コトゴトの散文

日常のコトゴトが題材の掌編小説や詩などの散文です。現在は「竹取物語」を遊牧民族の世界で再構築したジュブナイル小説「月の砂漠のかぐや姫」を執筆中です。また、短編小説集をBOOTHで発売しております。https://syuuhuudou.booth.pm/

【短編小説】完全犯罪って、ありますよね

 

 

「完全犯罪って、ありますよね」

 若い女性の口から出たその言葉は、極めてはっきりとした調子で話されていた。

 とても信じられない言葉だが、聞き間違いなどではない。

 僕は少し離れたところで窓の外を眺めていたが、驚きのあまり声の主の方に振り返らざるを得なかった。

 

     ◆◇◇◇

 

 探偵事務所の応接室では、男女が向かい合ってソファーに身を沈め、小さな声で言葉を交わしていた。

 男はこの探偵事務所の主で、名を諏訪部 涼魔という。まだ二十歳になるかならないかという青年であるが、小柄で線が細いためもっと若くに見える。磨き抜かれた黒檀のような美しい髪、切れ長な目から覗く不思議な光を湛えた双眸、鮮血を引いたように真っ赤で薄い唇を持つその容姿から、美少年と形容するのが彼には一番ふさわしいと思われる。モノトーンの衣装を好む彼は、今日も黒のズボンと白いシャツを身に着けている。

 自らの唇が持つ鮮やかな朱の他は一切の色彩を有しない男の前に座っているのは、彼よりは幾らか年上に見える若い女性だ。彼女が身に着けている服も黒いワンピースで、彼女の陶器のような滑らかで白い肌を引き立てている。銀でできたネックレスだろうか、胸元には小さな十字架が揺れている。また、きっちりと纏められた髪と形の良い額が、彼女の理知的な美しさを際立たせている。

 諏訪部の助手兼記録係としてこの探偵事務所に属する僕、高橋 泰は、彼女がこの事務所を訪れてきた時から、応接室の窓際に身を寄せていた。いつもであれば、探偵と依頼人の話には同席をするのが助手兼記録人である僕の役目なのだが、この時はそうした方が良いと思ったのだ。

 何故なら、コンコンコンッと静かにノッカーを鳴らした後に事務所の扉を開いた彼女は、探偵を見たとたんに微笑みながら「久しぶりね、涼魔さん」と呼び掛けたのだ。明らかに二人の間には以前からの誼があると思われた。そのため、これが事件の相談であったとしてもそうでなかったとしても、部外者の僕が同席しない方が良いと思ったのだ。探偵事務所の一番奥には事務室が設けられているのだが、そこに僕が立ち入ることを諏訪部は非常に嫌がっていて、事実上彼の個室となっていたから、そこに身をかわすこともできない。そのため、先ほどからこの応接室の窓際が僕の居場所となっていたというわけなのだ。

「どうでしょう、涼魔さん。完全犯罪って、ありませんか? あるのではないでしょうか?」

 事務室に入ってきたときの彼女の穏やかな様子やその背筋の伸びた上品な佇まいからはとても信じられない言葉であったが、やはり先ほど僕の耳に入ってきた言葉は聞き間違いではなかった。彼女は諏訪部の顔を正面から見ながら、しっかりとした言葉で再び問いを投げかけたのだった。

 諏訪部は自信家であり、冗談好きでもあり、気分屋でもあった。さらに、「自分の能力を発揮できるような興味深い事件が無い」と常に嘆いてもいた。そのため、いつもであれば、このような言葉を依頼人から掛けられたら、形のいい唇の端を少しだけ上げて「ふふっ」と笑い、「どうでしょう。有ると言えば有るし、無いと言えば無い。さて、どういう経緯でここにいらしたか、お聞かせ願いましょうか」と、依頼人にその先を話すように水を向けるところだ。

 ところが、どういう訳だか、この時の彼の反応は全く異なっていた。

 諏訪部は女性の興味を引くように意味深な発言をするのではなく、また、彼女の言葉の意味を聞き出そうとするのでもなく、瞬時にはっきりと、こう結論付けたのだった。

「ありません。貴方のおっしゃる完全犯罪など、この世界にはないのです。さぁ、智子さん、その様な考えは捨てて、ご自分の世界へお戻りなさい」

 多くの場合、探偵事務所を訪れる者から依頼を受けて探偵の仕事は始まる。つまり、探偵の仕事とは「依頼者の話を聞く仕事」とも言える。また、「依頼者の指示に従って調査をする仕事」とも言い換えることができる。だから、依頼者の話を強制的にその発端で終わらすようなこの「冷たい」対応は、極めて異例であった。

