コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】タワーマンションのショウコウキ

 

 

 (出囃子)

 ドンドン、パン。

 ドドドン、パンッ。

 ドンドン、パン。

 ドドドン、パンッ。

 ピー。ピーヒャラリー・・・・・・。

 

 ひょろりと背の高い男が、白髪交じりの頭を揺らしながら、ゆっくりと舞台に上がって来る。細身の体つきと和服がどうにも馴染んでいないような印象を受けるのだが、不思議なことに、一度彼が高座に置かれた平台の奥に座ると、昔から彼の事を知っているような親しみを覚える。

 出囃子の音がどんどんと小さくなり最後に消えてなくなると、男は口を開いた。その声はとても穏やかでのんびりとしたものだった。

 

 

 えー、くにんでございます。

 「エレベーター」をテーマにした当アンソロジー、力作・名作の数々をお楽しみのところと思いますが、やはり、人間には休憩も必要でございます。そこで、この辺りで肩の力を抜いた私の小話をお楽しみいただきたく思います。

 あぁ、アンソロジーはまだまだ続きますから、お手洗いに行きたい方はお気になさらずこのタイミングでお願いいたしますね。

 

 さて、この「NEMURENU」とも「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー」とも呼ばれるアンソロジーでございますが、主宰ムラサキさんのとてつもないご尽力のお陰で、前号で第四十八号を数えることとなりました。ひと月に一号が纏められておりましたので、前号で四周年を迎えたということでございます。

 一口に四周年と申しましたが、これは大変長い期間でございます。もちろん、このアンソロジーが始まった時に生まれたお子さんは四歳になっているわけです。どこまでも広いこの世界のどこかには、ひょっとしたらアンソロジーに掲載された一編を親御さんから読み聴かされて育ったお子さんもいらっしゃるかもしれません。NEMURENUの薫陶を受けて育ったお子さんが成長して、やがて自分の物語を創作するようになる。さらに、その作品がこのアンソロジーに掲載される。このようなことになれば、私としてはこの上もなく幸せでございます。いやぁ、ムラサキさんには、まだまだ頑張っていただきたいですね。

 なに、最近のお子さんは小さなころから電子機器に親しんでいらっしゃいます。ムラサキさんにもう四年ほど頑張っていただければ、NEMURENUチルドレンが八歳になりますから、彼らが作った作品を読むことも十分に可能なのではないでしょうか。え、「簡単にもう四年頑張れなんて言うな、四年はとても長いと言ったはずじゃないか」ですって? はて、私、そんなことを申しましたかしら。

 

 アンソロジーと言えば、様々な方が精魂を込めて創作された小説や詩等の作品を取り纏めたもので、そこにはたくさんの方々の人生や思いが集合住宅のようにギュッと集約されております。四年分、四十八号分の作品が積み重なっているNEMURENUとは、アンソロジー界のタワーマンションとさえ言えましょう。

 そのタワーマンションに無くてはならないものと言えば・・・・・・、そうです。エレベーターです! タワーマンションは、その名の通り塔のように高い建物であり、中には何十階建てのものもあります。高層階へ上がるにしてもそこから降りるにしても、エレベーターを使わなければとても無理です。言い換えるならば、タワーマンションでもっとも人々が利用し通過する場所は、玄関口とこのエレベーターになります。また、玄関口では開放されている場所を通り過ぎるだけなのですが、エレベーターでは一定時間狭い空間に閉じ込められることになりますから、タワーマンションの中で住民の方々が一番交わる場所はエレベーターであると言えるかと思います。

 さあ、うまく当月のお題に繋がりました。

 今月のくにんのお話の舞台は、タワーマンションのエレベーターでございます。

 

 (くにん、持っていた扇子で平台を叩く)

 パン!

 

 そのタワーマンションは、ある特急の停車駅に新興住宅地が造成された際に建てられたもので、竣工から既に二十年以上が過ぎた新しいとは言い難いものです。それでも、それは都内に通勤する人にとって便利が良いところに建っておりましたから、新築当初から現在に至るまで、常にほぼすべての部屋が埋まっていました。

 そのマンションには、エレベーターが全部で六台設置されておりました。ところが、マンションの構内案内図には、六台のエレベーターのうち一台の箇所にだけ、「ショウコウキ」とカタカナで上書きがされているのでございます。確かに「エレベーター」を日本語に訳すと「昇降機」になるのでしょうが、案内図に日本語表記を添えたいのであれば、特定のエレベーターの箇所にだけでなく六台全ての箇所に書くべきでしょう。

 実は六台のエレベーターのうち一台にだけ「ショウコウキ」と上書きがされているのには、ある出来事が関係しているのでありました。

 それは、今から幾らか時間を遡ったころのお話でございます。

 

 パン、パパンパンッ!

 

 ある晩のことでございます。

 まだ梅雨入り前ではあったのですが、湿気が高くジメジメとした夜でございました。

 年の頃は四十前後とみられる女性が一人、マンションの入口からエレベーターホールに小走りで入ってまいりました。この方はマンションの中層階に住んでいらっしゃる井上由紀子さんで、スーツ姿の肩からは通勤に使ってらっしゃるバッグを下げ、両手にはコンビニの袋を持っていらっしゃいました。

「あー、もう。今日はホントに遅くなっちゃたなぁ。理沙たち、お腹空かしているだろうな。秀人なんか寝ちゃってるかも。今日はもうコンビニ弁当で我慢してもらおう。ていうか、子供らはこっちの方が喜ぶんだよね。ママとしてはちょっと複雑な感じがするなぁ」

 この由紀子さんは共働きをしてらっしゃるのですが、御主人は現在単身赴任で家を空けていらっしゃいます。お子さんはお二人で、いつもはもう少し早い時間に帰宅してご自分で晩御飯を準備されるのですが、今日はお仕事が長引いたために遅い時間の帰宅となってしまったのでした。どうやら由紀子さんが両手に持っているビニール袋には、コンビニで買ったお弁当などが入っているようです。

