つけるのに、対面の打ち合わせを前もって用意するなんて無いですもんねぇ・・・・・・」
自分が宙に書いた作成パターンを目で追っていた女は、キッと男の顔を正面から見つめると、問いかける。
「先生っ」
「は、いや、うん。何だい?」
「先生は、どのように作品についての発想を得ていらっしゃるのですか。オンラインでなくて対面でないといけなかったのは、どうしてなんですか?」
ここで、またもや、男の独白モードに入る。
「来たっ、来たぞっ! 本当のことはミナミ君には絶対に言えないから、適当に誤魔化して僕と新作を作るのは無理だと考えさせようと思ってたけど、そんなことをしたら僕が海に沈められることになりかねない。なんとか、このようにして直人と作品を作ってましたって納得させないと! えーと、えーと・・・・・・。あ、そうだっ。アレだっ! 僕と直人が遊びでやっていたアレなら、小説の構想を練っていたとも言える。それに、ミナミ君にやらせてみて、やっぱり自分では無理だと思わせることができるかもしれないぞっ!」
短い独白は終わり、すぐに舞台上の照明は元に戻る。
何か良いアイデアを思いついたのだろう。自信を取り戻した男は、ゆっくりとした口調で、女に語り掛ける。
「作品の発想か。そうだねぇ、作家たるもの、執筆をしていない日常生活の中でも常にアンテナを立てていて、何か心を震わせるものがないかと探しているものさ。もちろん、それで何かを見つけたとしても、それが直ぐに作品の基礎となるわけじゃない。幾つも幾つも、良いことも悪いことも、自分の気にかかったものを心の中に保存して置くんだよ。それは、多くの作家さんが行っていることだと思う」
「なるほど、打ち合わせの時に出てくる事柄だけが、小説の基になるわけではないということですね」
「そうだね。その心の中に集められた材料を組み合わせて小説のアイデアや作品の背景や設定にしていく作業を、一人でじっくりやるか、担当編集者との打ち合わせでやるかは、人によって分かれるのだと思う。もちろん、小説家なんて自由業だから、新作の構想を練る時間とはっきり定めていない時間、つまり、日常生活を送る中での意識の上でも無意識の中でも、ああでもないこうでもないと考えているものさ。そこで、何かの拍子にパシパシパシッと一気に材料が組み上がって、パンッと形あるアイデアになる瞬間がある。これを、ひらめきだとか降りて来たとか表現するんだろうね」
「それもわかります。ひらめきも潜在的な努力と準備があってこそなんですよね。それで、先生が父と行ってきた対面打ち合わせの方法とは・・・・・・」
「それは・・・・・・。知りたいかい、ミナミ君?」
「はい、先生・・・・・・。知りたいです」
誰かに聞かれるのを恐れるかのように、小さな声になる男。
それに合わせるかのように、女の声も小さくなる。
腰かけたままの二人は、前屈みになって顔を近づける。
突然、男が立ちあがると、いかにも芝居ぶった様子で胸を張って、大きな笑い声をあげる。
「アハハハハッ。知りたいか。知りたいのだな。ミナミ君」
突然の男の様子の変わり様に驚いて声も出ない様子の女は、座ったままで男の顔を見上げる。
その顔を満足げに見降ろしていた男は後ろへ下がると、ゆっくりと舞台上を往復しながら話を続ける。
「僕の執筆方法を知りたい、と。もちろん、それはそうだろう。せめてその情報だけでも手に入れて帰らないと、君自身の安全にも問題が生じるかもしれないからなぁ」
「え、先生? 何をおっしゃっているんで・・・・・・」
女が漏らす戸惑いの言葉を、男の言葉が上書きする。
「だってそうだろうっ。君は編集経験のまったくない新人だが、僕との個人的なつながりがあるから、抜擢されて担当となったと言ったね。だけど、どうだい。さっき君が話していた、新作の発売を巡る出版業界の裏事情は。実に細かでセンシティブな内容だったよ。それだけに、このような疑問が浮かぶ。『新人編集者が、こんな業界裏事情を知り得るだろうか。それに、あんなに自信たっぷりに流通に圧力を掛けるだのと言えるだろうか』。答えは、そう、『できない』、だ」
「え、いえ、あの・・・・・・」