 果たして、智子さんと諏訪部に呼ばれた女性もその態度に不快感を覚えたのであろうか、それ以上は何も言わずにスッとソファーから立ち上がり、傍らに置いてあったハンドバックを取り上げると、事務所の出入口に向かって歩き始めたのだった。

 僕は慌てて帽子掛けから彼女の帽子を取ると、彼女にそれを渡すために駆け寄った。

 扉の前で僕から帽子を受け取った彼女は、一礼をすると事務所を出て行った。僕にはその頬に光るものがあるように見えたが、その瞳には涙とは別の強い輝きがあるようにも思えた。

 

     ◇◆◇◇

 

「どうしたんだい、諏訪部君。彼女、泣いていたように見えたぜ。きちんと話を聞いてあげればよかったのに」

 彼女が出て行った扉を閉めると、僕はソファーに座ったままの諏訪部に声を掛けた。それがいささか不機嫌な声であったのは、仕方がないだろう。詳細はわからないが困り事を抱えて相談に訪れた彼女を、冷たい態度で追い返した彼が悪い。僕は常に弱い立場の者の味方なのだ。

「ああ、そうだねぇ。高橋君は常に美しい女性の味方だからねぇ」

 諏訪部は憎まれ口を叩きながらテーブルの煙草入れから煙草を一本取り出した。慣れた手つきで火をつけたそれを口にくわえると、ソファーに足を汲んで座り直す。立ち昇る煙を追う彼の視線は、煙でない何かを見ているかのようにボンヤリとしていた。

 僕も探偵の隣に座り、煙草に火を点けた。

 緩やかに登っていく煙は、時間の経過を形にしているかのようだ。ゆらりゆらりと揺れながら、しかし、それは必ず流れ、最後には消える。その動かすことのできない真理を目の前にすると、小さな人間はかえって穏やかな気持ちになる。

 心を落ち着かせた僕は、耳に入ってきた話の中で気になっていたことを、諏訪部に尋ねた。

「ねぇ諏訪部君、僕の座っていたところにも聞こえて来たんだけれど、完全犯罪って何のことだい。如何にも君の好みそうな案件なのに、どうして詳しい話も聞かずに彼女を追い返すようなことをしたんだい」

「追い返す、ね。そうか、僕は追い返したか」

 彼はフウーと煙を宙に吐いた。

「下手に期待を持たさぬようにと思ってはっきりと言ったのだが、やれやれ、難しいね」

 探偵は煙が昇っていく様を見つめながら、話を続けた。それは半ば僕に説明しているようであり、半ばここにはいない誰かに話しているようでもあった。

「簡単に言うと、彼女はね、僕が昔に非常にお世話になった益川という方の娘さんだ。その益川さんが先日亡くなったことを伝えてくれたのだ」

「そうだったのか、それは残念なことだったね。お悔やみを言わせてもらうよ。しかし、君はいつも『自分が他人の世話をしてやることは有っても他人の世話になることは無い』というような顔でいるのに、世話になった人がいたんだな」

「酷いなぁ、僕にだって世話になった恩人ぐらいあるさ。この事務所にしたって益川さんの紹介で借りているのだし」

「ははあ、少し裏手とは言え、帝都の一等地に建つビルディングの一階にこうして事務室を構えていられるのには何か裏でもあるのかと思っていたが、そういうことがあったのか」

「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれたまえよ。不正なことは何もしていない。ただ、そうだな、彼はとても実直で人当たりが良い人でね、僕がなかなか持ち得なかったものをたくさん持っていた。それで、若き日の僕は助けられることがあったわけだ」

「ほう、天才の君にでも得るのに苦労したものがあったとは。興味があるな、それは何だい」

「信用、さ」

「ああ・・・・・・。成程・・・・・・」

 話が重苦しくなり過ぎないようにと冗談めかして聞いていた僕だが、この説明はその冗談の幕の下からスッと心の中に入り込んできた。「信用」、それは確かに、一朝一夕では得難いものだ。いまでも年若く見られる彼の事だから、過去には容姿のためにそれこそ子供のように扱われたこともあっただろう。それに「信用」とは、これまでの積み重ねとこれからの見通しの裏付けがあって得られるものだ。諏訪部の過去は助手の僕も知らないぐらいだし、このような仕事故に今後の見通しもはっきりとしない。彼の人知を超えたと言ってもいいような優れた頭脳で助けられた人にしても、その出来事には感謝するにしても、今後の彼について保証をすることはできない。むしろ、そのあまりにも飛び抜けた才能故に、助けられた人の中にも彼を怖がる人がいるぐらいだ。きっと若き日の彼が他人から「信用」を得るのは、相当難しかったことだろう。