 由紀子さんは、コンビニの袋をまとめて左手に持ち替えると、右手でエレベーターのボタンを押します。タワーマンションのエレベーターは移動する階数が多いですから、一階に降りてくるまでに少し時間が掛かります。エレベーターの現在地を示す表示を目で追いながら、由紀子さんはじっと待ちました。その間にエレベーターホールに入ってくる人はありませんでした。夏至近くの太陽が没してからずいぶんと時間が経っていたので、マンションの外は真っ暗でした。

 ビュイイ・・・・・・。

 ようやく一階に到着したエレベーターが、扉を開きました。とても遅い時間でしたから、もちろん中から降りてくる人は誰もおりませんでした。由紀子さんは軽くため息をつくと中に乗り込み、自分の家がある階のボタンを押しました。スフゥッとエレベーターの扉が閉まろうとしたその時、急に扉の動きが止まったかと思うと、それは再び開いていきました。エレベーターの扉が閉まりきる直前に、外から誰かがボタンを押したのです。

「ハァッ、ハアアッ。ハアアッ」

 息を弾ませながらエレベーターの中に入ってきたのは、枯れ枝のようにやせ細った男でした。白髪交じりの髪は側頭部に少ししか残っておらず、エレベーターの天井部分の照明が汗の浮かんだ頭頂部に映り込んでいました。

 男は由紀子さんをじろりとにらむと、エレベーター操作パネルの高層階を示すボタンを押しました。その指先は激しく震えていました。

 タワーマンションには多くの人が住んでいるとはいえ、通勤通学の時間や日常生活のサイクルが近い人同士は、このエレベーターの中で顔見知りになっていきます。でも、由紀子さんがその男を見たのは、これが初めてでした。

「なに、この人。ちょっと普通じゃない気がする。なんだか怖いな」

 何かに興奮しているかのような男の激しい息遣いからかも知れません。あるいは、上半身にはぶかぶかのポロシャツを被り、下半身には明らかにサイズが大きすぎる綿パンツをベルトで無理やり縛り付けた、その恰好からかも知れません。とにかく、由紀子さんは、その男に恐怖心を覚えました。「エレベーターの中でこの男と二人きりになりたくない」、そのような思いが突然大きくなった由紀子さんは、子供たちのために早く帰らなければと考えていたことなどすっかりと忘れて、エレベーターを出るために足を動かそうとしました。でも、それよりも早くに、エレベーターの扉は閉まってしまいました。男が高層階のボタンを押した後に、扉を閉めるボタンも素早く押していたからでした。

 イイイイィ・・・・・・ン。

 エレベーターは、二人を乗せたままで動き始めました。

 由紀子さんの背中に冷たい汗が流れました。由紀子さんは、自分でも意識しないうちに、エレベーターの奥の隅へ下がっていました。さらに、彼女はコンビニの袋を持った両手を身体の前に持ってきていて、自分はその陰に隠れようとするかのように小さくなっていました。

「どうしよう、どうしよう、どうしようっ」

 もしもこの男が危ない男であったなら、いったいどうしたら良いでしょうか。狭いエレベーターの中の事、逃げるところなどどこにもありません。非常ボタンはエレベーターの操作ボタンの横にありますから、自分で押すことはできません。ほとんどパニック状態に陥ってしまった由紀子さんは、助けになるものを探してエレベーターの中を必死で見回しました。

 天井パネル。壁。あれ、監視カメラってついているんだっけ? でも、カメラがあったって、すぐに助けに来てくれるわけじゃない。エレベーターの現在地表示。ああ、全然遅いよ、まだ、降りる階につかないよ、どうして? 車いすを使う人用の操作ボタン。エレベーター奥の鏡。エレベーター入口近くには変な男が立っている。きっと私が出て行かないように見張っているんだ。男の後ろ、操作パネルのすぐ近くには小さな男の子。え、男の子?

 由紀子さんは自分が目にしたものが信じられず、エレベーターの入り口近くをもう一度見直しました。

 間違いありません、老人の向こう側の壁際には小さな男の子が立っていました。見たところ四歳か五歳ぐらいのその子は、黄色いTシャツに黒の半ズボン、さらに、阪神タイガースの野球帽を身に付けておりました。子供はかなり目立つ格好をしているのですが、由紀子さんはその子がいつエレベーターに乗ってきたのか全く覚えていませんでした。まるで、人々が雨上がりの虹に気が付く時のように、「いつの間にかそれがそこにあった」ことに気が付いたのでした。

 でも、いま子供が立っているのはエレベーターの操作パネルの前で、そのすぐ後ろにはあの男が覆いかぶさるように立っています。とっさに由紀子さんは、「危ないよ、こっちにおいでっ」と子供に呼び掛けようとしました。

 ところが、由紀子さんは気が付いたのであります。子供を見下ろしている老人の顔に優しい笑顔が浮かんでいることに。そうです、子供と老人の関係はよくわかりませんが、あたかも自分の孫を見守っているかのように、老人はその子供のことを優しく見守っていたのでした。

 その瞬間に、由紀子さんが感じていたエレベーターの中の重苦しい雰囲気は無くなり、彼女が感じていた恐怖はパッと消えてしまいました。

 由紀子さんが緊張を解いてコンビニの袋を持ち直した時、エレベーターが彼女の降りる階に到着しました。一番奥にいた由紀子さんが老人と子供の前を会釈しながら降りようとすると、老人も会釈を返してくれました。老人は震える指先で由紀子さんのために扉を「開く」ボタンを押そうとしましたが、急にその手を止めました。あの子供が老人の傍からサッと駆け出して、車いすの人用のパネルにある「開く」ボタンを押していたからでした。自慢げに二人の方を振り返る子供の様子を見て、由紀子さんと老人は笑顔になるのでした。