「だけど、僕を安心させるためかもしれないが、君はしゃべりすぎた。新作のテーマや背景を事前に知ることが、出版社にとってあんなに重要な事だとはね。確かに、それならばそういうことも必要になるだろう。ああ、僕が言っているのは、こう言うことだよ。君のように、ライバル社の作家の新作事情を盗み出そうとすることも、必要になるんだろう、てね」
「何をおっしゃっているのか、あの・・・・・・」
「君がどこで、今日僕の自宅で打ち合わせがあると聞きつけたのかは知らないが、初めて編集者として顔合わせをする時だったら入れ替われると踏んだんだね。君が知っているように、僕がミナミ君本人に最後に会ったのは彼女のお父さんの葬儀があった時だから、もう五年も前のことだしね。いやいや、大した度胸だ。ミナミ君本人には、会社の人間を装って打ち合わせ時間が遅れると、連絡をしておけば済む。そして、僕のところに時間通りに顔を出したんだね。確かに、僕が先にインターフォン越しにミナミ君と呼び掛けたんだった。それで、彼女の名前を知ったのかい。それとも、そこまで前もって調べていたのかい。いや、彼女の電話番号まで知っていたのだから、それは調査済みか。まあ良いよ。さぁ、聞こうか。君は、どこの、誰だい?」
まるで、推理小説の中で名探偵が登場人物全員を集めて推理を披露する場面であるかのように、男が舞台上を歩きながら朗々と自説を披露するのを、女は黙って聴いている。男が発する言葉の一つ一つが、ピシリピシリと女の身体を鞭打っているかのようだ。
「あ、あの・・・・・・」
女はどう答えていいか迷っているかのように、両腕で両肩を抱き寄せて小さくなる。やはり、男の鋭い目が、女の企みを暴いたのだろうか。一体、女はどのような罠を男に仕掛けていたのか。
だが、舞台上をゆっくりと歩いていた男は、その歩みを止めると、女に微笑みかける。
「なーんてね。ごめんね、ミナミ君。びっくりさせちゃったよね。大丈夫、君がミナミ君でない別の誰かなんて、疑ってやしないよ。実際に君の顔を見たことは少ないけど、前から君の話は直人を通じて聞いているし、そもそも、五年前とは言え、直人のお葬式で君と会っているしね。今日君の顔を見た時に、すぐにミナミ君だとわかったよ。実はね、君も知っていたかもしれないけど、君のお父さんと僕、つまり、直人と僕は、大学の同じ演劇サークルの出身なんだよ。だから、僕たちの打ち合わせは、いまやって見せたような、アドリブの打ち合いなんだ。相手の話にどんどんと乗っかって行って話を広げていくんだよ。そうしていると、いま僕がどういうものに興味があるか、どういうことを書きたいかが、自然と浮かび上がって来るんだ。もちろん、このアドリブの打ち合いは、言葉によるものだけではない。だって、演劇はセリフだけでなくて、身体の動きや視線の走らせ方でも、相手や観客に意図を伝えるものだからね」
女は男の顔を見上げる。
男の長い台詞を噛みしめるように注意して聞いていたが、途中で何かに気が付いたようで、勢いよく手を合せる。
「そう、そうなんだ。それが、僕と直人が対面での打ち合わせにこだわった理由だよ。そして、僕の担当編集者が直人でなければいけなかった理由でもある。だから、さっきは君のやる気に押されて僕の担当になることを了承してしまったけど、僕は直人とでないと新作を書くことは難しいんだ。ごめんね」
男が自分の態度についての説明に付け加えたのは、女が担当編集者になることへの断わりだった。
それがよほど残念だったのだろうか。女は顔を床に向け、肩を震わす。その様子を見て心配になった男は、女を慰めようと近づく。
「・・・・・・ふ、ふふ」
「ミナミ君?」
「ふふ、ふふふふ。あは。あはははっ」
「ど、どうした。ミナミ君?」
「あはっ、あーはははっ! 先生!」
膝に頭が付きそうなぐらいに上半身を折り曲げていた女が、バネで跳ね上がったかのように勢いよく立ち上がる。
女はいかにも得意げに笑いながら、正面から男の顔を見据える。
「ありがとうございます、先生! 私がミナミであることを信じていただいて!」
「えっ? どういうことだい? まさか、君はミナミ君でないのかい? 僕の大切な友人であり担当編集者であった真鍋直人の娘、真鍋ミナミではないのかい?」
先ほどとは逆に、今度狼狽えたのは、男の方だ。
