(これまでのあらすじ)
月の巫女である竹姫と、その乳兄弟である羽磋。月の巫女としてではなく、素の自分の居場所が欲しいと頑張る竹姫に、羽磋は「輝夜」(かぐや)の名を贈り、自分が輝夜を望むところに連れて行くと約束します。それは二人だけの秘密でした。しかし、大砂嵐から身を守るために月の巫女の力を使った竹姫(輝夜姫)は、その大事な秘密を忘れてしまいます。月の巫女はその力を使った代償として自らの記憶・経験を失い、最悪の場合は、その存在が消えてしまうのです。それを知った羽磋は、輝夜姫が無事に生を全うして月に還ることができる方法を探すため、肸頓族の阿部の元へと旅立ったのでした。
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【竹姫】(たけひめ)【輝夜姫】(かぐやひめ) 月の巫女とも呼ばれる少女。人々からは「竹姫」と呼ばれる。羽磋に「輝夜」(かぐや)という名を贈られるが、それは二人だけの秘密。
【羽磋】(うさ) 竹姫の乳兄弟の少年。貴霜(くしゃん)族の有望な若者として肸頓(きっとん)族へ出されることとなった。大伴の息子。幼名は「羽」(う)。
【翁】(おきな) 貴霜族の讃岐村の長老。夢に導かれて竹姫を拾い育てた。本名は造麻呂。
【大伴】(おおとも) 羽の父。貴霜族の若者頭で遊牧隊の隊長。少年の頃は伴(とも)と呼ばれていた。
【阿部】(あべ) 大伴の先輩で良き理解者。肸頓族の族長。片足を戦争で失っている。
【小野】(おの) 阿部の信頼する部下。片足を失くした阿部に代わっ
て、交易隊を率いている。小野と言う名前だが、30代の立派な成人。
【御門】(みかど) 月の民の単于(王)。
【冒頓】(ぼくとつ) 烏達渓谷の戦いで大敗した匈奴が月の民へ差し出した人質。匈奴の単于の息子。小野の交易隊で護衛隊長をしている。
【苑】(えん) 匈奴から冒頓に付き従ってきた従者の息子。成人していないので、親しいものからは「小苑」(しょうえん)と呼ばれる。
【王花】(おうか) 野盗の女頭目
【王柔】(おうじゅう) 王花の盗賊団の一人。交易隊の案内人。
【理亜】(りあ) 王柔が案内をしていた交易隊が連れていた奴隷の少女。
【第308話】
もう羽磋は、自分の指一本でさえ、自由に動かすことができなくなっていました。
なんとか話を続けようと開いていた口から、意味のある言葉を出すこともできません。それどころか、呼吸をすることさえも困難になっています。
どうしてこうなってしまったのか、もちろん羽磋にはわかっています。でも、原因である恐ろしい眼球を、目を閉じて見ないようにすることもできないのです。
羽磋は、目前に浮かぶ巨大な眼球の表面で、「無」へと繋がっている黒い瞳孔がどんどんと大きくなる様を、ただ見つめ続けるしかありませんでした。
ふと、羽磋は確信しました。「あの瞳孔に自分は吸い込まれて消えてしまうのだ」と。
そう思った瞬間、羽磋の肩に重く圧し掛かっていたものが、まるで始めからそのようなものはなかったかのように、消えてしまいました。また、身体を自分の意志で動かせないもどかしさも、無くなりました。
羽磋の身体全体から、すうっと力が抜けました。彼は、抗うことを止めてしまったのでした。
だって、あの眼球の前面の大部分を占めるようになる迄大きくなった瞳孔に、もうすぐ自分は吸い込まれて消えてしまうのですから、これ以上、どうにかして声を絞り出そうと喉に力を入れることもないのです。自分を押しつぶそうとする重圧に、全力を振り絞って耐えることも無いのです。
「ああ、ここまで本当にしんどかった。でも、ここで終わったら、もう頑張らなくていいんだよな。そうしたら、きっと楽になれる・・・・・・」
羽磋は心の中で、誰にともなく呟きました。