 

 パン、パパンッ。

 

 さてさて、エレベーターを降りた由紀子さんは無事に家に帰り付きました。

 「あのご老人も、このマンションの人なんだわ。私がいつもと違う時間に帰ってきたから初めて見かけただけで、ホントは感じの良い人みたい。警戒しちゃって悪いことしちゃったかな」などと考えながら、家の中に入ります。

 井上家のリビングでは、長女で中学一年生の理沙さんと長男で小学一年生の秀人くんが、ソファーでくつろぎながらテレビを見ておりました。理沙さんに至っては、テレビを見ながら手元でスマートフォンも操っておりました。ドアが開く音で由紀子さんが帰って来たと察した二人は、玄関に向かって大きな声で「おかえりー、お腹すいたー」と呼び掛けるのでした。

 リビングに入って子供たちにコンビニ弁当を差し出しながらも、由紀子さんはまだエレベータの中でのことを考えていました。

「それにしても、さっきの子供は誰なんだろう。おじいさんのお孫さんかな。でも、一緒にエレベーターに乗ってきたようには見えなかったけどな。じゃぁ塾かなにかの帰り? いやぁ、あの子は秀人よりも小さいように見えたし、いくらなんでもそんな小さな子が一人で出歩く時間じゃないよねぇ」

 井上家ではコンビニ弁当の夕食は珍しいものですから、由紀子さんが予想したとおり子供たちはとても喜びました。それに、彼女の帰りが遅かったのでとてもお腹が空いていたのでしょう。子供たちは由紀子さんがテーブルに着くのも待たずに、さっさと食べ始めてしまいました。でも、流石はお姉ちゃんですね、すぐに長女の理沙さんが母親のボーとした様子に気が付いたのでした。

「どうしたの、ママ。なんかあった?」

「ああ、うん。あのね・・・・・・」

 由紀子さんは、理沙さんに先ほどの事を話しました。「エレベーターで知らない男の人と二人きりになって怖かった。だけど、いつの間にか小さな男の子が一緒に乗っていて、それに気が付いた時にその男の人も実は感じが良い人だとわかってホッとした」と。そして、その話の最後に、「でもあの男の子がいつの間にエレベーターに乗ってきたのか、全然気が付かなかったなぁ」と、付け加えました。

「ショウコウキだよ、それっ」

「え、ショウコウキ?」

「うん、そう。あれっ、知らないの、ママ」

 由紀子さんに返事をしたのは、理沙さんではなくて秀人くんでした。彼は口いっぱいにごはんを頬張りながら得意そうな顔で説明を続けました。

「あのね、ショウコウキはね、オニなんだよ。エべレーターのオニ。いつもあのエベレーターに出るの。だけど、トキドキしかでないんだよ。ボクもあったことあるよ、ね、お姉ちゃん」

「うん、そうだな。会ったことあるな、秀人。だけど、エレベーターな、エレベーター」

「え、え、ええっ。鬼、なの? いつも出るの? 時々出るの? ええっ? ママ、全然わからないんだけど」

「あー、えーと、ごめん、ママ。あとで説明するから、まずは食べさせてくれる? その間、秀人の相手よろしく」

 由紀子さんの困惑も、食べ盛りの子供の食欲には勝てません。由紀子さんが理沙さんから説明を聞くことができたのは、彼女が自分の弁当を平らげて食後のデザートのキウイフルーツを食べ終わった後でした。それまでの間由紀子さんは、「えっとえっと、さっきのはね、こういうことだったの」と前に進んだかと思えばと後ろに戻る調子で秀人くんが話す、どこまでが本当の事でどこまでが想像の事かよくわからない話で、我慢しなくてはなりませんでした。

 ただ、理沙さんの説明を聞いた後で、由紀子さんが完全に納得できたとは言えませんでした。それと言うのも、まぁ、子供にはありがちのことではございますが、晩ご飯を食べて落ち着いた理沙さんが、ショウコウキについて話をすることが面倒くさくなってしまったからでした。ですから、自分の部屋に行きたがる理沙さんからなんとか由紀子さんが聞けた話をまとめると、意外と短くまとめることができてしまうのでありました。

 つまり、こう言うことでございます。

 由紀子さんがエレベーターの中で見かけた男の子は、今年に入ってから現れるようになった。あの子がエレベーターに乗ってくるところや降りるところを見た人はおらず、あの子を見た人は全員、いつの間にかあの子が一緒に乗っていたと話す。おそらく、あの子は鬼か幽霊か物の怪みたいなもので、言葉は話さない。このマンションに設置されている六台のエレベーターの中であの子が現れるのは、由紀子さんが今日使ったあの一台のみ。他の五台には現れない。初めは子供の通学時間にポツポツと現れていたが、最近ではその時間帯はほぼ確実に現れるようになった。また、その他の時間帯にも多く現れるようになってきている。

 理沙さんの話を信じれば、あの男の子はエレベーターの中にスッと現れる幽霊のようなモノのようです。でも、この令和の時代にそんな事があり得るのでしょうか。それに、あの子が本当に幽霊か鬼だとしたら、呪われたり襲われたりする危険は無いのでしょうか。

「んー、大丈夫じゃない? ショウコウキだし? このマンションに住んでいるあたしの友達で、あの子を怖がっている子なんていないよ。秀人の友達もそうだし」

 次々と質問をしてくる由紀子さんの様子にすぐに部屋に帰ることをあきらめた理沙さんは、スマートフォンを手に取りました。由紀子さんの心配に答えるのも、ながら作業になりました。