「もちろん。私はミナミですよ。真鍋ミナミです。先生の担当編集者だった真鍋直人の娘です。五年前の父の葬儀の時には、先生にもお会いしています。先ほどお話したとおり、葬儀の時は学生だった私が、父のような編集者になりたいと卒業後に出版社に就職したのも事実です」
「だ、だったら・・・・・・」
今度相手の言葉に自分の言葉を被せるのは、女の番だ。
「ですけど、私が就職したのが父と同じ会社だと、どうしておわかりになるんですか、先生?」
「ええっ!」
「私が就職したのは、父とは別の出版社。出版業界というところでは、新作情報がとっても大事だってお話しましたよね。ぱったりと新作が出なくなったとは言え、先生は長年恋愛小説界の先頭を走っておられたお方です。その先生が新作を出されるとしたらそれは何時だ、その内容はどんなものだと、業界全体が注目しているんですよ。だから、私の上司から指示が出たんです。『父の後を継いで担当編集者になりたいと言えば、きっと先生は了承してくれるだろうから、上手に新作の情報を聞き出して来い』って。本来今日打ち合わせに来るはずだった先生の会社の方は、うちの会社の方でうまく誘導しとくからって。最初はこんなことがうまくいくか、すごくドキドキしていたんですけど、ちっとも疑われずに話が進んで、逆にびっくりしちゃいました。先生、本当に良い人過ぎです。フフフッ」
男は女の言っていることを上手く飲み込めないのか、ウロウロとその場を歩き回っている。
「まさか、そんな・・・・・・」
「でも、せっかく新作の情報が得られると思ったのに、残念です。もしも、それが得られたら、先生の新作が出版されるちょっと前に、同じテーマで書いた我が社の恋愛小説をぶつけてさしあげることができたのに! まぁ、良いです。大人気恋愛小説家であられる北田文明先生の秘密の創作方法が知れただけでも、手柄になるでしょう。ひょっとしたら、我が社の週刊誌編集部で尾ひれ腹びれをくっつけて活用してくれるかもしれませんしっ」
「き、き、君はっ! そそ、そんなこと、誰が、誰も! ゆりゅせないっ」
男は蒼白になった顔色を隠そうともせずに、女の前に立ち尽くす。怒りの為か混乱の為か、言葉がうまく出てこないようだ。
「うふふふふっ。あはは、はははっ・・・・・・・。・・・・・・す、すみませんっ、先生!」
女は調子良く高笑いを続ける。
しかし、男の狼狽する様子が想像以上だったのか、急に真顔に戻ると勢い良く頭を下げる。そのあまりに落差の大きい変貌ぶりに、男は戸惑うばかりだ。
「え、いや、止めてくれ。ミナミ君。週刊誌に情報を流すなんて、絶対に止めてくれ!」
「すみません、すみませんっ! 調子に乗りすぎました。嘘です、私が他の出版社の者だなんて、嘘です。あ、そうだ。ほら、これを見てください」
女は傍らに置いてあったカバンから何かを取り出して、それを男に見せる演技をする。
「ほら、見てください。父と私が一緒に写っている写真。それに、社員証です。ね、真鍋ミナミ、父と同じ出版社の社員でしょう? 大丈夫です、今日お話ししたことは、一言たりとも外部に漏らしたりしませんから。先生の担当編集者である、この真鍋ミナミを信じてください」
「た、確かに・・・・・・。うん、僕がお世話になっている、直人が務めていた出版社の社員証だ。それに、こうして見ると、ミナミ君は直人とよく似ているよ」
男は渡された社員証と写真をじっくり見て、確認をする。
ようやく、女が他社の社員でないことに納得できると、男の身体の震えも止まる。
社員証と写真を返して椅子に腰を下ろすと、男は女に説明を求めるが、その声は少し不満気だ。
「はい、これ。ミナミ君・・・・・・でいいんだよね。ミナミ君、どうして、あんな噓を言ったんだい。肝が冷えたよ」
「だって、先生が父とアドリブの掛け合いで創作の構想を練ってたとおっしゃるものですから・・・・・・」
女も椅子に腰を下ろし、カバンに社員証を戻す仕草をする。
男に応える女の声は、真剣な反省の色が半分、いたずら心の色が半分だ。
「え、まさか!」
「はい・・・・・・、私も先生や父と同じ大学、同じ演劇サークルの出身です。それで、先生のアドリブに乗っかって見ました・・・・・・」
「てへっ」という、年頃の女子に特徴的な、首をすくめて上目遣いで相手を見る仕草をして見せる女。