 その様な状況の中で、その益川という人は特別な存在だったのだろう。この事務所を借りるには当然将来にしっかりとした見込みがある事が必要であっただろうから、その保証を彼に与えてくれたのだろう。いや、それだけではないのかも知れない。彼が若い頃の話と言うことだから、彼に必要だった「庇護」を与えてくれた存在であったかもしれない。あるいは・・・・・・。

「それでね、彼女が言うには、益川さんは殺されたのだそうだ」

「ええっ!」

 探偵の過去に想像を膨らませていた僕は、彼の言葉で一気に現実に引き戻された。

「まぁ、正確に言うと物理的に刃物や何かで殺されたわけではない。彼はハメられたのだそうだ、悪徳金貸しに。益川さんは事業家だったのだが、先の大震災の影響もあって急に運転資金が不足して、その金貸しから金を借りたそうだ。それが、まぁ、上手いというか酷いというか、ある意味優秀な奴らしくてね。巧妙に話を進められて多額の借金を背負い込むことになり、最後には行き詰ったそうだ」

「そうなのか、しかし、不正な金貸しなら返す必要はないんじゃないか」

「それが優秀な奴だというところさ。法律の隙間をついて上手くやられたらしく、契約は無効ではなかったのだそうだ。このまま借金を返せないでいると最後には会社がその金貸しの手に渡ってしまう。そんな奴に大事な社員のことを任すわけにはいかないと益川さんは考えただろう。それに、益川さんはとても真面目な方だったから、どんな事情があろうと借りたお金は返さないといけないと考えたのだそうだ」

 益川という人の事を思い出しているのだろう。諏訪部の口調は、優しくなる時もあれば悔しさを表す時もあった。

「智子さん、ああ、先ほどの女性の事だが、が言うには、数日前に益川さんは自ら命を絶ったそうだ。どういう契約になっていたのかまでは話してくれなかったが、そうすることで金貸しに借金の返済ができるだけの生命保険が組まれていたらしい。おそらくは、それにも金貸しが絡んでいたのだろうがね。智子さんは、父親譲りというか、とても正義感の強い人でね。相手を法が裁けぬというのであれば自らが裁くしかない、そのための良い方法がないか知りたいということで、ここに来たという訳なのだ」

「ああ、それで、完全犯罪なのか」

「そうだ。『その悪徳高利貸しのために泣かされている人は自分の他にもいると思います』と彼女は言った。それは、そうだろう。『だから、奴を法で裁けぬというのなら私が裁く。でも、そのために私が罰せられることは、父や家の名に泥を塗ることになり申し訳ない。それに、奴のために私の人生が狂わされるということ自体が、悔しい。だから、完全犯罪を行いたいと思うのです。完全犯罪はありますよね』と彼女は言ったのだ。突拍子のないこととも言えるが、彼女のその気持ちは理解できなくもない」

 いつもと違い真剣な表情で語る彼の様子を見ていると、「君に人の気持ちがわかるとはね」と混ぜ返すこともできなかった。僕は何も言わずに彼の次の言葉を待った。

「だがね、彼女や君の考える完全犯罪は、罪を犯しても罰せられないこと、だ。それは無い。少なくとも、彼女には無いのだ」

「探偵の君の口から完全犯罪があると言い難いのはわかるが・・・・・・。こう言っては何だが、実際にはあるんじゃないのかな、迷宮入りの事件とかが」

 僕の言葉に何かおかしなところがあったのだろうか。煙の行く先を追っていた諏訪部は、スッと僕の方を振り向いた。その顔に一瞬だけ浮かんですぐに消えた表情は、嗚呼、なんて表現すればいいのだろうか。孤独、失望、寂しさ。いや、もっと砕けた言い方すればこうだ。「高橋君、君もかい」だ。

「いいかい、高橋君。犯罪とは、罪を犯すこと。言葉遊びかも知れないが、案外これが真実をわかりやすく説明している。君たちが大事な項目として考える『罰を受けるかどうか』は、犯罪が成立するかどうかには関係が無いのだよ」