 最近の若い方はスマートフォンを常に意識して生活されているようですから、理沙さんのこの様子にも由紀子さんは驚きませんでした。むしろ、由紀子さんが驚いたのは、エレベーターの中にいたあの子を「鬼か幽霊」と言っておきながら、理沙さんが全く怖がるそぶりを見せないところでした。由紀子さんもまだまだ若いつもりでいたのですが、自分の子供やその友達の感覚がもう信じられません。幽霊、いや、ショウコウキと呼ばれているからには鬼なのでしょうか、その様なものと一緒にエレベーターに乗って怖くないなんて。

「だって、怖いことされたことなんてないし。ママだって、今日は助けてもらったんじゃないの。良い子だよ、あの子。だから、ショウコウキって呼ばれるんだよ。ほら、本であるでしょ、『小公子』。あれとエレベーターの『昇降機』を、ひっかけてる訳」

「ショウコウキねぇ・・・・・・。なんか変な名前ね。誰が考えたんだろう?」

「それ、あたしだけど、ママ」

「うわっ、すごく良い感じの名前よねっ。よく考えられてる!」

「・・・・・・サイテー」

 びっくりするほど低い声で最後の一言を発すると、理沙さんは自室へ行ってしまいました。「しまったー」と由紀子さんは思いましたが、もう後の祭りです。彼女からそれ以上の話を聞くことはできなかったのでした。

 一方で、まだ小さい秀人くんはリビングに残り、「ショウコウキ、良い奴! ショウコウキ、良い奴!」と騒いでおります。

「それにしても、ショウコウキ・・・・・・、ねぇ・・・・・・」

 子供二人が話すその「名前」は、妙にあの小さな子に似合っているような気もしました。

人 間とは不思議なもので、動物にはもちろん、無生物の機械に対してさえも、名前を付けると愛着が沸くものでございます。由紀子さんもあの子供を思い浮かべながら「ショウコウキ」と言う名前を口にする度に、段々と恐ろしさが小さくなっていくのでした。

 

 パンッ。

 

 昔から、村や集落の四つ角にはお化けが立つと言われております。これは、四つ角、つまり、交差点は人通りが多いので、それだけ人々の想いが集まって来るという考えからでございます。もちろん、その想いには楽しいこともあれば哀しいこともあるでしょう。ただ、その想いが形となったお化けは、多くの場合人を驚かせるものとなってきました。

 見知らぬ多くの人々が一か所に集まって生活をしているという点で、タワーマンションは現在の村であり集落であるとも言えます。初めにも申しましたが、そこに住む人々が常に通る場所、つまり、四つ角に相当する場所こそが、エレベーターでございます。エレベーターの中にショウコウキのようなお化けが現れても不思議ではないのかもしれません。

 もっとも、その様に考えてショウコウキの存在をエレベーターのお化けとして受け入れたとしても、子供たちのようにそれに親しみを覚えるかどうかは別の問題でございます。むしろ、由紀子さんが始めに考えたように、それが住人に対して悪さを働くのではないかと考える人の方が自然ではないでしょうか。

 由紀子さんがショウコウキを見かけてから、ひと月ほど経ちました。

 そのひと月の間に、由紀子さんはエレベーターの中で何度かショウコウキに出会いました。子供たちから「怖いことはされない」と聞いていましたし、ショウコウキの幼い外見からも危険はなさそうに感じられましたから、由紀子さんの中から「ショウコウキは怖い化け物だ」という見方は無くなっていました。

 でも、たくさんの人がショウコウキを見かけるようになるに従って、やはり「なんだか訳のわからないモノがエレベーターの中にいる」、「怖い」、「何かあってからでは遅い、何とかして」という声が、住民の中からたくさん上がって参りました。

 始めにその声が届けられたのは、マンションのコンシェルジュでした。このコンシェルジュとは、まぁ、昔で言う管理人さんのようなものでございますね。住民の声を受けて共用部の管理をすることも彼らのお仕事の一つでございましたから、さっそく問題とされるエレベーターを調べ始めました。

 ところが、何度彼らがエレベーターに乗って調べても、ショウコウキと呼ばれる男の子は見つかりませんでした。エレベーターには防犯カメラも設置されていましたからその画像も調べてみたのですが、やはりショウコウキは見つかりませんでした。念のためエレベーター自体の緊急点検も行いましたが、もちろん問題は発見されませんでした。

 問題が見つからないことには、対処のしようもありません。

 ショウコウキのことを訴えた住人に対してコンシェルジュからは、「エレベーターを詳しく調べましたが特に異常な点はありませんでした。何か問題が生じましたら、遠慮なくお申し付け下さい」という返事しかありませんでした。

「何か問題があってからでは遅いんじゃっ! 住民を不安にさせる化け物め、ワシが退治してやるわい!」

 この事態に、勢いよく啖呵を切って立ち上がったのは、マンションの自治会長である薮野修二さんでした。薮野さんは数年前に勤め先を定年退職した後、みんなの役に立ちたいと自治会長に立候補した、とてもエネルギッシュなご老人でした。薮野老人自身はマンションの高層階にお住まいでしたが、ショウコウキが出るエレベーターとは違うものを主に使用していたので、これまでショウコウキを見たことはありませんでした。それでも、マンションの住民の中に不安を訴える人がいるわけですから、自治会長として対応しなければならないと決断したのでした。

 薮野会長は臨時の自治会を招集し、この問題の解決のために住民が一体となって動く必要性を熱く語りました。このマンションの自治会の役員は当番制でした。皆さん、それぞれ仕事や家の用事などをお持ちですから仕方のないことではございますけれども、正直に言って薮野会長ほどの熱意をもって自治会活動に当たっている人はおりませんでした。「こうしたらどうだ」と意見を出す人はおりませんでした。何故なら、その意見を言った人に実行役が回って来るからです。中身の伴わない会議が長々と続きました。そして、最後の最後にようやく決まったことと言えば、「この件は会長に一任しよう」と言うことだけでありました。