もちろん、それはそういう演技であり、さらに、それが演技であると男にわかるように、わざと大げさにしているのだ。
「ああ、そうか、そうだったのか。ああ、あはははっ。やられたよ、ミナミ君。やられた! はは、あははは、ははははっ」
額に手を当てて驚きを表す男。そして、男は笑い出す。
心配していた状況にならなくて安心した、ということもあるのだろう。嫌味の無い澄んだ笑い声だ。
しばらく、笑い続けた後で、男は女に語り掛ける。それは、とても優しい口調だ。
「ミナミ君、君は本当に父親の背中を追いかけているんだな」
「はい、そうですね・・・・・・。それに、こう言っては先生に阿る様になって返って失礼だと思って申し上げなかったのですが、私は先生の書かれる恋愛小説が本当に大好きなんです」
女も男の口調に合わせるかのように、落ち着いてゆっくりとした口調で話す。
「先生は数多くの作品を書いていらっしゃいます。作品によって舞台設定や登場人物設定は様々ですし、同じ方が書いたとは思えないほどそれぞれが趣向を凝らした物語になっています。でも、どの作品の根底にも人が人に対して持つ『愛情』が流れていることを、読んでいてはっきりと感じるんです。だから、どの作品を読んだ後も、心が温かくなったり、励まされたり、人に対して優しくしようと思えたり、とても前向きで幸せな気持ちになれるんです。もちろん、一生懸命に仕事に打ち込む父の姿に憧れる気持ちもありましたが、先生の書かれるような、人に幸せを与えたり楽しさを経験させたりする小説を世の中に伝える仕事に携わりたいと思って、編集者を志したんです」
「そのように言われると、作家冥利に尽きるよ。『愛情』か・・・・・・。僕の小説の根底にそれがあると感じてもらえるなんて、とても嬉しいよ・・・・・・。僕の方からも説明させてもらうと、僕と直人がお互いにアドリブの掛け合いをして、その中から小説を形作るアイデアを得ていたというのは、本当の話なんだよ。もちろん、あそこまで芝居じみてやる時ばっかりではないし、それだけで話の筋道ができる訳ではないけれど、いわば僕の小説は執筆者である僕と編集者である直人との共同作業で作られたものなんだ」
落ち着いた空気に満ちた舞台上。
そこで、前触れもなく男が立ちあがり観客席の方を向くのと同時に、照明が切り替わる。男の心情独白モードに入ったのだ。
これまでの独白モードよりも、さらに明度を落とされ範囲も絞られた照明が、男の身体に上部から当てられる。
「だからこそ、だ。いま言った意味でも、言わなかった意味でも、直人がいなくなったいま、僕はもう小説が書けないんだ。直人、どうして、死んでしまったんだ。僕を残して・・・・・・、直人・・・・・・」
「・・・・・・大丈夫だ・・・・・・」
「何がだよ、直人・・・・・・」
「お前は、書けるよ。大丈夫だ、文明」
男は誰か別の男と会話をしているようだ。いや、よく口元を見ると、男が自分でもう一人の男の声も発しているのがわかる。心の中で、男は直人と会話をしているのだ。
「書けないよ、直人! ミナミ君が言ったことを聞いていただろう。僕たちの作品の根底には『愛情』が流れているって。それは、そうだろう。僕が君と過ごした日々の中で感じた誰かを愛しいと思う気持ち、君と共に笑った喜び、そして、君と肌を交わした時に感じた満足感と安心感、それらが僕たちの作品の基礎なんだから。小説のテーマとなる感情の輝きは、君との恋の中から生まれていたんだから! それを物語と言う形にする一つの方法として、アドリブの掛け合いなんかをしたりはした。それは他の方法でも行えるかもしれない。だけど、直人がいなくなって恋が終わったいま、そもそものテーマを見つけられないんだよ」
「ふふんっ。文明は俺のことを忘れたのかい。・・・・・・それとも、嫌いにでもなった?」
「僕が直人のことを忘れるなんて、嫌いになるなんて、あるわけがないだろう! ここに、ここにっ」
涙声になりながら、激しく自分の胸を叩く男。
「直人はここに生きているんだからっ。君が僕の中から消えることなんてない。ああ、嘘だ、嘘だよ。僕の恋は終わってはいない。僕はいまでも君を愛しているんだからっ。だけど、書けない、書きたくない、書きたくないんだ。直人無しで書きたくないんだよ・・・・・・。僕には直人が必要なんだよ・・・・・・。ウウ・・・・・・。直人ぉ・・・・・・」