 この時の僕は、よほど「話の筋が飲み込めない」という顔をしていたのだろう。彼は全く間を置かずに話を続けた。

「ニ、三年前に『罪と罰』という露国の小説の邦訳が新潮社から出たのを読んだかね。その小説の題名の様に罪と罰は違う。君たちが考えるように『罪を犯したが罰を受けなかった。だからそれは罪ではない。完全にうまく犯した罪、これこそが完全犯罪だ』ということにはならないのだよ。『罪を犯したが罰を受けなかった。とは言え罪を犯したことは事実だから、完全に犯罪をしてしまった。これこそが完全犯罪』となるのだ」

 犯罪。罪を犯す。罰は犯した罪に対して与えられるもの。

 僕は諏訪部に言われるまで「罪と罰」について深く考えたことが無かった。だが、確かに彼の言う通りかもしれない。結果である罰を受けなかったとしても、この世界で既に生じた事実である犯罪行為が消えることは有り得ない。そう考えると「完全犯罪」という言葉が一般的に「うまくやって罰を受けなければ、罪にはならない」と理解されているのは、成程誤りだ。

 だが、僕が彼に言ったように、迷宮入りの事件、つまり、犯罪者が罰を受けなかった犯罪は現実的に存在している。そうすると、諏訪部自身が認めているように「完全犯罪」という言葉が表す意味を論ずるのは言葉遊びの範囲を出ないのではないか。彼女が「罰を受けずに敵討ちをしたい。その良い方法はないか」という意味でその言葉を使って尋ねたのであれば、それに沿って話を返してやればよかったのではないか。先ほどの彼の態度は、やはり冷たすぎたのではないか。

 僕が探偵の態度について指摘をしたところ、彼は非常に困惑した表情を見せてこう言った。

「あれ、解らなかったかな。完全犯罪は無いと言えば解ると思ったのだが」

 これだ。この男にはこういう所があるのだ。

「非常に優れた頭脳を持つ人は、物事や他者の心理を全て理解することができる」という人がいるが、それは大きな間違いだと僕ははっきりと断言できる。非常に優れた頭脳は、物事の理解についてはその能力を大きく発揮するかもしれないが、他者の思考の経路や結果の理解については驚くほどできていないことがあるのだ。何故なら、それが非常に優れた頭脳であるが故に、他者の持つ普通の頭脳の思考経路を想像することができないのだ。

「高橋君、先ほど君に言った通り、彼女が考える意味の完全犯罪は言葉の定義として無い。それに、それを現実の世界で考えたとしても、やっぱり無いのだよ。彼女は非常に正義感の強い人だと僕は言ったね。そのような人が、例え大義名分があるとしても、自分が罪を犯すことを本当に心の底から良しとするだろうか。むしろ、事後に自分で自分を責めることになるのではないだろうか。自分という絶対に逃げることのできない者から、いつまでも罪状を突き付けられる、これが罰でなくて何だろうか」

「自分が自分に罪を指摘し続ける、か。とてつもなく大きな罪悪感を覚え続けるということだね。だが、今回は事案が事案だし、父親を含めたくさんの被害者のためということで彼女が自分を納得させて罪悪感を覚えないで済むということは無いだろうか」

 諏訪部の言うこともわかる。自分がやったことは自分が一番わかっているのだから、正義感が強い人であれば、なおさら自分で自分を許せなくなるのではないか。だが、それは自分の行為を「悪いこと」と認識している場合だ。彼女は「法の代りに自分が裁く」と言っていたそうだが、自分の行為を「悪いこと」と認識しない場合もあるのではないか。

 だが、僕の考えを聞いた探偵は、はっきりと首を横に振った。

「いいや、高橋君。そうはならないね。彼女はキリシタンなんだ。キリスト教では人を裁くことができるのは、本来は神だけだとされている。王が、いまでは国が、人を裁くことができるのは神からその権限を委託されているから、という解釈だ。だから、彼女が勝手に人を裁くという行為は、明らかに罪、それも、自分が信じる神に対しての罪なのだ。それは、彼女が言う完全犯罪になり得るだろうか。もちろん、なり得ないさ。正義感が強く敬虔な信者である彼女自身が、自分が神に対して罪を犯したことを知っているのだから、先ほど言ったように自分で自分を苦しめることになるだろう。さらに、あの宗教では、神は人の行動も含めて全てを知っておられることになっていて、それを基に最後の審判の際に天国へ行くことができるか地獄に落とされるかが決められるとされている。つまりね、仮にこの現実世界で罰を受けなかったとしても、最後にはその罪に対する罰を必ず受けることになるのだよ」