 自治会としてみんなで一斉に対策に動くことは叶いませんでしたが、奉仕の精神に燃える薮野会長にとっては自治会からの一任を貰えただけでも十分でした。さぁ、自治会に対応を任された薮野会長が取り組んだのは何だったのしょうか? それは、「お祓い」でございました。定番と言えば定番の対応ではありますが、奇をてらっても仕方がありませんからね。地元の神社にまとまった額の謝礼を包んでお願いをし、神主様にマンションまで来ていただいたのでした。

 ショウコウキはマンションの住人にしか見えないようですから、薮野会長は神主様と一緒にそのエレベーターに乗り込み、彼が現れたところでその場所を指さしてお祓いをしてもらおうと考えました。もちろん、ショウコウキがエレベーターの中で暴れることがあるかもしれませんから、お祓いをする際にはマンションの住人がそのエレベーターを使用することを禁止しました。

 ところが、お祓いを決行したその日、一階で薮野会長と神主様がエレベーターを待ち構えていたところ、いつまでたってもエレベーターが降りてこないのです。エレベーターが高層階から順番に下がってきていることは表示を見ればわかるのですが、それがニ階を示したところから全く動かなくなったのです。

「故障でしょうか、会長さん」

「いいえ、神主様。先日エレベーターの点検をしてもらったばかりですから、故障ではありません。お祓いを恐れているのです、奴が。これこそ、エレベーターに物の怪が取り付いている証拠っ、階段がありますから、二階へお願いしますっ! さぁ。早くっ!」

 困ったなという顔をしている神主様を叱咤激励して、薮野会長は非常階段を使って二階へと駆け上がりました。

 するとどうなったかは・・・・・・、まぁ、皆さんお分かりでございますよね。

 二階のエレベーターホールに駆け込んだ二人が見たものは、エレベーターが一階に到着したという表示でございました。

「このおおっ。神主様っ、下ですっ!」

 二人は再び非常階段に向かいます。息を切らせながら一階のエレベーターホールに戻ってきた二人が目にしたものは・・・・・・、エレベーターが高層階へと上がっていく表示でございました。

 まるで子供と鬼ごっこをしているようでございますが、当の二人にとってこれは遊びで はありません。ショウコウキに揶揄われているようにさえ思われます。二人は何度も非常階段を昇り降りしてエレベーターを追いかけました。でも、薮野会長もかなり年をお召しになられていますし、神主様も決して若くはなかったのでございます。最後には、二人は息も絶え絶えになって、一階のエレベーターホールに座り込んでしまうのでした。

 結局、薮野会長が考えていたような方法でショウコウキを祓うことは叶いませんでした。疲れ切ってしまった神主様は一階のエレベーターホールで閉まったままの扉に向かってお祓いをすると、タクシーを呼んで帰ってしまいました。

 神主様の御力が無かったためなのか、それとも、お祓いがされたときにエレベーター本体が一階から離れていたからなのかはわかりませんが、お祓い騒ぎが終わった後もショウコウキは現れ続けました。

 この事に対してすっかり頭に来てしまった薮野会長は改めて臨時自治会を招集し、今度はショウコウキに逃げられないように全ての階に神主様や霊能力者を配置してお祓いをすることを提案しました。

 「アイツはワシらを馬鹿にして好い気になっておりますが、今度はそうは行きません。アイツがどこに逃げようと、必ず祓ってやりますよ! ワシに任せてください! ハハ、ハハッ、アハハハッ!」と、高笑いです。

 ところが、集められた自治会役員の方々は渋い顔をしておりました。ここはタワーマンションです。会長はいったい何人の神主様や霊能力者を集めるつもりなのでしょうか。それに一体どれだけの費用をかけるつもりなのでしょうか。実際のところ、ショウコウキが現れてからだいぶん時間が経っていて、最初は気味悪く思っていた人もその存在に慣れてきていました。それに、ショウコウキによって怖い思いをした人や困り事に巻き込まれた人もおりません。むしろ、コンシェルジュがエレベーターの点検を行った時や薮野会長がお祓いを行ったりした時にエレベーターを使用できなかったことの方が、住人にとっては困り事になっていたのでした。会長が現実離れした提案をして前のめりになればなるほど、役員の気持ちは冷めていくのでした。

「会長、もういいのでは?」

「アハハ、ハハッ・・・・・・、ハア? いい、ですと?」

「ええ、一応お祓いもしてもらいましたし、これ以上はもういいですよ。これまで何も問題は起こっていないわけですし、エレベーターは六台ありますから、気になる人は違うものを利用すればいいんです。ねぇ、皆さん」

 予想外の意見に開いた口が塞がらないという顔をしている薮野会長の前で、次々と役員が頷いていきました。

「ちょ、ちょっと、皆さん、ちょっと待って・・・・・・」

「じゃあ、私が案内板に表示を出しときますよ、このエレベーターはショウコウキって」

「ありがとうございます、助かります。では、これで解散ということで」

「いや、待って皆さん、何かあったら・・・・・・」

「お疲れ様でしたー」

「ほんとに、お疲れ様でしたっ。もう、現役世代は仕事で忙しいんだから、会長のノリで俺たちを集めないでほしいよな、まったく」

「そうですよ、そうですよ。うちも子供の世話に両親の世話で、毎日忙しいんですっ」

 もはや薮野会長にその場をコントロールする力は残っていませんでした。参加していた役員は会長の言葉にはなんの興味も示さず、自分たちで結論を出すと三々五々自室へ帰っていくのでした。