「・・・・・・文明。優しいな、文明。俺が死んでからも恋愛小説を書いたら、そもそも俺が不必要だったと認めることになると、思ったんだな。俺達の恋愛小説を守りたいと思ってくれてたんだな。だけど、そんなことは無いさ。書けるよ。むしろ、書いてくれ。俺のことを忘れていないなら、俺のことをまだ愛してくれているなら。俺とお前が過ごした日々の記憶がお前の中に生きているのなら、その証として書いてくれ。愛している、文明。俺たちの恋はまだ終わっていない、だから、大丈夫だ・・・・・・」
「直人、ああ、直人・・・・・・」
「大丈夫だ・・・・・・」
「先生、先生?」
「直人・・・・・・、うう・・・・・・」
「大丈夫だ・・・・・・。文明、大丈夫だ・・・・・・」
「大丈夫ですよ・・・・・・。先生、大丈夫です・・・・・・」
溢れ出る涙をどうにか抑えようと両手で顔を押さえながら、観客席の前で膝をつく男。
男の台詞の途中から、その間に女の声が割り込むようになる。そして、男の「大丈夫だ、文明、大丈夫だ」と言う声と、女の「大丈夫ですよ、先生、大丈夫です」の声は、完全に重なる。
男に当たる薄明りの外側から、そっと女の腕が差し込まれる。
照明の明度が上げられ、その範囲が舞台上に広がって行くと、膝をつく男の背中側に立った女が、後ろからそっと男の肩口を抱きしめている姿が浮かび上がる。
僅かな間をおいて、母親が子供に語り掛けるような優しい声で、女が話し出す。
「せーんせい。大丈夫ですよ。父がね、言ってました。先生は本当にすごい作家さんだって。大好きだって。仕事上でも、人間としても。それに、男と男としても」
「ミナミ君・・・・・・。って、ええっ!」
母親にあやされる子供のように女の声と身体に自分を預けていた男だったが、その最後の言葉に驚いて飛び退る。
「ちょっと、待ってくれ。君、知っていたのかい。僕と直人のことを!」
女の方は、男がそれだけ驚いたことに驚いたようだ。自分が両者の関係を知っていることは、当然男も知っていることだと思っていたからだ。
「ええっ。もちろん、知っていますよ。はい、子供の頃から、何度も父から聞かされていました。ご存じのように、母は私を産んだ時に亡くなっています。その後の父は、砕けて言い方をすれば、フリーですよね。父と先生がお付き合いを始めたのは、父がフリーになった後だと聞いていますから、不倫でも何でもないですし、まったく問題ないじゃないですか」
女の言葉を聞いて、男は大きく天を仰ぐ。
「僕と直人との関係を知ったら、きっとミナミ君が気を悪くするだろう、ひょっとしたら、尊敬していたお父さんのことを、別の目で見るようになるかもしれない。そう思っていたんだよ。君にだけは、僕たちのことを絶対に知られていけないと、ずっと緊張していたんだ!」
男の全身から急速に力が抜けていく。その様子を見た女は、慌てて言葉を繋げる。
「生前の父は、今日は先生とこんな楽しい時間を過ごしたって、いつも嬉しそうに話をしていました。父は私に対して、そのことを全く恥じたり隠したりしていなかったので、私がお二人の関係を知っていることは、先生もご存じのこととばっかり思っていました。でも、思い返すと、確かに父も外にそのことが漏れることが無いようにとは、気をつけていました。私にも、絶対に外でこの話をしないようにと、釘を刺していましたが。父から、よく言われたものです。『恋愛の多様性が認められる時代になったとは言うけれど、それを認めない人もまだまだ多いからなぁ。俺は先生の負担になりたくないんだ』って」
「そうか・・・・・・。僕が態度を明確にしていなかったから、直人に気を使わせていたのかもしれないな。僕が直人を思う気持ちに嘘偽りはない。確かに、それを認めない人が僕の小説から離れることがあるかもしれないけれど、それは僕が書く小説にその人を引き留めるだけの力が無かったんだと思うことができる。それを直人に、そして、世間に、もっと伝えていればよかったな」
男は黒箱に座り直すと、女に対して向き直る。