羽磋の目は開いているものの、彼の瞳が写したもので彼の意識にまで届いているものは何もありませんでした。羽磋は自分の思い浮かべた世界にすっかりと没入していたのです。ただ、まるで深夜にオアシスの水の中へ飛び込んだかのように、その世界は真っ暗でした。羽磋は何も見えず何も聞こえないその中で、身体の力を抜いて揺蕩っているのでした。
「どうしたっ! 答えろっ!」
雷が岩山の頂上に落ちた時のような激しく震える怒鳴り声が、羽磋の暗い意識世界全体を揺らしました。その声はとても大きな力を持っていたので、内に意識を向けていた羽磋も流石に意識せずにはいられませんでした。
暗闇に身を委ねながら、羽磋は思いました。
「うわっ、あの球体、母を待つ少女のお母さんも、すごく怒っている。だけど、無理だよ、どれだけ上手く言葉にしようとしても、ちっともしゃべれやしない。これじゃ、あんなに怒っているお母さんを説得するなんて、とてもできやしない。こんなに大事な時なのに・・・・・・。駄目だ、いくら頑張っても、駄目だ。ああ、早く俺をその瞳の中心に巣食う無の中に吸い込んで楽にしてくれよ・・・・・・」
「駄目だよっ!」
「ああ、本当にそうだ。俺は駄目な男だよ」
「違う! 羽は、羽磋は、駄目な男なんかじゃないっ。諦めたら駄目だよって言ってるのっ! 羽磋は、こんなところで終わる人じゃないよっ」
「はいはい、竹は、いやいや、輝夜はそう言うけどさ。俺だって・・・・・・・、って、ん? いま、俺は何を言った。輝夜・・・・・・、そうだ、輝夜!」
羽磋は自分の口から出た言葉に、自分自身で驚いていました。「輝夜」、そう、確かに「輝夜」の名を自分は呟いていました。それに、輝夜姫の声もどこからか聞こえてきていたような気がします。一体どこから彼女の声が聞こえてきたのでしょうか。この地下世界に輝夜姫がいるはずもないのに・・・・・・。
「輝夜・・・・・・」
暗闇と化した自意識の中を漂っていた羽磋は、その大切な名前を、心を込めてもう一度呟きました。
すると、どうでしょうか。
彼の胸の中心がジワッと温かくなったかと思うと、そこに朝日のように鮮やかな光が生まれ、次の瞬間には周囲にパァッと広がったのです。その光は、羽磋の意識の中を満たしていた無力感と諦めと言う闇を、あっという間に追い出してしまいました。
「輝夜、ああ、そうだ。輝夜! 確かに、俺はこんなところで終わるわけにはいかないんだ。お前と一緒に世界を見て回るんだからな。そして最後には、一緒に月に還るんだからなっ」
頑張ることを諦めて身体から力を抜いてしまった羽磋は、もうどこにもいません。自分の心の中に逃げ込もうとしていた羽磋は、しっかりと現実の世界に意識を向けられるようになっていました。
彼の目には光が、背筋には力が戻っています。
羽磋は拳をグッと握りました。彼の両手は固く握られ、そこに意志と力が込められました。
動きます。羽磋の身体は彼の意志に沿って動きます。しかも、彼の身体は、それを喜んでいるかのようです。
羽磋の目に映るものと言えば・・・・・・、外殻の破れた個所から幾つもの青色の煙を吹き出している、傷ついた濃青色の球体です。先ほどまで羽磋を飲み込もうとしていた、巨大な眼球の姿など、そのどこにも見当たりません。
羽磋には、もうわかっていました。
先ほどまで自分が見ていたものは、自分が自分に見せていた幻影だったのです。自分たちを深く疑っている「母を待つ少女」の母親に上手に事情を説明して、なんとしてでもその協力を得なければいけない。そう思えば思うほど声が出なくなってしまうのですが、ここで自分が上手に話さなければすべてがお終いになってしまうという重圧も、焦れば焦るほど増々大きくなっていくのでした。とうとう、羽磋はその重圧から逃れるために、そうです、楽になるために、自分で自分にそのようなものを見せてしまったのでした。