 会議をしていた共有スペースには、薮野会長一人が残されました。その肩はがっくりと落とされていて、小柄な体がいつもよりもさらに小さく見えました。

 それでも、誰もが嫌がる自治会長に自ら名乗り出た方の精神力は、やはり一味違いました。

「・・・・・・今まで問題がなかった、だと。問題があってからじゃ遅いんじゃっ」

 ぽつりとつぶやいたかと思うと、次の瞬間には薮野会長は拳を握り締めて立ち上がっていました。

「そうじゃ、誰もがやらんならワシがやる。ワシがアイツを祓ってやるわいっ」

 誰もいなくなった部屋の中で吠える会長の目は、ギラギラと燃えておりました。

 次の日から、ショウコウキが現れるエレベーターに新たなモノが現れるようになりました。それは、白いTシャツと白いズボンを身に着けお札と破魔矢を手にした、薮野会長その人でした。

 薮野会長はショウコウキの姿を求めて、エレベーターに乗り続けました。当然マンションの住人は会長の姿を目にすることになるのですが、「おじいちゃん、頑張ってるなぁ」と言う、温かい、でも、積極的には関与しない態度をとり続けました。少々常識を逸脱しているような気はしますが、会長の行動が善意から出ていることは明らかですし、それで問題が生じているわけではありません。子供たちはショウコウキではなく会長の方を気味悪がっていたのですが、それを理由にして薮野会長の行動を止めさせようとする人もいませんでした。そこには、薮野さんのやる気を損なって面倒くさい会長役を辞められでもしたら自分たちが困るという、いわゆる大人の事情が働いておりました。

 その様な事情も知らない薮野会長は、一日のほとんどの時間をエレベーターの中で過ごすことにしたのですが、残念ながらショウコウキには出会うことはできないままでした。ただ、ショウコウキが完全にいなくなってしまったかと言うと、それは違いました。薮野会長がエレベーターに乗っていないときには、そこに乗っている誰も気が付かないうちに阪神タイガースの帽子を被り黄色いTシャツと黒い半ズボンを身に着けた男の子がスゥッとエレベーターの中に現れると言う不思議な現象が、相も変わらず続くのでございました。

 

 パンッ、パパアン。

 

 さてさて、こうして奇妙ではありますが一応は安定した状態が生まれたわけですが、やはりこのようなものは長続きしないものでございます。

 事件が起きたのは、会長が自分でお祓い活動を始めてからしばらく経ち、子供たちの学校が夏休みに入ったころでございました。

 中学校でバレーボール部に所属している理沙さんは、練習試合のために日曜日ではありましたが出かけていました。

 その日は朝からうだるような暑さで、太陽の下を五分も歩けば日差しに焼かれた皮膚がじんじんと痛むほどだったのですが、夕方になると急に様子が変わってきました。空の向こうに大きな白い雲がモクモクモクッっとわいてきたかと思うと、湿り気を帯びた風がビュビュビューンッと吹いてまいりました。あれほど空で輝いていた太陽は、あっという間に分厚い黒雲に隠されてしまいました。そして、ポツリポツリとお伺いを立てることもせずに、雨が、いきなりの雨が、バシャバシャバシャアッと勢いよく落ちてきました。

「ウワッ、すごい夕立だよ。参ったなぁ、お姉ちゃん、今日は試合だったから駅で解散になるはず。傘を持って行ってないから、迎えに行ってあげないといけないなぁ」

 窓ガラスを強く叩く雨音で夕立に気付いた由紀子さんは、慌ててスマートフォンで理沙さんにメールを送りました。駅から自宅までは十五分ほど歩かなければいけません。この激しい夕立の中を傘無しで歩かせるのはとてもかわいそうなので、「買い物ついでに車で迎えに行こうか」と理沙さんに聞いてみたところ、感激で震えるアニメキャラクターのスタンプで返事が送られてきました。

「よし、じゃあ、お姉ちゃんを車で迎えに行くよ。秀人も一緒においで」

「わかったー」

 傘やマイバックなどの最低限の用意をさっと整えると、二人はドアを開けて廊下にでました。

 その途端。

 ピカピカピカァッ。ドドドオオーン!

「ワッ、すごい!」

「わわわっ!」

 辺りが真っ白になったかと思うと、数拍の間をおいてやってきた轟音が他の全ての音を消し飛ばしました。

 マンションのすぐ近くに、雷が落ちたのでありました。

 風も強いものですから、横殴りに降る雨が廊下の中にまで入り込んできていました。雷にびっくりさせられたせいもあって、親子は急いで廊下を走り抜けてエレベーターホールに駆け込むと、ちょうど上階から降りてきたエレベーターに飛び乗りました。

「ハァハァッ。ハァハァッ」

「どうかされましたか」

「ウ、ウワァッ! って、会長さんですか。ハァ・・・・・・、びっくりさせないでください」

 エレベーターの中で膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す由紀子さん。その背中から低い声を掛けてきたのは・・・・・・、オリジナルの白装束を着てお札と破魔矢を持った薮野会長でした。会長は相変わらずショウコウキを祓うためにエレベーターに乗り続けていたのでした。ただ、あまりにも長い時間をそのお祓いに捧げてきたせいでしょうか、薮野会長の頬はゲッソリと削げ、その声は病人のそれのように弱々しく低いものに変わっていました。

「会長、相当にお疲れみたいだな。みんなのためという思いからだろうけど、そこまでしないといけないのかな」

 そのように思いながら会長に頭を下げ、由紀子さんは一階のボタンを押しました。秀人くんは由紀子さんの服の裾をぎゅっと握り、エレベーターの中でもっとも会長から離れたところへと、彼女を引っ張っていました。薮野会長がいるからでしょう。エレベーターの中にショウコウキはおりませんでした。

 エレベーター内には独特の静寂が満ちていました。

 ゆっくりと閉まる扉。

 ヒュイイ・・・・・・。身体の重さがキュイッと変わる奇妙な感覚がして、エレベーターが下がり始めま。

 ドブオッッ! ドオッ! オオッ! ・・・・・・ウウウンッウンッウンッ!