「ロザリオをしていたとは思ったが、キリスト教徒だったのか、彼女は」

「そうだ。彼女は賢い人だから、そのようなこともわかっているはずだ。だが、人間は理性だけで動く生き物ではない。むしろ、感情の方がその行動を決める大きな要因であると言っていいぐらいだ。心の中でどんどんと膨らむ衝動を自分の理性だけでは抑えがたくて、彼女は僕のところに来た。そう思ったので、僕はあのように明確に否定してやったのだ」

「そう・・・・・・、か・・・・・・」

 僕は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、新しい一本に火を点けた。

 ソファーに深く身を沈め、再び立ち昇る紫煙にぼんやりと視線を送る。

 何かが引っかかっている。探偵の説明がわからないという訳ではない。「死後、その罪によって閻魔大王に地獄に落とされるのだから、必ず罰は受けることになる」と、僕に馴染みのある表現に置き換えることもできるのだから。ただ・・・・・・。僕は彼女の顔を思い浮かべた。帰り際に帽子を渡した時の彼女の顔。その瞳にあった、強い光。ああ、そうだっ。

 僕はソファーの上で上半身を起こすと、探偵の方を向いた。

「諏訪部君、君は明確に否定してやったと言ったが、彼女は納得して帰ったわけじゃないぜ。帰り際の彼女の顔を僕は見たが、何かを強く決心しているように感じたよ。君が言うとおり、彼女が自分の行為が「完全な犯罪」でなく「完全に犯罪」になることを理解していたとしても、敢えてそれを行う覚悟なんじゃないかな。いや、そうだ。君が思うよりも人間は感情に支配されているのだよ。彼女は止めて欲しくてここへ来たんじゃない。ひょっとしたら完全犯罪の方法を教えてもらえるのではないかと期待してここへ来たんじゃないのかな」

 僕の言葉を受けた探偵もゆっくりと上半身を起こした。そして、細い指先に挟んでいた煙草を灰皿に押し付けて消した。僕と同じように新しい一本を取るかと思ったが、彼はそうせずに立ちあがった。

「どうするんだい、諏訪部君。もっと詳しく説明して彼女を止めてあげないといけないんじゃないか」

「いいや、あれ以上言葉を尽くしても仕方がないさ。彼女が考えを変えないなら、物理的に拘束し続ける以外に方法はないが、そんなことができる訳もないしね」

 諏訪部は小柄な体格をしているから、いつもなら僕が彼を見下ろしながら話すことになる。だが、この時は立ちあがった彼をソファーに座った僕が見上げるような体勢であった。そのせいだろうか、僕に言葉を返した彼から、神社の奥の神域で感じるような涼し気ではあるがどこか冷たい、この世界の理から外れた力を強く感じたのだった。

「高橋君。実のところ、完全犯罪は無いわけでもないのだ。つまり、罪に問われない方法で、その行為を悪と感じず、さらに、信じる神を持たない者が行う場合のことだがね。おっと、もう一つ必要な要素があったか」

「もう一つ? なんだい、それは?」

「助けを求めに来た人を無下に追い返すぐらいの冷酷さ、かな」

 探偵は応接セットから離れて、事務室の中へ入っていった。その表情は、何かにとても苛立っているような、苦々しいものだった。

 しばらくすると、誰かに話しかける彼の声が事務室から聞こえて来た。どうやら、最近手に入れた電話で、彼は誰かと話をしているようであった。

 

     ◇◇◆◇

 

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     ◇◇◇◆

 

「あれ、これは? おい、諏訪部君っ。ちょっと来てくれよっ」

 あの女性の訪問があってから数日が経ったある日。

 いつものように応接セットのソファーに腰をかけて新聞を読んでいた僕は、思いがけない記事を見つけた。僕は、慌てて事務室にいる諏訪部に大きな声で呼びかけた。

 この記事に載っている男は。変死したとして紹介されている男は。ひょっとして・・・・・・。

 だが、僕の呼び声に応じて事務室の奥から探偵が姿を現す前に、探偵事務所の出入口からコンコンコンッと控えめな音が聞こえて来た。誰かが扉をノッカーで叩いているのだ。

 そして、分厚い樫の木でできた事務所の扉がゆっくりと開かれた。

                                   (了)