「ミナミ君。僕はね、大学時代から君のお父さん、直人のことが好きだった。同じ演劇サークルで活動をする中で、どんどんと心を惹かれていったんだ。だけど、学生時代の直人には彼女がいた。後に彼の妻となり、君のお母さんとなる女性だ。つまり、僕からすれば片想い、それも、ゲイの男性からゲイではない男性への全く見込みのない片想いだったんだ。でもね、人を愛するという気持ちは、とても大きな力を持っている。それは、異性に対する場合でも同性に対する場合でも変わらない。演劇サークルで脚本を書いていた僕は、大学を卒業して作家を目指すことを決めた。その時に僕の心の中にあった最も強い気持ちは直人への愛だった。だからさ、僕が恋愛小説を書いてコンクールへ応募したのは」
「父と先生が一緒にお仕事をするようになったのは、その後のことですね」
「そうだね。有難いことにコンクールで賞をもらうことができた僕は、恋愛小説家としてキャリアをスタートすることになった。その賞を主宰していた出版社に直人が就職していて、僕を担当してくれることになったんだ。もちろん、最初は先輩の編集者と一緒にだけどね。大学を卒業した後も、僕は友人として直人と連絡を取り合っていたし、心の奥底ではずっと直人のことを思い続けていたから、とても嬉しかったよ。だけど、コンクールの受賞作の次に、実質的な僕のプロ小説家デビュー作の構想を練っている頃に、直人は大学時代から付き合っていた彼女と結婚してしまう」
「それでですか! 先生の受賞作とその次の作品が、以降の作品と傾向が全く異なるのは! 始めの二作品は、とても切ない片想いがテーマになっていて、私の友達みんなが『どんな映画やアニメよりも泣ける』って言っていました。もちろん私もページをめくる度に涙を落とした一人ですが・・・・・・」
女は膝をポンと叩く。それを見た男は、恥ずかしそうに頭を掻く。
「ああ、そうだね。その二作品は、直人への片想いの気持ち、報われないけれども想わずにいられない気持ちを、基にしたものだからね。お陰様でその二作品は好評でね、『次の作品もその路線で行こうか』なんて、直人の先輩編集者さんは話していたっけ。だけど、その後に君が産まれ、そして、お母さん、つまり、直人の奥さんが亡くなった。直人は酷く悲しんでね、その落ち込み様は見ているこちらも辛くなるほどだった。僕は、ほら、元々直人に心を寄せていたし、少しでも彼の力になりたいと思ったんだ。正直に言うと、その気持ちが強くなったあまりに、彼に告白してしまったんだ。『君が好きだ。君の傍で支えてあげたいんだ」って」
「ありがとうございます。先生が傍にいてくれたことが、父にとってどれだけ助けになったことか!」
「そう言ってもらえるのはありがたいよ。直人が大変な時に告白をして、嬉しいことにそれを受け入れてもらえたけど、彼の辛い気持ちに付け込んだような気もして、悩んだ時期もあったんだよ。ただ、やがて直人も、僕と一緒に良い小説を世の中に届けようって、前向きな気持ちを取り戻してくれてね。直人の心意気を買った会社が、彼を僕の担当編集者に抜擢したんだ」
「それで、異色の若手コンビが誕生したという訳ですか」
「ああ。まだ赤ちゃんだった君が熱を出して保育所に預けられない時なんかは、直人は君を抱いて打ち合わせに来ていたよ。そうだ、僕もこうやって、おむつを着けた君をあやしていたんだよ」
「なんだか恥ずかしいです、先生・・・・・・。その話こそ、私が知ることの無いようにして欲しかったです・・・・・」
赤ちゃんを抱いてあやす真似をする男。それを見た女は、赤くなった頬を両手で包み、身体を小さくした。
和やかな雰囲気が場を満たし始める。しかし、女には気になることがあるようだ。上目遣いで男の顔色を窺うようにして、女は言葉を発する。その声は僅かに震えている。
「先生と父との恋愛。それが、先生の恋愛小説のテーマの源だった。だから、父が亡くなって以来、新作の発表が無くなったんですね。それじゃ、やっぱり・・・・・・」
「いや、書くよ。僕は、新作を書く」
もう男が完全に筆を折ってしまったではないかと心配する女の前で、男はこれまでにない明るい声で断言する。
「先生!」
力なく首を垂れていた女が、パッと顔をあげる。