 ガタン、ゴキゴキン。シュウウウ・・・・・・。

「キャアアアアッ!」

「うわぁぁっ、ママァッ!」

 突然、これまでに聞いたことのないような猛烈な破裂音が、エレベーターのあらゆる壁から内部に響いてきました。

 窓のないエレベーターには稲光こそ入ってきませんが、間違いありません。このタワーマンションか、そうでなくともほんのすぐ近くに、雷が落ちたのです。

 その轟音がまだ耳の奥から去らないうちに、今度は違う異音がエレベーターから聞こえてきました。そして、エレベーターはガクンッと大きく震え、その動きを停止してしまいました。

 ジジ・・・・・・、パッ。ジジジ・・・・・・パッ。ジジジジ・・・・・・パツンッ。

 それだけではありません。エレベーター内部の照明も、何度か揺れるような点滅を繰り返した末に、消えてしまいました。

「ママァッ、怖いよ、ママァッ。うわ、うわあああん」

 恐怖のあまり、秀人くんは泣き出してしまいました。

 もちろん由紀子さんもこのような目に合うのは初めてでしたが、目の前で息子が怯えて泣いているのを見ると、彼の恐怖心を和らげてあげたいという気持ちで一杯になって、怖いと思う余裕はありませんでした

「だい、大丈夫だよ、秀人っ。雷で停電しただけだと思う。すごい雨だから、こんなこともあるよねっ。うん、大丈夫っ。えーと、ほら、たしか、そう、非常ボタンを押したら外に繋がるんじゃなかったけ。すみません、薮野会長、お近くの操作パネルに非常ボタンがありませんか」

 忙しく頭を働かせ、思いつくことを次々と言葉にする由紀子さん。彼女の言うとおり、エレベーターには非常ボタンが付いております。エレベーターの形式によりその機能は異なるのですが、いずれの場合も外部へ異常があったことを知らせることができます。それによって停電のために動かなくなったエレベーターがすぐに動くようにはならないとしても、外と繋がることができればずいぶんと気の持ちようが違ってきます。

 ところが、エレベーターの入り口近く、つまり、操作パネルの近くに立っていたはずの薮野会長は、いっこうに返事をしてくれません。

「どうしたんですか、非常ボタン、見つかりませんか?」

「・・・・・・・ぅ」

 暗闇の中で、由紀子さんはもう一度会長に呼び掛けました。でも、薮野会長はやはり返事をしてくれませんでした。

「非常ボタンは暗い所でもわかるようになっていると思ってたけど、そうじゃないのかしら」

 由紀子さんはギュッとしがみ付いている秀人くんを何とか身体から引き剝がすと、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出しました。そして、入り口と思われる方へスマートフォンを向けてライトを点灯させました。

「はい、会長、明かりで・・・・・・、キャアアアッ!」

 ライトの光で浮かび上がったモノのために大きな叫び声を上げた由紀子さん。彼女の手から滑り落ちたスマートフォンは床と接触して大きな音を立てたかと思うと、プツンと光を発することを止めてしまいました。

 彼女をこれほどまでに驚かせたのは、いったい何だったのでしょうか。

 雨。雷。これらは、古来より鬼が呼び寄せるモノとされております。ひょっとして、本性を現したショウコウキが薮野会長を襲っている姿でも、彼女は見てしまったのでしょうか。

 いいえ、由紀子さんが見たのはショウコウキではございませんでした。

 彼女が見たのは、胸を押さえながら苦しそうにうずくまっている薮野会長の姿でありました。

「会長、薮野会長! どうされましたっ、大丈夫ですか!」

「・・・・・・ぅう、胸が・・・・・・、痛い、ううううっ」

「会長? うわ、ひどい汗、しっかりっ」

「ママ、ママァ、うわあああん、あああん。どうしたの、怖いよ。ママッ。うわああん」

「ぐうう・・・・・・、あああ・・・・・・、いっ・・・・・・」

 真っ暗ではありましたが、そこはエレベーターと言う閉ざされた空間であります。由紀子さんはなんとか手探りで薮野会長の身体を探し当てました。初めに由紀子さんの手が触れたのは会長の頭でしたが、そこは激しい痛みのためににじみ出た脂汗でじっとりと濡れていました。

 由紀子さんはしっかりとした医療の知識など持ってはいませんでしたが、薮野会長の様子から心臓の発作を起こしたのだろうとの想像はつきました。でも、「しっかりしてください」と声を掛け背中をさする他に、どうすればいいのでしょうか。

 ゴオオオッ! ドウ、ドウウドンッ!

 またしても、雷の轟音がエレベーターを揺らしました。

 停電が解消される兆候は全くなく、エレベーターは一階に行くどころか、最寄りの階に向かって動くそぶりも見せません。天井の明かりは消えてしまったままで、エレベーター内は真っ暗のままです。

 バシンッ! ドウドウウ!

「ママァアッ。うわあああん、ああーんあああーん、嫌だ、嫌だぁ、ママァ!」

「ああ・・・・・・、い、痛いいいっ・・・・・・、ああ、ああああ」

ドオン・・・・・・。・・・・・・バシンッ! ウラァグラアンッ!

「痛い痛い痛い・・・・・・、おお、い、い、い・・・・・・」

 増々強くなる雷の音と振動。

 泣き叫ぶ息子の声。

 一刻も早く病院へ連れて行かなければならない病人と動かないエレベーター。

 ドオンッ。ママァ!

 痛い痛い、ドオオン、ママァ、怖いよぉ!

 ママッ、ママッ、痛い、ママァッ! ドン、ドオオン!