「さっき、直人に怒られて気が付いたんだよ。確かに、直人は亡くなってしまった。だけど、僕が彼と過ごした日々の記憶は、感情の積み重ねは、この胸の中にあって消えることは無い。寝る前に一言でも良いから彼の声を聞きたい、彼のことを思うだけで胸がいっぱいになる、彼が他の人と楽しそうに話をしているのを見ただけで嫉妬してしまう自分が嫌い。ああ、そうだよ、どの気持ちも新鮮で、全く色褪せてはいない。僕は直人を愛している、この恋が続く限り、僕が小説のテーマに困ることは無いんだ!」
「先生、せんせぃ・・・・・・」
女の頬を涙が伝っているのは、新たな小説が紡がれることへの喜びか、それとも、男と父とが交わした愛情の驚くべき深さに、気持ちを動かされたためか。
微かな音で、子守歌のような優しい調べが、舞台上に流れてくる。
女が涙を拭い気持ちを落ち着かせるのを、優しい眼差しをした男はじっと待つ。
頃合いを見て男は、女に語り掛ける。
「ミナミ君。新作のテーマは、『最愛の人を亡くした男の絶望と再生』にしようと思う。良い作品を作るために、そして、それを読者の皆さんに届けるために、君の力を貸してくれるかい」
「も、もちろんです! 真鍋ミナミ、全力を尽くします! よろしくお願いします、先生!」
「うん、うん」
男の声も少し涙声になっている。
男は立ちあがって、女に右手を差し出す。
女も立ちあがると、その手を両手で取り、頭を下げる。
少しずつ、音楽の音量が大きくなってくる。
それに伴い、舞台全体を照らしている照明の明かりも、段々と薄暗くなっていく。
「先生、私、今日の打ち合わせで思いついたことがあるんです」
「えっと、そんなに具体的な話はしていなかったと思うけどな」
「あ、小説の構想ではないんです」
さらに大きくなる音楽。だが、まだ台詞の邪魔になるほどではない。
夕暮れのように薄ぼんやりとした舞台上。だが、まだ、演者の二人の動きは観客から見て取れる。
「先生とのアドリブの掛け合い、とっても楽しかったです。それと先生の父に対するお気持ち、とっても嬉しかったです。それで、思いついたんですけど・・・・・・」
音楽の音量はさらに大きくなる。
場内の照明もさらに落とされる。
観客は、目の前で行われている演劇が、正にいま終幕を迎えようとしていることを感じる。
「新作の販売・・・・・・で、・・・・・・みませんか。きっと・・・・・・、大きな・・・・・・・。・・・・・・いままでに無い・・・・・・」
「うわっ、すごいことを・・・・・・な、君は!」
「・・・・・・たくさんの・・・・・・、・・・・・・先生!」
「・・・・・・、・・・・・・」
「・・・・・・」
観客の感情を揺さぶる音楽の陰に、男と女の声は完全に隠れていく。
始まった時と同じように真っ暗となった舞台上に、男と女の姿は溶け込んで消える。
暗闇となった場内を、演劇の最後を飾る音楽が満たしていく。
そして。
音楽がパタリと止まったと同時に、場内の全ての明かりが灯る。
舞台の下手から男と女が現れる。
二人は舞台の中央で観客席に向かって真っすぐに立つと、朗々と声を上げる。そして、深々と頭を下げる。
「本日は! 真に、ありがとうございましたっ!」
観客が力いっぱいに叩く拍手の音で、場内は震えるほどになる。
長い間頭を下げていた男と女は、その拍手に元気づけられたかのように上半身を起こすと、顔を見合わせて笑い合う。この上もなく大きな喜びと、感じたことの無い安堵と、それに、隠しようもないほどの照れが、二人の顔に身体に現れている。
長く尾を引く拍手の中で、舞台の下手に新たな女が現れる。品の良いスーツを身に着け、右手にはマイクを、左手には一冊の書籍を持っている。落ち着いた身のこなしと自信に溢れた表情から、一目でプロの司会者だとわかる。
「会場にいらしゃった皆様、同時配信をご覧の皆様、本日は『北田文明ファンクラブ 最新作先行発売会』にご参加いただき、誠にありがとうございます」
再び湧き上がる拍手の中でも良く通る女の声。
先ほどまで舞台の上で演技をしていた男と女の声とは、まるで違う。
「それでは、改めてご紹介させていただきます。北田文明先生です」
舞台の袖から女が紹介したのは、中央に立っていた男だ。
男は再び大きく頭を下げる。
「そして、先生の担当編集者、秋風堂書房の真鍋ミナミさんです」
ピョコンッと音がするほど勢いよく、北田の傍らに立っていた女が最敬礼をする。
一斉に場内各所から沸き立つ、拍手、拍手、歓声、そして、拍手。
司会の女は進行を急がずに、北田と真鍋が手を振ったり会釈したりして観客と喜びを分かち合う時間を取る。
北田と真鍋が舞台の上手から奥へ入り、ようやく拍手がおさまったのを頃合いとして、女は左手に持っていた書籍を胸元に示し、観客にその表紙を明らかにする。
場内から起きるどよめき。
おおよそ六年ぶりの北田文明の新刊だが、事前に公表された情報が極めて少なく、ここに集ったファンクラブ会員にさえも、題名すら明らかにされていなかったのだ。
「皆様、お待たせいたしました。これより、隣の会場で北田先生の新刊先行発売を開始いたします。また、配信をご覧になっているファンクラブ会員の方におかれましては、クラブ公式サイトから会員限定先行発売で電子書籍をご購入していただけますので、是非ともよろしくお願いいたします」
司会の女の案内と同時に、会場後方の大きな引き戸がザァッと開かれる。出口の向こう側には書籍が積まれたテーブルが並べられているのが、振り返った観客の目に入る。
一刻も早く新刊を手にしたいと、急いで立ち上がろうとする観客たち。
足早に、舞台上手から中央に男が出て来る。
北田だ。
照明も当たらない舞台の上から、北田はファンに向かって大声で語り掛ける。
「皆さん、今日は本当にありがとうございます。つたない演技でご紹介したように、新作の、いや、僕の書く全ての恋愛小説のテーマは、僕と担当編集者であった直人との恋愛から得ています。皆さんにどう思われるかが怖くて、僕はそれを公表できないでいました。だけど、ここで僕ははっきりと皆さんにお伝えしたいと思います。異性同士とか同性同士とか、そう言うことではなくて、北田文明は人が人を愛する気持ちを大切にして、これからも恋愛小説を書いていきたいと思います」
丁寧に深々と頭を下げる北田。
我先にと出口へ向かおうとしていたファンの足が止まる。
パチ、パチ、とまばらに起こった拍手が、瞬く間に波のようにうねる拍手となる。それは大きな音ではあったが、激しさではなく温かさを感じさせる拍手の波であった。
新人編集者真鍋ミナミが企画した新刊先行発売会から、季節が一巡りした。
北田は、アイボリーのジャケットニットにジーンズというラフなスタイルで、街を歩いていた。特に目的があるわけではない。強いて言えば、陽の光を浴び、外の空気を吸うことで、自分に刺激を与えているのだ。
あの先行発売会の内容は、数日後に出版社の公式サイトを通じて一般に公開され、世間に大きな反響を呼んだ。
なにしろ、著者と担当編集者が、自らの役割をファンの前で演じて見せたのだ。この前代未聞の演出は、両者が学生演劇サークル出身であったことから、ミナミが思いついたものだった。
そこで現わされたのは、人気恋愛小説家であった北田が近年新作を発表できなかった理由。さらには、北田の小説の基となっていたのが、彼と男性編集者との恋愛であったという事実。それらを記者会見のような形で発表すれば、何か悪いことをしているみたいだし、インタビューやエッセイで取り上げるのは味気なさすぎる。
演劇と言う形をとることで北田の気持ちを皆に十分に伝える。さらには、それを新作の販売促進に利用する。これらも、ミナミの思い付きによるものだった。
真鍋ミナミの思惑は当たった。
これまで恋愛小説に興味が無かった人までが北田の新刊を手に取り、多くの人が彼の作品の魅力を知ることとなったのだ。
北田の新刊は、これまでの彼が発表した作品の中で、最も多く版を重ねるものとなった。
晩秋の風が吹く。
北田の足元で、黄色く色づいた葉が音を立てる。
ついこの間までは日陰を伝って歩いていた自分が、知らず知らずのうちに日なたを探していることに、北田は気づく。
歩道の少し先では、信号待ちをしている人が、数人ずつの塊を作っている。
北田は足を止めると、ジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、電話を掛けた。
「ミナミ君、いま良いかい? ちょっと、思いついたことがあってさ。今度打ち合わせの時間を貰えないかな。ああ、もちろん。打ち合わせは対面に決まってるさ」
(了)