「いやあああっ、誰か、誰か助けてぇえっ!」

 追いつめられた由紀子さんは、これまでの人生で一度も出したことのない大声を出して、ここにはいない誰かに対して助けを求めたのでした。

 

 パン・・・・・・、パン・・・・・・、パパン。

 

 由紀子さんの声に呼ばれたのでしょうか。

 ぼんやりとした小さな明かりが一つ、エレベーターの片隅に生まれました。そしてそれは、水面に落ちた水滴が輪を広げるように滑らかに大きくなり、ほのかに光る繭のようになったかと思うと、強い光を一気に放ってパリンッと砕けました。

「ま、まぶし・・・・・・。え、えええっ」

 エレベーターの中に現れたのは、阪神タイガースの野球帽をかぶり黄色いTシャツと黒い半ズボンを身に着けたあの子供、ショウコウキでありました。

 ショウコウキの身体は月の光のような柔らかな光を放っていて、エレベーターの中がぼんやりと浮かび上がりました。彼は、泣いている秀人くん、そして、胸を押さえて苦悶の表情を浮かべている薮野会長を眺め、最後に、由紀子さんの顔を見つめました。

 シイイイイ・・・・・・。

 エレベーターが細かく振動し始めました。

 ショウコウキの顔や身体が放つ白い光が、段々と強くなってきました。

 ブワワブウウウウウウウウン。

 洗濯機が脱水をしているような音が、エレベーターの天井の更に上の方から響いてきました。

 ショウコウキの放つ光はさらに強くなり、とてもそれを見ていられなくなった由紀子さんは下を向いてしまいました。

 ガタアン、ゴゴオンッ。

 雷が落ちた時の鋭い破裂音ではなく、機械が動作する鈍く低い音がエレベーター内部に響きました。それと同時に、由紀子さんが見つめていた床の色が月の光の白色から、エレベーターの天井パネルが発する昼光色に切り替わりました。

「え、えええっ」

 急いで顔を上げた由紀子さん。

 でも、復活したエレベーターの明かりの下で彼女が見たものは、自分の胸に飛び込んできた秀人くんと操作盤の下で倒れ込んでいる薮野老人の姿だけ。確かに見たと思ったショウコウキの姿は、もうどこにもありませんでした。

「ショウコウキ、ショウコウキいたよね?」

 キョロキョロとエレベーター内を見回す由紀子さんの頭の向こうでは、エレベーターの現在位置を示す表示が確実に一階へと近づいて行っていたのでございました。

 

 パンパン、パンッ。

 

 あの恐ろしい雷雨の日から十日が経過しました。

 雷によって生じた停電はあの日のうちに復旧され、いまでは夜空に向かってそびえるタワーマンションの各部屋から、星々と競うかのように明るい光が漏れています。

 タワーマンションの中層階、井上家のリビングでは、夕食の後のデザートとしてモモを食べながら、由紀子さんと理沙さんがあの夜のことを振り返っていました。

「今日、薮野会長が退院されて、ご丁寧にうちに挨拶に来られたよ」

「へぇ、良かったね、元気になって。ママのお陰だね」

「止めてよ、何にもしてないよ、ママは。なんだかもう、ひたすら怖かっただけ」

「あの日は、急にママと連絡が取れなくなって、あたしもめちゃ焦ったよ」

「スマホを落としちゃったのよ、エレベーターの中で。停電が回復してからわかったんだけど、バッテリーが外れちゃってたから、受信もできなかったの。ごめんね」

「いいよ。仕方なかったよね、あの日は」

「ありがと・・・・・・」

 カーテンを透して夜空を見るかのような様子で窓の方を見ながら、由紀子さんは話を続けました。

「あの日から出なくなっちゃったね」

「うん、そうだね。あたしも秀人も見ていないし、友達もみんな見ていないって。消えちゃったのかな、ショウコウキ」

 由紀子さんは、あの雷雨の夜にエレベーターの中に現れたショウコウキの姿を思い浮かべていました。月の光のような白い輝きを全身から放つショウコウキ。その輝きが消えたと思った時、エレベーターは一階に到着していました。扉が開く前から大声でコンシェルジュに呼びかけた由紀子さんは、コンシェルジュがエレベーターホールに設置してあるAEDを薮野老人に使用している間に、受付の電話機から救急車を呼びました。「わかりました。すぐに向かいます」という消防隊の力強い言葉に安心し、エレベーターの中で泣き続けている秀人くんの所へ戻った時に、内部をもう一度見まわしたのですが、ショウコウキの姿どころか彼がそこにいたという痕跡も見つけられませんでした。

「ほんと、ママは何もしてないんだ・・・・・・。ショウコウキのお陰なんだよ、全部。ほんとに良いお化けだったんだね、あの子は」

「だから言ったじゃん、ショウコウキだから、大丈夫だって」

 一時はショウコウキの事を、「お化けだから鬼だから、やっぱり怖いモノなんじゃないか」と考えていた由紀子さんは、心の底から反省したように首をうなだれていました。反対に、ショウコウキの名付け親である理沙さんは、「それ見たことか」とばかりのどや顔をしておりました。

「あれ、そう言えば、前も言ってたね。その『ショウコウキだから大丈夫』って、いったい何なの」

「えー、わかんないかなぁ」

 理沙さんは、モモを一切れ口に含み、ニヤニヤと笑いました。そして、存分に親をじらしたあとで、得意満面の笑顔でこう続けたのでございました。

「だってさ。ショウコウキはエレベーターのお化けなんだから。軌道(みち)に外れた行いなんて、できるわけないでしょっ」

 

 深々と頭を下げるくにん。

 ゆっくりと立ち上がると、お囃子の音に送られて、舞台から下がっていく。

 

(受け囃子)

 トンタタトン。

 トトタンタン。

 ピーヒャーララー。

 リリ、リリリ、リリリー。

 トンタタタン、トトン、タタン。

 ピーヒャー・・・・・・。

                               (了)